総合漢方にんぷ薬・総合漢方育児薬

~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

それでも全然平気な人になりたい

2022年02月26日 | エッセー
 先日、いきつけの美容室に行った。
 人生で初の、美容室での髪染め体験をした。
 今まで母の扱っていた自然化粧品の染粉が手に入らなくなったから。今までずっと、自分で染めていたのだが、ここ1年染めていない。還暦にしては白髪は少ない方だと思うけれど、肌の老化とチラホラ白髪のダブルパンチは、ざんねんなお顔の印象(つまり、老け顔)を加速させる。
 いつもより長く美容室に滞在した私は、私より5歳年下の女性の美容師さんといつもより長くおしゃべりした。
 そして、彼女の人となりを少しだけ知った。
 そしてそして、衝撃を受けた。
 何に衝撃を受けたかというと、彼女は生まれてからずっと、いかなる他人の言動も平気であるという人間であるということ。
 私なんか、苛め発言に反旗を翻すことができず、その人がいるだけで憂鬱で、時に眠れず、時に胃がしくしくと痛み・・・と、心が相手により嵐になったり晴れたり曇ったりしていた。
 心が、相手の言動により、しっかり反応してしまって、カラダにも悪影響していた。
 なのに、彼女は、人生一度たりとも相手の辛辣な言動が刺さらなかったいうではないか。小さい頃から、正義感が強く、苛めている子がいれば、しっかりと意見を宣う。悪口陰口が大嫌い。カッコイイ~!
 だから、生意気に見えて、しょっちゅう、先輩から呼び出されていたって。でも、全然平気だったそう。そこで、自分の意見を物おじせず堂々と宣うもんだから、相手は引き下がったと。女子なので暴力はなかったと聞いてほっとした。
 あ~~、彼女のその全然平気という性分をお裾分けしてほしい。
 ただ、もし、そのまま彼女が地元にいたら、怖いものなしでジャイアンになってたかもしれない。しかし、新宿歌舞伎町という意味深な町でのいろんな人とのいい出会いからか、美容師という人の話を聞く商売柄か、それが彼女を一段と素敵にしてくださったよう。

 こちとら、他人の言動に心がどうしても振り回されてしまうこの自分をどうにかしたいという難問と日々、悪戦苦闘しているというのに、彼女は、オンギャーと生まれた時から、動じない。
 わかっている。
 一度でもいいから、私を無意識レベルで苛めたいと思って攻撃してくる人にきちんと向き合って堂々と自分の意見を述べるという体験ができたら、私の見える世界はガラリと変わるであろうと。
 一度、反撃の成功体験をすると、きっと怖くなくなる。苛めはパワー戦争だ。苛めっ子よりパワーが強ければ、相手は怯む。そして、保身のために言い返せなかったけれど、ちゃんと言い返せることが本物の保身であったと身をもって感じることができるだろう。ただし、後ろで手を引く頭のいい本物の苛めっ子にはパワーだけではかなわないかもしれない。先生とか大人を上手に巻き込める頭脳があるから。
 ところで、今まで、その勇気がなかったのは、仮に、一回頑張って勇気を出して自分の意見を言ったとして、その次、また、相手が怯まないで強く言ってきたらどうしようと思ってしまって、結局、言い返せなかった。
 頭で考えてしまうからダメなのかな。

 彼女は、小さい頃から、ぶれない正義感を引っ提げて、小さなことから日々成功体験を積んできた。
 その始まりは、カラダとメンタルも弱い大好きな弟を守るためだったという。
 冗談で、あのイエスかノーを突きつけられてビビっているプーチンの側近の大臣たちの一人として、あなたがクレムリンにいたら、世界は変わるかもねって言っちゃった。
 まぁ、側近の大臣は正義を捨てイエスマン道を選んだような人たちしかなれないだろうから、そもそも彼女は大臣にはなれなかったかな?

 私の原点は、小4の頃、いわゆる美人でいばっている女子に正論を自然体でおかしいんじゃない?って言えてる転校してきた女の子のカッコイイ姿。あれから、変わっていない自分にトホホだ。
 ぶれない一番大事な正義感はどのようにして人の心に宿るのだろうか。
 私が、今回、この世に生まれてきた課題って、きっと、このテーマだと思う。

 彼女は、一人が全然コワクナイ。孤独に感じないとも言った。
 
 学校の教室でみんなからシカトされて、ひとりぼっちという状態がずっと続いても、全然平気だって。

 え~~、私は平気でなんかいられない。誰かいないとしんどい。誰でもいいわけではないけれど、親友でなくても信用のおける誰かといたい。
 しかし、結婚してから、アフターファイブがほぼ子育てに追われて、気が付けば、一生の友と呼べるような人は、今、この町にいない。負け組と言われるような試練を相談したいと思えるような似た者同士と二人出逢えた。でも、今、この町にいない。それでも、どうにか孤独を感じないですんでいるのは、看護学校時代、同じ釜を食った6人の友達たちとの定期的な年1回の旅行(今は、コロナで行けてない)のほっこり体験の積み重ねのおかげかもしれない。
 



