弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

地図記号の変遷

2009-04-02 21:26:19 | 杉並世田谷散歩
最近のテレビのクイズ番組で、「“畑”の地図記号は何か」という問題がありました。それを見ながら私は「畑は“ ”(空白)だよ」と反応したのですが、それは誤りであり、正解は“v”でした。

何故私は間違えたのか。

私が若かった頃と現在とで、地図記号に変遷があったのです。こちらの情報によると、“畑”の地図記号は当初(空白)であったものが、昭和40年に“v”に変更になったようです。

私は中学生時代、50年近く前ですが、山岳部に所属していまして、地図としては当時の地理調査所(現在の国土地理院)が発行する五万分の一地形図を用いていました。そのときの記憶が鮮明なため、現在でも「畑は空白」と覚えていたのです。

何故、昔は「畑は空白」だったのか。ウィキペディアに答えがありました。
「日本における近代の地図製作は、明治時代に陸軍参謀本部によって始められた。そのため、軍事行動に関係する事物について詳細な地図記号化が行われている。例えば、軍事行動に支障が生じない「空き地」と「畑」については、区別がなされておらず、記号も設定されていなかった。」

なるほど。納得です。
私が、国木田独歩「武蔵野」を読み解く上で用いた明治20年地図(古地図史料出版株式会社発行)は陸地測量部が作成したものです。
国土地理院の沿革を紐解くと(ウィキペディア)、「1884年(明治17年)参謀本部の地図課・測量課が測量局へと拡充され、さらに1888年(明治21年)5月、参謀本部の本部長直属の独立官庁である陸地測量部となり、以後1945年(昭和20年)の終戦時まで続いた。
終戦に伴い陸地測量部は消滅し昭和20年9月1日付けで内務省地理調査所が新たに発足、建設省地理調査所を経て、1960年(昭和35年)に現在の“国土地理院”となった」ようです。
つまり、明治20年地図は陸軍の陸地測量部が作成したものでした。

地図の余白には地図記号一覧が記載されています。中学時代に慣れ親しんだ五万分の一地形図に書かれた地図記号一覧では、一番目立つところに“堡塁”の地図記号が書かれていたように記憶しています。まさに、陸上戦闘で兵士が身を隠すために最重要の構築物が堡塁だったためでしょうか。

当ブログの「武蔵野」関連記事()で明治20年地図(古地図史料出版株式会社発行)の一部をコピーして使わしていただいておりますが、本日、古地図史料出版株式会社さんから使用許諾のご連絡をいただきました。まことにありがとうございます。
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 高橋洋一氏が何故?? | トップ | 私の履歴書・近藤道生氏 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

杉並世田谷散歩」カテゴリの最新記事