弁理士の日々

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塩野七生「ローマ人の物語~最後の努力」

2009-12-10 21:38:27 | 歴史・社会
塩野七生氏の「ローマ人の物語」文庫本版は、毎年1回、9月頃に3~4冊が刊行されます。今年9月には、「最後の努力」上中下(35~37巻)が発行されました。
ローマ人の物語〈35〉最後の努力〈上〉 (新潮文庫)
塩野 七生
新潮社

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ローマ人の物語〈36〉最後の努力〈中〉 (新潮文庫)

文庫本が刊行されるたびに購読して読むのですが、その前の巻を読んだのは1年も前だし、そもそも1~34巻という膨大な書物ですから、読んだ内容をほとんど忘却しています。
ところで私のブログでは、24巻について2006年11月に読後感を書いて以来、34巻までについては一応ブログで記事にしています。従って、このブログ記事を辿ることにより、今回刊行されるまでの後半部分については思い出すことが可能となります。
このブログの右上の端に検索窓があります。検索範囲を「このブログ内で」として検索ワード「ローマ人の物語」とすれば、24巻以降についてざっとブログ記事を辿ることができます。ここをクリックしてもらっても同じ検索がされるはずです。

これはなかなか便利でした。今回の「最後の努力」に至るローマ帝国の変遷を、主に五賢帝時代以降ですが、思い出すことができました。

紀元3世紀、ローマ帝国は「混乱の3世紀」と呼ばれていました。

ローマ帝国とゲルマン民族地域との境界は、ライン川とドナウ川です。ライン川の東、ドナウ川の北は、主にゲルマン諸種族が住み着き、隙があればローマ帝国内に攻め込んでは掠奪を繰り返す状況でした。
五賢帝の時代(紀元96~180年)までは、ライン川沿岸とドナウ川沿岸にローマの軍団を配置し、ほぼ完璧にゲルマンの襲撃を防御していました。それが紀元後3世紀になると、ゲルマン民族の脅威が以前より厳しくなります。防衛線は頻繁に破られ、ローマ人の居住地が襲撃と略奪を受けます。そのため、国境付近はほとんど農耕が不可能になり、ローマ帝国の食料供給にも悪影響が出始めます。

ローマ帝国はその当初から、ローマ市民とそれ以外に別れていました。イタリア半島のローマ本国に住む人たちはローマ市民であり、それ以外の属国に住む人々は基本的に非ローマ市民でした。そして、非ローマ市民は収入の10%を税として徴収されますが、ローマ市民は税負担を負いません。その代わり、ローマ市民には兵役の義務があり、非ローマ市民は兵役の義務がありません。ところが、紀元後211年に即位したカラカラ帝は、属国の住民をすべてローマ市民にしてしまったのです。これは民主的な施策のように見えて、塩野氏にいわせるとローマ帝国衰退の原因となりました。税金を納める人がいなくなってしまったのですから。

さらにはキリスト教です。キリスト教徒は、神以外の権威を認めません。即ち、ローマ皇帝の権威を認めないのです。これでは、外敵の侵入にさらされる危機の時代に帝国の結束を保つことができません。

このような混乱の時代、紀元284年にディオクレティアヌスがローマ皇帝となります。
ディオクレティアヌス帝は、帝国の国境防備を強化するため、2人皇帝制(二頭制)をスタートさせます。さらに紀元293年には、「四頭制」すなわち4人皇帝制を始めます。ディオクレティアヌス帝が残り3名の皇帝を指名し、4人で帝国の国防地域を分担して軍備にあたるのです。この体制は、帝国の安全保障という点では効果を上げたようです。ところが他方、4人の皇帝がそれぞれ必要な軍備を整えた結果として、ローマ帝国が抱える兵力が倍増してしまいました。また、4人の皇帝がそれぞれ自分の行政組織を抱えた結果として、4つの強大な官僚組織が出来上がってしまいます。
そして当然ながらローマ市民は増税に苦しむことになります。

紀元305年、ディオクレティアヌス帝は、四頭制を維持したままで皇帝を引退してしまいます。第二次四頭制のはじまりです。
しかしその後、6人もの皇帝が乱立することになり、その争いは内乱の様相となります。その中からのし上がってきたのがコンスタンティヌスです。

紀元306年、4人皇帝の一人、コンスタンティウス・クロルスが、ブリタニアで北方蛮族の撃退戦を指揮しているときに死にます。その長男であるコンスタンティヌスは離別された先妻の子供です。正当な後継者は幼い弟たちでした。しかし31歳になるコンスタンティヌスは行動を起こします。ローマ帝国の辺境であるブリタニアの地で、コンスタンティヌスは配下の将兵たちの擁立を受けて皇帝就任を宣言します。

第一次四頭制の皇帝マクシミアヌス(その後引退)には、マクセンティウスという息子がいました。コンスタンティヌスのなし崩しの皇帝擁立に対し、マクセンティウスは不服です。マクセンティウスは帝都ローマでクーデターを起こし、皇帝に就任してしまいます。実父のマクシミアヌスも息子のクーデターに手を貸し、結果として六頭制になってしまいました。

帝国内は内乱状態となります。
最後はコンスタンティヌスが、ローマにいるマクセンティウスと戦います。なにしろマクセンティウスは帝都ローマを支配していますから、20万近い大軍勢を準備します。一方のコンスタンティヌスは、兵力こそ4万ですが、歴戦の精鋭たちです。
トリノ近郊の緒戦で勝利したコンスタンティヌスは、略奪も焼き討ちも一切行いません。その評判はすぐに北イタリア全体に広がり、その地域はコンスタンティヌスの味方になります。

もしマクセンティウスがローマの城壁内に籠城する作戦を採ったら、コンスタンティヌスは苦戦したはずです。攻城の途中に背後から攻められる危険性もあります。
ところがマクセンティウスは、首都の城壁を出て平野で戦う選択をしたのです。
そして、ローマの北、テベレ川にかかる「ミルヴィウス橋の戦闘」と呼ばれる戦闘で、コンスタンティヌスは勝利します。

この勝利の結果、ローマ帝国はコンスタンティヌスとリキニウスの「二頭」となりました。そしてこの二頭も、紀元324年、コンスタンティヌスとリキニウスが激突し、コンスタンティヌスが勝利することによって終焉します。

皇帝がコンスタンティヌス一人になったという以外にも、アウグストゥス以来続いてきた「元首制」が、「絶対君主制」に変貌を遂げていたのでした。

以下、次号
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