 彼女に、友達とかいます?
 と聞いてみた。

 そしたら、いないかな?母が友達かな?
 私は、母がいればそれで十分って。

 彼女のお母さんと一度お話してみたいと思った。
 
 どんな人なのか、どんな育ちをされてきたのか・・・。こんな田舎なのに、娘に贈る言葉が珠玉だと、彼女の話から伺えた。
 人生の裏表や甘い辛いの体験の上に築き上げた含蓄のある言葉を娘に紡いでいかれたのだろう。

 みな、ひとりぼっちがいやだから、そして、心のどこかに八つ当たりしたい怒りを秘めているから、いじめに加担していく。正義感と孤独、あるいは、正義感とくすぶる怒りを天秤にかけて、正義感を封印する。

 そして、いじめられる側も、正義感と傷つきたくない、独りぼっちになりたくない気持ちを天秤にかけて、正義感を捨てる。

 結局、苛める人につく人も苛められる人も、いろんな理由で、本物の正義感を捨てているのだ。苛める人たちは、偽りの正義感という刀を振りかざし、反旗を翻せない人は、本物の正義感を鞘に納める。
 本物の正義感という刀で勝負を挑んだ時に、偽りの正義感という刀は、あっという間に正体を暴かれ、切られるはずなのに・・・。

 彼女は、いつも、真剣 で生きてきた。

 小さい時から、彼女のお母さんが語る言葉が、真剣 で、いじめられっ子の弟を守るために、彼女は、小さい頃から、小さなことから真剣勝負を積み重ねてきた。真剣勝負すると敵は敵でなくなることを、あっという間に偽りの正義を捨てて逃げ去ることを学んできた。

 だから、全然、平気な人となった。

 私は、まだ、言い返せていない。
 彼女の足元にも及ばない。

 本物のぶれない正義を死ぬまでにゲットできるだろうか。
 
 彼女のお母さんに会ってみたいな。

 これも運命だけれど、私の母は、一度も刀を鞘から抜いたことがないような人間だった。
 心配性という鞘の中で、刀は錆びて、あの世に旅立つ時を迎えようとしている。すでに、脳はアルツハイマーでボロボロだ。
 
 思うに、子育てって、真剣を磨くチャンスだ。
 自分をごまかさない練習帳だ。

 子どもは、いろんな形で、真剣勝負を挑んでくる。
 本当の私の気持ちをわかってよって。ただただ、受け止めてよって。ごまかさないで抱きしめてよって。

 ぐずり、夜泣きから始まり、そねる、イヤだイヤだ、目を合わさない、言うことを聞かない、多動、夜尿、指しゃぶり、爪かみ・・・などなど。
 ぐずるときは、ママの胸の中で安心してオンオン泣きたいだけなのに、泣いちゃダメよとあやす。
 夕方、夕食を作っている時に、だだこねして大変だからとジュースを与えてしまう。最近だと、スマホの動画をみせる?以前は、お母さんといっしょ だったけど。

 ぐずるときの、真剣は、泣いていいよ~と泣きたい気持ちを応援しながら、抱きしめてあげること。
 夕食を作っている時は、『保育園で頑張ったもんね。ありがとうね。〇〇ちゃんが、保育園に行ってくれたから、ママも安心してお仕事に行けたよ。』って抱きしめて、5分、心を込めて遊ぶこと。1週間に1回くらいは、前もって夕食を準備しておいて、満足するまで心を込めて遊ぶ・・・など。
 一日のどこかに、子どもときちんと向き合う時間があるといいのかもしれない。

 そう、きちんと向き合う という刀は、子育てに一番必要なもの。

 そうか・・・。
 今になって初めて、きちんと向き合うことの重要性がストンと胸に落ちた。

 きちんと向き合うことこそ、真剣 なのだ。

 ぐずった時に、めんどくさくて、ついつい、お菓子やスマホで誤魔化して、その場しのぎをするということは、真剣勝負というせっかっくのチャンスを自ら逃すということか。
 おっぱいもやったばっかり、おむつも濡れていないのにぐずるときもそう。あやすというその場しのぎで、せっかくの真剣勝負の機会を逃す。ママの懐で安心して泣いてスッキリしたいという赤ちゃんの真剣を、ママはママの真剣を鞘に納めてしまって、ひたすらかわして逃げ続ける。
 あ~~~、もったいない。

