高尾山などの「寅太の山野草」

中越地震で被災した小千谷市と長岡市にある戊辰史跡の復興を応援しています。
山野草を中心にしたブログです。

八王子宿の武田家の謎に迫る(その3)

2010-01-22 00:16:03 | 歴史

武田の埋蔵金がそれほど簡単には見つかると思わない。信玄の時代には金山の開発で、莫大な量の金を溜め込んだと思えるし、大久保長安自らも佐渡の金山や石見の銀山でかなりの蓄財がある。しかも方位に滅法強いし、石見検地や甲州街道の宿場で土木工事にも優れ、猿楽師の子として猿知恵もある。ここはじっくり謎を解き明かすよりない。
世界遺産の石見銀山は超有名になり、石見の名前はよくでてくる。大久保石見守長安、もともと国の名前でもあるが、彼の名前から石見銀山と名付けられ、4百数十年後に世界遺産になったのである。石見銀山の次に期待される偉業は、莫大な財宝が発見され、破綻しつつある日本の役に立つことである。
八王子宿も埋蔵金の場所のひとつと思われるので、あわてないでまず八王子宿を学習し、予備知識を持ってからにしよう。先ずは清和源氏義光流の四つ割菱の武田氏の紋が入った地図で説明する。


(八王子宿の現在の姿、黒い道路が鍵形の甲州街道の古道)

大久保長安は甲州街道日野宿も造るが、この宿を抜け大和田という所で淺川を渡る。夏場は飛び石づたいに渡ったが、水量の多くなる時期には簡単な木橋もあったようである。淺川を越え八王子宿に入ると、防御性を高めるために鍵の手(枡形)に曲げてある。図の黒塗りの部分で、現在は真っ直ぐであるから、防御性を高めるのに意図的に北西に迂回させたものである。
旧道の通っていた竹の鼻公園に、日本橋から12番目の一里塚碑が建っている。公園に隣接して小さな永福稲荷神社に、「蝶の飛ぶばかり野中の日かげかな」の芭蕉の句があった。黒い旧道を右折すれば、追分まで一直線で前方に連行峰が見え、この延長線に躑躅ヶ崎の館がくるように設計したというのが、寅太の仮説である。八王子宿は横山十五宿と呼ばれ、十王堂宿、横山宿、八日市宿、本宿、八幡宿、八木宿、子安宿、馬乗宿、小門宿、本郷宿、上野原宿、横町、寺町、久保宿、嶋坊宿の15宿で、大きな宿は横山宿と八日市宿である。この一角で多摩が神奈川県から東京都に移管される、原因の一つの舞台となった壷伊勢屋を見つけた。(壷伊勢屋事件は別途触れることにする)
追分で左が甲州街道が続くが、八王子宿の出口は、武田家や後北条家の遺臣が千人同心として住んだ千人町で、古道は八王子宿の入口と同じように鍵形に曲がる。
ここで追分の道標を良く見ると、左甲州道中高尾山道、右あんげ道となっている。調べると、陣馬街道は陣馬の麓で案下(あんげ)を通ることがわかった。古くから追分でYの字に分かれ、甲州街道と陣馬街道と思っていたが、陣馬街道はあんげ道と呼んだようである。しかもYの字の中間に1本古道らしいものがある。
追って調査はするにして、もしかすると寅太仮説の大菩薩嶺に向う線が崩れるかも知れない。
甲州街道の南には、大久保長安陣屋跡、信松院、富士森公園があり、北には長安が築いた石見土手が残っている宗格院という寺がある。
最後に追分のすぐ南に興岳寺(地図の興岳院は間違い)があり、千人同心頭石坂弥次右衛門の顕彰碑が建っている。慶応4年に西軍が日光に迫った時、日光勤番の石坂は、戦わずして西軍に日光を引き渡した。八王子に帰った石坂は、問責の声に自らの命を断った。この結果日光は戦火から守られ、後世に世界遺産となるのだが、石坂の判断が正しかったことが、いま高く評価されるのである。

 
(淺川の向こうが八王子宿、旧道に建つ一里塚の碑)

 
(一里塚の説明と隣の永福稲荷神社)

 
(芭蕉句碑とふたたび真っ直ぐな甲州街道へ)

 
(壷伊勢屋を発見、前方に連行峰が見える)

 
(いよいよ追分、左甲州、右あんげ道?)

 
(鍵形に曲げる、昭和初期の新道建設の記念する碑)

 
(富士森公園の富士浅間神社)

 
(信玄の娘松姫建立の信松院と石見土手のある宗格院)

 
(淺川の洪水から八王子を守った石見土手と説明)

 
(興岳寺と日光を守った千人同心頭石坂弥次右衛門の功績)

(八王子)
コメント (7)    この記事についてブログを書く
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7 コメント

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期待大 (信徳)
2010-01-22 14:53:55
八王子埋蔵金伝説は面白いです。赤城山で今でも掘っている人を一度訪ねてヒントを貰ったら良いのでは・・・日本の借金が早く埋まるように期待します。
赤城は見つかったのでしょうか (寅太)
2010-01-22 15:59:54
信徳さん、こんにちは。
それで赤城山では埋蔵金はでたのでしょうか。
出ていれば参考になりますが、出てないならヒントにはなりません。
残り少ない寅太の人生は、高尾山の猪のように、いたるところに穴を掘るだけで終わってしまいます。
逆に反面教師にして、その人と同じことをやらないのはよいかもしれません。
ここはやはり天体観測、幾何学の駆使、そして最新の画像処理の方が、当たる確率は高くなります。
先人に見習え!でも
見つかるか?見つからないか? (デコウォーカ)
2010-01-22 18:11:30
武田埋葬金のこの先の展開が楽しみです。
穴掘り名人を乗せて出発 (寅太)
2010-01-23 08:09:08
デコウォーカさん、おはようございます。
埋蔵金のありかを、駿河と信濃の間にある秘境の遠山郷に引き付けて、寅太はきょうは北に向うという、ようどう作戦です。
数日後に北で埋蔵金が発見され、新聞紙上を賑わすことを期待しています。
出発進行!
そうそう、穴掘りの役に立つと思って、穴掘りの年に生まれた女房を乗せていきます。
やっと役にたちそうな女房
じつは沼津も重要ポイント (寅太)
2010-01-23 08:22:17
2010-01-23 08:18:19
デコウォーカさん、書き忘れました。
躑躅ヶ崎の館と富士山を結ぶ重要な線が、沼津を指すんです。
香貫山は、夜に山が光っていることはありませんか。
この線もゴールドライン
アサギマダラ (hanatetsu)
2010-01-25 14:17:41
“蝶の飛ふはかり野中の日かけかな”芭蕉
高尾のアサギマダラは、眼をさましましたばかりです。
今度アサギマダラを見つけます (寅太)
2010-01-25 18:31:21
hanatetsuさん、こんにちは。
一里塚には木を植えて、木陰を造ったといいますね。
「冬晴れに寅太ばかりが日陰かな」(寅太)
何で芭蕉の句は後世まで残り、寅太の句はその場かぎりなのでしょうね。
修行が足らんのかな

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