写真は「仁和寺宮嘉彰親王」後の「小松宮彰仁親王」
宮さん宮さん お馬の前に ひらひらするのは何じゃいな トコトンヤレトンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じゃ知らないか トコトンヤレトンヤレナ
一天万乗の帝王に 手向かいする奴を トコトンヤレトンヤレナ
ねらい外さず どんどん撃ち出す薩長土 トコトンヤレトンヤレナ
伏見 鳥羽 淀 橋本 葛葉の戦いは トコトンヤレトンヤレナ
薩土長肥の 合うたる手際じゃないかいな トコトンヤレトンヤレナ
「伏見 鳥羽 淀 橋本 葛葉の戦」とは俗に云う「鳥羽伏見の戦」のことです。
「鳥羽伏見の戦」とは、慶応4年1月3日-6日(1868年1月27日-30日))戊辰戦争の緒戦となった戦闘のことです。
慶応3(1867)年10月14日、徳川慶喜が大政奉還
慶応3(1867)12月9日に王政復古の大号令
慶応3(1867)12月25日に庄内藩の江戸薩摩藩邸の焼討事件
慶応4(1868)年正月元旦、慶喜は討薩を発表
慶応4(1868)1月2日から3日にかけて旧幕府軍主力の幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだ。
慶応4(1868)1月3日夕方には、下鳥羽付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と軍事的衝突、鳥羽での銃声が聞こえると伏見でも衝突、戦端が開かれた。(鳥羽伏見の戦)
慶応4(1868)1月4日に朝廷では仁和寺宮嘉彰親王に錦旗を与え、新政府軍が官軍となる。
慶応4(1868)1月5日、旧幕府軍は淀城に入り戦況の立て直しをはかろうとしたが入城を拒否、淀千両松に布陣し新政府軍を迎撃したが惨敗(淀の戦)
慶応4(1868)1月6日、幕府軍は石清水八幡宮の鎮座する男山の東西に分かれて布陣。東に男山、西に淀川を控えた橋本では、地の利は迎え撃つ旧幕府軍にあった。しかし、津藩が朝廷に従い、旧幕府軍へ砲撃。西側からの砲撃を受けた旧幕府軍は戦意を失って総崩れとなり、淀川を下って大坂へと逃れた。(橋本・葛葉の戦)
「宮さん宮さん」の歌詞の流れから「宮さん」は明らかに「仁和寺宮嘉彰親王」です。
因みに「有栖川宮熾仁親王」が東征大総督に就任したのは慶応4年2月9日、2月15日 御所御学問所で明治天皇に謁見、節刀と錦旗を賜り、東征に出発しています。
専門家が書かれた本にも「宮さん」は「有栖川宮熾仁親王」と書かれています。
僕はある高名な学者の書かれた本に「有栖川宮熾仁親王」とあったので、間違いを指摘しした事があります。丁寧な私信を頂き、そこには「戊辰戦争の転戦を重ねる間に、知らず知らずに歌詞が作られたのであり、全体を俯瞰すれば有栖川宮熾仁親王が宮さんになるのでは・・」と論拠を述べておられました。
しかし、当時の記録に「伏見鳥羽の戦捷の際、祝歌として作り・・」とあります。
「知らず知らす・・」は学者としては臆説が過ぎるのではないかと、反論しましたが2度目には返事が返ってきませんでした。
宮さん宮さん お馬の前に ひらひらするのは何じゃいな トコトンヤレトンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じゃ知らないか トコトンヤレトンヤレナ
一天万乗の帝王に 手向かいする奴を トコトンヤレトンヤレナ
ねらい外さず どんどん撃ち出す薩長土 トコトンヤレトンヤレナ
伏見 鳥羽 淀 橋本 葛葉の戦いは トコトンヤレトンヤレナ
薩土長肥の 合うたる手際じゃないかいな トコトンヤレトンヤレナ
「伏見 鳥羽 淀 橋本 葛葉の戦」とは俗に云う「鳥羽伏見の戦」のことです。
「鳥羽伏見の戦」とは、慶応4年1月3日-6日(1868年1月27日-30日))戊辰戦争の緒戦となった戦闘のことです。
慶応3(1867)年10月14日、徳川慶喜が大政奉還
慶応3(1867)12月9日に王政復古の大号令
慶応3(1867)12月25日に庄内藩の江戸薩摩藩邸の焼討事件
慶応4(1868)年正月元旦、慶喜は討薩を発表
慶応4(1868)1月2日から3日にかけて旧幕府軍主力の幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだ。
慶応4(1868)1月3日夕方には、下鳥羽付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と軍事的衝突、鳥羽での銃声が聞こえると伏見でも衝突、戦端が開かれた。(鳥羽伏見の戦)
慶応4(1868)1月4日に朝廷では仁和寺宮嘉彰親王に錦旗を与え、新政府軍が官軍となる。
慶応4(1868)1月5日、旧幕府軍は淀城に入り戦況の立て直しをはかろうとしたが入城を拒否、淀千両松に布陣し新政府軍を迎撃したが惨敗(淀の戦)
慶応4(1868)1月6日、幕府軍は石清水八幡宮の鎮座する男山の東西に分かれて布陣。東に男山、西に淀川を控えた橋本では、地の利は迎え撃つ旧幕府軍にあった。しかし、津藩が朝廷に従い、旧幕府軍へ砲撃。西側からの砲撃を受けた旧幕府軍は戦意を失って総崩れとなり、淀川を下って大坂へと逃れた。(橋本・葛葉の戦)
「宮さん宮さん」の歌詞の流れから「宮さん」は明らかに「仁和寺宮嘉彰親王」です。
因みに「有栖川宮熾仁親王」が東征大総督に就任したのは慶応4年2月9日、2月15日 御所御学問所で明治天皇に謁見、節刀と錦旗を賜り、東征に出発しています。
専門家が書かれた本にも「宮さん」は「有栖川宮熾仁親王」と書かれています。
僕はある高名な学者の書かれた本に「有栖川宮熾仁親王」とあったので、間違いを指摘しした事があります。丁寧な私信を頂き、そこには「戊辰戦争の転戦を重ねる間に、知らず知らずに歌詞が作られたのであり、全体を俯瞰すれば有栖川宮熾仁親王が宮さんになるのでは・・」と論拠を述べておられました。
しかし、当時の記録に「伏見鳥羽の戦捷の際、祝歌として作り・・」とあります。
「知らず知らす・・」は学者としては臆説が過ぎるのではないかと、反論しましたが2度目には返事が返ってきませんでした。