 もしかしたら、育てにくい子どもとは、ママにずっと、懲りずに真剣勝負を挑んでくる神さまからの使者なのかもしれない。





























5分ねって言って、心を込めて遊んであげること。

 




















 


















 




















































 








 








 




















































 
























 
 
 
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すみません ではなく ありがとうを

2022年02月23日 | エッセー
 自分に自信のない人は、すみません人間である場合が多いような気がする。
 先日、3人目を産んで働き始めた女性の知人が、子育ての大変さ、自信喪失気味になっているという話をしてくれた。彼女と話しているうちに、そのおしゃべりのある特徴が気になった。
 ひょっとして、すみませんをよく言いません?って聞いたら、そうなんです。口癖なんですと。
 ひょっとして、ひょっとして、自分に自信がありません?私も自分に自信がない頃、住みませんばっかり言っていたので。
 というと、そうなんです。私、自分に自信がないんです。

 あ~~、彼女も自分に自信のないすみません人間か。
 そういう私もしっかりすみません人間だったと感無量な気持ちになった。
 今は、ありがとう人間に成長したと思っている。
 義理母のおかげだ。
 子どもたちがまだ小さい頃、『〇〇子さんは、すみませんばっかりだね。すみませんはあまり使わない方がいいわよ。すみませんと言われると相手はあなたを下に見るわよ。』と言われて、ハッとした。 それまで、自分がことあるごとに、すみませんと言っていることに気づいていなかった。
 自分というものがないから、トラブルがあるとすみませんと言う口癖が身についてしまっていた。自分がないから、トラブルが起こった時、すみませんと言ってしまう。先手すみません作戦で、相手の攻撃をかわさんとしていたかもしれない。無意識に。
 しかし、義理母の言うように、何度もすみませんと言われていると、相手に見下すという差別意識の芽を発芽させてしまう危険性が出て来る。
  人間には、きっと、マイナスな感情からプラスの感情の全ての感情の種がオンギャーと産まれた時から ある のだと思う。
 元々、マイナスな感情が溢れやすい人と溢れにくい人の差というものはあるけれど、その芽が出るか出ないか、黒い花が咲くか白い花が咲くかは産まれ落ちた環境、大人になるまでの人間関係などによるのかもしれない。
 すみませんの連発は、白い花が咲いた人の心に埋まっているマイナスな感情の種を発芽させてしまう危険性を孕んでいる。
 マイナスな感情というのは、怒りや哀しみから派生した妬みとか嫉妬心とか苛め心とか。
 相手が『すみません』を連発してくると、不思議だけれど、自分の中から対等の文字が薄くなっていくのがわかる。いかん、いかんと自分の中に潜む、なんだろう?苛めたくなる気持ちかな?なんだか汚れそうなどす黒い気持ちを振り払おうとしてしまう。
 だから、すみませんは最初で最後の1度だけ。

 ところで、あらゆる人間関係の歪みは、そこに、『対等』がない時に発生すると思う。

 人間関係は、そこに『対等性』がない場合は、結んでも意味がないのかもしれない。無駄な労力。
 あ~~~、20代前半、愛がわからなくて、テレサテンをよく聴いていたなぁ~~。今、思えば、バカみたい。尽くす?ハッ?アホかって感じ。
 尽くすと相手の苛め心の芽を発芽させてしまうのに・・・・。

 今ならわかる。
 否、今だからわまる。

 結婚や子育ては、『対等な人間関係とはなんぞや』という問いに対する問題集であり、練習帳なのだと。
 そこに人間として尊重されるという対等な関係性がなければ、あるいは、対等性を追求する気持ちが欠落しているとすれば、そして、その可能性がゼロであるなら、その場から去ってもいいと思う。
 子どもだろうが、夫だろうが、同僚だろうが、なんだろうが、その関係性に置いて、すべて、人間としての尊厳がお互いに尊重されていない場合に、子育て(子どもの学校での問題)や結婚や職場の悩みという黄色信号として点滅してくれているんだろうと思う。
 プーチンがウクライナをあっという間に占領しそうだ。
 おそらく、プーチンは、ここまで来てしまうまでに、誰とも対等な関係を築けないまま生きてしまった人なのだろう。
 KGBという組織のことはわからない。でも、おそらく、すでにそこでは対等な人間同士の付き合いというものが希薄だったのではないだろうか。何しろスパイなのだから。そして、生い立ちも何か対等でないものがあったかもしれない。芽が小さい頃に対等な人間に出逢っていたら・・・と思う。
 ロシアの大臣たち10名ほどを集めて、ウクライナにいるロシア人を守るためにウクライナに進攻することの是非を大臣一人ひとりを登壇させて、問い詰めるシーンを見た。
 しどももどろな大臣に最後はイエスかノーかと問い詰めて苛立つプーチンと、怯えた感じの大臣という映像は、すべてを物語っていた。
 あの大臣は、ノーと言いたかっただろう。でも、命と引き換えにノーなんてそう簡単には言えない。
 あの映像は、この世で最も対等ではない映像の一つだろう。

