図書館で、千原ジュニアさんの『14歳』という本を借りてきて、一気に読んだ。
なんとなく、不登校で、吉本の養成所にいたお兄さんが吉本に引っ張ってくれて、兄弟で組んだ・・・ような話は知っていた。最近は、プレバトで才能を開花させている姿を見て、芸人さんって多彩だな、すごいなっては思っていた。
それくらい。
でも、『14歳』を一気に読んで、彼への見方がガラリと変わった。
私は、正義を振りかざして物言うような人たちは苛められているように感じてしまって苦手だ。でも、このジュニアさんの自伝物語は、正義という言葉がお似合いの物語だとあっぱれ。
14歳までの彼は、それを本物の正義だなんて微塵も認識していなかっただろうけれど、彼は当たり前のように、正義を貫いて生きていた。
いっしょにめちゃくちゃ楽しく遊んでいる仲間たちが、誰かにやられるたびに、反撃しただけの話なのに、睨まれた。
頭がよくて、地域で優秀な子の行く中学校に入学したとたん、そうではない中学校に行った同級生に勝手に僻まれて、彼の仲間たちは脅されて彼から去っていった。ごめんねって言いながら。
仲間だと信じて疑わなかった人間たちが、仲間たちがやられたら、先頭を切ってやり返してきたのに、その仲間たちが去っていったという現実を叩きつけられて、身動きができなくなった。
優秀な中学校の人間たちも卑怯だった。
先生も。
そして、彼は、自分の部屋からほとんど出なくなった。
近くのコンビニにはパジャマで。
母親も父親も、怒りはしないが、ビクビク、ビクビク。だって、家中の壁に穴が・・・。そして、彼の未来への不安丸出しの母の表情のだめだし。
だから、なおさら、彼は自室へ閉じこもる。パジャマのままで。
夜中、テレビの砂嵐に湧き出てくる虫たちとの妄想世界が、彼の癒しであったよう。精神を病むギリギリのところにいたのかなぁ。
でも、彼には救い主がいた。
これが、めちゃくちゃラッキーだった。
それは、おばあちゃんの存在。
一切、否定語のないおばあちゃんが、大好きだった。怒られる僕の気持ちが理解できるおばあちゃん。
そんなおばあちゃんが兼六園のある金沢への1泊旅行を提案してくれた。やんちゃだけど優秀だった・・・のに、今じゃ、ひきこもって家中の壁に穴を開けまくっている孫との旅。にもかかわらず、否定語一切なしの楽しそうに話すおばあちゃん。
僕は、今日、久しぶりに人と話をしたような気がした。
ジュニアさんの言う『人』って、偏見も何もなく、人として自分を理解してくれる人のことなんだろうなって思った。
旅の最後に、『何にも変わっていないのにね。』って。
僕は、その時、意識せず呼吸をしたような気がした。
そんなおばあちゃんとの旅の途中で、おばあちゃんが『どうして学校に行かないの?』って聞いてきた。
僕はあの部屋に入ってから、何回もこの質問をされたけれど、こんなに何の感情も抱かずに質問の答えだけを探すことができたのは初めてだった。
『自分でもよく解らない。』
おばあちゃんは笑顔のまま小さくうなづいた。
その時に、目の前で小鳥たちがレールの上を歩いていた。
『鳥だってたまには歩きたいもんね。』っておばあちゃん。
ジュニアさん、涙が溢れてきたそう。
でも、帰宅したら、母のため息。
僕は(おばあちゃんとの旅で貯めた)気持ちの中の余裕を使い切って、ギリギリのラインで台所をでた。
世の中の卑怯の洗礼を浴びて、動けなくなったジュニアさん。
母親の将来を案じる不安からくるため息で、壁に穴。
まっさらに気持ちをわかってくれるおばあちゃんで息を吹き返し。
でも、やっぱり、母親は暗い顔で、壁に穴。
卑怯な世間は相変わらず。
そこに、お兄ちゃんが人を笑わせるという喜びの世界へ連れて行ってくれた。
という自伝が、『14歳』だった。
『14歳』に乾杯!
