山本馬骨:たそがれジジイの呟きブログ

タイトルを変更して、これからは自分勝手なジジイの独り言を書くことにしました。

老人の社会的責任

2021-01-10 06:33:38 | ジジババ世代の話

 人の世に生きている限り、誰にも生きる権利がある。それと同じように、責任もあるのではないかと思う。会社勤めの頃は企業の社会的責任というのが問題となった。今頃はハイカラになってCSRなどと呼ばれているようだが、中身が進化しているのかよく解らない。コロナ禍で多くの企業が土台を揺るがされている状況では、CSRが語られる状況でないのかもしれないが、本当はだからこそCSRの実践が求められるのではないか。コロナの感染者を発生させている企業は、まさに無責任の典型となるのではないか。

ところで社会的責任とは企業だけに問われるものなのだろうか。とてもそうとは思えない。最初に述べたように、誰にでも社会的責任はあるのだ。しかし、そのようなことを個人の立場で真面目に考えている人がどれだけいるのかを思うと、そんなことを考えるなんてどうかしているんじゃないの?という人の方が圧倒的に多いのではないか。

私の世代区分では、本物の老人となるのは75歳からと決めているのだが、その真老となって5年が過ぎ80歳代になってしみじみ思うことがある。あと何年生きられるのか、その間どんな生き方をすればいいのか。そのようなテーマが次第に身近になり、大きく迫って来ている感じがする。

あれこれ迷いながらも、凡その覚悟と見当はついている。それを偉そうに披歴する気は無いが、どうしてもこれを抜きに老後(=後半の老人世界)は考えられないと思うことがある。それは、健康寿命の保持ということだ。死ぬ時が来るまで健康を維持するということだ。それは、老後の2大命題である「病」と「衰」にどう対峙するかということでもある。体力と気力の減退につけ込んで、病は容赦なく取りつくだろうし、衰も生き物にとっては、又不可抗力な自然現象なのだ。これらと上手く付き合いながら、自力で生きるために必要な全てを処理できる(=介護不要な)暮らしというのが健康寿命の条件なのだと思う。

そのために自分として、はどう取り組むかを模索し、トライしようとしているのだが、もしかしたら、この健康寿命を確保するということが老人の社会的責任なのではないか、と気がついた。この責任をないがしろにし、成り行き任せで生きていて、病になればひたすら医療機関に依存し、「衰」についても、何の努力もしないで体力も知力も劣化衰弱するに任せているだけでは、自分自身の生命保持のみならず、老人は、社会に対して大迷惑を及ぼすということになってしまうのではないか。

生産年齢人口というのがある。日本では15才から65歳がそれに該当する。これは働く意思があれば生産に寄与できるという年齢である。実際に働いているのは労働人口ということになるが、その双方において生産に寄与出来ないのは15歳以下の若い世代であり、寄与しないのは65歳以上の老齢者である。労働人口との係わりで見れば、世の中で生産に寄与しないのは、未就職の18歳以下と退職後の75歳以上となる。しかし、18歳以下はいずれは生産の中核世代としての未来を持っているのだが、75歳以上の高齢者は、僅かの例外者を除いて、生産への寄与は全く無く、コストを発生させるだけである。経済的側面だけで見れば、この老人は無用の存在ともいうことができる。しかし、人倫の道というのがあり、家族も国家も老人を見放すことはできない。幸せなことではある。

この構図については、従来当たり前のこととして受け止められて来たのだが、世の中の急激な高齢化が進むにつれて、高齢者に係わる社会保障費が膨らみ、国家予算において、若い世代が高齢者世代を支え切れなくなるという懸念が膨らみつつあり、社会保障のあり方の見直しが大きな課題となっている。その行く先は、社会保障の縮小或いは福祉の切り下げということになる。これは国家にとっては、現役世代も老人世代にも関わる重大な課題ではないかと思う。

では、現実はどうなのか。当然ながら課題の検討は現役世代を中心に行われており、高齢者自身が高齢者の生き方を考えることなど少しも求められていない。高齢者はとにかく為されるままに現役世代に未来を委ねるしかない、ことになっている。

簡単に言えば、この国の未来は、今は生産に何の貢献もしない、貢献出来ない老人が食いつぶすという構図になっているのである。食いつぶされてはたまったものではないとなれば、現役世代はやがて来る自分の未来のためにも、当面の社会保障のあり方を見直し、」福祉を切り下げても、食いつぶされるのを防ごうとするのは当然だし、それは国家の生存本能でもある。今はコロナ禍の最中にあり、そのような議論は置き去りにされているのだと思うけど、この災厄が過ぎれば、社会保障の見直しは大きなテーマとなるのは必定だ。