 でも、ひょっとして、わが家でもどの家庭でも大なり小なり、対パートナー、対子どもとの人間関係でないとも言えない映像かもしれない。
 虐待は、まさしくこの構図と言える。

 たかがすみません。されど、すみません。
















 













 












 
 
 















 
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一瞬の“しゅん”

2022年02月20日 | エッセー
 アルツハイマーと診断されて3年。
 かろうじて、私の顔と名前が一致していることだけで、生きている母。
 月から土まで毎日デイケアが送迎付きでみてくれて、夜は妹が、そして、土日だけ、わたしがみている。
 ひとくくりで認知症というけれど、血管性認知症の義理母とアルツハイマーの母を見ていると、その違いを実感する。
 義理母は、全体的にぼ~っとしてきた。まともな話は難しい。
 しかし、母は、秒で忘れるけれど、秒の瞬間はしっかりしている。まともな話ができる。だからこそ、しんどそう。
 一瞬、、一瞬、自分のこれからの身を案じるの繰り返しで時間が経過していくから、ずっと、心配という感情に支配されている。義理母は、心配という感情がもはやない。
 それは、元々の性格が起因しているかもしれない。義理母は、どうにかなるさ、アハハっていうような性格だった。一方、母は、心配性で、だからか父は母に相談しないで物事を決めていたように見えた。
 心配性のそばにいる人は、自然とそうなると思う。
 心配したって、問題は解決しないし、相談したために心配ばかりしている人のそばにいるのもめんどくさくなる。あてにしなくなる。例え、解決策を見つけられなくても、どうにかなるよ。大丈夫って明るく問題と向き合ってくれる人といたい。
 何を言いたいか。
 心配症の人は、本人が知らないうちに、人依存症になっている可能性がある。
 母を見ていてそう思った。
 母は、心配性が故に父依存症になってしまって、父が亡くなった時、めちゃくちゃパニックになった。もしかして、その頃からアルツハイマーも進行していたのかもしれないけれど。
 そしたら、幸か不幸か、妹が父亡き後をひきついでしまった。本人たちは気が付かないけれど、利害関係が一致したのだ。
 仕事で忙しい近所に住む私より、仕事をしていないから母をしっかりフォローしてくれるめちゃくちゃ遠くに住む妹を選んだ。
 母が妹に面倒を見てもらうことを選んだ時に、私は母にくぎを刺した。自分の力で立ってみようとすることを諦めたのね・・・と。
 その時、母は、頷いた。

 その挙句の果てが、心配性からくる依存症によるアルツハイマー型秒人間の24時間心配しっぱなしという症状。
 秒で忘れるけれど、秒で自分のこの先の身を案じる心配ばかりする重度の心配性。
 おそらく、唯一、自分の身を案じる心配を忘れられるのは、ご飯やおやつを食べている時だけ。食べているときは、美味しい美味しいと連発している。
 快の感覚を感じるのは、食べている時だけで、残りの時間は、ずっと、自分の身を案じる心配ばかりしている。最近は、テレビも全く興味なさそうなので、ぐるぐるぐるぐる心配ばかりで一日が終わる。
 デイケアは、ありがたい。
 デイケアの間は、きっと、身を案じる心配から解き放たれているから。

 母を見ていて思う。
 まだ、若いパートナーのいる心配性の人へ
 パートナーが、あなたにもめごとを相談しないようになったら、要注意です。
 もし、いつか、そのパートナーがあなたの前からいなくなったら、あなたは一人で立っていられなくなる可能性があります。
 人生、心配の嵐です。
 心配の前でできることは、やるだけやって、あとは野となれ山となれ と神様にお任せするような気持になること。
 やるだけやったんだから、悔いはないという心境まで行くと、不思議とすがすがしい気持ちになれる。そんな自分が好きなる。

 やるだけやらないでいて、つまり、行動しないで、ただただ、心配心配って言っているだけでは、心配が膨らむだけ。
 おそらく、心配ばかりする人は、行動してもし失敗したらとか恥をかいたらという不安が強いので、動けないのだと思う。

 ただ、そうやって、ずっと、歳月が流れていくと、周りがあなたを人として当てにしなくなる。周りは、あなたを愛しているから心配しないように配慮するのではなく、めんどくさいからスルーするために一人で勝手にやってしまうようになる。

