馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

壮大な仮説の証明「ヘイエルダールのコンティキ号」

2013年06月26日 | 映画
4組HPの「掲示板」に「第5回シネマ倶楽部 鑑賞映画は[コン・ティキ]」との告知がありました。沢山の映画が公開される中で「その1本」を選ぶのも大変なことだと思います。まだ、シネマ倶楽部での鑑賞も終わっていないのに「コンティキ号」の事を書くのもどうかなァ、とも思いましたが、エンタテーメントとしての映画「コン・ティキ」を俎上に上げる訳でもなく、また、推理映画でもないので「犯人」を前もって知らせて興味を殺ぐ訳でもないだろうと思いこの話題を取り上げます。くどい様ですが、シネマ倶楽部の企画に「チャチャ」を入れるつもりは毛頭もありませんので誤解なきようご了承ください。

 平成11年(1999)、「ニュートン」と言う科学雑誌の3月号に「イースター島の謎にいどむ」という特集記事が掲載られました。当時、その記事を読んで「チョッ」とした衝撃を受けました。物理・化学或いは生物学では「実験」を繰り返すことで仮説を証明することができます。しかし、当時の歴史学、考古学、民俗学などは今ほど学際化が進んでいなくて「実験」と言う手段を用いることが少なかったように思います。多くの場合、研究室で文献や野外調査の結果を材料に「思考実験」という地味な作業をしていたように思います。素人ですからその方面のことを全く知らなかったのかもしれませんが・・・・・。
 今で云う「環境考古学」の考え方、手法だと思うのですが、「イースター島・モアイ」を解説した記事は大いに刺激になりました。

 

画像をクリックすれば拡大されます


 この頃「オジンとオバァン」を集めて月1回「よもやま話」をする会に入っていました。ニュートンを読んでからしばらくの間、イースター島や西太平洋関連の本ばかり読んでいました。当ブログでは「枯野」「軽野」「狩野」・・・地名の話もその一環の話題です。
「座談の会」で座頭を務めた時に場違いとは思いながら「イースター島・モアイの涙」と題してあちらこちらの本から「パクリ」倒して知ったかぶりの話でお茶を濁したことがあります。

 「コン・ティキ」と言う映画が公開されることを教えてくれてありがたいことです。当日は所要があって参加できませんが皆さんの感想を期待しています。また、機会を作って是非見たいと思っています。

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古くて新しい医療「マゴットセラピー」

2013年06月20日 | 昆虫・ミツバチ
マゴット(Maggot)とはハエの幼虫、ウジ(蛆)のことです。セラピー(therapy)は治療、治療法です。即ち、蛆を使って傷を治療する療法です。マゴットセラピーの歴史は古く古代マヤ文明やオーストラリアのアボリジニー、ビルマなどでは数千年前より行われていたとの記録があります。 近代になるとアメリカ南北戦争や第一次世界大戦の戦場においてハエの幼虫がわいた傷口の方が早く治っていくことが報告さ、19世紀になりマゴットセラピーがアメリカにおいて初めて西洋医学に取り入れられてからは広く欧米にて普及したようです。
 抗生物質が発見され、医療技術が飛躍的に進歩したのでマゴットセラピーは次第に衰退していると言われています。しかし、糖尿病患者の急増や抗生物質が効かない耐性菌の出現など抗生物質が使えない事態が起こり問題となり、その解決手段の1つとしてマゴットセラピーが再び脚光を浴びるようになりました。
 ウジは、選択的に腐って死んだ組織のみを分泌液で溶かして食べ、健康な組織は食べません。ですから正確に壊死組織のみが患部から除去されることになります。また、同時にウジが分泌する抗菌物質によって殺菌も行われます。この分泌液は、いろいろなな病原菌を殺菌することが知られていて、ウジらの抗菌物質の分泌は、壊死物質の栄養素が細菌の養分となることを妨げていることも知られています。これらのウジによる活動によって潰瘍の改善されることになります。

 自然、天然由来、無添加、・・・が大好きな日本人には打って付の治療法かも知れませんが、日本では認知度が低く昆虫食同様マゴットセラピーは理屈ではなく「気持ち悪い!」と敬遠されがちです。
日本ではマゴットセラピーは「保険外診療」で健康保険の適用外ですが国内で80~90か所の医療機関で実施されているようです。また、無菌培養されたマゴットセラピー用のウジを販売している所も2事業所あるようです。
 ウジは特別なハエでなくてもいいようですがクロバエ科の一種ヒロズキ ンバエPhaenicia sericata(Green Blow Fly)のウジを 使用しています。日本中そこいらで見られる「ギンバエ」のことです。


