山本馬骨:たそがれジジイの呟きブログ

タイトルを変更して、これからは自分勝手なジジイの独り言を書くことにしました。

戦後75年に想う

2020-08-15 00:56:58 | ジジババ世代の話

 太平洋戦争が終って今年は75年だという。終戦は昭和20年(1945)8月15日のことだから、昭和に換算すれば、今年は昭和95年ということになる。その時数えで5歳だった幼児は、今、傘寿を迎えた老人となっている。幼児の記憶には戦争のことは殆ど残ってはいないのだが、傘寿の老人には、戦後の歴史は決して拭い去ることが出来ない強烈な思い出として残っている。

 過去を話しするのをずっと封鎖してきた。戦後の数年間というものは、人が生きてゆくために必要最低限レベルの暮らしを余儀なくされた人は多い。悲惨な結末を辿った人も無数に居る。戦争によって何の辛酸も舐めなかった人がいたとしたら、それはまさに国賊と唾棄してもいい存在だ。そのような人を見たことも聞いたこともない。家族の誰かを失った悲しみに明け暮れ、生きていても食うや食わずのあの惨めな辛い時間を思い出すと、とても過去を話す気にはなれなかった。

 戦後75年が経って、この間時代は昭和が終わり、次の平成も去って、今は令和となっている。あの敗戦後の極貧の暮らしの時代から、日本国は奇跡の復興を遂げ、50年後は、もはや戦後ではないと宣言し、経済面では世界を動かす実力を保持するようになった。人々の暮らしも豊かになった。子どもの頃は、自分が自家用車を保有することなど夢のまた夢だった。それが今は一人1台保有が当たり前の家も多い。たった75年間でこれほど世の中が激変した時代は、日本国の歴史でも稀有なことではないか。

 傘寿となった老人が過去を少しばかり振り返って、現在のあり方をコメントするのもいいのではないかと思った。

75年前、このような時代が来るとは思わなかった。惨めだった分だけ豊かさを求める気持ちは強かったが、自分が生きている間にそれが実現するとは思えなかった。しかし、現実の今は、夢だったレベルをはるかに超えてしまっている。こんな時代が到来するとは想像もできなかった。

江戸の幕末から明治維新を経て大正、昭和という時代の推移は、これも確かに激変の時であったけど、人々の普段の暮らしの流れは、今に比べれば、はるかにゆったりしたものだったと思う。祖父母や両親の考えに学ぶことも多く、従うのにそれほどの抵抗は少なかったと思う。世代を引き継いでの生き方に、断絶感を抱くようなことは少なかったのではないかと思う。

しかし、今の世は親子の間でさえ、考えも暮らし方にも断絶感がある。例えば、親が、大人になった我が子に対して自信を持って説教するという行為が受け入れられる世界は殆どない。ましてや爺さまが大人の孫に説教出来るケースなど稀有であろう。親父も爺さまも時代遅れなのだ、つべこべ言うな、というのが大人になった子どもの普通の心情なのではないか。表立っても親やジジババをバカにしている子も多いのではないか。従順そうでも、内心では親の考えは古い、と断じているのが普通であろう。

尤も、どんな時代でも子が成長の過程で親の考えを古いと思うようになるのは、これは人間の特性とも言うべきものであり、親の言う通りに従ってばかりいる子がいたとしたら、それは異常というものであろう。

戦前の暮らしの考え方と現在の考え方の違いはどこから来ているのか。簡単にいえば、暮らしのバックグラウンドの激変にある。耐乏の時代を経て高度成長期を迎え、経済的な豊かさが一気に膨らみ、オイルショックなどを経験したとはいえ、貧しさが戻った訳でもなく、加えて高度情報化社会の到来は、国内のみならずグローバル化を急速に進展させた。この一連の流れの中で、人々の暮らし方も考え方も大きく変化したのだと思う。それらの変化について行けない親は多い。知識も要領も不得手の親世代との間に断絶感が生まれるのは当然の帰結なのかも知れない。