 その根底には、自分もまんざらじゃないじゃんっていうような感覚、自分が好きっていうような感覚が弱いのかもしれない。

 どうにかして、自分が好きって気持ちを育んで行ってほしい。

 私が中学生の頃、まぁ、いい子だった私が少し文句を言っただけで、しゅんとなった。その一瞬の“しゅん”で私は二度と母に文句を言えなくなったという記憶がある。母の一瞬のしゅんで、罪悪感みたいな感覚が生まれた。
 息子たちが、『ロウガイ』とか『うぜぇ』とか『別に・・』とバンバン言ってくれて、ありがたい。
 私は、息子たちにとって、言いたいことを言えている母であり、息子に依存していない母である。ただし、長男は、言えてなかったから、申し訳ない。したになればなるほど、ロウガイの嵐だ。いいぞ。
 コーチングでは、もし、思春期の子どもたちが荒れ狂って文句を言ってきたら、同じエネルギーで返そうと助言するという。
 エネルギーってどうも大事そう。
 しゅんとなってはいけない。
 相手が気を使って言いたいことを言うことを諦める。
 そうすると、気を使って相談もできなくなる。
 そうすると、自分が人間として成長するチャンスを失っていく。
 父のように、家のことを何でも一人でやってしまうので、母のようにいつの間にか一人では家のこと(家事ではない。社会で生きていくこと)ができなくなって70歳を迎えて、父を失い、慌てふためく。でも、心配から隔離されて生きてきたので、心配の免疫もついていないから、一人で生きていくという大きな心配を前に、心配の嵐が吹き荒れ、妹に依存した。
 そして、今、秒で心配の嵐の中を生きている。














 


 























 






 
 














 






















 





























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ジョコビッチ選手とワリエラ選手の差って?

2022年02月19日 | エッセー
 ワリエワ選手の薬物ドーピング問題が世間を賑わしている。
 思うに、彼女は薬なんか使わなくても十分に金を取れたのではないか。薬を使うのと使わない演技のその差ってどれ位だったのだろう。
 ただ、持久力というか体力の差はあったかもしれない。
 だって、男子ですら、終わった後にしゃがみ込む人もいるくらいだし、最後の方が足に来たっていう選手もいる。
 羽生くんが、シニアからジュニアに上がった頃、演技時間が数分伸びたために最後は力尽きて氷上に突っ伏した映像が蘇る。
 薬を飲まなくても4回転を跳べる技術があるのなら、どうにかなったような気がするけれど、4回転ジャンプも何回も跳ぶ体力はなかったのかな・・・。
 でも、トルソワ選手もシェルバコワ選手も4回転をバンバン跳んでいたから、そうでもないのか。彼女らは大丈夫なのだろうか。
 ところで、ジョコビッチ選手は、自分のカラダに入れるものは自分で決めたいと言って、大きな大会よりもワクチン接種をしないという選択をされた。
 ワリエラ選手と正反対。
 34歳というジョコビッチが、34歳という年齢で世界で№1を保持し続ける理由の一つに、自分のカラダに入れるものに気を配ることを最大限、そして最優先しているということはありそうだ。
 トラベルミンも15歳未満は子ども用を飲む。
 15歳が、肝臓腎臓の成長点なのだと思う。15歳までは、まだまだ、肝臓腎臓という解毒機能を司る臓器は未熟で、成長途上の臓器。
 フィギュアスケートのオリンピック出場年齢を17歳にしようという声が上がり始めているという。それでも、そうなったらそうなったで、金模索のゆえに選手がジョコビッチ選手と正反対の道を歩まざるをえないパワーに屈服する可能性は消えないとは思う。
 
 でも、よいことだ。

 ジョコビッチ選手の選手としての生き方は、かなりストイックで凡人にはとてもまねできない生き方だと思う。というか、そもそもワリエラ選手の日々の努力も相当ストイックで、それだけでも、凄い生き方のはず。自分の恵まれたカラダを最大限に使いきっている。限界に挑戦している。
 もう、それだけでも称賛に値する生き方だ。
 いえいえ、オリンピックに出るような選手は、みな、自分のカラダとココロの限界に、日々、休むことなく挑んでいる。
 限界突破の連続な日々。
 ぼ~っとしている私なんかとはえらい違いで、あっぱれ。

 自分のカラダに入れるものは自分で決めるということができるようになるのは、やはり、女子が肌の老化を感じ始めるころからだろうか。20歳過ぎたらおばさんとギャルたちは言う。え~~って、驚いた。20代はすでにおばさん?

















