山本馬骨:たそがれジジイの呟きブログ

タイトルを変更して、これからは自分勝手なジジイの独り言を書くことにしました。

桜咲き、そして散る

2018-03-31 04:51:47 | つぶやき

 今年の桜は例年よりもかなり早く開花を始めたようだ。守谷市近郊の桜も遅れをとらぬようにと咲き急いでいるようで、あっという間に満開となり、まだ4月も迎えていないのに早や散り始めている。

 このシーズンは花粉の飛散の激しいこともあって、何年か前までは泣き濡れながら花を見に行っていたのだが、この頃は花粉対策も万全を期せるようになり、飲み薬やマスクなどを用いて、ようやく落ち着いて花見ができるようになった。

 守谷市近郊にも何箇所か桜の名所があるのだが、自分たちは隣のつくばみらい市にある小貝川の福岡堰という所に見に行くことにしている。我が家からは車で15分くらいの場所で、ここには堰の脇に造られた農業用水用の堀の堰堤に沿って、1.2kmほどの桜並木がある。秋田県角館の桧内川の堰堤には及ばないけど、往復2キロ半の満開の桜を眺めての散策は、一時の夢の世界を味わわせてくれる。

 今年も家内と二人で手づくりのお弁当を持って出掛けて来た。3日ほど前に近くを通った時は未だ2分咲きくらいだったので、満開までにはあと4~5日くらいかかるのかなと思っていたら、急に気温が上がったせいなのか、今日来て見たらまさに満開の最高潮に達していたので驚いた。

 花はそれがどんなものであっても皆美しい。それらの中でもとりわけて桜を美しいと思うのは、樹木の厳つい黒さに反した優しげな色の花とその数の多さ、そしていっぺんに花を広げ、あっという間に散ってゆくという時間の速さ。冬が終わって本格的な春が来たのを告げてくれると共に、その一瞬の早業の中に人々は人生の有り様を垣間見ることができるからなのかもしれない。

 花の溢れる並木を、時に空を仰ぎながら歩いていると、様々なことが思い浮かべられる。思い浮かぶのは、その殆どが遠い昔のことばかりである。特に強く浮かんで来るのは何と言っても子どもの頃の思い出であり、それには入学式のイメージが重なるのが不思議である。もう70年以上も前のことなのに、はっきりと思い出すのである。

村の小さな小学校の校庭に植えられていた桜の老木たちは、小学1年生となって新たな暮らしを迎える小さな子どもたちに、優しい眼差しを向けるかのように満開の花を咲かせて見守っていてくれていた。上級生となった翌年も又同じようにして、小学校で迎えた6回の入学シーズンには、いつも桜の花が背景にあったように記憶している。どんなに歳をとっても、この優しく懐かしい思い出が消えることはない。

 「桜咲く 少年の日に 会いに行く」

これは山形県置賜さくら回廊の名木の一つ、伊佐沢の久保桜の近くにあった句碑なのだが、作者の名を失念してしまっているのに、この句だけは忘れないでいる。自分がこの時期になると、毎年桜を見に行きたいという衝動にかられるのは、まさにこの句の思いと一致している。名句だと思っている。

 そのような感慨を抱きながら福岡堰の桜を堪能したのだった。それが3日前だった。今日は3月末の日。桜は早くも散り始めていることだろう。そこで思い出すのが、良寛様の句である。

「散るさくら残る桜も散るさくら」

出雲崎の良寛堂を訪ねた時、改めて良寛様の生きざまの凄さを思い知った感じがしたのだが、それはこの何気も無い様子の句に全てが籠められているように感じるのである。それは自分が間もなく傘寿を迎える歳周りになって、より一層強く思い知らされている気がするのである。


可哀そうな守谷市の樹木たち

2018-03-25 23:56:24 | つぶやき

 守谷市は樹木の豊かな町である。山は無い平地ばかりが多いのだが、屋敷林や畑脇などの林などには大木も多く、守谷という地名もその昔ヤマトタケルが陸奥の征伐の途中にここを通りかかった時に、みごとな樹木の広がる景観を見て、「おお、森哉」と感嘆の声を発したとかに由来しているという説があるとか。今はもうその昔とは大分違った地形、状況となっているのだろうけど、それでも樹木は多く残っている。

