山本馬骨:たそがれジジイの呟きブログ

タイトルを変更して、これからは自分勝手なジジイの独り言を書くことにしました。

訃報飛来の世代

2020-01-26 04:45:17 | ジジババ世代の話

 今年は年賀状が来ないな、どうしたのだろう?打ち止めにしたのかな? この頃は、年賀状は今年限りで失礼しますという縁切りの賀状が増えて来ているので、この人もそうしたのかなと思うことにしている。自分的には、年賀状は年に一度の近況報告のつもりでいるので、字が書けなくなるまで縁切りは絶対しないと考えている。世界に何十億もの人間がいる中で、たった数百人に過ぎない知り合いなのだから、その縁を切るなどという振る舞いは許されない行為だと思っている。

 そのようなことを思いながら毎年の年賀状を楽しみにしているのだが、今頃になって突然の寒中見舞いが届いたので驚いた。中学生時代に仲良くしていた知人からだった。数年前の同窓会で何十年かぶりに再会し、旧交を温めたのだった。それから賀状の交換が始まったのだが、今年は届かなかったので心配していた。ハガキの表側をざっと見ただけで、どうして寒中見舞いなのだろうと思った。そのあと裏の文面を見てみたら、何とそれは訃報だったのだ!改めて発信者をよく見てみたら、思っていた本人ではなく、息子夫婦の連名なのだった。この頃はざっと見てそれで全部解ったつもりになることが多く、今回もそうだった。

 昨年の12月に父は亡くなったと書かれていた。何年か前につれあいを亡くしたと聞いていたので、発信者が連名なのは再婚したのかと安易に考えてしまって、全く気づかなかった。これはまあ、何ととんでもない過ちだったと、深く深く反省した。同時に又、60年以上も昔の、彼との思い出が一挙に膨らんだ。まだ若気が膨らむ初期とも言える頃の、彼との語らいの姿の数々が眼前に浮かんだ。中学卒業以来夫々の道を選んで別れて、数年前にようやく再会が叶った仲だった。これからその後のお互いの人生を語り合えるなと思っていたのに、真に残念としか言いようがない。つい最近のショッキングな出来事だった。

 ところで、このような訃報は実は彼だけではない。昨年末には20枚近くの喪中欠礼のハガキが届いたが、その中に本人の逝去を初めて知らせる、家族からのものが何枚か入っていた。驚いて電話をして弔意を伝えた人も居る。このところこのような出来事が増えている。改めて自分はもはや訃報の飛来する世代に確実に突入しているのだと思い知らされた。

 先日、自分の人生の残りへのカウントダウンが始まっているというようなことを書いたりしたのだが、今回の寒中見舞いの驚きからすると、どうやらこのカウントダウンという奴は、連続的な数え方ではなく、突然桁を違えて飛んで数えられる様なものなのかもしれない。つまり、4桁から突然0となる、そのような性質かもしれないということに気づいた。だって、前回の同窓会で会った時の彼は、とても未だカウントダウンが始まっているなどとは思えない元気さだったのだ。この「突然」という厄介な出来事の起こる確率が相当に高くなっている世代に突入したということなのであろう。

 だとすれば、今何をすればいいのかが大事になって来る。ただ今それを思案中である。「突然」がやって来ても悔いのないようにするには、生死がつながっているのを忘れるほどの、絶大な楽しみの中に生きるということなのであろう。そのような楽しみの中に居ながらあの世に旅立つために、どのようなものが見出せるのか、先ずはくるま旅が係わるに違いないとは思っている。訃報の飛来を避けながら、これからその楽しみを確実なものとしてゆきたいと考えている。


美しげで無力なスローガン

2020-01-11 05:55:15 | 宵宵妄話

「行政主導から地域主導・市民主導のまちづくり」という市長の年頭の挨拶が、配られた市報の冒頭に書かれていた。この一見立派そうで内容の無いスローガンは、現在の地方自治体の行政のあり方を誇示しているかのようだ。否、もしかしたら国の行政も同じなのかもしれない。地域主導とか、市民主導とかいうのは、自治のあり方の中心がそこに住む市民中心に、市民が中心になって住みやすい街をつくってゆくということらしいのだが、これはそこに住む住民の実態を取り違えている行政の違反行為のように思えてならない