         

















 
 







 







 










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娘よ、母に ぎ を言いなさい。

2022年02月11日 | エッセー
 先週の突然ですが占ってもいいですかを観た。
 27歳の女性が、ここ3年彼がいない。結婚できるでしょうか?という相談だった。
 占い師と話す中で、今は、店長として充実した仕事をしている。自分は小学校1年生の頃から、親が仕事で忙しくて、自分が弟たちを保育園に迎えに行って、洗濯などの家事もしていた。中学校の頃は夫婦喧嘩ばかりしているような環境で育った。母親から愛されて育っていない・・・と、母親に対してネガティブな気持ちを吐露されていた。
 今でいうヤングケアラーか。
 観ている視聴者は、そりゃ、つらいだろう、よく頑張ってきたと母親に対して勝手に糾弾していたはず。
 しかし、その占い師、目からうろこ的な言葉を彼女に投げかけたではないか。
 今、店長としてやりがいを感じる立場に入れるのは、そういった小さい頃に弟たちを世話したり家事をしてきたという実績が功をなしているのではないですか?
 と。
 ハッとする相談者。
 エッと驚く私。
 そっちかよ。

 そっちなんだ。
 そうなんだ。

 人は、どうしてもネガティブな気持ちを針小棒大化しやすい。しょうがない。人類始まって以来、生き残るために編み出した不安・恐怖への対処が、つまり、オカミの餌食にならないことが人間にとって一番の優先順位事項なのだから。

 でも、すごいなって感心した。
 その占い師の一言が彼女の心に刺さった。そして、一瞬にして、彼女の母親に対するわだかまりが解けたかのように見えた。
 その占い師、彼女に、小さい頃の辛かった気持ちを母親に伝えたことがある?って。
 ない・・と。
 じゃぁ、今すぐ、伝えなさい。そして、今のあなたがあることに感謝の気持ちを伝えなさい。今、電話しなさい。

 そして、彼女は母親に電話した。最後に感謝の気持ちも伝えていた。

 それを聞いた母親の反応は、『へぇ~~~。つらかったの?知らんかった。あんた、何も言わないから。わからへんかった。そう。』とあっさり。そして、ガハハハッ!!!って笑うではないか。

 え、大丈夫?

 って、見ている私の方が心配したけれど、なんだか、彼女、すっきりしていた。

 この時に確信した。
 彼女は、ずっと、一度も、母親にその時の辛かった気持ちを言えなかった。言いたくても甘えられなかったのか、母親の性格が言わせなかったのか。とにかく、言えなかった。言う勇気を持てなかった。
 今どきは、中2病って言われてる。
 親に向かって『うざい』『べつに・・・』
 彼女は中2病に感染しているのに、症状を抑えてしまっていた。
 親から受けた心の傷は、親に吐露することで癒される。

 仕事で、最近、しみじみ思うことがある。
 精神科既往のある新米ママたちが増えている。そして、そんなママたちの多くが、実母に甘えたかったのに甘えられず、今さら甘えられない気持ちを孕んでいる。
 そして、まさしく、実母に一番聞きたかったことを、あるいは、訴えたかったことを、つまり、文句を言って甘えたかったことを言えていない。

 そこで立ち止まっているママもいる。
 そんなママは子育てどころではない。自分の中の甘えたい気持ちを抱えたままで、子の甘えたい気持ちを受け入れる余力がないまま、子の甘えたい気持ちを受け入れることは相当しんどいことだろうと思う。

 今さら、母親に言えない。言う勇気がない。
 言う勇気があれば、言っていた。中2のときに・・・。

 方言で、ぎ を言うという言葉がある。
 ぎ とは、文句のこと。

 思春期に 親にぎを言い 乗り越える

 育てやすい子ほど、さっきの母親のように、気づけない。気がつかない。
 『だって、何にも言わなかったからわからへんかった。ガハハハッ!』
 小1の娘に弟たちの保育園の迎えをさせることにすまない気持ちがないような母親だから、言われないと気づけない。
 ヤングケアラーの問題は、そこにあるような気がする。
 ヤングケアラーが問題なのではなく、ヤングケアラーをさせていることにすまない気持ちを母親がもっているか。娘の辛い気持ちを聞けているか。聞いて、でも、わが家はこうするしか生きていけないから、一緒に力を合わせて頑張ってほしいと言えて、日々、感謝の言葉が添えられているか。
 
 私は、就職して、私と同世代の農家の長女だった何人かが、小学2年生から、自分が夕食を作らないと夕食を食べれないというようなことを言って驚いたことがあった。え~~~、小学2年生から、365日夕食を作っていたの?1970年代、農家ってそうだった・・・らしいということを、その時、初めて知って愕然とした。だって、母親も農業の担い手だったから。
 ヤングケアラーもいいところだ。
 ある時、その中の一人が、人参を千切りにしている姿を見た。そして、その包丁さばきを見て、さすがだと感動した記憶がある。彼女は、斜めに人参をスライスして倒していき、倒れた人参をしっかり左手で固定してずれないようにしながら、刻んでいった。なるほど、そうすると早業だわ~~っといたく感激した。さすが、小さい頃から家事をやってきた人は違うって納得した。
 時代というものがある。
 あの時代の農家の長女は、みなそんな感じだった。
 みんながそうだとやっていける。