 守谷市に引っ越して住み始めてから既に14年目を迎えており、我が人生の中では、生まれ故郷に育った18年年間に続く長い定住時間となっている。この後あの世に行くまで何年となるのかは知る由もないけど、恐らくこのまま住み続けると思うので、もしかしたら故郷での18年を抜いて最長の住いとなるのかもしれない。

 今のところ、守谷市は昨年も日経BP社のシティブランドランキング1位となっており、過去にも東洋経済オンラインの、「住みよさランキング」でもナンバー1となった経緯もある。居住環境としてはそれなりの優れた場所だと言えると思う。先年の、隣接する常総市の鬼怒川の堤防決壊による大水害の際には、守谷市の一部にも浸水を危惧された地域もあったのだが、我が家は台地にあるので、水害を蒙る心配はない。怖いのは原発事故と大地震だけであり、あとは火事などの人災があるだけだと思っている。

 さて、そのように樹木が多くて住みやすいと評価されている守谷市なのだが、自分的には来た時から不可解に思っている市の行政の在り方がある。それは街路樹等の樹木の管理についてである。守谷市は東京都心に職場を持つ人たちのための住宅地として、公団の開発したエリアが広くあり、又工業団地の開発誘致もあって、人口急増の源泉はそれらの開発行為にあると言っていいと思う。その開発行為の中では、中心街を初めとして何本かの道路が整備されており、その道路には街路樹が多く植えられている。街路樹としては、銀杏、ケヤキ、百日紅などがあり、季節の移り変わりとともに新緑や紅葉などで目を楽しませてくれている。

 その町づくりに不満は無いのだが、不可解なのはこれら街路樹や公園、遊歩道などに植えられている植栽の管理の仕方である。引越して来た当初、近くのケヤキの街路樹が枝を落とされて、丸裸にされていたので、可哀そうだなと見ていたのだが、時にはそのような枝払いも必要なのだろうとは思った。翌年新しい枝に緑を蓄えて元気を取り戻したのを見て、ああ、生き返って元気を出したなと思っていたら、数年も経たない内に再び丸坊主にされてしまったのだ。落葉を気にしてのことなのかもしれないけど、あまりにも速いサイクルでの樹木たちに対する仕打ちに、怒りと疑問を覚え始めたのだった。

 このケヤキのみならず、その他の殆どの街路樹を丸裸にする行為は、植えた木を温かく見守るという心の存しない、只の機械的な管理しかしていない役人のずさんな行為と、樹木たちを労わる精神を持たない植栽業者の狎れあい行為ではないかと疑りたくなるほどなのである。恰(あたか)も、税金を植栽の虐待・殺戮に振り向けている感じがするのである。(この背景には、樹木たちを生きものとは認識できない人間のおごりに固まったクレーマー的通行者の存在を気にする、信念の無い役人根性が控えているのかもしれない)

 自分は、樹木たち植物もこの地球上で生命を育む生きものの仲間たちだと思っている。だからそこには共生という考えが不可欠だと思うのだ。この共生というテーマは意味深だが、人間の思い上がりを抑えるという範囲で機能しなければならないものだと思っている。だから、街路樹たちを時々整枝することは必要なのだと思う。だけど行き過ぎは慎まなければならない。植栽の管理はこの共生というテーマをしっかり心得た上で行って貰いたいと思うのである。

 今の守谷市の役人にはこの心得が欠けているように思う。そのことを痛切に思ったのは、昨日守谷城址公園の脇を通った時に見た、公園に植えられている数本の枝垂れ柳の姿である。本来ならば、この季節細長く垂らした枝に芽吹いた柳の葉が、春が本格化した新緑の光をそこに灯す筈なのに、無残に伐り払われた枝の残りの枝垂れに僅かな緑を芽吹かせていただけなのである。落ち葉に迷惑を蒙る通行人も車も皆無なのに、である。そのような公園の、枝垂れ柳の枝をどうして落とす必要があるのか。呆れ返ると共に怒りが込みあがるのを抑えるのが難しかった。思わず、「バカモン!」と叫びたくなった。

