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~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

最強のこころの運動不足解消マシン『子ども』

2021年04月29日 | エッセー
考えたことなかった。

『こころの運動不足』なんて・・・・。

 体の運動不足は、子育て中、自分のことにかまう暇が全くなくて、確かに、運動不足だった。
 というか、運動不足という言葉で、じゃぁ、どうすれば、運動不足を解消できるかと問われたら、答えられる。体を動かせばいい。方法は、人それぞれ。その人に合った運動をチョイス。
 しかし、心の運動不足を解消しましょうと言われても、何をしたらいいんだろう?って感じだ。よくわからない。だいたい、天からいっぱい試練が降ってきて、心の運動を強制的に強いられているような気がしないでもない。

  もしかして、
 試練ってやつは、ほんとうの自分の気持ちに辿り着けるよう、自分らしさを
取り戻すための起爆剤なのかもしれない。
 瞬間瞬間に感じる気持ちに蓋をしてしまって生きている人に、神さまが、蓋をこじ開けるために用意した起爆剤。
 私は、癌になっても、そこんところが変っていなかったかな?
 そう。めっちゃ、こころの運動不足状態だった。こころが硬かったし、持久力もなかった。
 仕事のミスをしても、そのミスに関しては立ち直りが早い。死ぬこと以外は大丈夫って自分に言い聞かせられる。
 でも、そのミスに関しての他者のマイナスな言葉を耳にしたとたん、夜、悶々としてしまって、眠れない。引きずってしまう。
 他人のマイナスな評価にこころが揺れ動く自分が、残念だ。精いっぱいやっているのに、そこを評価されていないんだなと落ち込むという他者評価に左右される自分の残念さ。
 そうか。
 誰だって、精いっぱいやっていることをプラス評価してほしい。そこを評価してもらっている、認めてもらっているという大前提があっての、マイナスな指摘には傷つかない。むしろ、愛を感じる。
 しかし、認めてもらっていないなって感じている時の、マイナス評価は刺さる。
 認めてもらっているという大前提のないマイナス評価は、こころのエネルギーが一瞬で底をつく。こころが運動できない。元々、運動不足なところに交通事故に遭って足を骨折してしまう・・・みたいな。
 日頃から、こころが運動して、柔軟性と持久力を保っていれば、少々の他者のマイナス評価という交通事故に遭っても回避できるのかもしれないと、今、思った。
 こころの運動とは、瞬間瞬間に感じているはずの、気持ちをしっかり感じて言葉にして、味わい尽くすことだそう。

 うつになる人は、私より、もっともっとこころが運動不足なんだそう。
おそらく、本人は他人に認めてほしい気持ちが強いという明確な意識はないと思う。だって、小さい頃からずっとそうだったから。だからこそ、頑張りすぎて・・・。元々、頑張りすぎていて、こころが全然運動していないから、自分のこころに鞭打って無理しているのにそれに気づけないため、さらに、頑張ってしまって、エネルギーが尽きたと同時に、うつ症状に襲われるのだろうか。
 認めてもらえ続けているうちは、自分が認めてほしくて頑張っているなんて夢にも思っていないかもしれない。自分がやりたいからやるって思い込んでいるかもしれない。でも、休むことなく頑張っていれば、いつか、エネルギーが尽きる。
 親は、幼子を意図的に誉めすぎてはいけないのかも・・・。
 親に、頑張ったら褒めてもらえて、アドレナリンが分泌されるという生活習慣病は、一種の洗脳によりもたらされる病だ。頑張っても頑張らなくても、振り返ったら、親が微笑んでいてくれるというような環境で育つと、おそらく、こころは運動不足になんかならないだろう。もっと言えば、イヤイヤ期のイヤイヤや反抗期の『べつに・・・』『うざい』『くそあばぁ』ですら、あ~この子は素敵に発達している、こころがしっかり運動していると喜べるような親のいるような環境だと、こころの運動はより強化され、誰かに認めてもらいたいというような承認欲求に翻弄されない人生を豊かに歩んでいけるかもしれない。

 今、そう思える。
 でも、私自身、子を産み育てるまで、ちっともこころが運動していなかった。
 子育ての悩みを抱えることで、こころが少し作動し始め、お陰様で、こころが運動するという恩恵を受けることができた。
 それでも、30年にわたるこころの運動不足の後遺症は大きい。
 子育て期間、ずっと、リハビリだ。
 60歳前になっても、まだまだ、リハビリ真っただ中。
 そう考えると、子どもってやつは、こころの運動不足解消マシンじゃん。
 育てにくい子ほど、こころの運動不足解消マシンとしては高級なのかもしれない。
 ありがたや~~。
 4人産んだけれど、下に行けば行くほど、このマシン負荷の度合いが増している。
 お~~、そういうことか。
 神さまは、こころの運動不足歴30年という重症な私に、30年計画で、徐々にマシンのレベルを上げて、リハビリさせてくださったのだ。
 感謝。

