女犯の破戒僧という烙印を押された純信は、お馬と新生活を求めて意を決して京都を目指して逃避行に出ます。安政二年(1855)五月一九日のことだそうです。この時、純信三七歳、お馬一七歳です。お馬を稚児姿であったそうです。楠目村の安右衛門なる人の道案内で、現在の国道195号を東北・高知と阿波の国境に向かいます。
四国山脈の山奥深い杣道なので記録に残るルートだけを記述します。今は便利な時代でGoogle Earthで地名を検索すれば大体のことが分かると思います。R-195号→永瀬ダム→林道松床楮佐古線(舗装工事がされ整備されたときに「恋の峠」の記念碑を建立 五月二十日午後、二人は此処を越えたといわれる ⇒Google Earthには写真がリンクされています)→大栃→笹(番所・関所があった。ここで阿波に抜けるより讃岐へとの助言がある)
番所を抜け、琴平(香川県)へたどりついたところを追跡の役人に捕らえられ、二人は高知城下へと連れ戻されます。関所破りの罪は重い。取り調べの上、二人は繋がれて山田橋、松け鼻、思案橋の番所で、3日間さらし者にされた。純信は国外(土佐藩以外)川之江へ、お馬は安芸川から東へ追放され、神峰寺(安芸郡安田町)のふもとの宿屋で働き、一応の決着がついたかに思われました。
しかし、純信はお馬さんを忘れることができず、またまた騒動を起こします。つづく