 今、森友学園問題が騒がれているが、役人の行為の誤りは、上位にいる者が現地を見ていないことが大きく影響しているのではないかと自分は思っている。紙の上だけで物事を取り仕切って、ことが済むと考えている輩が多いのだ。特にキャリアなどと言われる、己惚れの塊のような人物が上位職に就くと、その弊害は度を超すことになり、紙の上での修正・改竄を屁とも思わなくなる。大げさに騒いでいるけど、陳腐劇を見ている感がする。

 守谷市の城址公園の柳も、役人たちが現地を見ているのであれば、よほどの不風流の愚鈍な能力しかない役人で無い限りは、枝を落とされる様な破目には至らなかったのではないか。枝垂れ柳は、枝垂れが多いほどその優雅さに心ひかれるものなのであり、枝を払われてズダズダにされた柳の枝に安堵感を覚えるような異常人は先ず居ないのではないか。

        

守谷城址公園内の枝垂れ柳の樹たち。この樹たちを見ることで、毎年春が来るのを楽しみにしていたのだが、今年はとても枝垂れ柳とは思えない枝ぶりで、あまりのひどさに怒りを覚えるほどだった。

花粉をまき散らすような悪さなどを少しもしていない柳の木が本当に可哀そうだなと思った。同時に、守谷の春が無残に傷つけられた感じがしたのだった。


宰相夫人という立場

2018-03-18 20:35:06 | つぶやき

 政官界が異常に揺れている。魑魅魍魎の住むこの世界は、常に庶民の常識など論外の思考で動いているのだと思うけど、今回の破綻はかなりの愚レベルのように思う。改ざんなどというバレるに違いない愚行を、忖度なのか斟酌なのか知らないけど、東大卒の秀才がごろごろして居る、とっておきの役所が、敢えて行っているというのだから、呆れ返るのを通り越して当事者の悲劇を嗤えない心境になってしまう。どうして、何故そこまでやらなければならないのか。一体何のためなのか。少なくとも入省した当初は、誰もがこの国のために一かどの貢献をしようと心に決めていたであろうに。

 この一連の事件の根源はどこにあるのか。庶民の常識で考えれば、少なくとも初めから官僚の為せる行為ではあり得ない。震源はやはり籠池とかいう正体不明の人物の動きに発していると思われる。この人物は、現在は憐れな被害者の風を装っているようだが、今回の事件では巧みな立ち回りが失敗しただけの話ではないか。この人物に限っていえば、自業自得と切り捨てるしかない。

 ところで、震源地に至近のところにもう一人の人物がいる。籠池氏に巧みに利用された宰相夫人である。事件についての語ることばを何も聞いていないので、どの程度利用されたのか、或いはのめり込んだのか不明だが、とにかく利用されやすい言動があったのは間違いない。訳の分らぬ愛国心に感涙し、笑顔で怪人物夫妻と写真に収まっているのを見ると、無関係とは言えないのは当然だ。

 宰相夫人が政官界を搔き回したという話は余り聞いたことが無い。内助の功という役割を見事に果たしたなどという、ささやかな美談はあっても、夫の政治生命を脅かすほどの影響力を発揮した女性は今回が初めてではないか。ご本人から言わせれば、勿論利用されるなどの気持は微塵もなかったのだろうけど、その油断は甚大なものだったと言えよう。この油断を気の毒と思う気持を庶民は持ち合わせてはいないと思う。籠池という人のいう愛国心は大切だが、それが異常レベルに至るとどんなことになるのかを知らないとしたら、この宰相夫人の言動は愚のレベルに近づくのではないか。

 宰相夫人になって最初の頃の言動の中に、原発反対や自然エネルギー活用などの前向きの話題を聞いた頃は、これはなかなかいいバランスのご夫妻だなと好感を持ったのだが、今は単なるゼスチャ―に過ぎなかったのだなと思うだけである。狡猾な怪人に利用される様な人物の言動などを本気になって信ずるのは難しい。夫婦なのだからやっぱり同じ穴の狢なのだと思うばかりである。

 それにしてもこの一連の事件の結末はどうなるのであろうか。世界中のリーダーの思考や行為が狂い出しているように思えてならない。これは歴史のもたらす不可避の現象なのかと疑ってしまう。アメリカは気まぐれで訳の分らぬ状態だし、ロシアも中国も独裁体制に向かっているのは確実だし、その本質において北朝鮮と同じ体制を目指している感じがする。中東では破滅的な戦争行為が収まらず、人類が目指すものは平和などではないというのが証明され続けている感じがする。