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中仙道・醒ヶ井宿~垂井宿+一夜城

2013年06月18日 | ドライブ・旅行
17日(月)、月に1度の同級生とのドライブの日です。中仙道近江(滋賀県)と美濃(岐阜県)の国境を見に行くことをメインに醒ヶ井宿から垂井宿、そして予定外の墨俣・一夜城へ行きました。中仙道は当ブログでは2009年8月31日に取り上げています。また、旧国の国境では「摂津と播磨」の事を書いた2009年12月30日の記事が思いのほかアクセスが多い記事です。
 4~5日前から雑菌に感染してパンパンに腫上がり傷みの酷く参っていました。16日(日)症状がピークとなり、痛みと高熱。夜、シャワーを使っていると「膿溜り」が破れてヤット「膿」が出だしました。素人治療で消毒をして抗生物質の軟膏を貼って夜の明けるのを待ち、朝一番で医者に行きました。夜明け頃から幸い熱も下がり傷みも緩和してきました。ここ数日、大量の抗生物質を服用しているので、点滴をしてみようかと勧められましたが、ドライブの約束があるので明日に・・・、と言うことで約束より10分遅れで千里中央で合流しました。
 最悪の体調を知らせず「命を預けた」同乗者は中村・乾・山口君です。(黙っていてごめん!)
 

醒ヶ井宿・梅花藻(バイカモ)はまだ早かったようです。



 

近江国と美濃国の国境は細い溝です。


不破の関資料館・畿内と畿外の境です。

 

垂井宿・垂井地名の由来となった湧水


 本日の予定コースは終わったのですが、月曜日のため各コースの観光施設が全て定休日だったので時間が予定より短縮されたので、墨俣の一夜城を見に行きました。
 来月は「越前勝山・永平寺・越前大野」OR「能勢城跡・亀岡城跡・園部城跡・福知山城跡」のどちらかです。



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怪童・尾崎行雄さん急死 68歳、肺がん

2013年06月16日 | スポーツ・人物
昭和35年の夏休み(今高に入学した年)に阿倍野区阪南町の長屋から泉大津に引っ越しをしました。9月になり新学期の日に満員の南海電車に乗り込みました。当時のラッシュ時には駅員が「尻押し」といって満員の車内に乗車客をギュウギュウに押し込んでいました。一緒に押し込まれた学生が「尾崎行雄」でした。身長はそれほど高くはありませんでしたが体の厚味は中途半端でなく、普通の大人2人分もありそうな兎に角体積の大きな人でした。尾崎は我々と同学年で、この年の夏の甲子園大会では既に「怪童」として注目されていました。彼は泉大津から当時の野球の名門「浪商」に通っていました。ですからその後通学時に何度か乗り合わせたことがあります。
翌年、昭和36年になると尾崎の活躍は日本中を沸かしました。そしてこの年夏の甲子園で優勝しました。法政二校の柴田勲が好敵手でした。
尾崎が低めの快速球を投げると「砂塵が舞った」と言われるほどの剛速球を投げたそうです。

 夏の大会が終わるとまだ高校二年生の尾崎行雄の争奪戦が始まりました。当時はドラフト制度はありませんでしたから各球団のスカウトがボストンバッグに何千万もの現金を携えて尾崎宅に押し掛けたそうです。
泉州の小さな町での事ですから、近所・知り合いを二~三人当たれば「尾崎のおやじと知り合い」とか「尾崎の兄貴と職場が一緒」「尾崎の家のすぐ傍に住んでいる」・・・・・とかの縁故知人が沢山いました。尾崎のお父さんは地元の建設会社に勤務しており役員の運転手や軽作業などをしていたそうです。入団交渉の場所を提供した知人から直接聞いた話ですが、尾崎のお父さんが上座に座り各球団のスカウトが5~6人が札束を積み上げていたそうで、ある球団の人がとなりの札珠の山より自分の山が低いと気づくと新聞紙を折って札束の底に突っ込んで高くしたそうです。この交渉の後、尾崎のお父さんに様子を聞いたら「何が何やら頭がボーとして何も分からなかった」と言っていたそうです。
報道陣も多数押しかけ交渉も身内で確りした人が窓口となり結局「契約金五千万とも六千万とも」言われ東映フライヤーズに落ち着きました。しかし、この間の交渉は波乱万丈であったようです。契約金が全額現金で支払われたのか他の方法で支払われたのか分かりませんが、飽く迄も噂として契約金の他に付帯条件があり、それらを合わせると優に1億円は超えていたとの話もあります。泉大津は毛布の生産が盛んで尾崎家には「起毛工場」と兄弟一人一人に東映の直営館を1館づつ提供されたとの噂がありました。