ところで、ジュニアさんが壁に穴を開けるときって、たいがい母親がらみだった。母親が哀しそうな顔をしたり、不安げだったり、今後の進路の話をしようとしたり、精神科の薬(精神安定剤?)の粉を白いご飯に混ぜ込んでいたり。
子どもが学校に行かなくなって、そりゃあ、親は心配する。一番の心配は子どもの未来だ。それが、顔に、言葉に出る。子どもの今の心情はわかる。でも、すぐに未来の心配が襲ってくる。結果、子どもは自分の気持ちを理解してもらえたという安心感を手にいれることができない。最大の安全基地であるはずの母親が不安そうだと、なぜ、僕の気持ちをわかってくれないんだという腹立たしい気持ちが湧いてくる。イライラ、イライラ。そして、壁に穴があく。
ジュニアさんは大好きなおばあちゃんと兼六園に出かけた時、完璧な安心感に包まれた。完璧な安心感の中では、邪念が邪魔しない。まっさらな自分の感情と向き合えた。
そのまっさらな心理状態のときに、大好きなおばあちゃんが『なんにも変わってないのにね。』と言ってくれ、次に『どうして学校に行かないの?』って質問した時、初めて、行かない自分と向き合えた。まっさらになれたからこそ、向き合えた。
向き合った答えは『わからない』だった。
わからないでもいい。まっさらで自分と向き合えたことで、ジュニアさんは変れた。
そして、レールを歩いている小鳥たちを二人でぼ~~~っと眺めて『小鳥もたまには歩きたいもんね。』というおばあちゃんの言葉。
ジュニアさんの心の奥底から『僕も飛ぶぞ~~~!』って気持ちが溢れ出てきた。
傾聴。
今まで、傾聴のレッスンはそれなりにやってきたつもりだった。話を聴くって簡単なようで、オリンピックに出るくらい難しい。
相手の気持ちをわかろうとする。そのために、自分の邪念を取っ払う。
いやはや、たったこの二つのことが、できない。
ジュニアおばあちゃん、あっぱれ!
私は、『14歳』を読んで、傾聴する側が心底心をまっさらにすることがめちゃくちゃ大事であるということを学んだ。
傾聴する側が、まっさらでないと、いくら形だけ、ふんふん、そうなの・・・と頷いて聞いていても、話す側は、聴く側の邪念をしっかり感じ取って、それが邪魔をして、本当の自分と向き合えない。
聞く側の邪念こそ、傾聴を妨げる最大の敵だ。
ふんふんと否定せずに話を聴いてもらえるだけでも、すっきりはする。でも、それだけではダメなのだ。カウンセラーは、自分の邪念の脳内処理をできる人でないと名乗れないのではと痛感した。
心を入れ替えた。
母親は、子どものことを心配するってもんだ。どうにか、まっとうに生きていってほしいって願う。でも、まっとうの意味が違うんだろう。まっとうとは、そこそこのレールの上のこと。今、あるレールの上を。そこそこでいい。踏み外したらお先真っ暗だって、つい、思っちゃう。
でも、子どもが学校に行けなくなったら、子どもは限界なんだから、当面、ジュニアおばあちゃんになると覚悟する。おそらく、母の本気度が高いほど、子どもは邪念のない傾聴エキスパートに変身した母親の存在により、早い段階で自分と向き合えて、早い段階で前に進めるだろう。
ところで、ジュニアさんは、ほぼひきこもった自分の部屋で、夜中、ザーッと砂嵐テレビから湧き出てくる虫たちとの妄想でどうにかギリギリ生きていた。普通だったら、精神科に入院とかなって、強い薬を飲まされていたかもしれない。自分の気持ちときちんと向き合わせてもらえなかったせいで。おばあちゃんは、知ってか知らずしてか、ジュニアさんをカウンセリングして救った。
カウンセリングを学びたい方は、ぜひ、『14歳』を。