このような穏やかならぬ世界の混乱状況の中で、我が日本国も又危き混乱状況に向かおうとするのであろうか。自分の見るところでは、今の宰相に替わり得る人物がそれほど居るとは思えず、そこそこにその役割を果たしておられるとは思うのだが、夫人に対しては迂闊だったということなのか。いずれにしても、この一連の事件がどのように終結してゆくのか、宰相夫妻の成り行きを見つめて行かねばなるまい。


貴乃花親方の社会正義

2018-03-12 22:45:10 | つぶやき

 大相撲貴乃花部屋の貴乃花親方が内閣府に告発状を提出したという。週刊誌やTVのニュース、ワイドショー番組などでは大歓迎の事件となるのかもしれない。が、大相撲の相撲そのものを楽しみたい普通のファンから見ると、もううんざりするタイミングでの話である。人々がようやく事件のことを忘れようとしている頃合いに、再びこの世界の闇の部分の話題に人々を引きずり込もうとしている感がする。レスリング業界における告発に続いて、受ける側の内閣府も困惑していることであろう。時あたかも国会の答弁対応やそれ以上に北朝鮮とアメリカの動向などの重要課題を抱える中で、巷の事件も疎かにはできず、全く厄介で迷惑な話なのではないか。

 貴乃花親方という人物はいったい何者なのだろうかと思ってしまう。横綱貴乃花は文句なしの名横綱に見えたのだが、親方となってからのこの人の動きなどは我々普通の相撲好きにはよく判らない。それが先日の暴行傷害事件で、何となくその存在のあり方が解ったような感じになっていたのだが、それが必ずしも明快となっていたわけではない。というのも、この親方は人々が真相を知りたいという時に、殆ど何も語らず、終わったのかと思っている頃に突然登場したりして、真にタイミングの悪い言動をしていると印象付けただけだった。ご本人としてはいろいろ理由があるのだと思うが、それならばもっと早く言えばいいのにと思うだけだった。

 今回も又同様の動きをされているようだ。この方の考えでは自分自身の正義感に基づく行為なのだと思うが、タイミングを外すと最早その正義感に基づく行為も滑稽に見える。今は、昨日の大事件が今日には影が薄れるというほどのスピードの時代の中にあるのだから、過去を蒸し返すような行動はいかにそれが正義に基づくものであっても、人々はさほどの関心は示さないのではないか。多くの人は、「又やってるわ」と思うだけではないか。

 一体この人は大相撲を、相撲協会をどうしようとしているのだろうか。本気で改革しようと考えているのだろうか。よく判らない。単なる敵と考えているようにも見える。既存の組織を改革しようとするなら、現在の様なやり方では、滑稽度を増すだけではないか。

折角始まった三月場所なのだから、余計なチャチは入れずに、だらしない横綱どもが不在で、魅力度が落ち込み始めているこの場所を、本気で盛り上げるような動きをして貰いたいものだ。弟子たちは頑張っているのに、親方がこのような動きでは相撲界は益々ガッカリ度が増すばかりのような気がする。


答えは明確だ。全原発を廃炉ヘ!

2018-03-08 08:45:19 | つぶやき

 まもなくあの3月11日がやって来る。大地震、大津波という我が人生の中で、最大の天変地変に係わる事件だった。そして人災という面でも原発がメルトダウンを起こすという人類史上最悪の事態も付随している。大自然の前では、人間の浅知恵などは何の役にも立たないことを見せつけられた事件でもあった。生きている間にこのような驚嘆を覚える現象に遭遇するというのは、滅多にあるものではない。それは幸運というよりも不幸というウエイトの方がはるかに巨大なものだった。しかし現実は受け止めなければならない。

あの日から早や8年目を迎えることになる。その後の活動において、一体どれほどの復興を見たのか。学んだ教訓はどれほど活かされているのか。課題は今なお山積しているようだ。これらについては日々の報道の中でも様々な角度からの報告がなされているが、安堵をおぼえるようなものが少なすぎる感じがする。

