馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

「一条さゆり」の死顔・・。

2010年04月27日 | 大衆演芸
 「一条さゆり」に何故こだわるか、それは極めて簡単な事で僕が「助平」だからです。
昭和42年、三重県近鉄四日市駅裏のストリップ劇場「別世界」で「一条さゆり情念のローソクショー」を観てからすっかり「さゆリスト」になり、ストリップ劇場「追いかけ」をしていました。
昭和45年の夏だったと記憶しています。岐阜柳ケ瀬の裏通り「真砂座」(現在もあるようです)で警察が踏み込み、一瞬場内の照明が落ちて真っ暗になり、ドサドサと慌しい人間の移動があり「動くな!」「照明を点けろ!」と「怒声」が飛び交いました。
薄暗い舞台照明ではなく、館内の灯が全部点きました。その時の恥ずかしさには「参った、参った」の一言に尽きます。舞台には数人の私服の警官が「踊り子・一条さゆり」に「浴衣」を羽織らせ連行していきました。舞台裏から数人の「踊り子」や劇場関係者など何人かの男たちも連行していきました。
 さっきまでライトを浴びて「一条さゆり」が踊っていた舞台の円形のエプロンに立った刑事が、客に向かって「動くな!」「事情を聞かせてもらう」と「青菜に塩」状態の客に申し渡しました。10人近い刑事が客席に散らばって客一人に尋問を始めました。
 
 初めての経験で知ったことですが、警官が最初に聞く事は「今何時だ!」「何時!」と腕時計を示しながら「時間」を確認することです。
4~50人前後の客の殆どは、善良で小心な真面目でチョット助平なサラリーマン風の「おっさん」で、僕同様雨に濡れた「子猫」の様に小さくなり下を向いて、小声でしかも最上級の敬語で尋問に答えました。

 幸い、姓名、年齢、住所、連絡先程度を聞かれて、「調書」などは取られる事無く無罪放免されました。が、劇場の出口は「野次馬」で人垣ができており、その中を「花道」よろしく出て行った時の「恥ずかしさ」は親には見せたくない場面です。

 一条さゆりは、大阪野田の「吉野ミュージック」での引退興行途中「公然猥褻」で逮捕されたのを含めて「10回」身柄を拘束されているとのことです。
その第1回目が岐阜「セントラル劇場」だったそうです。一条の年譜を調べても「真砂座」の「連行」の事は出てきません。僕の記憶違いか、決定的な証拠が掴めず「事情聴取」程度で釈放されたのかもしれません。



 一条さゆりが引退後、新左翼の大学教授たちが「権力に反抗するシンボル」として彼女を担いだりして世間の注目を集めました。が、恐らく彼女自身はそのような小難しい事には一切関心は無かったと思います。また、東京から小沢昭一が、迎えに来て中央でのメジャーデビューを奨めましたが、結果、女の情念と云うか「女を食物」にする「情夫」への未練から「釜が」に居着くことになります。

 「一条さゆり」に関する著作・ドキュメントは数多く刊行されています。しかし、その内容は「華やかな踊り子」にスポットを当てるのではなく、引退以後の「凄惨」なまでの「釜ヶ崎人生」に関心が集まっています。

 マザー・テレサが来日した時、東京での歓迎会を「体調が悪い」と欠席し、内緒で大阪の釜が崎を訪れた事があります。釜が崎を視て「日本は本当に豊かなのか?」と言ったそうです。テレサと一条が接触したかどうかは分かりませんが「人のために生きなさい」と云うテレサの言葉を「私は好きよ」と言っていたそうです。
 一条は、情夫に油をかけられ「大やけど」を負います。その為、長時間の仕事ができなくて、2~3時間の「皿洗い」で「数百円」の報酬を得ていたようです。それも顔見知りの「労務者」たちの飲食費として「おごって」やったそうです。

 一条さゆりは平成9年8月3日肝硬変で60歳で亡くなるります。奇しくも翌日4日、マザーテレサが天国に召されました。

写真は「晩年」の一条さゆり。流石に「死顔」の写真は遠慮します。
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2 コメント

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薮内肇最強伝説。 (薮内雅明Aと薮内肇)
2017-09-14 04:44:09
薮内雅明やろ????薮内肇やろ????
Unknown (Unknown)
2023-01-13 21:56:56
「踊る菩薩」を読んでいる途中ですが、ガサ入れのシーンが出てきます。
まさか現場に居られたとは笑

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