パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

説得力

2017年10月16日 09時51分34秒 | あれこれ考えること

昨日、雨の中、その現場を確かめたくて名古屋まで出かけた
その現場とはツイッター上ではフォロー数が急激に増えて
知ってる仲間内では大いに盛り上がっている「立憲民主党」の枝野代表の街頭演説会
(ツイッターのフォロー数は自分が神々の黄昏を見に行った10月4日の新幹線の中では
 8万6千程度だったが今は17万を超えている)

以前の原発反対のデモの時も、安保法制反対のデモの時も、マスコミは本当のことを伝えているか
疑問に思えて仕方ないので、まずは自分でその真偽を確かめたくて足を運んだ
そして今回、勢いが出ているというもののその熱気がどんなものか
それが本当の勢い、流れになるか、なるとしたら時代の変化の証人となれる楽しみもある
そんな少しばかり不純な動機で現場に赴いた 

名古屋の街頭演説会は3箇所
そのうちの2箇所、栄メルサ前と名古屋駅前の会場を聞いた
栄メルサ前では前半部分だけ聞いて、直ぐに名古屋駅に移動した
今回の目的は演説内容ではなく、それを聞いている人の数、熱気みたいなものの体感なので
当事者たちよりは一歩引いた感じで演説は聞けたように思う

栄メルサは会場が道沿いそのもので、立ち止まって聞ける人のキャパシティが低い
おまけに雨も降って、東京の様子と比べるとかなりおとなしい雰囲気
もっとも聞いてる人との距離が近いので、それなりの効果はあったかもしれない

全部までは聞かず、より多くの人の予想された名古屋駅の現場に向かった

写真は、枝野代表の演説中、雨に濡れずにいられる場所の聴衆
選挙カーの真ん前にスペースいっぱい、雨に濡れない箇所はぐるりとこの様な人だかり
絶対数はどんなかわからない

ところで熱気とか勢いとか、そうしたものを体感するために(応援ではなく)出かけたのだが
名古屋駅前の会場では枝野代表を演説をしっかり聞きいってしまった(動画で見聞きしていたのだが)

何故、こんなに素直に言葉が身体のなかにしみ込んでいくのだろう
何か特別のことを言っているわけでもないのに、
何かしら勇気とか力とか希望とか、そういうものが内側からジワジワと湧き上がってくる感じ
いろいろなところで枝野代表の演説を聞いて涙する人がいた、、というツイートや報道が、
この現場を体験して無条件に納得できる

枝野さんの合唱部で鍛えた声の質た馬力のおかげで聞きやすいのか
政治家に必須とされる演説能力やセンスが良いためか、
この時期だから政権批判があるものの、他の候補者の政権批判は
選挙戦術のためのそれなのに対して、枝野代表のは少し違うニュアンス
様々な問題をより冷静な、しかも生活者としての実感を基にした問題提起や
政治的解決法を訴える

そして「立憲」という言葉に代表される「そもそも」論、あるいは民主主義をわかりやすく聴衆に説いていく
民主主義イコール多数決ではない、多数決は結論を出すための一つの手段に過ぎない
にも関わらず、与党が数の力で押し切ろうとする惨状を、、いままで国民は幾度となく見せられて
それでいて、なんとなく理屈の上では表立った反論が出来ないイライラ
しかし、実はイライラするほうが自然であることがまともであることを説いていく
格差社会のなくすことは道徳的見地からだけでなく、現実的に経済政策になりうるという話
自分がずっと不思議に思っていた介護の仕事に携わる人の収入の問題
(ホリエモンは誰でもできるから、つまり置き換え可能な仕事で特別な技術を要しないから
 時給等があがらなくても仕方ないとの持論を持っているらしいが)
(介護関係の)人手不足なら普通は時給等を上げて求人をするのが当たり前なのに
それが実現されすにいる  これは政治が機能していないと断言(これに当てる予算につながる)
そして、それらを実現するのは実は政治家ではなく、主権者である「あなたたち」と力強く訴える
こうしてもたらされる昂揚感は、不意に自由民権運動が起きた時もこんなんではなかったのか
と想像してしまった
昂揚感、そこにいた人は、何かを感じる人は、確かにそれを感じただろう

それにしても、、、と少し時間をおいて考えてしまったのはこの「説得力」のこと

何故、無理なく身体に染み入るように感じてしまったのかが不思議だ
最初から受け入れ体制にあるから無理なく入っていく
それは少しはあるかもしれない
でもそれだけか、、、

地元新城市では国政選挙のあと市長選・市議会議員選挙が行われる
市長選では雄弁とされる現職と、他に二人立候補を予定している
最近、まとめて3人の話を聞く機会があったが、予想に反して(?)現職以外でも
なかなか演説(討論)がうまいじゃないか、、、というのが、多く人の印象ではなかったか

でも、その人達の演説は、こころに染み入るように入っていくか、、

いったい、こころまで届く説得力とかメッセージとはなんだろう
そして市民は、偏見なく「彼らの発する何か」を正当に判断できるのだろうか、、、
(不安はそれ以前の諸々の事情で決まってしまいそうなこと
  つまり地盤・看板・カバンの要素で、、)







 

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