馬糞風リターンズ

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「民子三部作」・・・山田洋次の映画。

2011年11月23日 | 映画
当ブログでアクセスが多い話題が幾つかあります。
その1つが、「男はつらいよ」です。

「男はつらいよ」は言うまでもなく山田洋次監督の作品です。
山田監督はこの他にも「幸せの黄色いハンカチ」や「学校シリーズ」などの名作があります。
その数ある名作のなかに「民子三部作」と呼ばれるものがあります。

その第一作が「家族」です

「風見精一の一家は、故郷である長崎県伊王島から、開拓のため北海道標津郡中標津町へ移住することとなった。酪農を夢見ていた精一の決断によるものであった。妻の民子の反対により、当初は、精一が単身で移住することになっていたが、精一の固い意思のまえに民子が翻意し、結局子供2人を含む家族で移住することになったのである。
同居していた精一の父源蔵については、高齢であることから、広島県福山市に住む次男夫婦の家に移ることになっていた。一家は、桜が咲き始める4月はじめ、伊王島の家を引き払い、父親のため、まず福山に向かった。しかし、ここで、次男夫婦が必ずしも父親を歓迎していないことが明らかになり、結局、民子の発案により、父親も一緒に北海道へ移住することになった。
こうして一家5人の列車を乗り継ぐ北海道への旅が始まった。大阪で日本万国博覧会を見物したのち、新幹線によりその日のうちに東京に到着する。長旅のため具合を悪くした赤ん坊である長女の為に、急遽一泊する旅館を取るが、ひきつけを悪化させてしまい、近くの医院に駆け込むものの、治療が遅れたためそのまま亡くなってしまう。悲嘆に暮れる間もなく、一家は北海道へ急ぐため、火葬を取り急ぎ済まし、気持ちの整理ができぬまま、東北本線、青函連絡船をへて、北海道を東上する。
やっとの思いで、まだ雪深い夜の中標津にたどり着いた頃には、一家は疲れ果てていた。次晩、一家は地元の人々から歓待をうけ、上機嫌の父源蔵は炭坑節を歌い、一家はようやく落ち着くかのようにみえた。しかし、源蔵は歓迎会の晩、布団に入ったまま息を引き取ってしまう。家族2人を失い、後悔と悲嘆にくれる精一を、民子は「やがてここにも春が来て、一面の花が咲く」と慰め、励ます。中標津の大地には二つの十字架がたった。6月、中標津にも春がき、一家にとって初めての牛が生まれた。そして民子の胎内にも新しい命が宿っていた。」(Wipipedia)

出演者は、風見民子:倍賞千恵子、風見精一:井川比佐志、風見源蔵:笠智衆、風見力:前田吟など山田組の常連で、他にもお馴染の役者がズラリと出演しています。花沢徳衛、森川信、渥美清、太宰久雄、三崎千恵子などの「寅さん一家」の面々総出演です。
長崎から北海道へ向かう長い旅の道のりを描いた異色ロードムービーとの評価も高い作品です。撮影に1年を掛け、日本列島縦断ロケを敢行したそうです。

  

山田洋次監督はこの「家族」のほか「故郷」「遙かなる山の呼び声」があります。

「故郷」は「瀬戸内海の小島、倉橋島に住む精一、民子の夫婦は小さな古い砂利運搬船で石を運び、生計を立てていた。しかし、船のエンジンの調子が悪く、さらに荒れた海に出た日に船体も壊れてしまう。すでに耐用期間も過ぎた船体の修理には精一にとっては多額の費用が必要であった。今後の生活を悩む中、尾道市にある鉄工所を見て、故郷を捨てる決心をする。」

「遙かなる山の呼び声」は、「シェーン」の主題曲名で、この映画はそこから着想を得たものだそうです。
「幸福の黄色いハンカチ」に続き、高倉健、倍賞千恵子、武田鉄矢、渥美清などが出演しています。
ただ、「民子三部作」の中では見劣りのする作品の様に思います。

 暇な折、一度レンタルビデオで借りて見られたらいかがでしょうか。


「1秒もムダに生きない」てどんな人?