あの大震災に対して取り組んでいる為政者の姿の中で、最も杜撰な扱いとなっているのは原発に対する取り組みではないか。為政者とこの国を牛耳っていると思い上がっている一部のエネルギーに係わる事業者は、原発の再稼働を前提に世論が鎮まるのを待ってじっと無為の姿勢を保ち続けている感がある。

経済効率を考えた場合、現状及び近い将来の必要電力エネルギーを賄うためには、原発に依存せざるを得ないというのが為政者サイドの考え方であり、また関係事業者の主張なのであろう。この考えや主張は、原発の絶対的な安全性が確保できるのであれば、決して否定はできないと言えるかもしれない。

しかし、原発に関しては、絶対的な安全性など幻想にすぎないことを証明したのが、先の震災による原発事故の顛末だったのである。原発の絶対的安全性というのは、事故が発生して放射能が飛散した時に、その放射能を消滅させる手段・方法が確立されていることが前提とならなければならない。それは対象療法的にヨウ素を配るなどというレベルの話ではない。もっと根源的に放射能を消滅させる力を持ったものでなければならないのだ。しかし、未だ人類にはそのような力は備わってはいない。だから、原発は絶対的安全性が保証されない存在なのだ。何よりもこのことを忘れてはならない。

国家全体の現状からは、人命よりも経済的効率の方が優先すると考えるのなら、原発の再稼働は必要だし、新たなプラントの設置も必要となる。それが現在の為政者の考えの様であり、エネルギーに係わる事業者の大意の様でもある。絶対的安全性が保証されなくても、既存の安全対策を強化し、原発を有効活用することによって国のエネルギー政策を保持することの方が優先すると考えているのであろう。

これは「損得」の物差しでの判断である。事業者サイドがこの物差しをひっこめるには勇気が必要だと思うが、為政者はこの物差しを使ってはならないのだ。為政者というのは常に「善悪」の物差しで世の中を運んでゆかなければならない。損か得かではなく、善いか悪いかの判断が求められるのである。事業者と同じ発想なら、例えば現在のアメリカのような国の行き方となってしまう。アメリカの現在の政治は損か得かにこだわって余りある感じがする。今のまま進めば、大国アメリカの孤立化は必然であり、世界の信頼を失う方向に向かうに違いない。国の経営は利益追求を第一とする事業経営とは根本的に違うのではないか。

原発は国民にとって「悪」の発電装置である。それがどのような悪なのかを、今は国民の誰もが知ってしまっている。「人命は地球よりも重し」というのが人間社会の安全に対する理念というものであろう。しかし、原発事故のもたらす放射能という電磁波は、一瞬にして多数の人命を奪い、地球そのものから人類を駆逐するほどの危険な存在なのだ。しかもそれは大自然がもたらすものではなく、人間の力で創り出されたものなのである。しかし、創り出すことはできてもそれが生み出す負の部分に対しては、人間はお手上げ状況なのだ。このアンバランスさが原子力利用の持つ危険性の際立った特徴なのだと思う。ただ破壊するだけなら戦争用具としては優れているのかもしれない。しかし、戦争が一時の勝敗をもたらしたとしても、終わった後の原子力による破壊は、敗者のみならず勝者側においても等しく非常なる多数の人命を損なう現状が招来するのである。

つまり、原子力というのは、それをどのような形で用いようと、最終的にはその負の部分が人命を損ない、人類の破滅に向かわせるほどの危険なものであるということなのだ。爆弾であろうと平和利用の原発であろうと、そのコントロールを失った時には、人類は今までにない異質の甚大な被害を蒙るのである。(その被害の実態を、原爆と今回の福島の事故で体験しているのは、まさにこの国なのではないか!)

コントロールが問題となる。為政者は原子力規制委員会を設けて安全基準を一層ハイレベルにすればコントロールが可能と考えているようだが、それはむなしい。再稼働を前提にした安全基準など到底信ずるには値しない。大自然は想定外の事件を常に起こし続けている。人間の能力の及ぶところではない。原発は、放射能の処理対応の手段が確立するまでは、どんな方策を講じても安全は確保されないのであり、これは原点に戻って、止めるしかない。しかも廃炉の道も未知なのである。これほどお先真っ暗な危険な装置を、必要悪として継続して善いものなのか。答えは明確だ。全ての原発は廃炉へ、という意思決定である。為政者は何をしているのか。答えは明確なのだ。