山本馬骨:たそがれジジイの呟きブログ

タイトルを変更して、これからは自分勝手なジジイの独り言を書くことにしました。

老について思う

2019-06-16 19:57:36 | 宵宵妄話

 久しぶりに電車に乗った。電車に乗るのは年に1~2度くらいの暮らしとなっている。関東鉄道常総線からTXに乗り換え、もう一度乗り換えて東京メトロ千代田線で東京の下町荒川区町屋という所にある、元勤めていた会社の事務所へ向かった。目的はこの会社のOB会への出席のためである。

 事件(?)が起きたのは、北千住で乗り換えて千代田線の町屋に向かって乗車した直後だった。僅かに混みあっていて、座席は満杯だった。次の駅で下車するので、乗降ドアの近くに立ったのだが、すると直ぐ近くに座っていた中年後半世代と思われる女性が、自分の顔を見たのか、立ち上がって「どうぞ、掛けて下さい」と声をかけてくれたのである。えっ、俺のことなの?と一瞬驚いた。あわてて手を振って、「いえいえ、直ぐ次の駅で下りますから、大丈夫です」とお断りした。それで、その方も納得されたのか元のように坐られたのだった。心の中はかなり複雑だった。しばらく電車に乗らない内に、もう自分は席を譲られるようなジサマになっているのか。と。足腰は毎日10km近くの歩きで鍛えており、電車の中に1時間立っていても大丈夫だという自信があるつもりなのだが、他人様から見ればただのジサマに過ぎないのか。声をかけて頂いた女性の心根の優しさには心からお礼を申し上げたいのだけど、やっぱり複雑な気持ちは変わらなかった。

 そのあと雨の中を事務所に向かったのだが、20年の歳月は街の景観をすっかり変えてしまっていて、何年も通った道なのに地下鉄の出口を間違え、反対方向へ向かってしまった。もはや何の目印もなくどこをどう歩けばいいのか見当もつかない。せめて晴れの天気なら、少し歩き回って昔につながる何かに気づける筈なのだが、風の強い雨降りの中を、傘を傾けての歩行はそんな余裕などない。とにかく目印は京成町屋の駅舎しかない。ようやく探し当てて、そこから先はさすがに記憶は失われてはおらず、何とか事務所に辿り着いたのだった。

 さて、時間が来て集まりの開始となったのだが、驚いたことに会場は老人で埋まっていた。今回は67名の出席だと幹事が話していたが、話をしている幹事も含めて全員が白髪や輝きを伴なった頭の老人なのである。何かと世話をしてくれているのは現役世代の人たちで、彼らもまた何年か後には同じような老人に変わるに違いない。定年が過ぎ、働きを終えた人の集まりがOB会なのだから、老人の集まりであることは当然のことなのだが、20年ぶりに初めて出席した自分には、20年前の姿しかイメージされていなかった。それとの落差がこれほど大きなものだったとは。そして我に返って見れば、自分もまたここに集まっているみんなと同じように20年の馬齢を重ねているのである。

 老というものはどんな人間にも不可避である。不老長寿というのはせいぜい100年程度の理想を述べたことばに過ぎないのだと思う。永遠に生きるのが可能なのは、生きている間に残した精神の記録だけなのだと思う。それ以外のものは、全てやがては老へと向かいそして消えて行く。67名の昔の仲間の姿を見ながら、この生き物としての自然現象には逆らえないなと改めて思った。

 来る途中で声をかけて下さった女性の方には、もうすっかり自分の老というものを見抜かれていたのだ。いまさら逆らってもそれはやがて虚しい抵抗に過ぎないのだということを、この老人の集まりの中で再確認させられたのだった。