先日、いきつけの美容室に行った。
人生で初の、美容室での髪染め体験をした。
今まで母の扱っていた自然化粧品の染粉が手に入らなくなったから。今までずっと、自分で染めていたのだが、ここ1年染めていない。還暦にしては白髪は少ない方だと思うけれど、肌の老化とチラホラ白髪のダブルパンチは、ざんねんなお顔の印象(つまり、老け顔)を加速させる。
いつもより長く美容室に滞在した私は、私より5歳年下の女性の美容師さんといつもより長くおしゃべりした。
そして、彼女の人となりを少しだけ知った。
そしてそして、衝撃を受けた。
何に衝撃を受けたかというと、彼女は生まれてからずっと、いかなる他人の言動も平気であるという人間であるということ。
私なんか、苛め発言に反旗を翻すことができず、その人がいるだけで憂鬱で、時に眠れず、時に胃がしくしくと痛み・・・と、心が相手により嵐になったり晴れたり曇ったりしていた。
心が、相手の言動により、しっかり反応してしまって、カラダにも悪影響していた。
なのに、彼女は、人生一度たりとも相手の辛辣な言動が刺さらなかったいうではないか。小さい頃から、正義感が強く、苛めている子がいれば、しっかりと意見を宣う。悪口陰口が大嫌い。カッコイイ~!
だから、生意気に見えて、しょっちゅう、先輩から呼び出されていたって。でも、全然平気だったそう。そこで、自分の意見を物おじせず堂々と宣うもんだから、相手は引き下がったと。女子なので暴力はなかったと聞いてほっとした。
あ~~、彼女のその全然平気という性分をお裾分けしてほしい。
ただ、もし、そのまま彼女が地元にいたら、怖いものなしでジャイアンになってたかもしれない。しかし、新宿歌舞伎町という意味深な町でのいろんな人とのいい出会いからか、美容師という人の話を聞く商売柄か、それが彼女を一段と素敵にしてくださったよう。
こちとら、他人の言動に心がどうしても振り回されてしまうこの自分をどうにかしたいという難問と日々、悪戦苦闘しているというのに、彼女は、オンギャーと生まれた時から、動じない。
わかっている。
一度でもいいから、私を無意識レベルで苛めたいと思って攻撃してくる人にきちんと向き合って堂々と自分の意見を述べるという体験ができたら、私の見える世界はガラリと変わるであろうと。
一度、反撃の成功体験をすると、きっと怖くなくなる。苛めはパワー戦争だ。苛めっ子よりパワーが強ければ、相手は怯む。そして、保身のために言い返せなかったけれど、ちゃんと言い返せることが本物の保身であったと身をもって感じることができるだろう。ただし、後ろで手を引く頭のいい本物の苛めっ子にはパワーだけではかなわないかもしれない。先生とか大人を上手に巻き込める頭脳があるから。
ところで、今まで、その勇気がなかったのは、仮に、一回頑張って勇気を出して自分の意見を言ったとして、その次、また、相手が怯まないで強く言ってきたらどうしようと思ってしまって、結局、言い返せなかった。
頭で考えてしまうからダメなのかな。
彼女は、小さい頃から、ぶれない正義感を引っ提げて、小さなことから日々成功体験を積んできた。
その始まりは、カラダとメンタルも弱い大好きな弟を守るためだったという。
冗談で、あのイエスかノーを突きつけられてビビっているプーチンの側近の大臣たちの一人として、あなたがクレムリンにいたら、世界は変わるかもねって言っちゃった。
まぁ、側近の大臣は正義を捨てイエスマン道を選んだような人たちしかなれないだろうから、そもそも彼女は大臣にはなれなかったかな?
私の原点は、小4の頃、いわゆる美人でいばっている女子に正論を自然体でおかしいんじゃない?って言えてる転校してきた女の子のカッコイイ姿。あれから、変わっていない自分にトホホだ。
ぶれない一番大事な正義感はどのようにして人の心に宿るのだろうか。
私が、今回、この世に生まれてきた課題って、きっと、このテーマだと思う。
彼女は、一人が全然コワクナイ。孤独に感じないとも言った。
学校の教室でみんなからシカトされて、ひとりぼっちという状態がずっと続いても、全然平気だって。
え~~、私は平気でなんかいられない。誰かいないとしんどい。誰でもいいわけではないけれど、親友でなくても信用のおける誰かといたい。
しかし、結婚してから、アフターファイブがほぼ子育てに追われて、気が付けば、一生の友と呼べるような人は、今、この町にいない。負け組と言われるような試練を相談したいと思えるような似た者同士と二人出逢えた。でも、今、この町にいない。それでも、どうにか孤独を感じないですんでいるのは、看護学校時代、同じ釜を食った6人の友達たちとの定期的な年1回の旅行(今は、コロナで行けてない)のほっこり体験の積み重ねのおかげかもしれない。
彼女に、友達とかいます?
