弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

ローマ皇帝の系譜

2007-10-21 20:08:47 | 歴史・社会
古代ローマは、紀元前750年頃にロムルスが建国したと伝えられ、それから紀元前509年までは王制が敷かれます。王政は、終身の身分ですが世襲ではなく、先王が死ぬと次の王は市民の選挙で選ばれます。
紀元前509年から紀元前27年までは共和制です。元老院議員の中から、毎年2人の執政官が選ばれ、1年任期で勤めます。
共和制の下でローマは国力を増大し、カルタゴとの三次にわたるポエニ戦争に勝利し、地中海世界で大きな勢力となります。
共和制末期、カエサルは独自の判断でガリア地方(今のフランス全体、ドイツ西部、イギリス南部を含む地域)を平定するとともに内乱を勝ち抜きますが、前44年に暗殺されます。
カエサルが遺言状で後継者に指名したオクタヴィアヌスは、内乱の末に国内を平定し、紀元前27年に「尊厳者(アウグストゥス)」、「第一の市民(プリンケプス)」の称号を得て、共和政の形式を残しながら事実上の帝政をはじめます。この時以降がローマ帝国と呼ばれる時代でしょうか。

塩野七生著「ローマ人の物語」文庫版は、現在29~31巻(終わりの始まり)が発売されています。ここまでのローマ皇帝を並べると、以下のようになります。アウグストゥス以降に連番(①~⑳)をつけました。

カエサル 暗殺
アウグストゥス①
ティベリウス② ①の妻(リヴィア)の連れ子
カリグラ③ リヴィアの連れ子の孫(①の娘とアグリッパの孫)
クラウディウス④ リヴィアの連れ子の子
ネロ⑤ ④の妻(アグリッピーナ、③の兄弟)の連れ子 暗殺
相次いで3人
ヴェスパシアヌス⑨ 軍団たたき上げ
ティトゥス⑩ ⑨の息子
ドミティアヌス⑪ ⑨の息子 暗殺
ネルヴァ⑫ 70歳、子がいない
トライアヌス⑬ 属州出身、⑫の養子 子がいない
ハドリアヌス⑭ 子がいない 帝国の主要な防衛線をすべて巡行
アントニヌス・ピウス⑮ ⑯を養子にするとの条件で⑭の養子になる
マルクス・アウレリウス⑯
コモドゥス⑰ ⑯の息子 暗殺
ペルティナクス⑱ 66歳、暗殺
ユリアヌス⑲ 
セヴェルス⑳ ⑲を倒し、ライバルを粉砕、軍の強化

カエサルが暗殺されたとき、オクタヴィアヌスは18歳の無名の青年でしたが、成長して才能を発揮し、アウグストゥス①として帝政ローマの基を築きます。カエサルの人を見る目は確かでした。
その後、ティベリウス②~ネロ⑤と続きますが、アウグストゥスの妻リヴィアの連れ子の系統で、なかでもカリグラ③とネロ⑤は凡帝でした。ネロは「暴君ネロ」として有名ですが、歴史の中で比較すると暴君というほどではなさそうです。
しかし、前皇帝の縁続きで選ばれる皇帝に名君は続かず、ネロ⑤が暗殺されると、その後は内乱が勃発します。「われこそは皇帝」と名乗る将軍が乱立し、その混乱は、ドミティアヌス⑪が暗殺されるまで続きました。

そしてその後、ネルヴァ⑫、トライアヌス⑬、ハドリアヌス⑭、アントニヌス・ピウス⑮、マルクス・アウレリウス⑯と続く5人が、「五賢帝」と呼ばれる皇帝達です。
上の表でわかるように、ネルヴァ⑫からハドリアヌス⑭まで、子供がいないことが特徴です。ハドリアヌス⑭は死の直前、アントニヌス・ピウス⑮を養子に迎えますが、そのときの条件が、若いマルクス・アウレリウス⑯を養子にすることでした。アントニヌス・ピウス⑮をワンポイントリリーフ、マルクス・アウレリウス⑯をその次の後継者と指名したわけです。
ということで「五賢帝の時代」と呼ばれるローマの全盛期、世襲がなかったのです。皇帝に男の子がいなかったことが幸いしました。

ところがマルクス・アウレリウス⑯には、コモドゥス⑰という息子がいました。マルクスが死ぬときまだ20歳前でしたが、後継皇帝に指名せざるを得ませんでした。
前記のように、コモドゥス⑰が凡帝で、実の姉に殺されかけた後は暴君に変貌します。

コモドゥス⑰が暗殺され、その後をペルティナクス⑱が継ぎます。ペルティナクス⑱は66歳で、世襲しないことを宣言し、ネルヴァ⑫の再現になるかと期待されましたが、歴史はそのような展開を許しませんでした。


共和制から帝政に移行するとき、カエサルが基礎を築き、アウグストゥスが既成事実として帝政を始めたわけですが、皇帝の承継のルールは自然発生的に決めざるを得ませんでした。近い血縁、特に息子がいれば、自然とその息子に皇帝が承継されます。
ところがローマ帝政は、江戸時代の徳川将軍家とは異なり、凡人では皇帝が勤まらなかったのですね。

そして、ネロ⑤やコモドゥス⑰のように、凡帝(悪帝)が暗殺で殺されると、軍を掌握する総督たちが「われこそは次の皇帝」と乱立し、内乱に突入してしまいます。

たまたま男の子がいない皇帝が続いたときだけ、「五賢帝時代」のような時代が生まれたのでした。


古代ローマの人々は、まず「世襲ではない王政(終身)」を発明し、次いで「1年任期の2人執政官の共和制」を発明しました。この制度でローマは大きく伸張しました。
この勢いで、「4年任期の一人大統領制(連続再任1回まで)」を発明できたら、ローマの時代はもっと続いたのではないかと悔やまれます。
しかし実態は、「承継ルールのはっきりしない帝政(終身)」に移行し、上記のような経過をたどったのでした。
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