2011年11月19日 | ぼやき
駅にある本屋を覗いてみました。
「1秒もムダに生きない 時間の上手な使い方」著者: 岩田健太郎 (光文社新書) と云う何とも窮屈な生き方をする人がいるもんだと思いました。
本来なら絶対に手に取らない部類のモノですが、週刊誌の書評で取り上げられていたのでどんな事が書いてあるのかパラパラとページを繰ってみました。
タイトルからビジネス書によくある自己啓発のHow toモノと決めつけていましたが中々興味のある事が書かれていました。

 著者の岩田健太郎は感染症の専門医だそうですが、啓蒙書を多く執筆している事でも有名な先生だそうです。
(「患者様」が医療を壊す)が評判になった様な記憶があります。

「1秒も・・」で矢張り専門家だと納得した内容が2点ありました。
「1.未来予測は簡単ではない。2.過去の出来事は未来に完全には応用可能とは限らない。3.一意的に「正しい」普遍的な方法論は存在しない。」

「実験の世界は、他の条件をすべて排除した、極めて非現実的な世界です。そこには雑音がありません。だから分かりやすいデータが見つかり、論文も書きやすいのです。ところが、リアルな世界は、他の条件が充ち満ちた世界なのです。「非現実的な」世界で作られたデータを、リアルな現実世界には簡単に応用できないのです。」

 微生物感染症の研究で学んだ事として書かれていますが、他の場面でも拳拳服膺すべき含蓄ある内容に思えました。
生物進化論で「ブリコラージュ」と云う考え方があります。
「進化はあらかじめ作られた設計図に基づきゼロから行われるエンジニアリングではなく、既にある系統に対して用途の変更や追加を行うブリコラージュであると述べ、構造の多様さも問題解決を求めて多様なブリコラージュが起こった結果であると考えている。」と云うことらしいのですが、この考えは生物学に止まらず芸術・音楽、社会哲学、最近では情報、インターネットなどの分野にも導入されているそうです。

 「1秒もムダに生きない 時間の上手な使い方」と云うタイトルが刺激的で敬遠してしまいそうになりましたが、タイトルに反して一番上手い時間の使い方は、自分のやりたい事を先ずやる、という結論のようです。
そして、自分のやりたい事は無意識ながら「ブリコラージュ」だと云う事かも知れません。
ただ、あまりにもモーレツ社員向けのビジネス書のイメージが強かったので買うのはやめました。


小春日和

2011年11月16日 | 日記
朝から穏やかな陽射が心地よい1日でした。久し振りに何もすることのないのんびりと出来る1日になりました。
暫く放ったらかしの庭に出て草取りや落ち葉掃除をしていると、フェンス越しにご近所の方が「いい天気ですねぇ。」と声を掛けてこられました。「おはようございます」とお返しをして、草取りをしていると「こんな日を小春日和と云うんですねぇ」と話しかけます。この方は中学で英語を教えていたそうで、退職後も職業病が抜けないようで「教え魔」だそうです。
決して悪い人ではないのでしょうが、長年の先生気質がこびりついているのでしょう。「小春日和は英語でインディアン・サマーと云うんですょ」と教えて下さいました。

   

 啄木の「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買い来て 妻と したしむ 」の心境とは少し違いますが、園芸店で季節の草花の苗を買ってきて鉢植えを楽しみました。
ニュースでは「札幌が雪が降り、明日以降さらに寒くなる」そうで、寒気が徐々に南下するそうです。
大阪も明日から一段と気温が低下していよいよ冬本番に突入するそうです。そう言えば今日は11月も15日です。また慌しい年末がすぐそこに来ています。


鎮守の森にマンションが・・・垂水神社

2011年11月14日 | 歴史
関西ローカルな話題ですが、毎日放送の夕方の情報番組に「Voice]と云うのがあります。
先週の話題は「神社を見下ろすマンション」で吹田市に鎮座する垂水神社の鎮守の森にマンションが建設される事に近隣の住民が憤懣している話題です。


垂水と云う地名は全国にあります。滝(垂水)があったことに由来すると言われています。万葉集でも「石ばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」(志貴皇子)と詠まれていますが、個々垂水神社の事だと言われていますが、確たる証拠はありません。
吹田の垂水も古くから「水」関る神社として信仰の厚い神社です。
垂水神社は式内社で豊島郡内唯一の名神大社で、旧社格は郷社に列せられています。主祭神は崇神天皇の第一皇子である豊城入彦命です。


 「この地方に勢力を持っていた阿利真公が大化の改新頃(646)におこった旱魃の折、垂水岡(千里丘)から湧き出す水を、当時の難波長柄豊崎宮に送り、その功を讃えられて、垂水公の姓(カバネ)を賜るとともに垂水神社を創祀したという」と当社の由緒にあります。

 随分以前の事ですが、趣味の歴史同好会で「果して垂水から難波長柄豊崎宮に送水できるか」と白熱の議論をした思い出があります。
垂水神社から難波長柄豊崎宮(大阪城の南)までは直線距離で10kmあり、高低差は5mと僅かです。またその間、3つの大きな川を渡さなければなりません。
 ローマの水道橋の様な構造物を建設すれば可能かもしれませんが、常識的には「樋」を地形に沿って敷設して送水したと考えられます。そうすると、渡河の場合は0mまで落とし、また自然堤防を揚水しなければなりません。その動力などはどの様にしたのか?など送水できる!いや、できない!とやり合ったものです。
 当時の土木技術をわきまえた上で皆さんはどのようにお考えになりますか?是非お考えを伺いたいものです。