と聞いてみた。
そしたら、いないかな?母が友達かな?
私は、母がいればそれで十分って。
彼女のお母さんと一度お話してみたいと思った。
どんな人なのか、どんな育ちをされてきたのか・・・。こんな田舎なのに、娘に贈る言葉が珠玉だと、彼女の話から伺えた。
人生の裏表や甘い辛いの体験の上に築き上げた含蓄のある言葉を娘に紡いでいかれたのだろう。
みな、ひとりぼっちがいやだから、そして、心のどこかに八つ当たりしたい怒りを秘めているから、いじめに加担していく。正義感と孤独、あるいは、正義感とくすぶる怒りを天秤にかけて、正義感を封印する。
そして、いじめられる側も、正義感と傷つきたくない、独りぼっちになりたくない気持ちを天秤にかけて、正義感を捨てる。
結局、苛める人につく人も苛められる人も、いろんな理由で、本物の正義感を捨てているのだ。苛める人たちは、偽りの正義感という刀を振りかざし、反旗を翻せない人は、本物の正義感を鞘に納める。
本物の正義感という刀で勝負を挑んだ時に、偽りの正義感という刀は、あっという間に正体を暴かれ、切られるはずなのに・・・。
彼女は、いつも、真剣 で生きてきた。
小さい時から、彼女のお母さんが語る言葉が、真剣 で、いじめられっ子の弟を守るために、彼女は、小さい頃から、小さなことから真剣勝負を積み重ねてきた。真剣勝負すると敵は敵でなくなることを、あっという間に偽りの正義を捨てて逃げ去ることを学んできた。
だから、全然、平気な人となった。
私は、まだ、言い返せていない。
彼女の足元にも及ばない。
本物のぶれない正義を死ぬまでにゲットできるだろうか。
彼女のお母さんに会ってみたいな。
これも運命だけれど、私の母は、一度も刀を鞘から抜いたことがないような人間だった。
心配性という鞘の中で、刀は錆びて、あの世に旅立つ時を迎えようとしている。すでに、脳はアルツハイマーでボロボロだ。
思うに、子育てって、真剣を磨くチャンスだ。
自分をごまかさない練習帳だ。
子どもは、いろんな形で、真剣勝負を挑んでくる。
本当の私の気持ちをわかってよって。ただただ、受け止めてよって。ごまかさないで抱きしめてよって。
ぐずり、夜泣きから始まり、そねる、イヤだイヤだ、目を合わさない、言うことを聞かない、多動、夜尿、指しゃぶり、爪かみ・・・などなど。
ぐずるときは、ママの胸の中で安心してオンオン泣きたいだけなのに、泣いちゃダメよとあやす。
夕方、夕食を作っている時に、だだこねして大変だからとジュースを与えてしまう。最近だと、スマホの動画をみせる?以前は、お母さんといっしょ だったけど。
ぐずるときの、真剣は、泣いていいよ~と泣きたい気持ちを応援しながら、抱きしめてあげること。
夕食を作っている時は、『保育園で頑張ったもんね。ありがとうね。〇〇ちゃんが、保育園に行ってくれたから、ママも安心してお仕事に行けたよ。』って抱きしめて、5分、心を込めて遊ぶこと。1週間に1回くらいは、前もって夕食を準備しておいて、満足するまで心を込めて遊ぶ・・・など。
一日のどこかに、子どもときちんと向き合う時間があるといいのかもしれない。
そう、きちんと向き合う という刀は、子育てに一番必要なもの。
そうか・・・。
今になって初めて、きちんと向き合うことの重要性がストンと胸に落ちた。
きちんと向き合うことこそ、真剣 なのだ。
ぐずった時に、めんどくさくて、ついつい、お菓子やスマホで誤魔化して、その場しのぎをするということは、真剣勝負というせっかっくのチャンスを自ら逃すということか。
おっぱいもやったばっかり、おむつも濡れていないのにぐずるときもそう。あやすというその場しのぎで、せっかくの真剣勝負の機会を逃す。ママの懐で安心して泣いてスッキリしたいという赤ちゃんの真剣を、ママはママの真剣を鞘に納めてしまって、ひたすらかわして逃げ続ける。
あ~~~、もったいない。
もしかしたら、育てにくい子どもとは、ママにずっと、懲りずに真剣勝負を挑んでくる神さまからの使者なのかもしれない。
5分ねって言って、心を込めて遊んであげること。