 17歳でプロデビューし5年間で100勝以上を上げ29歳で肩の故障が治らず引退します。当時、パリーグの試合などはめったに見ることができず、オールスター戦や日本シリーズでしかよそ姿は見れませんでしたが独特の「ロッキングモーション」と不敵な笑みが印象に残っています。
 浪商野球部は名立たる名選手を輩出しています。巨人の5番を務めた坂崎一彦、山本八郎(バット殴打事件)、張本勲、大熊忠義、住友平、大塚弥寿男、高田繁、牛島和彦、・・・・・・・他にもキラ星のごとき名選手を輩出しています。異色の部員としては落語家の桂春団治、月亭八方などがいます。

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「奇跡のリンゴ」が話題になっています。

2013年06月10日 | ぼやき
ここしばらく気忙しい毎日でした。9日、やっと余裕ができたので知人が出品している展覧会を覗いてきました。

大阪市立美術館で開かれている「第90回記念 春陽展」です。春陽会はテレビの「なんでも鑑定団」などでもたびたび登場する近代日本美術史に多大な貢献をしている権威ある団体です。同期生の藤田典子さんはこの伝統ある春陽会の重鎮です。今回もご招待いただき、また豪華な「90回記念春陽展画集」まで頂戴し恐縮の至りです。

「ひとやすみ」S100 アクリル 藤田典子
 
会場内は原則、写真撮影禁止だそうです。チョット「ルール違反」かなァ????


この会は、公益社団法人大阪自然環境保全協会ナチュラリスト講座受講のOB達が、「自然」をキーワードに写真、絵画、生花・・・などの作品を展示しています。知人の女性は「生花」を出しています。たまたま、会場の当番日だったようで本人もいました。遅れて以前この会員だった知人も差し入れを持ってきました。気の置けない連中なので差し入れのお菓子をちゃっかり頂戴して「ワイワイガヤガヤ」・・・・。
 同じく当番の女性が「猫の皮を剥ぐ時、仮死状態で生皮を剥ぐ」と言うようなことを言い出しました。殺してからだと死後硬直が起こり剥がし難いからなんだそうです。その話はまだしばらく続くのですが・・・・・・・。

 そう言えば今、TVやラジオで盛んに「奇跡のリンゴ」という映画のスポット広告が入ります。僕はこの「奇跡のリンゴ」の事は全く知りませんでした。あまりにもTV,ラジオ、新聞に広告が沢山出ているので「何ンの事だろう?」と農業関係の出版社にいる友人に聞いてみました。
 世の中には○○農法と言うものが沢山あります。自然農法、有機農法、無農薬農法、炭素循環農法、・・・・・・・と。どれもこれも「善かれ」と思い「信じて」実践されているのでしょうからとやかくイチャモンをつけることもないのですが・・・・。
アダムとイブが食べた禁断の木の実は確か「リンゴ」だったと思います。その時代には「農薬」はなかったたのですが「リンゴ」は実をつけていたことになります。まさに「奇跡のリンゴ」!!

 エンタテーメントとしての面白さ、感動は別問題で、このような「マユツバモノ」が物語となり感動を与えると問題は大きいようです。
「原子力は安全」と刷り込みを行ったのと真逆の刷り込みが行われています。何時頃から日本人は「川下の雑魚」のようになったのかなァ・・。
当ブログには「エセ科学」の事を何度も取り上げています。中でも「ルイセンコ理論」を信じ、実践した例を紹介した記憶があります。この様な「エセ」が世論となり一定の勢力を持つと困ったことになります。
 アベノミックスの「第3の矢」が発表と同時に株価が暴落しました。規制緩和が1丁目1番地と言いながら「官僚支配」「医者の我がまま」「農協の保身」この3つの「権益剥奪」ができなかったのが一番の原因です。
日本の農業技術は世界一です。TOYOYAやHONDAが世界中で自動車を生産しています。世界一の技術を持った日本農民が何故世界でその技術を生かせないのか不思議に思いませんか?手品のような「カロリーベース食料自給率」を盾に農政を滅茶苦茶にし、外国産より8倍も高いコメを作って頂くために何兆円もの補助金を使い、それが余ると休耕のためにまたお金を差し上げる。この無意味なお金の金額は国民にどれだけの負担を与えているか・・。この農業予算を削れば5%や8%の消費増税など吹っ飛んでしまいますが・・・・。
 度台、狭い国土に1億2千万の人間が生存して、優良だった農地は全て都市化された国で、規模拡大や農地の集積など意味のないことを言わなければならない安倍さんに同情するばかりです。

