山本馬骨:たそがれジジイの呟きブログ

タイトルを変更して、これからは自分勝手なジジイの独り言を書くことにしました。

ゲーム障害は世界を毒する

2019-05-24 11:00:26 | 宵宵妄話

 報道によればWHOが「国際疾病分類」というものの中に依存症としての「ゲーム障害」を新たに追加するとのことである。予てからさもあらんと思っていたことなので、当然のことだと何度も首肯した。麻薬やアルコールの依存症は、薬剤というのか体内に摂取することによる依存症なのだが、このゲーム障害というのは、人間のある種の楽しみが生み出した情報社会の新たなタイプの疾病であることに、重大な警告が含まれているように思う。そして、この疾病は、これから先益々伝染拡大してゆくに違いない。つまりは、人間の利便性が生み出した軽薄な遊びを原因とした病が、知らぬままに人間の首を絞めて行くものとなりうるということなのであろう。

 自分は小さい時からゲームの類には一切無関心を続けている。ゲームの代表的なものとして、日本では古来から囲碁や将棋といったものがあるけれども、これらに関しても殆ど関心がない。それは自慢できるようなことではないことは承知しているけど、何が好かないかといえば、これらのゲームは全て「勝負」に拘るからなのである。勝負というのは勝つか負けるかを競うものであり、人間の競争心のみならず闘争心までも掻き立てて、ある部分で人間関係の破壊を招く結果を招来する危険性があるのだ。その危険性に気づいて以来、どんなに勧められても囲碁も将棋も麻雀もしないことにした。それらのゲームをやらない、できないことで不利益があったとしても、やり過ぎて人間関係を壊し、病の症状を来すよりはマシだと思ったからである。自分は相当の負けず嫌いだと自認している。それゆえゲームであってもトコトン勝ちに拘る性格なのを知ってるので、嵌ったりしたらこれは危険だと思ったのである。

 競争心とか闘争心とかいうものは、人間の持つ本能の一つではないかと思う。集団社会が形成されるまでは、例えば縄文時代のような自給自足の大自然の恩恵に浴するだけの採集・狩猟の暮らしの中では、人間は家庭や小さな血縁社会の中で生きて行けばよかったので、争いなどはほとんど発生しなかったのだと思う。それがやがて農耕社会へ発展して暮らしが豊かになり出すと、集団社会が出現してその中で貧富の差が生み出され、人間が本来持っていたと思われる競争心や闘争心が掻き立てられるようになってきたのではないか。

 その闘争心や競争心が現在に至るまでの人間の社会を発展させる源となっているのは疑いのないことだが、この本能はコントロールをしないと人間社会を破壊しかねない危険性を秘めている。その危険性を知るがゆえに、人間はそれを抑える工夫をし続けて来たというのがこれまでの人類の歴史の深層部にある考えではなかったかと思う。

 今の時代、このコントロールが過去の物差しではもはや役立たなくなり、新たな病を生み出し始めているというのが、「ゲーム障害」の本質ではないか。自分はそう思っている。この病は、情報社会と呼ばれる今日の暮らしの中で、バーチャルな興味本位の遊びとして開発したゲームが商売としてヒットし、それに付随して当然機器も売れるということから、形振り構わず拡大して行った結果がもたらしたものなのだと思う。しかも悪いことに、このゲームは当初子供世代をターゲットとしていたことから、その子供が成長して大人となるにつれて、やがては大人に対しても力を発揮するようになったのである。今は、世界中の老人世代を除く殆どの年齢層にゲームは浸透し、その結果「ゲーム障害」を発病させる危険性が蔓延しているということなのであろう。

 しかし、本当の脅威は、ゲームなどという遊びからもたらされるようなものではないと自分は思っている。現役をリタイアしてから10年以上が経ち、通勤電車やバスなどを利用する機会が極端に減ったのだが、偶に所用で都心に向かう時など、電車やバスの中での人々の振る舞いが一変していることに驚く。それこそ、猫も杓子もスマホを手にその画面を見ている人間ばかりなのだ。否、通勤の乗り物の中ばかりではない。歩いている時も自転車に乗っていてさえも、手に持ったスマホから眼を放さない人間が溢れている。それを見ていると、ある種の異様感を覚えてしまう。一体この世の中はどうなってしまっているのか。まるでスマホが人間を支配しているかの様な景色なのだ。本人はスマホを扱っている主人公だと思っているのかもしれないけど、外から見ている自分などからは、主客が転倒しているのが良く判るのだ。周りへの関心を喪失し、バーチャルな世界にのめり込んで時間をムダ食いしている景色は、どう考えたって人間がスマホに操られている状況そのものだ。ゲームをしているのか、それとも他の何らかの情報をチエックしているのかは判らないけど、若い世代から壮年世代迄を含めて、スマホなどに囚われることなく離れて生きている人間の何と少ないことか。

