山本馬骨:たそがれジジイの呟きブログ

タイトルを変更して、これからは自分勝手なジジイの独り言を書くことにしました。

可哀そうな守谷市の樹木たち

2018-03-25 23:56:24 | つぶやき

 守谷市は樹木の豊かな町である。山は無い平地ばかりが多いのだが、屋敷林や畑脇などの林などには大木も多く、守谷という地名もその昔ヤマトタケルが陸奥の征伐の途中にここを通りかかった時に、みごとな樹木の広がる景観を見て、「おお、森哉」と感嘆の声を発したとかに由来しているという説があるとか。今はもうその昔とは大分違った地形、状況となっているのだろうけど、それでも樹木は多く残っている。

 守谷市に引っ越して住み始めてから既に14年目を迎えており、我が人生の中では、生まれ故郷に育った18年年間に続く長い定住時間となっている。この後あの世に行くまで何年となるのかは知る由もないけど、恐らくこのまま住み続けると思うので、もしかしたら故郷での18年を抜いて最長の住いとなるのかもしれない。

 今のところ、守谷市は昨年も日経BP社のシティブランドランキング1位となっており、過去にも東洋経済オンラインの、「住みよさランキング」でもナンバー1となった経緯もある。居住環境としてはそれなりの優れた場所だと言えると思う。先年の、隣接する常総市の鬼怒川の堤防決壊による大水害の際には、守谷市の一部にも浸水を危惧された地域もあったのだが、我が家は台地にあるので、水害を蒙る心配はない。怖いのは原発事故と大地震だけであり、あとは火事などの人災があるだけだと思っている。

 さて、そのように樹木が多くて住みやすいと評価されている守谷市なのだが、自分的には来た時から不可解に思っている市の行政の在り方がある。それは街路樹等の樹木の管理についてである。守谷市は東京都心に職場を持つ人たちのための住宅地として、公団の開発したエリアが広くあり、又工業団地の開発誘致もあって、人口急増の源泉はそれらの開発行為にあると言っていいと思う。その開発行為の中では、中心街を初めとして何本かの道路が整備されており、その道路には街路樹が多く植えられている。街路樹としては、銀杏、ケヤキ、百日紅などがあり、季節の移り変わりとともに新緑や紅葉などで目を楽しませてくれている。

 その町づくりに不満は無いのだが、不可解なのはこれら街路樹や公園、遊歩道などに植えられている植栽の管理の仕方である。引越して来た当初、近くのケヤキの街路樹が枝を落とされて、丸裸にされていたので、可哀そうだなと見ていたのだが、時にはそのような枝払いも必要なのだろうとは思った。翌年新しい枝に緑を蓄えて元気を取り戻したのを見て、ああ、生き返って元気を出したなと思っていたら、数年も経たない内に再び丸坊主にされてしまったのだ。落葉を気にしてのことなのかもしれないけど、あまりにも速いサイクルでの樹木たちに対する仕打ちに、怒りと疑問を覚え始めたのだった。

 このケヤキのみならず、その他の殆どの街路樹を丸裸にする行為は、植えた木を温かく見守るという心の存しない、只の機械的な管理しかしていない役人のずさんな行為と、樹木たちを労わる精神を持たない植栽業者の狎れあい行為ではないかと疑りたくなるほどなのである。恰(あたか)も、税金を植栽の虐待・殺戮に振り向けている感じがするのである。(この背景には、樹木たちを生きものとは認識できない人間のおごりに固まったクレーマー的通行者の存在を気にする、信念の無い役人根性が控えているのかもしれない)

 自分は、樹木たち植物もこの地球上で生命を育む生きものの仲間たちだと思っている。だからそこには共生という考えが不可欠だと思うのだ。この共生というテーマは意味深だが、人間の思い上がりを抑えるという範囲で機能しなければならないものだと思っている。だから、街路樹たちを時々整枝することは必要なのだと思う。だけど行き過ぎは慎まなければならない。植栽の管理はこの共生というテーマをしっかり心得た上で行って貰いたいと思うのである。

 今の守谷市の役人にはこの心得が欠けているように思う。そのことを痛切に思ったのは、昨日守谷城址公園の脇を通った時に見た、公園に植えられている数本の枝垂れ柳の姿である。本来ならば、この季節細長く垂らした枝に芽吹いた柳の葉が、春が本格化した新緑の光をそこに灯す筈なのに、無残に伐り払われた枝の残りの枝垂れに僅かな緑を芽吹かせていただけなのである。落ち葉に迷惑を蒙る通行人も車も皆無なのに、である。そのような公園の、枝垂れ柳の枝をどうして落とす必要があるのか。呆れ返ると共に怒りが込みあがるのを抑えるのが難しかった。思わず、「バカモン!」と叫びたくなった。

 今、森友学園問題が騒がれているが、役人の行為の誤りは、上位にいる者が現地を見ていないことが大きく影響しているのではないかと自分は思っている。紙の上だけで物事を取り仕切って、ことが済むと考えている輩が多いのだ。特にキャリアなどと言われる、己惚れの塊のような人物が上位職に就くと、その弊害は度を超すことになり、紙の上での修正・改竄を屁とも思わなくなる。大げさに騒いでいるけど、陳腐劇を見ている感がする。

 守谷市の城址公園の柳も、役人たちが現地を見ているのであれば、よほどの不風流の愚鈍な能力しかない役人で無い限りは、枝を落とされる様な破目には至らなかったのではないか。枝垂れ柳は、枝垂れが多いほどその優雅さに心ひかれるものなのであり、枝を払われてズダズダにされた柳の枝に安堵感を覚えるような異常人は先ず居ないのではないか。

        

守谷城址公園内の枝垂れ柳の樹たち。この樹たちを見ることで、毎年春が来るのを楽しみにしていたのだが、今年はとても枝垂れ柳とは思えない枝ぶりで、あまりのひどさに怒りを覚えるほどだった。

花粉をまき散らすような悪さなどを少しもしていない柳の木が本当に可哀そうだなと思った。同時に、守谷の春が無残に傷つけられた感じがしたのだった。


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