パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

マーラーの9番とブラームスの4番

2017年04月19日 08時29分05秒 | 音楽

年齢によって音楽の感じ方は変わってくる
感じ方どころか好みまで変わることが自分の身に起こっている
その極端な例が、マーラーの交響曲9番とブラームスの交響曲4番
に対する評価 (思い)

高校時代はマーラーの9番はよく聴いた(バーンスタインとニューヨークフィルのレコード)
特にできの良い第一楽章、ベルクも評価したこの楽章は繰り返し聴いた
この楽章だけで起承転結が出来ているようで、これだけでお腹いっぱい!
そんな気がしていた
高校生時代の精神的・体力的な好みは、思いっきり鳴らす、
しかも楽器はそれぞれの旋律を主張して
ウジウジしていなくて、やれやれ!もっとやれ!(特にホルンの咆哮は気分がいい)
と言った気持ちに応えていてくれてるようで、音楽の深さとは関係ないところで
生理的な楽しみがあったのかもしれない

同時期に購入したレコードにブラームスの4番があった(カラヤンとベルリン・フィル)
第一楽章はメロディアスで、そこはかとなく寂しい感じがしたが
その時は、ウジウジしているな、ブラームスは男っぽくない、、
などと根拠のない印象をもったものだ

この二曲、なぜかブラームスは白熱電球とかガス燈の明かりの下で作曲し
マーラーは蛍光灯の下で作曲したに違いないなどと思いこんだりした

昔の評価は(聴く優先順位は)圧倒的にマーラーだった
ところが今は、まったく反対になっている
ブラームスは特に秋になると聴きたくなってくる
それは晩年の諦念とか淋しさを感じさせるからというのではなくて
この曲は案外ゴツい事に(男らしいことに)なっていると感じたからだ
特にフルトヴェングラーの演奏などを聴くと交響という意味が分かる気がする
結構楽章間にそれぞれいろんなアイデアを凝らしているところが面白い

それに反してマーラはこのところ全然聴かない
聴けば昔の記憶が蘇ってまた楽しむことが出来るかもしれない
とは思うのだが、さて聴いてみるか、といった行動になかなか移せない
なにかひっかかるところがあって、ブレーキをかけるようだ
それは何か、、、と勝手に類推するに
マーラーの音楽は感情を刺激しすぎる
思いを押し付けすぎる気がしてならないのではないか、、
あるいは、マーラーの音楽は長編小説のようで、
音楽自体で完結していない気がして、、どうも勢い込んで聴く気になれないでいる

押し付けがましい音楽といえばベートーヴェンも思いつくが
それでもベートーヴェンの場合は感情が先走っているかと言えば
自分にとっては意外なことに、それほどではなくてまとまりの良さに感心してしまうところがある
マーラーの音楽は押し付けがましいということではなくて、あまりにも感情の発露が激しいために
聴く気が起きないでいるかもしれない

この感情の発露が激しいために(大げさなために)聴く気になれないでいる音楽がもう一つある
それはチャイコフスキーだ
なかなか美味しいメロディがところどころにあふれるチャイコフスキーの音楽
でも聴いていて何故か恥ずかしくなる
またやってる、こんなに大げさにしなくても、、、という思いをいつも持ってしまい
その後でモーツァルトを聴くとホッとするし、モーツァルトのシンプルな中での完璧性に
何故モーツァルトという存在があるのか、、という不思議ささえ感じてしまう

話はマーラーとブラームスに戻って
実演ではマーラーは5番は若杉弘、6番は小澤征爾、7番はラトル、9番はバーンスタインで聴いた
生の良さはあるので、その時はそれなりに楽しんだ
特に5番の若杉弘の演奏は今でも思い出せるほど情感に富んでいた

ブラームスの4番は生で聴いたことがあるはずだが、誰の演奏だったかは覚えていない
ただこの曲を聴く場合、第一楽章の後半の楽器間のリズムがズレそうになるところと
4楽章の音楽が終わったという感じが必然と感じられるようになっているか
(唐突な終わり方の印象が強いので)に注意を払っている
この様に生の演奏では大した記憶がないのに、今聴こうとするのはブラームスの方が
多いのはとても不思議で、この傾向はこれからも変わりそうもない気がする

年令・人生体験による感じ方の変化
と言ってしまえば簡単だが、なぜそうなるのか依然として不思議

ところでマーラーの9番は、2.3楽章が少しつまらない
4楽章は美味しいところもあるけど、今は必然性と言うものが
自分のメンタリティと合わないのか上滑りしているとさえ思えてしまう
(口当たりの良さと深刻ぶりは村上春樹の小説のようだ) 

マーラーは全部しんどいかといえば、
そうではなくて「さすらう若人の歌」などは今でも楽しむことができる
特にフルトヴェングラーとフイッシャー・ディスカウのそれは愛聴盤どころか宝物
その他では案外「大地の歌」は今でも楽しんで聴ける
どうも歌が入っている方が良いということなのだろうか、、

初夏を間近に控えた朝の、毒にも薬にもならないどうでもいい話、、 


 

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