あられの日記

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腰越状

2012年04月10日 05時08分48秒 | 歴史散歩
満福寺に展示してました。
昨日の記事でも書いてますが、元暦2年5月24日(1185年6月23日)、源義経が兄頼朝に、鎌倉へ入るのを止められて腰越にとどまっていた時、満福寺で義経が自分の気持ちを書いて送った手紙のこと。
満福寺に展示してあるものは、200円で縮小コピーと訳文が売られてます。
wikiに訳文があったので掲載しますね。
「左衛門少尉義経、恐れながら申し上げます。私は(頼朝の)代官に選ばれ、勅命を受けた御使いとして朝敵を滅ぼし、先祖代々の弓矢の芸を世に示し、会稽の恥辱を雪ぎました。ひときわ高く賞賛されるべき所を、恐るべき管弦にあい、莫大な勲功を黙殺され、功績があっても罪はないのに、御勘気を被り、空しく血の涙にくれております。つくづく思うに、良薬は口に苦く、忠言には耳に逆らうと言われています。ここに至って諌言した者の実否を正されず、鎌倉へ入れて頂けない間、素意を述べる事も出来ず、徒に数日を送っています。こうして永くお願いを拝見出来ないままでは、血を分けた肉親の縁は既に空しくなっているようです。私の宿運が尽きたのでしょうか。はたまた前世の悪行のためでしょうか。悲しいことです。
そうはいうものの、亡き父上の霊がよみがえって下さらなければ、誰が悲嘆を申し開いて下さるでしょうか。憐れんで下さるでしょうか。今まで改まって申し上げるのも愚痴になりますが、義経は身体髪膚を父母に授かりこの世に生を受けて間もなく父上である故左馬の頭殿が御他界され、故事となって母の懐中に抱かれ、大和国宇多郡龍門の牧に赴いて以来、一日たりとも心安らぐ時がありませんでした。甲斐無き命を長らえるばかりとはいえども、京都の周辺で暮らす事も難しく、諸国を流浪し、所々に身を隠し、辺土遠国に住むために土民百姓のなどに召し使われmした。しかしながら、期が熟して幸運はにわかに巡り、平家の一族追討のために上洛し、まず木曾義仲と合戦して打ち倒したのちは、平家を攻滅ぼすため、ある時は険しくそびえ立つ岩山で駿馬にむち打ち、敵のために命を失う事も顧みず、ある時は漫々たる大海で風波の危険を凌ぎ、身を海底に沈め、骸を鯨の餌になる事も厭いませんでした。また甲冑を枕とし、弓矢をとる本意は、亡き父上の魂を鎮めるというかねてからの願いである事の他に他意はありません。そればかりか、義経が五位の尉に任じられたのは当家の名誉であり、希に見る重職です。これに勝る名誉はありません。そのとおりと言えども、今や嘆きは深く切なく、仏神のお助けの外は、どうして切なる嘆きの訴えを成し遂げられるでしょうか。ここに至って、諸神諸社の牛王宝印の裏を用いて、全く野心がない事を日本国中の神様に誓って、数通の起請文を書き送りましたが、なおも寛大なお許しを頂けません。
我が国は神国であります。神様は非礼をお受けになりません。他に頼る所は無く、偏に貴殿の広大な御慈悲を仰ぐにみです。便宜を図って(頼朝の)お耳に入れていただき、手だてをつくされ、私に誤りが無い事をお認めいただいて、お許しに預かれば、善行があなたの家門を栄えさせ、栄華は永く子孫へ伝えられるでしょう。それによって私も年来の心配事が無くなり、生涯の安穏が得られるでしょう。言葉は言い尽くせませんが、ここで省略させて頂きました。ご賢察くださることを願います。義経恐れ謹んで申し上げます。 元暦2年5月 左衛門少尉源義経 進上稲葉前司殿」
な、長い。

内容はなあ、「自分は悪くない。平氏を追討する戦は大変だった。頑張ったのに酷い。朝廷から位をもらって家門の名誉でしょ?兄さん、他に頼る所はないの。慈悲を下さい。そしたら神様だっていいことくれますよ」みたいな…。
この時、義経26歳。思慮の足りない文章だわ~。でも義経自身は腰越状を書いた4年後に東北で死ぬ事になるとは思いもよらなかったでしょうねえ。ああ、諸行無常なり。
トップ画像のショーウィンドウの中にある腰越状は、「不顧為敵亡命」の6文字がぬけたため、満福寺に残されたものと伝わってるとか。腰越状の真贋はまだ続いてるようですが、兄頼朝が弟義経を切ったのは事実。まあ、後に義経の霊を慰めるため。瑞泉寺の近くに奥州平泉の寺を真似た大きな寺を建立してますが。
もし頼朝が義経を許して和解していたら、後の歴史は変わっていたのですかねえ?
さて、満福寺には義経と弁慶の所縁のものもありました。
弁慶の腰掛け石

弁慶の手玉石

弁慶は筆を取るのに水を汲んだとされる硯の池

義経公手洗いの井戸
満福寺を後に。もともとは江の電の腰越駅に戻るつもりでしたが、視線の先に見える青い海に心引かれてしまいました。ふらふらと徒歩で海岸沿いの道を進むことに。
ちなみに、源義経のお墓は藤沢の白旗神社にあります。あ。ちなみに、墓に弔われているのは義経の首だけ。
源義経所縁の神社(2010年3月11日)の記事こちらが藤沢の白旗神社の記事です。近所には源義経首洗い井戸もあるんですよ。龍の口で首実験をした後、捨てられた首が境川を遡ってたどり着いた地がこの神社なのです。
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源義経と源頼朝兄弟のアレコレを調べるため、WEBの海をうろうろしてたら、頼朝の名前が出て来たんですよ。
そういえば、佐助稲荷って、頼朝が佐殿って呼ばれていたからだったよな。とか見てましたらば、頼朝の名前の中に鬼武者を発見!!
かつてTVゲームでクリアに燃えた鬼武者!!まさか頼朝のことだったのかぁ。
や。驚いた。
ちなみに、頼朝にはたくさんの名前がありましてね。WIKIによりますと、
改名 鬼武者・鬼武丸(幼名)・頼朝
別名 通称 三郎・佐殿・武衛・鎌倉殿・源二位・右大将軍・右幕下
神号 白旗大明神
戒名 武皇嘯厚大禅門
とても一人の名前とは思えない。

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