 年々増えていくこの異常現象を見ていると、今日の情報機器の異常発展がもたらす弊害を思わずにはいられない。ゲームだけが障害をもたらしているのではなく、スマホというような情報機器そのものが病的症状を招来させているのではないか。勿論機器そのものには何の問題もないのは明らかだ。問題はその機器に含まれるコンテンツやアプリのあり方なのであろう。それらの全ては可能な限り一人でも多くの同調者を引き入れようとするためのものであるから、その拡張のレベルは、人類が過去からコントロールしてきた範囲や限界を超え出しているのではないか。

 今までには無かった、情報を操る犯罪が多発しており、それを取り締まる法律の整備も追い付いてはいない。既存の法律ではもはや適切な対応が不可能というところまで来ているのではないか。そのように思えてならない。

 一見利便性は大きく進展し、面倒くささがこの世から追放される方向へ向かっているように見えるけど、その一方で大切なものを破壊し、消滅させている負の側面があることを忘れてはならないと思う。今回の「ゲーム障害」という病の指摘は、現在の世の中が指向している負の部分に対する重大な警告なのだと思う。人間はやはり自分自身が主体でなければならないと思う。ゲームやスマホなどに取り込まれてしまって、本当の自分を失わないようによくよく注意すべきではないか。


令和という時代

2019-05-02 04:33:18 | 宵宵妄話

 令和という時代が始まって二日目を迎えている。新しい時代という気分を味わいたいと浮かれている向きもあるようで、TVなどを見ていると、何だかめでたい気分になってしまう。これは、やはり平成という時代を乗り越えて来られた上皇となられた方の、人間性の素晴らしさと、それを受け継がれた新天皇への期待の大きさがそう思わせて下さるからなのかもしれない。新天皇も又優れた人間性の保持者であり、この国のシンボルとして神代から続く日本国をしっかり守って下さるに違いない。世界唯一の天皇制という不思議なこの国の求心力は、不動のものであることを改めて実感した二日間だった。

 さて、この令和という時代は一体どんな時代となるのだろうか。天皇家の動向はさておき、昭和、平成と生きて来た自分にとっては、昭和の激動の時代を経て平成は一見平和に包まれていように見えるけど、まるで人間たちの横暴に立ち向かうかのように大自然の凄まじい威力を見せ付けられた時代だったように思える。その威力のもたらした結果は、横暴などとは無縁だった人々に向けられていることが哀しい。この大自然の不気味なパワーは、平成時代はもしかしたらほんの先触れにしか過ぎなかったのかもしれない。

 自分的には、昭和の終わり頃から世の中は激変して来ていると感じている。その核となっているのは情報ツールの止まりの無い変革だ。この文明の利器とも思えるツールは、人間の本来持っている力以上のものを引き出してしまって、世の中をある種のカオスに向かわせている感じがしてならない。人間の持つ賢さや謙虚さや慎みといった道徳的部分を破壊し始めているのではないか。人間は世界中が情報に溺れ出しているかのようだ。この混乱の行く先は、大自然の不気味な悪意以上に不気味でならない。人間は利便なツールを安易に使いながら、情報のもたらすカオスの中で、真綿で首を絞めるかのように少しずつ我を忘れようとしているかのように見えるのである。

 令和時代がこの危険性をどのタイミングで修正に向かうのか見当もつかないけど、どう考えてみてもこの時代は多難な時代となるに違いない。地震や大規模風水害など大自然の爆発的な破壊力の発露がいつ起こるのか真に不気味だし、又利便性が利便性を追求し続ける世の中の脆さが何時崩れるのか、これもまた不気味である。これらの結末が令和の時代に直ぐにやって来るとは思えないけど、平成時代よりもより厳しいものとなるのは避けられないのではないか。そういう意味において、令和時代は、多難なのではないかと思えて仕方がない。

 ま、何時の時代も生きている人間の現実は、不安と安堵の綯い交ざりの繰り返しなのだから、悲観的に見ても楽観的に見ても結局は成るようにしかならないのであろう。深刻ぶって多難を予想するよりは、当面の楽観を楽しむ方が賢いということなのかもしれない。

 ところで、自分にとってこの時代に唯一自信を持って予断できる事件がある。それは自分がこの時代にこの世を去るということ。仮にこの時代が30年続いたとしても、それを超えて自分がこの世に生きていることはない。あの世への旅立ちは直ぐそこに迫って来ているのかもしれない。もはやその旅立ちの準備の最中なのだ。「死計は老計の中にあり」を実践中だと思っている。この世からのおさらばは、PPK(ピン・ピン・コロリ)だと長いこと思っていたのだが、少し前にこれではダメなのだと気づいた。それは故大杉漣さんの突然の訃報で知ったことだった。今はPPYだと思っている。PPは同じだが、Yは予言ということである。予め何時死ぬかをしっかり悟って、周囲にそれを告げ、その通りにあの世に旅立つのが死計の極みだと思っている。その体現者は少ない。大往生をされた日野原重明先生のような死に方をしたいと思っている。そしてその実現のタイミングはこの令和の時代の中に潜んでいるのは確実なことだ。新しいこの令和の時代で、唯一そのことだけは断言できることだ。しかし、この実践は容易なことではない。その意味でもこれからの自分には、やっぱり令和は多難な時代だと言えるのである。