山中教授のノーベル賞受賞は日本に久しぶりの明るい話題をもたらした。七転び八起きの人生の中から、ここまで到達したというドラマみたいな話が日本国民の感動をもたらした。特にノーベル賞受賞に至るiPS細胞実現への決定的な場面がほんの一瞬の面接であったことが興味深い。
山中教授は20003年8月、iPS細胞の基礎研究に手応えを感じ、国の大型研究費を申請した。しかし、当時は本人の強い自負とは裏腹に、iPS細胞研究はまだ模索の段階だった。そこで、研究費配分の審査では、世界的に研究が先行していたES細胞(胚性幹細胞)の問題点をイラストにまとめ、「ES細胞に代わる新たな細胞を作る必要がある」と訴えた。
審査担当だった岸本忠三・元大阪大学長は「iPS細胞はできるわけがないとは思ったが、熱心に説明する若い山中教授に『百に一つも当たればいい。こういう人から何か出てくるかもしれん。よし、応援したれ』という気になった」と評価し、約3億円(5年分)という巨額の研究費を獲得するきっかけとなった。
この3億円がなければiPS細胞の研究は不可能だった。まさに岸本忠三という審査担当との出会いが運命を左右したわけだ。
それにしても訳もわからない基礎研究への国の支援(研究費)の重要性が今回の授賞で再度あぶり出された。岸本忠三氏が言ってるごとく、百に一つ当たれば良いぐらいの気概がないとだめで、当然無駄遣いも出てこよう。それを許容する世論も必要だ。