垂水神社社頭には「雉子畷」の解説板があります。

長柄の人柱
 推古天皇の御代に、垂水の里と長柄の里の間に、橋を掛け直すことになったといふ。二度と流されることのないやうにと、垂水長者の岩氏(いはじ)は、袴に継ぎのある者を人柱にすべしと進言した。ところが言ひ出した長者自身が継ぎ袴を着けてゐたため、人柱となったのである。
 橋が無事に完成してのち、長者の娘は、北河内の甲斐田(かひた)長者に嫁いだが、いつまでたっても口をきくことができなかった。とうとう垂水の里に帰されることになって、里近くの雉子畷(きぎしなわて)まで来たとき、一羽の雉子が鳴き声をあげて飛び立った。甲斐田長者がこの雉子を射ると、それを見てゐた妻が突然歌を詠んだ。

 ものいはじ父は長柄の橋柱 鳴かずば雉子も射られざらまし

 夫は妻が口をきけるやうになったことを喜び、甲斐田の里へ連れ戻って、幸せに暮らしたといふ。

また一説によると、垂水長者が人柱になったとき、その妻は幼児を背負ったまま川に身を投げたという。そのとき歌を残した。

 ものいへば長柄の橋の橋柱。鳴かずば雉子のとられざらまし


葛城古道「一言主神社」

2011年11月11日 | 歴史
今月、11月19日(土)3年4組のウォーキングがあります
今回は「葛城古道」を歩くそうです。
 僕はこの近辺が大変好きで、年に少なくとも3~4回は行きます。
古事記や日本書紀に出てくる地名が普通の生活の中にあり、歩いているだけでこの国の創成と云うか黎明の世界に自然と溶け込んで、しばし古代王権揺籃を体現して楽しんでいます。

特に「一言主神社」がお気に入りで、それほど広くない境内のベンチに座り大銀杏を眺めて時間を潰すことがよくあります。


今回のウォーキングでもコースに入っていると思いますので、何かの参考にして下さい。

 「一言主神社」は延喜式神名帳には「葛木坐一言主神社」と記載され、名神大社に列せられています。
古事記、日本書紀とも「雄略天皇」との出会いの物語を書いています。
記紀によると、と説明文などに出てくると古事記も日本書紀も「似たり寄ったり」の事が書かれていると思ってしまうのですが、実は「記紀」の間には大きな違いがあります。
この違いがあることで逆に多くのいろいろな事が分かります。

 古事記では
「 またある時、天皇は葛城の山の上にお登りになった。そのとき大きな猪が出て来た。すぐさま天皇が鳴鏑の矢でその猪を射られたとき、その猪は怒って唸り声をあげて寄って来た。それで天皇はその稔り声を恐ろしく思って榛の木の上に逃げ登られた。
その時天皇は歌およみになって、

(やすみしし)わが大君が射られた猪の、手負いの猪の稔り声が恐ろしくて 
  私が逃げ登った高い峰の榛の木の枝よ。(九八)

とお歌いになった。

 またあるとき、天皇が葛城山にお登りになった時、お供のたくさんの官人たちはみな、紅い紐をつけた青い摺染めの衣服を賜って着ていた。そのとき、その向いの山の尾根伝いに山に登る人があった。その様子はまったく天皇の行幸の列にそっくりで、また服装の様も随行の人々も、よく似て同等であった。そこで天皇は その様子を遠くごらんになって、お供の者に尋ねさせて仰せになったことには、「この大和の国に私をおいてはほかに大君はないのに、今だれが私と同じような様子で行くのか」と仰せになると、向うから答えていう様子も天皇のお言葉と同じようなものであった。そこで天皇はひどくお怒りになって矢を弓につがえられ、大ぜいの官人等もみな矢をつがえた。すると向うの人たちもまた、みな弓に矢をつがえた。

 それで天皇はまたお尋ねになって、「それではそちらの名を名のれ。そしてたがいに名を名のってから矢を放とう」
と仰せになった。向うの人はこれに答えて、「私が先に問われた。 だから私が先に名のりをしよう。私は、悪い事も一言、善い事も一言で言い放つ神、葛城の ヒトコトヌシノ大神である」と申した。天皇はこれを聞いて恐れかしこまって、「おそれおおいことです、わが大神よ。現実のお方であろうとは気がつきませんでした」と申し上げて、ご自分の太刀や弓矢をはじめとして、多くの官人等の着ている衣服をも脱がせて、拝礼して献上なさった。

