19日(火)道明寺界隈に行きました。道明寺天満宮の梅林もこの寒さでまだチラホラ咲きの状態です。
梅林内の観梅橋も寒々としています。境内の盆梅展に白梅に紅梅を接ぎ木し盆栽がありました。
言うまでもなくこの古市一帯は巨大古墳群があり、この道明寺もすぐ横には允恭天皇陵があります。倭の五王の時代、河内王朝と呼ばれる時代の古墳群です。巨大な古墳はここ河内にありましたが王宮があったわけではありません。境内に置かれた修羅。一団のグループに出会いました。この近辺は「土師ノ里」で菅原道真の菅原氏(土師氏)の本貫地です。グループのリーダーの方が「土師」についての説明をされていました。
道明寺の合戦から400年だそうです。今では後藤又兵衛や眞田十勇士などにワクワクする少年たちもいなくなりましたが、我々の子供の頃は講談本や紙芝居、映画などのヒーローでした。大坂冬の陣で敗北し大阪城は外堀を失くしたとはいえ、秀吉が心血を注いで建てた難攻不落、天下の名城大阪城の本丸を残しています。徳川方の優勢は決定的な中、豊臣方の取りうる戦術は籠城戦か城を打って出て乾坤一擲、玉砕の総力戦のどちらかです。籠城を主張する真田幸村らと城を出て戦う後藤又兵衛らの意見が対立しました。ここで一番してはいけないことは兵力を分散させないことです。しかし、頼るべき絶対的なリーダーがいない豊臣勢は、この過ちを犯してしまいます。淀殿は真田幸村、後藤又兵衛双方の面目を保つために、少ない兵力を分散させ籠城組と戦闘隊とに分けてしまいました。更に総大将秀頼を戦陣に立たせることを拒み、全軍の士気を低下させてしまいました。
僕の亡くなった母親が「女が口出しすると家が滅びる」とこの大坂の陣を例によく話していたのを思い出します。
悲劇の英雄にはよく「生存譚伝説」が生まれます。後藤又兵衛も道明寺の合戦で憤死しましたが、九州まで落ち延びたとして大分県中津市の耶馬渓に「後藤又兵衛の墓」が残っていたり、奈良県宇陀市で隠遁生活を送り、屋敷跡と伝えられる場所には「又兵衛桜」が残っています。
21日(木)京都東寺の弘法市に行きました。境内の堀割に彫刻のようにサギが羽を休めていました。いろんな品物を売る露店が並ぶ中で、人気はやはり骨董を扱う店のようです。「お宝鑑定団」などで「私を連れて帰って」とか「オーラを放っていた」など一目惚れしてガラクタを衝動買いする人がいるようですが、写真の骨董店でも20万円の現金を支払ってお皿を買っている人がいました。僕などには汚いガラクタにしか見えなかった皿ですが・・・。その後も、こぶし大の盆石を「15万」いや「10万」と交渉しているお客がいました。
境内には何カ所か食べ物を売る露店がありました。その1軒で食べた「おでん盛合せ」1皿500円。京都の味付けに似合わない「濃い」味で、大根などはよく味が染込んでいて大変美味しかったです。
京都駅から東寺に向かう油小路八条交差点南西、セレモニー会館敷地に「平重衡受戒の地」という真新しい石碑を見つけました。建立は2011年暮れだそうです。下司の勘ぐりでもないのですが2012年の大河ドラマが「平清盛」だったので、大河ドラマ人気にあやかろうと急遽この碑を立てたのではと・・・。
22日(金)、名古屋の中日新聞に孫の通っている保育所が写真入りで掲載されていると知らせて来ました。そのは新には孫も写っているらしいということです。そこで中日新聞を買いに行くことにしました。名古屋まで行くのも大層なので、中部圏で近鉄沿線なら売店で買えるだろうということで伊賀上野に向かいました。近畿の「道の駅」人気No.1にランクされている西名阪沿いの「針テラス」へ。標高が300m以上あるので写真の通り残雪が結構あり風も身を斬る冷たさです。
伊賀上野は針ICから数十分走った上野ICで降りれば30分程度で行けるところで、何もカーナイビを使う必要もないのですが「伊賀上野駅」を検索、設定して走り出しました。カーナビの案内通りに走っていると全く方向が違う峠道に差し掛かりどんどん上野とは違う青山高原の方に向かっていきます。急ぐ用事でもないのでカーナビの誘導設定がどんな風になっているのか知るのもいいか、と思いながら小一時間走ると「目的地周辺です」とのこと。画面をよくよく見ると「伊賀上津駅」となっています。老人ボケか「伊賀上○」と見ただけで「伊賀上野駅」と早とちりしての大失敗。同乗の嫁さんに馬鹿にされたりボヤかれたりで・・・。
やっと「上野駅」で中日新聞を購入しましたが、残念ながら「三重県版・伊賀板」で「名古屋市内版」ではないので保育所の記事は在りませんでした。
帰路は伊賀上野から信楽を通り新名神を利用することにしました。伊賀は信楽に隣接して「伊賀焼」でも有名です。
この辺りは太古の昔、琵琶湖があったそうです。400万年前に最初に伊賀上野あたりに出来たのが大山田湖、300万年前には阿山湖、270万年前には甲賀湖、250~180万年前には蒲生湖、100万年前には堅田湖と言うように次第に移動して、今の位置にたどり着いたそうです。
僕の亡くなった母親が「女が口出しすると家が滅びる」とこの大坂の陣を例によく話していたのを思い出します。
悲劇の英雄にはよく「生存譚伝説」が生まれます。後藤又兵衛も道明寺の合戦で憤死しましたが、九州まで落ち延びたとして大分県中津市の耶馬渓に「後藤又兵衛の墓」が残っていたり、奈良県宇陀市で隠遁生活を送り、屋敷跡と伝えられる場所には「又兵衛桜」が残っています。
京都駅から東寺に向かう油小路八条交差点南西、セレモニー会館敷地に「平重衡受戒の地」という真新しい石碑を見つけました。建立は2011年暮れだそうです。下司の勘ぐりでもないのですが2012年の大河ドラマが「平清盛」だったので、大河ドラマ人気にあやかろうと急遽この碑を立てたのではと・・・。
伊賀上野は針ICから数十分走った上野ICで降りれば30分程度で行けるところで、何もカーナイビを使う必要もないのですが「伊賀上野駅」を検索、設定して走り出しました。カーナビの案内通りに走っていると全く方向が違う峠道に差し掛かりどんどん上野とは違う青山高原の方に向かっていきます。急ぐ用事でもないのでカーナビの誘導設定がどんな風になっているのか知るのもいいか、と思いながら小一時間走ると「目的地周辺です」とのこと。画面をよくよく見ると「伊賀上津駅」となっています。老人ボケか「伊賀上○」と見ただけで「伊賀上野駅」と早とちりしての大失敗。同乗の嫁さんに馬鹿にされたりボヤかれたりで・・・。
やっと「上野駅」で中日新聞を購入しましたが、残念ながら「三重県版・伊賀板」で「名古屋市内版」ではないので保育所の記事は在りませんでした。
帰路は伊賀上野から信楽を通り新名神を利用することにしました。伊賀は信楽に隣接して「伊賀焼」でも有名です。
この辺りは太古の昔、琵琶湖があったそうです。400万年前に最初に伊賀上野あたりに出来たのが大山田湖、300万年前には阿山湖、270万年前には甲賀湖、250~180万年前には蒲生湖、100万年前には堅田湖と言うように次第に移動して、今の位置にたどり着いたそうです。