自分はこの議論の中では、不利益を蒙る側にいるのだから、本当は老人の社会的責任などというようなことを持ち出さない方がいいのだと思う。にも関わらず持ち出すのは、自分と同世代の人たちの中に、余りにも世に甘えて、本来己が為すべきことをなおざりにしている人が多いのを見るからなのだ。

 自分もご多聞に洩れず現役時代に過飲過食に溺れて、30年ほど前、ついに糖尿を宣告された。それ以来反省して糖尿君に深く学び、己を律することに心がけ、薬の力を借りないレベルでの暮らしができるようになっている。それでも科学的なチエックは必要と考え、定期的に専門医を訪れて診断して頂いているのだが、その受診の際に控えのホールの椅子に座って順番が来るのを待っていると、同病の大勢の人たちの会話が自然と耳に入って来る。病院の待合場所は老人の社交場という皮肉があるけど、実際、呆れかえるというのかうんざりすることが余りにも多いので、こんなのでいいのかと自分のことは棚に上げて社会的責任等を吹聴したくなってしまうのだ。いい子になるつもりなど皆目無いのだけど、やはり一言言いたくなるのである。

 最もがっかりするのは、糖尿病を理解せずにいることで、甘いものを食べるのを控えているから大丈夫だとか、薬を飲めば治るものと考えており、風邪などの感染症などと同じと考えていることだ。そして医師から少しデータが良くなっていると知らされ、薬を飲むのを怠り、薬の在庫がたくさんあるのを自慢している向きなども居るのだ。これらは医療側の教育不足に起因しているのかもしれない。だけど健康の保持はまさに自分自身の問題なのだ。病が本当に悪化し、合併症を発生するまでは呑気に考えている人の何と多いことか。薬も何万円も支払っている人が結構多いのに驚く。老人は、自分が1万円支払えば、9万円の国家補助があるなどとはつゆ思っていないようだ。生命に直接影響が及ぶのを身にしみて思い知らされるまでは、病を軽く考えており、どんな病気でも安価で治療が受けられていることに甘えているとしか思えない老人の何と多いことか。こんな状況では、医療に関わる国家予算が破綻するのは当然だ。現在の医療保険のシステムに感謝している老人がどれほどいるのか?甚だ疑問だ。

 自分は現在2ヶ月に1回の定期検診を受けており、その都度1千円ほどの診療費を支払っているのだが、これは毎月1万円程度の国家予算を使っていることになる。その都度なんだか申し訳ない気持ちになり、改めて糖尿君には負けないぞと節制する気分を強くするのである。

 話は変わるけど、只今コロナの第3波が勢いをふるっており、非常事態宣言が出されているが、感染拡大の大元を突き詰めれば、感染させるべき人が感染させる行動をとっているのと、感染させられるべき人が感染させられる行動をとっていて、この両者がどこかで出会っていることが拡大の本質なのだ。政府や自治体はこれらの出会いの場に注目して対策を出しているけど、肝心の移す人と移される人がルールを守って自戒しない限り歯止めが効く筈がない。懸命にルールを守って自戒している人がいる一方で、ルールを守らずいい加減な振舞いをしている人もいる。これはまさに社会的責任の問題ではないか。

 今後非常事態に対処するために法規制をかけることが検討されているようだが、遅い。非常事態だというのに何と遅いことか。しかも守らない者に対して、ぺナルティをとるかの是非などが論議されて、遅さを倍加しているとのこと。愚の骨頂としか言いようがない。甘い考えで問題が解決するなら、法など無用ではないか。非常時や緊急時においては、そのためのルールや対策を守らない者に対して厳しいペナルティを課すのは当然のことではないか。国はもっともっと国民一人ひとりに対して社会的責任を果たすべきことを強調すべきではなか。少なくともコロナに関しては、甘っちょろいお願いばかりでは、ウイルスの思う壺から逃れることはできないのではないか。

 かなり脱線してしまったが、社会的責任を考えず、果たさない老人が多いことに、天唾とは知りながら、一言言いたいと思った次第。老人はもっと本気になって、一人ひとりが健康寿命を延ばす工夫をしなければならないと思う。