馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

庭のツワブキ。

2016年11月25日 | 自然
島根県津和野町から山口県萩市を結ぶ県道13号線は「つわぶき街道」と愛称されています。もう15年以上も前にこのつわぶき街道をドライブしたことがあります。愛称通り道路の法面にはツワブキが群生して見事に黄色の花をつけていました。人工的に植栽したのか自然に群生しているのか、或いは当初道路を建設した時に植栽したものが繁茂したのか分かりませんが見事な景観に感動した記憶があります。タイトルに使った写真のツワブキはつわぶき街道で採取したものを庭い移植したものです。
このツワブキは同じころ徳島県鳴門市、鳴門大橋がよく見える国道沿いで採取したものです。
ホームセンター園芸コーナーで購入したツワブキです。


国華園・日本菊花全国大会

2016年11月17日 | 自然
恒例の菊花展を観に国華園に行きました。
    

    


全国から膨大な出品があり、どれもこれも見事なものばかりでした。

 国華園に行ったのは、実はTVの情報番組で仕分け前のチューリップの球根が入ったコンテナーが荷崩れしてしまったそうです。その為、品種、花の色ごとに球根を仕分けできなくなり、その処分をどうづるか、ということです。
所が、国華園のネット通販にこの球根を「ガチャ」と表現したのが受けたらしく話題になりました。通常よりも安いということもあり買うつもりで言ったのですが、見事に完売したそうです。
帰宅して夕方の情報番組でも見事に完売したことを伝えていました。

馬糞風 リ・ターンズ。石炭馬車の思い出

2016年11月16日 | 自然
「イチゴ ハクションをもう一度???(今高15期応援ブログ)」のタイトルを「馬糞風リターンズ」に変更します。当ブログは当初「馬糞風」として細々と記事をUPしていました。2009年6月に今宮高校15期のHPが運営されるようになり、それに便乗して15期の15を「イチ ゴ」と15期生の青春時代に大ヒットした「イチゴ白書をもう一度」をモジッて「イチゴ ハクションをもう一度???」として続けてきました。気が付けば7年以上になります。よくもまァグダグダと書き続けたものです。今高15期HPのサービスが停止になりました。すると当ブログのタイトルの意味もなくなりましたので元の「馬糞風」に戻すことにしました。
 馬糞風と云う言葉も死語になった感があります。馬糞風(バフンカゼ)とは十勝地方の春の風物詩でした。昭和30年代には帯広にはまだ荷馬車が活躍していました。荷馬車は自動車のように排気ガスは出しませんがその代わりに道路のあちらこちらに馬糞を排泄します。雪が溶けた初春、路上に排せつされた馬糞が乾燥してほこりと共に舞い上がり、春の風物詩の一でした。
 ブログ「馬糞風」当時、結構アクセスがあった記事に「初めてのデート・・・・・石炭馬車の思い出」(2009年09月23日、現在削除)がありました。
NHK新風土記「十勝」が放映されました。≪食料自給率1200%。日本の食料庫、十勝。開拓の祖となったのが、明治の頃、依田勉三が率いた民間の会社「晩成社」。その進取の精神は今も十勝に受け継がれる。親子四代で「もうけも損も大きい」広大な農地に向き合う農家。1万5000坪もの理想のガーデン作りを続ける89歳の女性。開拓の友・農耕馬をより強く育てて競う、ばん馬レース。厳しい自然に向き合いながら大きいこと新しいことに挑み続ける人々を描く。≫
依田勉三ら晩成社の人たちが入植したころ(明治16年)の十勝は沿岸部に僅かな和人が定着していた程度で、内陸部は千古斧鉞(センコフエツ)※斧鉞(オノとマサカリ)を加えない原始林に覆われていて北海道でも一番開拓の遅れた蛮境の土地でした。この千古斧鉞の原生林を晩成社の人たちは鍬1本で切り開きました。
  

現在、依田勉三を顕彰し帯広市の中島公園に銅像があります。中島公園の名前の由来は歌手の中島みゆきの祖父・中島武市が銅像を寄贈したことによります。


近江八幡に行きました。

2016年11月07日 | 歴史
5日(土)ヴォーリズ学園で公開講座「女子教育の夜明けー広岡浅子、成瀬仁蔵、ヴォーリズ夫妻ー」がありました。表題の講演1は元日本女子大学学長・蟻川芳子氏、そして講演2「ヴォーリスに師事した最後の弟子が語る「W.M.ヴォーリズの生涯と建築作品に込められた思い」を矢野義氏が務められました。
  

 今回の公開講座の案内をしてくれたのが太田博・宏子夫妻です。実は講師の矢野義さんは太田ひろ子さんの叔父さんに当たる人です。講座の内容はNHK朝ドラ「あさが来た」で紹介された広岡浅子を中心とした人物、特に日本女子大学設立に関与した実在の人物像とそれらの人々と深くかかわった一柳満喜子・ヴォーリズ夫妻のお話でした。また矢野義氏は直にヴォーリズに仕えた数少ない現存の人で、ヴォーリズの人となりや人生観を実話に基きユーモアを交えてお話になりました。当ブログは自慢にもならないのですが人様の講演と云うものをめったに最後まで聞く辛抱がないのですが、今回はみっちり最後まで興味深く聞き入りました。
講演の前後の時間に余裕があったので近江八幡の観光名所を巡りました。近江八幡の掘割は時代劇のロケ地でお馴染みです。また絵を描く人にとっては画題に事欠かないところで、当ブログは仲間を案内して年に何回か訪れるところです。
しかしこれほど何回も訪れているところですが八幡山(鶴翼山)に上ったことがありませんでした。今回、ケーブルカーで八幡山山頂まで登りました。ここは羽柴秀次の居城で近江八幡城がありました。秀次切腹ご廃城となってしまい、その後江戸時代には近江八幡は幕府直轄地となってしまいます。
八幡山頂から西湖 背景に見える山の手前側は安土山(安土城)。
この八幡山城は築城当時、東西に内湖があり、南の平野部に城下町を配し、安土城に大変良く似た立地のお城と言われています。
  
安土城古地図
そもそも、織田信長が何故美濃の岐阜から近江に安土居城を移したのかがよく分かっていません。畿内をほぼ平定した信長が次に目指すのは京都のはずです。それが何故安土なのか?そしてその安土城は従来の戦闘目的と云うよりも豪華絢爛、人々の度肝を抜くような奇抜なお城を作りました。城と云うものは今までは籠城して戦うためのものでした。しかし安土城にはそんな常識を覆したお城だったようです。
当ブログは以前からも今も「何故、安土なの?」という疑問を持ち続けています。八幡山山頂から琵琶湖を眺めて、戦国時代当時の景観を思い浮かべて安土山を眺めてしばし戦国ロマンに浸りました。