 占いの27歳の女性は、景気のいい時代に生まれているので、そういう人は少なかったと思う。
 でも、今は、日本経済も世界から落ち込んでいて、シングルマザーも増えてきて、コロナもあって、ヤングケアラーと呼ばれる子どもたちが増えている。
 みな、生きていかなくてはならない。
 大事なことは、母親に力を合わせて生きていこうと言ってもらって、ありがとうねという言葉を添えてもらえるか否か。そして、しんどいよ~~~って、しっかり、中2病に感染し、しっかり発病し、つまり、文句を言って治癒できるか。

 母子手帳をもらいに来られたお母さんの中に、実母に甘えられないというような方が時々いらっしゃる。
 こんな方たちに、産後、実家に里帰りしたときこそ、実母に小さい頃言えなかった文句を言って甘えるチャンスだと伝えたい。
 実母が変る変わらないということではなく、ちゃんと伝えられるかどうかが重要なのだ。 
 今までは、そんなママたちのお話を聞いて、どうにかして実母に気づいてほしいと思っていた。でも、突然ですが占ってもいいですかの27歳の女性を見て、そうじゃないんだ。思いを実母に伝えられるかどうかが全てなのだということを確信した。

 今まで言えなかったことを言えないできたママにかぎって、相当勇気のいることなので、難易度は高い。
 でも、その伝える勇気を後押ししてあげたい。
 












 





 





 
 


































 








































 






 







 
 










 

 













 












 













 















 



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一日一善VS一日一閃

2022年02月05日 | エッセー
 真っ白な生まれたての心ってどんな心なんだろう?
 オンギャーと生まれて、不完全な親の元で生き残るためにゲットした生き方の癖で生きてきた。真っ白がわからない。わからないから、つまり、目指す方向がわからないから、洗いようもない。今、すでに、自分の心は黄色だったり、黄ばんでいたり、どす黒かったり、枯れ葉色だったり・・・。でも、真っ白い心ってどんな心かが皆目見当がつかないから、今が、枯れ葉色なのかどうかを認識することができない。枯れ葉色が自分色だとしか思えない。
 イヤな感情って振り払っても振り払っても消えてくれない代物だ。楽しいことや嬉しいこと、感動する気持ちって、一瞬でイヤな気持ちにかき消されてしまう。
 逆に、イヤな気持ちって、いい気持ちで一瞬にかき消されない。
 そして、イヤな気持ちって、持続する。
 いい気持ちって持続しない。刹那的だ。
 なぜだろう?
 ほんのちょっと嫌なことがあると、自分の心の全部が嫌な気分に支配されてしまう。
 イヤな気持ちって、人類が始まって以来、飢えと闘ってきた過酷な地球環境で子孫を生き残らせるための、最重要感情なんだそう。だから、仕方ない。不安な気持ちとか警戒する気持ちがなければ、ライオンに…狼に…食われてしまう。
 ハッピーな気分でのんびりゆったりしていたら、ライオンにぺろりってされてしまう。
 いい気持ちだけでは、心を漂白できないのかなぁ。
 心が洗われた・・・というような表現をする。
 毎日、洗濯しても真っ白いTシャツは黄ばんでは来るけれど、せめて、毎日、心を洗わんと意識することが必要なのかもしれない。
 自分にとって、どんな時に心が洗われるというような初々しく清々しい気持ちになれるかをまず、知る。
 そして、毎日、そんな時間をあえて作らんとする。
 毎日、1回は美しいものに触れる。洗濯も大体1日に1回するもんね。そんな感じ。
 美しいもの・・・。

 尊敬できる人のそばにいる。
 生き方がカッコイイなって思える人の後ろ姿をみる。
 言葉に触れる。
 音楽に触れる。

 触れる・・。

 触れる・・・・か。

 北京オリンピックが始まった。
 羽生結弦くんが、楽しみだ。
 彼も美しいもの・・・だ。
 演技もそうだけれど、彼の真剣勝負な言葉に心が洗われる。
 怠惰を見せない彼の姿は、大丈夫かな?壊れないかな?って心配になる。でも、金をとるような人って、異次元にいるのかもしれないから、きっと大丈夫なんだろう。
 真剣勝負な姿って、心を洗ってくれる。
 そうか・・・。瞬間瞬間を自分から逃げないで真剣に生きているって感じる姿は心を本当に洗ってくれる。
 自分から逃げない・・・・か。
 自分から逃げない・・・の自分って何だろう?

