馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

川崎橋・・「ぜにとり橋」と言われた橋。

2021年11月30日 | 地名・地誌
川崎橋は大川(旧淀川)架かる橋です。大阪市の公式HPによると「江戸時代このあたりの大川は、過書船・伏見船が往来し、四季折々には涼み船・月見船などで大そうにぎわったという。
対岸の備前島(現在の網島町の一部)は京橋口に接し、京・大和へ向かう街道に通じており、ここ川崎の地(現在の天満1丁目の一部)には幕府の材木蔵や城代および町奉行配下の役人宅、諸藩の蔵屋敷などが建ち並んでいた。両岸を結ぶ川崎渡しは元禄年間にはすでに存在していた記録がある。
 明治10年(1877)になり私設の木橋、川崎橋が架けられたが、同18年(1885)の大洪水によって惜しくも流失した。
その後、渡しが復活され人々に利用されてきたが、昭和20年(1945)には廃止されている。
このような由来から、かつての渡しや橋の名を世にとどめる本橋を「川崎橋」と命名した

現在の川崎橋は、中之島公園と千里の万博記念公園を結ぶ大規模自転車道の一環として昭和53年に架設された。
形式は高い塔から多くのケーブルを出し、桁を吊った斜張橋というタイプで、技術的にすぐれ、景観を重要視した橋として、土木学会の賞を受けている。



『ぜにとり橋」の言われ(大阪市公式HPから)
「江戸時代、大阪城京橋口から、幕府の役人宅や諸藩の蔵屋敷があった対岸の川崎(北区天満一丁目の一部)へは「川崎渡」が通っていた。
明治10年になってこの地に橋が架けられたが、私設の橋で通行料一人三厘を徴収したことによって、「ぜにとり橋」と呼ばれたらしい。
この橋も明治18年7月初めの大洪水によって下流の橋ともども流失し、以降再建されることはなかった。
「川崎」と云う地名

「旧町名継承碑」によると
「新川崎町」
 「当町は明治初期、西成郡川崎村の一部であったが、明治八年一二月新川崎町となった。同一二年二月北区に、同二二年四月市制の施行にともない大阪市北区新川崎町となった。昭和一九年四月天満橋筋二丁目の一部が新川崎町に編入された。同五三年二月住居表示の実施にともない新川崎町は天満橋一丁目・天満一丁目の各一部となった。当町域に明治四年四月大蔵省造幣局が創設され、旧天満一丁目が先に川崎町と称していたことと区分して、局敷地の全域に新の冠称が付けられたことの由来する。
平成七年三月  大阪市北区役所」とあります。

 川崎橋は、造幣局南門にあります。南門は普段は閉まっていますが、恒例の「桜の通り抜け」の時に一方通行の為『出口』として開放されています。
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日本昔話「けちんぼ六さん」

2021年11月19日 | 地名・地誌
「日本昔話データーベース」(http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=199)から引用します。
『あらすじ』
 東京の石神井川(しゃくじいがわ)に、今も下頭橋(げとうばし)という橋が架かっています。昔、この橋は江戸と川越を結ぶただ一つの木の橋として、とても人通りの多い橋でした。

この橋の周囲には大勢の乞食がたむろしていましたが、町の人々も乞食たちも仲良くおだやかに暮らしていました。この中に「六さん」という古株の年寄り乞食がいましたが、朝から晩までせっせと物乞いし、全く無駄遣いをしなかったので「けちんぼ六さん」と呼ばれていました。

ある日、六さんは一人ひっそりと死んでしまいました。
乞食仲間や町の人々が、六さんをねんごろに葬ってあげて住んでいた小屋を片づけていると、床下から小銭のたくさん入った壺が出てきました。
実は六さんは、若い頃に洪水で家族を流されたつらい過去があるので、
この橋を石の橋に架け替えようとしていたのです。

町の人々もこの意志を継ぎ、みんなで寄付をして、
この橋を立派な石の橋に架け替えました。
そして、道行く人にいつも頭を下げていた六さんにちなんで「下頭橋」と名づけました。
※1、「日本昔話」はYouTubede視聴しました。挿入の画像はYouTubeのものです。
※2、板橋区公式ホームページに「下頭橋」の項目があります。






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