そう、問題なのは、この75年間で生まれている世代交代の断絶性なのだ。環境変化の激変により親と子の生き方や価値観の共有部分が大幅に減少し、つながりがか細いものとなりつつある。要するに人間としての生き方に対する考えの継続性が失われつつあり、それがあらゆる社会現象となって表出しているように思えるのだ。

戦後に生まれた考え方が、戦前の考え方の誤りを踏まえて成長し、断絶感の無いなめらかな世代交代が為されて来ているとしたら、この国の将来は保証されるといっていいのだと思う。しかし、残念ながらそのようになっているとは思えない。情報革命でグローバル化が当たり前の社会となった今の世は、次第に世界中の悪が力を増し、隠れた犯罪が増えつつあるのを感じている。

戦前までは、日本人のアイデンテティとして、それが欠点かとも思えるほどの、人倫の道ともいうべき道徳感が存在していたものが、戦後は、アメリカナイズされた理解不足の身勝手な個人主義や自由主義が蔓延するにつれて失われてゆき、他人が見ていなければ、他人に知られないならば何をやってもいいのだ、という歪んだ世の中をつくり出しているように思えてならない。

ネット社会には空想を現実化し、まともな人間をもてあそぶ行為を助長している世界が膨らみつつある。この世界では、メリットも多いけど、やがてデメリットの方が、その質においてメリットを凌ぐのではないか。即ち悪質化が進むということであり、人倫の道を歪ませるということである。

ところで人倫の道とは何か。それは他の動物では真似が出来ない本能を超えたレベルの、社会を成り立たせている基本的な考え方を厳守することである。簡単にいえば、人の世がスムースに動いてゆくために必要なルールや慣習を守り、あらゆる場面において他人を慮(おもんばか)る行為とでもいうべきか。親子であれば、あらゆる場面でそれぞれの立場を認め合い、組織内であれば、それぞれの個人の役割を認め合い、社会においては、個人と全体との関係を慮るそのような関係性に係わる考え方をいうのだと思う。

戦後75年の間に技術革新は進み、情報の溢れる時代となり、それなりの悩みや苦労はあるものの、豊かな世の中となった。戦後しばらくの、あの食うや食わずの頃を思えば、信じられないほどの物や情報の豊かさである。しかし、人々の心の世界は少しも豊かになってはいないようだ。自殺者は絶えることなく、不登校・ひきこもりなどの社会からの逃避者の増大、親殺し・子殺し・振り込め詐欺等々、人々の心の世界は、あの貧しかった時代よりも乱れて、人倫の道を蝕(むしば)んでいるかの如くに見える。

この国は、これから一体何を目ざし、どこに向かってゆくのだろうか。極貧のあの飢えの時代が、人間性がまともで良かったから戻るべきなどとは毛頭思わない。戦争は真っ平ごめんだ。防衛論が姦しいけど、専守とか先攻とかに拘わらず、戦争には絶対に巻き込まれてはならない。為政者は、世界の動きを的確に捉え判断し、是々非々を明確にした決断を下して国を運営すべきである。如何なる他国に対しても断固たるアイデンテティを示すべきであろう。他国との曖昧な妥協的関係は、たとえそれがアメリカであっても戦争に巻き込まれる契機となる危険がある。憲法改訂などしなくても、アイデンテティの確立と行使は可能な筈である。

今、この国は新型コロナ禍に見舞われて、様々な弱点を露呈している。この国の未来のために、この禍(わざわい)から学ぶべきことは多いように思う。人口の大都市集中現象は、それが人間という社会的生きものの本性とはいえ、コロナ禍はそれに重大な警告を与えているように思う。これから先、情報技術が益々進展するのは確実なのだから、都市集中を解消させる手立てを考え出し実現させる必要があるのではないか。思うに大都市集中というは、この75年間のこの国の成果の集大成であり、今その功罪が問われているのではないか。これからは偏った国土の使い方を脱却し、どこに住んでいようとも安全で安心な暮らしが成り立つような、抜本的な見直しが必要なのではないか。為政者はちまちました各論に拘るのではなく、より大きな視野に立って、国を導いてゆく責任があるのではないか。

コメントしたいことはまだまだ無数にあるのだが、今年はこのへんで止めておきたい。