 真剣勝負をしている時って、その時の一瞬に集中している。その一瞬の時に『あ~、あの時、あ~しておけばよかった』というような過去に対する後悔の気持ちとか『こうなったらどうしよう。』というような未来に対する不安な気持ちとか『こんな自分ではダメだ。』などと言うような自分を責める気持ちなどが ない。ただ、全力で全霊。その時、できる自分の力を最大限発揮せんとしているだけ・・・だ。
 そうだ。
 その時できる自分の力を最大限生かす。
 おそらく、できない自分を責めてしまって罪悪感に駆られて眠れなくなる人は、その時できる自分の力ではなく、理想の自分とその時できる自分の力の差を痛感して、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 その時できる自分の力を精いっぱいだすだけでいいだけなのに、世間一般と比べてしまう。
 よく言われるように、たんぽぽは薔薇にはなれないし、なる必要もない。たんぽぽはたんぽぽ。薔薇は薔薇。
 でも、自分をたんぽぽと認めたくない。薔薇でありたい。それもよくわかるなぁ。
 ただ、真剣勝負に生きているときは、たんぽぽの力を精いっぱい出せるはず。だから、薔薇で生きようとするときは、真剣勝負していないってことになる。不安とか自分を責めたりとか後悔しているときは、今という時を生きていないってことになる。
 だって、しょうがないじゃん。
 真っ白いTシャツは、毎日洗わないと黄ばんでしまう。
 過去の後悔とか未来への不安とか他人との比較という泥んこがいっぱいな人ほど、洗濯ブラザースの手を借りてでもいいので洗う技術を身に着け、自分の心を毎日洗濯をするがごとく洗濯する。だって、ず~っと心の洗濯をしてこなかったんだから。かなり泥んこTシャツになっているはず。
 じゃぶじゃぶじゃぶ。

 心を洗う。
 今、思いついた。
 毎日、美しいものに触れるのも大切。
 でも、一瞬に生きることへのチャレンジも美しいものに触れる絶好のチャンスかも。
 何か、出来事があった時、まず、最初にパッと思いついたことを即実行するという練習を一日に1回するっていうのはどうだろう?
 私的には、寄付の回覧が回ってきて、例えば、本当に大変な被害に見舞われて『わ~~~、皆さん、不眠不休で復興に向けて頑張っていらっしゃるのだろうなぁ。しんどいだろうなぁ。』と心から大変だろうと思って、本当は1万円くらい寄付したいなって、一瞬、よぎる。でも、すぐに、いやいや生活が大変なのに1万円なんて無理。で、集金袋を見ると100円玉とか500円玉とか10円玉しか入ってない。みんなそんなもんかと思い直し、結局、1000円どころか500円玉しか入れない。
 最初の一瞬は、1万円だったのに。なんてちっぽけな自分・・・と残念な自分を認識してしまう。勝手に自己評価が下がる。
 おそらく、そんなことの繰り返しで、自分が嫌いになる。Tシャツは汚れていく。真っ白に洗うために、一日1回、パット最初に閃いた案を決行する癖って、
 一日一善(いちにちいちぜん)ならぬ、一日一閃(いちにちいちせん)
 
 一日一善もいいことで否定はしない。
 ただ、どうしても道徳的なニオイがしないでもない。偽善っぽい。
 それに、自分を責めてしまうというような人ほど、したくなくても一日一善をしてしまいそう。一日一善は使用法を誤ると、自分に嘘をついてしまいがち。結果、真っ白のTシャツは汚れていく。
 一日一閃は、一日1回パッと閃いたいいことを引っ込めずに、即行動してみようということで、そこに自分への嘘はない。自分を裏切っていない。おそらく、自分が好きになる。

 自分を責めてしまいがちな人って、おそらく、こうあるべきだというような頭で考えた理想像とそれができない現実の自分のギャップに苛まされて、自分を責めてしまうんじゃないだろうか。『だって、しょうがないじゃん。できないものはできないんだから。仕方ないじゃん。できることしかできない。できる範囲で精いっぱいするしかない。』と割り切れない。

 そんな人ほど、最初にパッと閃いた思いをすぐにかき消しそうだけれど、そこをかき消さず、一日1回やってみることを365日続けてみたら、自分を責める気持ちが減っていかないだろうか。
 何十年も蓄積した思考の癖だ。もはや生活習慣病。
 カラダの生活習慣病の改善も、ず~っと長~く死ぬまで継続できるようなことを一つチャレンジしてみませんかと提案している。続かないと意味がないから。体重とか腹囲を減らすときは、特にそう。急激な無理な頑張る金かかる偏ったダイエットは、死ぬまで継続できない。
 何ごとも、じわ~~~っとが、いい。

 だから、一日一閃。

































 






















 
















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