馬糞風リターンズ

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「勝負谷橋」(5)江戸時代、豊中の村支配。

2021年07月27日 | 地名・地誌
「享保1 8(1733)年 に徳川幕府が当時の長興寺村・寺内村に敷地を確保して建設した。長興寺村・寺内村は幕領と譜代大名飯野藩保科氏領の相給村であり、焔硝蔵の敷地の多くは幕領であつたが、一部保科氏領の敷地もあつた。」
 現在の服部緑地公園にあった焔焇蔵は、幕末の村域でいうと長興寺村、石蓮寺・寺内村となります。これらの村は、天領、飯野藩の所領でした。
「豊中市は江戸時代にはどこの領地?」と聞かれたら「麻田藩」との答えが多いと思います。所が。豊中市史・新修豊中市史等に依るとそう簡単ではなくかなり複雑な状態であることが分かります。
見出しの「近世豊中の村々」に「幕末期豊中の所領配置図」を重ね合わせると下図のようになります。
天領、大名領、旗本領などが碁を打ったように複雑に入り乱れて配置されています。幕末の豊中には、4大名領、8旗本領、天領、一橋領がありました。
「大名領」
1)麻田藩
豊島郡に本拠を構える唯一の藩で、藩主は青木氏。豊島郡、川辺郡、備中に1万19石領有。幕末期、麻田村と箕輪村(一橋領・天領)を支配するだけであつたが、豊島郡では、麻田村の北側で接する轟木村(北)、宮之前村、石橋村、さらにこれらの村々に隣接する中之島村、今在家村(北 )、産所村、東市揚村、玉坂村、野村、井口堂村、畑村、上・下渋谷村を支配した。領地が地理的に連続している。小規模ながら領国的特徴を持っている。
2)淀藩
山城国淀藩10万2,000石。藩主は稲葉氏。豊中市域では上新田村の領有、他に摂津國島下郡15ヶ村1万1,000石を支配、いずれも稲葉家単独支配で地理的に一塊となっている。他に山城、近江、河内、下総、越後に1~2万石を領有。
3)半原藩
武蔵国榛沢岡部に陣屋を置いたので、岡部藩と称されたが、明治元年(1868)に本拠を三河半原に移し半原藩 となった。藩主は安部氏。石高2万石。
豊島郡では、半町村、北・南刀根山村、桜塚村、内田村、少路村、野畑村、柴原村、服部村、利倉村、曽根村、垂水村、合計3,900百余を領した。
このほか、丹波2,000石、三河6,200石、武蔵5,000石、上野1,600石があつた。摂津・丹波の所領を管理するために、野畑村に陣屋が設置された。
4)飯野藩
上総、安房、近江、摂津にわたって合計2万石を領し上総周准(スエ)郡飯野に陣屋を置いた。藩主は保科氏。豊島郡で14カ 村3,200石余、能勢郡4カ村1,000石余、川辺郡9カ村3,200石余、有馬郡 5カ村2,000石余を支配していた。
「天領」
幕府直轄領は郡代・代官支配であった。江戸時代のはじめころの豊中では、村上孫左衛門、長谷川忠兵衛が代官を勤めた。初期の代官は年貢請負的役割を持ち、支配地との結び付きが強かったが、徐々に幕府の官僚機構の中に組み込まれ、サラリーマン化していった。頻繁に交代も行われ、平均在職年数は6~7年ほどであつた。
「一橋領」
一橋家は田安家、清水家共々「御三卿」です。賄料領地として10万石を与えられた。一橋家の領地は武蔵 ・下野・下総・甲斐・和泉・播磨にわたったが、文政期(1818~30)に領地の交換が行われ、摂津が加わった。摂津では、豊島郡5,100石余・23カ村、島下郡3,800石余・10カ村、川辺郡5,800石・20カ村の領地を持った。地理的にまとまった領地支配が許されている。豊中市域では、箕輸村、原田村中倉、原田村梨井、原田村南町、原田村角を支配した。
「旗本領」
幕末期には、船越主計、船越柳之助、蒔田鐙太郎、大島雲四郎、大島雲八、大島鉄太郎、畠山飛騨守、鈴木正左衛門の8家の旗本領があった。
1)船越氏
幕末期、本家が船越柳之助家は、岡山村203石余、分家が船越主計家が原田村244石余、走井村94石余、利倉村6石余を領した。
2)蒔田氏
幕末期、蒔田鐙太郎熊野田村領主として現れる。
3) 大島氏
幕末期も野田村300石を領していた。
4)畠山氏
幕末期における、豊中市域の桜塚村、走井村、勝部村、福井村の4村416石余。
5)鈴木氏
摂津八部・豊島郡、常陸河内・信太郡において合計1,200石余を知行。

主な参考・引用資料:豊中市史、新修豊中市史ほか

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「勝負谷橋」(4)大阪城鉄砲奉行支配焔焇蔵跡

2021年07月16日 | 地名・地誌
服部緑地公園の北東に「長興寺焔硝蔵場跡」の看板と碑があります。『新修豊中市史第1巻 通史1』 (豊中市)p650-656に「長興寺の焔硝蔵」の項があり。享保1 8(1733)年 に徳川幕府が当時の長興寺村・寺内村に敷地を確保して建設した。長興寺村・寺内村は幕領と譜代大名飯野藩保科氏領の相給村であり、焔硝蔵の敷地の多くは幕領であつたが、一部保科氏領の敷地もあつた。
『豊中の伝説と昔話』(鹿島友治)p50「煙硝ぐら始末記」には、蛤御門の変のころに、爆破されるのを防ぐために焔硝蔵の火薬を近隣の池に投げ込んだとの記載があり。また『新修豊中市史第7 巻 民俗』p245には、焔硝蔵の跡地は田になつたことと、江戸時代に火薬が神崎川の渡しから高川沿いに運ばれるときには、沿道では火を使うことが禁止されていたとの記載があり。

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