馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

「椰子の実」の歌碑・・・渥美半島・伊良湖岬

2018年03月26日 | 地名・地誌
一気に春になりました。先週末伊良湖岬に行きました。渥美半島は約50年振りです。渥美半島のある東三河は気象条件、農業立地条件とも絶好の土地柄でありながら「水資源」に恵まれなくて旱魃に悩まされていました。敗戦後、黒四ダムなどの電源開発、東名高速道路などに並び愛知用水建設など復興事業が進みました。同じ頃、東三河の水不足解消のため豊川用水が完成したのは昭和43年のことでした。豊川用水完成を機に未利用のまま放置されていた渥美半島に多くの入植者が開拓に従事しました。そして渥美半島の農業は大発展をし現在では日本でも有数の農業地帯になりました。
 昭和45年、当ブログ25才。飼料会社のセールスマンとして養鶏・養豚農家に家畜飼料の売り込みに走り回っていました。当時の渥美半島にはパイロットファームなどもあり、商社戦略・インテグレーターの雑兵みたいなものだったと思います。

藤村の椰子の実の詩碑は昭和36年に建立されました。「椰子の実」の詩は、島崎藤村が詩集「落梅集」(明治34年)で発表したそうです。柳田國男が伊良湖の浜に流れ着いた椰子の実の話を藤村に語り、藤村がその話を元に創作した話しはつとに有名です。
国男と藤村は文学仲間の親友だったそうですが、後年、藤村が国男に藤村の兄の就職に便宜を図るように依頼したことから柳田は藤村に絶交を告げたそうです。

島崎藤村の「椰子の実」の詩碑に向かい合って「椰子の実」の歌碑があります。歌碑は平成8年(1996年)作曲家大中寅二生誕100周年を記念して建立されたそうです。
 柳田国男が目撃した「椰子の実」を実証しようと昭和63年から毎年夏には、ヤシの実を沖縄県の石垣島の海に投げ入れているそうです。その行事も今年で30回になるそうです。その総数3,379個、その内列島に漂着したもの127個、その中で渥美半島に流れ着いたもの4個だそうです。石垣島から渥美半島まで直線距離で1,600kmを1~2か月の旅だそうです。

明治31(1898)年の夏、東京帝国大学在学中の柳田国男は伊良湖に約2か月逗留しました。この時砂浜に漂着した椰子の実を目撃しました。所が、かなりの数で「明治30年」と書かれたものがあるそうです。恐らく、誰かが間違って記載されたものが引用され孫引きされ拡散したものと思われます。在野の地元の研究者が当時の気象条件を検討し、明治30年には南風が吹き上げる気象条件はなく、明治31年には台風の進路から渥美半島に向かって南風が吹きつけたことを証明し、柳田国男の年譜などの文献資料と合わせて明治31年であることを論証しました。
「海上の道」が公にされたのは柳田国男の最晩年昭和36年のことです。伊良湖で椰子の実の漂着を観察してから約60年目にイメージとしてあった海上の道が学説として結実したようです。



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「左近の桜・右近の橘」OR「左近の梅・右近の橘」???

2018年03月16日 | 歴史
3月3日(土)雛祭りの日に京都嵯峨野の大覚寺へ行きました。当ブログはTVドラマ「鬼犯科帳」(中村吉右衛門)の大ファンです。毎日欠かさずケーブルTVで視聴しています。密偵おまさ役の梶芽衣子がお気に入りです。この鬼平犯科帳をはじめ多くの時代劇のロケ地として大覚寺を使っています。大覚寺の境内や近江八幡の掘割が何の違和感もなく江戸の街になっているのが興味の1ツです。と云うことで大覚寺にに行きました。
 旧嵯峨御所が大覚寺の始まりだそうです。名残として「宸殿」があります。