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備中松山城へ春の遠足。・・・山田方谷と備中鍬

2013年06月01日 | 歴史
30日(木)同級生たちと「50年目の春の遠足」銘打ってと岡山県高梁市へ行きました。
その様子は太田さんがネットにUPしてくれていますからご覧ください。
 備中松山藩は徳川幕府開府からしばらくは天領でしたが、小堀遠州から次々と城主が入れかわります。備中松山藩の基礎を築いたのは寛永19年(1642年 第3代将軍徳川家光)に入封した水谷勝隆が城下の町割りを整え、高梁川の水路を開削し瀬戸内の玉島港などを開いたことによります。しかし、水谷家は無嗣改易となり水谷家は断絶します。この時、松山城を接取したのが播州赤穂の浅野内匠頭で、松山城受け取りは大石内蔵助が行い、1年間内蔵助は松山城の上代を務めたそうです。城明け渡しにあたって大石は単身で松山城に入り、水谷家家老鶴見内蔵助と対談に及び、無血開城にこぎつけたという。大石と鶴見の名がたまたま同じ内蔵助であったことから「両内蔵助の対決」として評判になったという、逸話があります。忠臣蔵の導入部によく登場するお話です。
 正徳元年(1711年 第6代将軍徳川 家宣)の時、板倉勝澄が伊勢亀山から5万石で入封して以来明治まで板倉家が8代城主を務めました。幕末に第7代藩主となった板倉勝静は英明な人であったようで、最後の将軍徳川慶喜の老中首座で、慶喜の「大政奉還」の下準備はこの老中板倉勝静が行ったとも言われています。勝静は幕閣の中枢にいたため戊辰戦争では旧幕府方に身を置いて箱館まで転戦しています。本来、事後処理を行うべき徳川慶喜は「恭順謹慎」と称して当事者の立場を放棄してフェードアウトしてしまいます。
板倉勝静

維新後、板倉勝静は旧主・慶喜が赦免後に幕府のために命を捧げた家臣たちのことも考えずに悠々自適の生活を送っていると知ると、激怒してあのような主君に仕えた自分が誤っていたと語ったと言われています。その人物像は交流の深かった勝海舟が「あのような時代(幕末)でなければ、祖父の(松平)定信公以上の名君になれていたであろう。巡り会わせが不幸だったとしか言いようが無い」と語っているます。
 この板倉勝静を支えたのが山田方谷と言う人です。大変な傑物であったようで、一説には方谷が大政奉還の上奏文を起草したとも言われています。今、地元高梁市では「山田方谷を大河ドラマに」と言う運動が盛り上がっています。

山田方谷

 「武家屋敷」でボランティアの方が熱心に解説をしてくれましたが、板倉勝静については触れることが無く只管「山田方谷」について熱く語ってくれました。
山田方谷の業績は何と言っても「疲弊困窮」していた藩財政を立て直したことです。幾つかの施策がある中で「領内で取れる砂鉄から備中鍬を生産させ、玉島港から江戸へ直接運び販売した」ことです。備中鍬だけではなくタバコ、和紙、柚餅子、茶などを一種の専売制にします。方谷の専売制がほかの藩と異なったのは「生産に関しては生産者の利益が重視されて、藩は流通上の工夫によって利益を上げる」ようにしたことです。江戸で直接販売したのは、大坂では商人の力が大きすぎて中間マージンを取られすぎるのを嫌ったためで、関東で直接商人に販売することで大きな利益を上げることができました。これらの施策が功を奏して松山藩は莫大な借財を完済したと言われています。
    

左から「備中鍬」 「備後福山の耜先鍬(スキザキクワ) 「紀州和歌山の鍬」(クリックすると大きくなります)

 件(クダン)のボランティアの方が「山田方谷が備中鍬を発明した」と言われていましたが、それはあまりにも「山田方谷」を贔屓しすぎで方谷が生産販売を奨励したのは事実ですが、考案発明はしていません。
江戸時代の農業書に「農具便利論 上・中・下」(大蔵永常著)(日本農書全書 15農山魚村文化協会)には全国で作られ使われた「鍬」が図入りで解説されています。当時、備中鍬」はこの地方では「熊手鍬」と呼ばれて広く普及していたようです。その「熊手鍬」をブランド化し専売販売をしたのは山田方谷のお手柄ですが決して考案・発明をした訳ではありません。
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