たった36㎦しか無い面積の守谷市を、6地区に分割して、そこに地域の特性を活かしたまちをつくってくださいという市の頼みは、一体どういう了見なのかと思う。広大な面積の自治体ならまだしも、茨城県では最小面積の市で、人口密度が1800人を超える県下第1位のこの市で、そのようなまちづくりが本当に必要なのか?甚だ疑問だ。

守谷市は50年足らずの前までは、現在の人口6万8千人の1/3にも至らぬ小さな町だった。それが東京集中の加速化により近郊ベッドタウンに指定されて公団の住宅開発が始まり、近年ではつくばエクスプレスが開通して、一挙に人口が膨れ上がった町である。確かに農業エリアと住宅エリアが混在し、それに工業団地も加わって、狭いながらも一体感の無い地域が形成されているのは実態だと思う。

もし、これを前提として、新たなまちづくりをそれらの6分割したエリアに付託しようとするなら、それは明らかな誤りである。そのような政策は、行政の怠慢以外の何ものでもない。何故なら、6分割されたどの地域も、意識的、意図的にまちをつくってゆく力など保持していないからである。それには幾つかの重大な理由があると思うが、その最大のものは、そもそもベッドタウン化から始まった市なのだから、住民の多くは日中は都心で仕事をしている。そのような人たちにまちづくりに係わる時間があるわけがない。また、市の中で生業を立てている人にしても、恐らくまちづくりに割く時間を持つ余裕のある人は少ないに違いない。だとすれば、この仕事に関われるのは、仕事をリタイアした高齢者しかいない。しかし、老人にまちをつくるというような活力があるのだろうか。頭は働いても手足は思うように動かないのが老人で、それ故に仕事をリタイアしたのである。本末転倒ではないか。

まちづくりというのは、明らかに行政の仕事であり、しかも最重要のテーマではないか。それを一見美しそうな、主権在民を真似したようなスローガンを掲げて、吹聴するなど正気とは思えない。地域と呼んでいるそこに住む人々の暮らしの実態をどのように捉えているのか。とんでもない勘違いをしているのではないか。

まちづくりで言えば、今の守谷市を俯瞰すると、TX駅前には貸し駐車場が溢れて点在し、何の思想もなしに半端な高さと大きさの中小ビルが乱立し、新しく開発された住宅エリアはちまちまと区切られて道路を冒して造られ、建設されるのは倉庫と老人ホームの類ばかり。行政上のまちづくりの思想など皆無ではないかと思われる。守谷市としてのまちづくりの思想など、どこにも見られず、ただ流れに任せて建設許可を出しているだけの、日本国の他の都市化エリアと少しも変わらない状況ではないか。短期間で人口の膨れ上がった町だから、考えるヒマもなかったということなのか。安全・安心で、美しく住みやすい町をつくるのは、まさに行政の核となる課題ではないか。それは住民などが取り組む課題ではない。住民が享受すべき果報なのではないか。

市民中心という当たり前と思われる行政の発想があるけど、それは市民が何かを行うということではない。その意味は、行政の対象は市民だよということに過ぎない。守谷市の掲げるスローガンは、地域の市民が中心になって何かをやれということであり、それを市が支援しましょうという、新たな行政のやり方を意味しているように思えてならない。しかも、できないことが判っている筈なのにである。これを狡猾という。

 行政というのは、とかくペーパープランが多い世界のようだ。勿論全ての施策はペーパーから始まるのだろうけど、そのかなりのものは、うやむやのままペーパーで終わるものが多いのではないか。市報の年頭挨拶の一番の見出しに「行政主導から地域主導・市民主導のまちづくりへ」などという無責任なスローガンを掲げる市長は、本当に住民の暮らしの実態を知って言っているのだろうか。新しい風を吹かすなどと言って当選したのに、風などどこにも吹いていない。もしこのスローガンがその風の一つだとしたら、旗は降ろした方がいい。永遠に風は吹く筈がないのだから。