京都御所の紫宸殿前の「右近の橘 左近の桜」が有名です。当ブログも小学校5年生の遠足で京都御所に言った記憶があり、軍人上がりの担任の先生が普段より熱弁をふるって説明していたのが印象に残っています。雛飾りにも「右近の橘 左近の桜」のたとえ話もあり、当ブログは「右近の橘 左近の桜」とガチガチに刷り込まれています。
 所が嵯峨御所宸殿前には「左近の桜」ではなく「左近の梅」が植わっていました。
桓武天皇平安遷都時には元々「桜」ではなく「梅」であったそうです。そう言えば万葉時代以来「花」と云えば「梅」であったようです。中国風の影響が強かった日本では中国よりもたらされた「梅」を珍重したようです。万葉集では梅を詠んだ歌119首、桜は41首だそうで圧倒的に「梅」が多いそうです。因みに一番多いのは「萩」の141首、次いで「梅」、「橘・花橘」107首、「菅・山菅」74首、「松」74首、「葦」55首、「茅・浅茅」50首、「柳・青柳」49首、「藤・藤波」44首、「桜」、・・・・となっているそうです。
 「左近の梅」が「左近の桜」に変わった経緯には諸説あるようです。内裏の梅が枯死しとか火災により焼失し桜を植え替えた、…などの記録があるようです。その中でとくに有名な逸話として「大鏡」にある「鶯宿梅」の故事です。村上天皇・応和3年(963年)に植替えたという説があります。
御所の「梅」が枯れたので紀貫之の娘の庭の紅梅を移植した時、移植された梅には一首添えてありました。
「勅なればいともかしこし鶯の宿はと問はばいかが答えむ」
村上天皇は甚く感動されて「梅」を返して代わりに「桜」を植えたと伝えています。
今でも皇族関係の寺院では「左近の梅」が多く見られるそうです。
次は仁和寺に行って確かめてみます。


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ミツバチ専門の獣医のジレンマ。・・・補足

2018年03月03日 | 自然
前回投稿しました「ミツバチ専門の獣医のジレンマ。」の内容は俵養蜂場からの情報を基にしています。
俵養蜂場のHPです。

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ミツバチ専門の獣医のジレンマ。

2018年03月02日 | 昆虫・ミツバチ
face bookに大学の後輩にミツバチ専門の獣医がいることを紹介しました。ミツバチ専門の獣医さんて?考えてみたことがありますか。日本ではミツバチは獣医の対象外の生き物です。獣医師法、獣医医療法では獣医の資格・権限・義務・責任等が事細かく規定されているそうです。そしてその対象となる動物の種類も細かく指定されています。そしてミツバチはその対象動物には含まれていません。ですから「ミツバチ専門の獣医」なるものは日本では法的には存在しないわけです。

2006年頃から始まった蜂群崩壊現象。北半球の4分の1に及ぶ膨大な数のミツバチが減少したとも言われ、ポリネーター(花粉媒介者)としてのミツバチの役割の大きさが再確認されています。この蜂群崩壊が続くようであれば地球規模の食糧難が現実のものとなります。この原因追及の病理学・微生物学は医学・獣医学の1分野でもあります。もしも飼っているミツバチに病気が見つかり、その病気に有効な薬があるとしたら養蜂家は薬局でその薬を購入して与えれば・・・。しかし、多くの場合は有効な薬品は「登録動物用医薬品」で医師・歯科医師・薬剤師・獣医師の資格がなければ手に入れることができません。
 法定伝染病である腐蛆病(ミツバチの幼虫を侵す伝染病)検査は家畜保健所の獣医師の仕事です。女王蜂の輸入検疫官は獣医師です。同じ昆虫でも害虫などの検疫は植物検疫所が行っています。
このようにミツバチ衛生の実務に直接かかわっているのが獣医師なのです。しかし、日本ではミツバチは獣医療の対象外なのです。依って蜂の病気を獣医学で講義する大学はないそうです。当ブログのように昆虫教室では昆虫病理学・昆虫生理学などの講義はありましたが・・。
昆虫であるミツバチは無脊椎動物で獣医の対象となる脊椎動物とは罹る病気もそれとは異なるでしょう。しかし、獣医師はすでに基礎学力として病理学・生理学などを習得していますので蜂病の知識習得はそれほど困難なことではないはずです。
ミツバチの群崩壊は地球温暖化などと同じほど、あるいはそれ以上に緊急な「不都合な真実」です。
当ブログが殊更「ミツバチ専門の獣医」と言い続ける意図をお考え下さい。

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