最初に、パッと思いついたことをする人間になりたい。あるいは、さっと手の出せる人間になりたい。
20代の頃、打算まみれな自分がめっちゃ嫌だった。自分という人間性の理想と現実のギャップにがっくりしまくりだった。
あれから、30年。
少しは、そのギャップが埋まっただろうか。
自信はない。
でも、その思いはさびついてはいない。
だって、お題が山ほど天から降ってきたから。
今、この本を読み終わって、すべてが繋がった。
人生の最終章に入ろうとしている今、この本に出逢えた奇跡に感謝している。図書館で、誰かが借りて返した本の一時保管棚にあったこの緑色の本に目が留まって、何気に借りたこの一冊の本が、ひょっとしてひょとしたら、私の人生を明るく照らす本になりそうな予感。
まず、形から入る・・・。
夫に対して、まず、行動の生活習慣化をはかることで、私の心に慈悲のココロが芽生えてくれるのではないかという淡い期待から、深呼吸して、優しい言葉をかけんと決意した、まさに、その時に、この本と出逢えた。
チガウノダ。
偽善は、相手の心にお見通し。
行動を変えても、慈悲の上に立った行動でなければ、相手には伝わらない。人は、それを、偽善と呼ぶ。
この作者は、アメリカ人。
慈悲という言葉は知らない。
彼は、それを、箱の外にいる という言葉でわかりやすく表現してくれた。
人は、箱の中にいる時、人を物として見ているという。そして、人は箱の中にいる限り、いくら、カウンセリングとかコミュニケーションスキルなどを学んでも、光の方向には導かれない。暗闇に導かれる。相手を何とかしようと思って磨くスキルであるかぎり、効果は期待できない・・・と。
しかし、箱の外から、人を見るときは人間として見ている。だから、箱の外にいて、カウンセリングとかさまざまなスキルを学ぶとき、ダイヤモンドのように光り輝く。
自分が、今、箱の中にいるか、外にいるか。
簡単にわかる方法があるという。
『人は、非難したり批判しているとき、誰かを責めているときは、必ず、箱の中にいる』 のだそう。
ということは、自分は正しいと思っている限り、箱の中にいる。あるいは、相手は間違っていると思っている限りは、箱の中。
もしかしたら、自分にも非があるかも・・・という謙虚な気持ちになっているときは、小さい箱から脱出するチャンスだ。
自分は正しいという判断を下すプロセスには、必ず、思考を使って頭の中で計算している。自分が今まで培ってきた世間の目や常識と呼ばれる規範や親から伝授した価値観に加えて、嫉妬心とか確執とかそれをしない言い訳など諸々を足したり引いたりかけたり割ったりした結果の正しいだ。
もう、全然、純白でない。どす黒いったらありゃしない。
どす黒い正しさを晴れ渡った青空のように正しいと言い切れる人ほど、箱の中の奥深くに凄んでいるかもしれない。
それにしても、人を批判している時って、相手を人間として見ていない、物としか見ていないという表現は、衝撃的だった。
相手を変えようと思っている時も、人間として見ていないとも書いてあった。
箱の中にいるときは、みな、自分のことしか考えていないとも書いてあったぞ。
私、ヤバいかも。
結構、箱の中人間。
イヤなことをされた時、どうしてこの人はこんないじわるを言うのだろう?どうして?どうして?とずっと、そのことばかり考えていた。
でも、今なら、少し、わかる。
その前に、私が、その人のことを人間として見ていなかったかもしれない。尊敬できないけれど、人間として尊重もしていなかった・・・かも。
そう。私って、そういうところがあるかもって、今、気づいた。尊敬できないって感じたら、物として見てしまう傾向がある?
尊敬できる人を尊重し、尊敬できない人は尊重しないようなところがあるかも。
私は、誰かを尊敬できるときって、とても幸せな気持ちになる。自分で自分を尊敬できないからかな?
そういう空気感って、きっと、伝わるのだ。
私を苛めにかかる人にも、人間としての歴史や生活や感情がある。一人の人間として生きている。尊敬できないから尊重しないという私の気配は、それすらも、否定しているような空気感を醸し出していたかもしれない。だから、私は彼女の格好の餌食になった?
彼女が苛める前に、彼女を人間として尊重していない雰囲気を、彼女の無意識の心はマイナスな空気感(好感度の反対)としてうっすらとキャッチし、なんとなくイヤな奴だと認識し、彼女の八つ当たりの餌食に選ばれたのかもしれない。もちろん、苛めるなんて彼女は微塵も思っていない。自分に罪悪感を持たないですむよう、私は正しいという白黒はっきりしたスタンスで責めてくるスキルを身に着けて生きてきたから。
彼女が苛める前に、彼女を人間として尊重していない雰囲気を、彼女の無意識の心はマイナスな空気感(好感度の反対)としてうっすらとキャッチし、なんとなくイヤな奴だと認識し、彼女の八つ当たりの餌食に選ばれたのかもしれない。もちろん、苛めるなんて彼女は微塵も思っていない。自分に罪悪感を持たないですむよう、私は正しいという白黒はっきりしたスタンスで責めてくるスキルを身に着けて生きてきたから。
とにかく、私は、つるんでトイレに行くとか陰口を言う女子グループのそばにいるのは嫌だった。そういう女子たちを心の中で軽蔑していたと思う。軽蔑と批判は同じグループだ。心の奥にある軽蔑する心は、きっと、雰囲気として伝わっていたのだと思う。
人を尊重するって、難易度高い。
きっと、わたしは、LGBTとか人種とか学歴とかそういう分類で差別することはそんなにないような気がする。でも、その人のいないところで陰口を言う人とかエリート意識のニオウ人は尊敬できない。愚痴をこぼすのはいい。人間だもの。人の陰口ばっかり言う人は、おそらく、人として差別してしまうかもしれない。
残念な私だ。
ただ、私は、今、箱の中にいる?箱の外にいる?という問いかけはできる。
日々、自分に問いかけ続ける癖を身に着けるだけでも、尊敬はできなくても、人を人として尊重せんと自分に働きかけることは不可能ではない。
この本は、箱の外で活動していくと、箱の中にいる人たちも、人間として尊重されているという空気の中で、時々箱の外に出れるようになってくるらしい。
そうすると、人は初めて光り輝き出す・・・らしい。
実は、箱の外にパッと出れるてっとり早いというか唯一のすご技があるとこの本は言う。