するとそのヒトコトヌシノ大神はお札の拍手をしてその献上の品をお受け取りになった。 そして天皇が皇居にお帰りになるときに、そのヒトコトヌシノ大神の一行は山の頂きに大ぜい集まって、泊瀬の山の入口までお送り申し上げた。それでこのヒトコトヌシノ大神はそのとき初めて現れなさったのである。」(古事記 下 全訳注 次田真幸)

 日本書紀では
「葛城山
(雄略天皇)四年の春二月に、天皇は、葛城山で射猟をされた。とつぜん背の高い人にお会いになった。その人がやって来て、谷の交わるところであい対面した。顔や姿が、天皇によく似ていた。天皇は、これが神であるとお考えになられたが、ことさらにお尋ねになって、「どこの方であるか」と仰せられた。背の高い人は、答えて、 「姿を現わした神であるぞ。さきに王の御名を名のりなさい。そうしたあとで私が名のろう」と言った。天皇は、答えられて、「私は、幼武尊(わかたけのみこと)である」と仰せられた。背の高い人は、 つづけて名のって 「私は、一事主神である」 と言った。そうしてともに遊猟を楽しまれて、一匹の鹿を追って、矢をはなつことを、たがいにゆずられ、 轡をならべて馳りまわられた。言詞は恭虔なで、仙(ひじり)に逢ったようであった。こうして日が暮れて猟が終わった。神は、天皇をお送り申し上げて、来目河までこられた。
このとき、百姓は、ことごとくに、「有徳な天皇である」と申し上げた。」(日本書紀 上 井上光貞 中央公論社)

 どの様にお感じになりますか?


「板かるた』・・屯田兵の名残。

2011年11月04日 | 歴史
北海道には「板かるた」と云うものがあります。
僕は資料館や博物館で見た程度でそれ以上の知識はありません。道内の友達に聞いてみても地域は限定的でそれ程普及しているものではないそうです。ただ、開拓期の民俗資料的な価値があり珍重されているそうです。

思いがけないことですが、その「板かるた」を復刻し後世に広く伝えようと活動されている方から資料が送られてきました。
 「極寒の北海道を切り拓いた屯田兵たち。板かるたにはその開拓者精神が宿っている。」
娯楽は、地域によって人々の知恵に育まれ変化していく。鎌倉時代、藤原定家が編纂し、後に「かるた」として親しまれるようになった小倉百人一首もまた同様だった。明治8年の屯田兵制度開始に伴い北海道に入植した開拓民たちは、過酷な開拓作業と北方の守りを担うための訓練に明け暮れた。そうした生活を彩る数少ない娯楽のひとつが、もと会津藩士たちがもたらした板かるただった。一枚の紙切れさえ貴重だった当時、身近にあった朴(ほお)の木や白樺の木などを切り、削り、取り札にした。また、板かるたは下の句を読み上げ、その下の句が書かれた取り札を三人一組で取り合う遊びである。読み上げる前の静寂と緊張。最初の一文字の発声とともに素早く手が動き、かけ声とともに木札の跳ぶ音、畳を叩く音が響き、拍手と歓声がわき起こる。
板かるたは、屯田兵の豪放な生きざまを今に伝える北海道独自の文化遺産である」(井上コレクションより。原文のまま)

 板かるた文化を守り、独自の書芸術を追求した生涯:潮流手書かるた 家元 中村北潮
北潮は明治四二年函館の回船問屋に生まれ、三歳で預けられた寺での写経をきっかけに書の道に進む。一三歳の時すでに「北潮」と号し、書道塾「北潮舎」を開いて大勢の門下生を育てるようになっていた。平成六年に八五歳で生涯を終えるまでに残した作品は、七〇年以上にわたり書き続けた板かるたを始め、板書、色紙、硯屏風など、実に七十万点以上。

北潮の作品は「近江神宮、函館市立博物館、北海道開拓記念館、村井かるた資料館、小倉百人一首殿堂・時雨殿、滴翠美術館・・・・などに常設展示されているそうです。
また、関西では阪急百貨店(梅田)、ソニータワーなどで見れるそうです。

 この中村北潮の書芸術をこよなく愛し、北潮の活動にも深く共感し、支援を続けたのが東邦製鏡(株)の社長・井上圭司さんです。
井上社長を中心に各界の有志が「中村北潮板かるたミュージアム」設立に意欲を燃やされているとの由です。

 今日、突然、何の前触れも無くその井上社長から「両面かるた」と「くま時計」が届けられました。

「両面かるた」とは井上社長が考案した中村北潮揮毫の北海道(板かるた)と本州百人一首)を合わせたものです。

今では懐かしい「分銅」式の掛け時計です。

 井上社長のご厚意には感謝感激ですが、あまりにも唐突でありまたお送り頂いた品物が「高価で貴重」なものなので、対応に苦慮しています。