 こどもマシン
 私は、なぜか、怪獣を飼っていた。夫のことだけどね。
 飼いだしたのは、この10年で、それ以前は、怪獣をなだめるのに精いっぱいだったといえる。
 母親が、犬でもなく猫でもなく、怪獣をなだめながら飼っているという不思議なおうちに生まれてきた子どもたちは、脅威にさらされながら、どうにかギリギリ生き抜いてきた。
 
 今、やっと、私の無意識に取り繕う発言に対して、鋭く突いてきて論破しまくる四男により、こころの運動不足のリハビリが総仕上げの段階にきているなと感じる。

 時は来た。

 この怪獣としっかり向き合うという時期に来ている。

 なだめるでもなく、飼うでもなく、人間として、きちんと向き合う。

 おそらく、元々の発達障害っぽい気質に、父親の男らしくあれ、優秀であれという願望からくる虐待と、放任っぽいわがままタイプの母親、そして、面前DVもあった家庭で育つという環境が加わり、結果、自分の気持ちなんてまっとうに取り扱ってもらえなかったことによる二次障害として、怪獣になってしまったのが夫だと思う。
 わけのわからない憂さがメガトン級に溜まってしまっていて、そんじょそこらのストレス発散法では対処できない。幼いころから、ほんとうの自分の気持ちに蓋をし続けた結果、メガトン級の憂さが脳内に圧縮されて物質として存在し、なおかつ、脳が憂さの漬物状態になっているような気がする。彼は、アルコールのほろ酔い気分で憂さを晴らすことで、どうにか生き延びている。アルコール依存ってやつだ。
 私は、この憂さってやつがピーンと来ない。
 憂さをはらしても、根本的な問題解決にはならないのになぁって、夫を見ていて不思議だった。
 ココロは、運動不足どころか、アロンアルファーで強固に固められて、脳はまるで寝たきり状態のよう。外界からくるすべてのトラブルというマイナス要素を跳ね返すだけに始終する。
 そりゃそうだよね。脳が動けないんだから。よけることができないなら、跳ね返すしかない。脳が寝たきりなんだから、自分を変えることができない。おそらく、99.9%。寝たきりの人が、起き上がって、立ち上がって、どうにか歩けるようになるって、至難の業である。本人のものすごい努力と絶対に歩けるようになりたいという強い願いと温かくもプロ意識の高いPTの先生の伴走が必須だ。絶対に歩いて元のようになりたいという願いを持てる人は、元の自分が輝いていた人だったり、必要とされていると実感できるような人なんじゃないだろうか。
 しかし、夫のように、幼いころから、星飛雄馬の父親みたいな家庭で育ってしまって、元が出来上がらないうちに、脳が寝たきりになってしまったら、元のようになりたいのその元がイメージできない。なので、こどもというココロの運動不足解消マシンどころではない。むしろ、寝たきりで身動きできない脳にとっては、子どもというちっとも思いどおりにならない存在は、苦痛でしかないかもしれない。
 そもそも道理が通らないのだから、威嚇するしかない。
 夫は、威嚇して自分の寝たきり状態の脳を守って生きてきた。
 脳が動けないと些細な問題ですら、大ごとに感じてしまい、対処できないから、威嚇射撃で脳を守る。
 威嚇射撃で寝たきり脳を守ってどうにか生きている怪獣。
 威嚇射撃しても、日々、生きていれば、問題はいたるところで発生する。そのちょっとしたトラブルに対して、自動的に過大評価されたストレスが、憂さの発生源となってしまう。日々の憂さは、アルコールとかギャンブルとか買い物とか薬物などにより、どうにか日々の収支決算を合わせられるのかもしれない。しかし、脳は、寝たきり状態のままだ。
 旧態依然。
 ネットの誹謗中傷なんて、おそらく、アルコールと同じだと思う。何のつながりもない人のことを匿名で批判することで、日々の憂さ解消している脳が寝たきり状態っぽくなっている人たちなんじゃないだろうか。クレーマーとかも。
 おそらく、いじめも。
 いじめとは、憂さを晴らす行為である。
 憂さの発生源は、きっとおそらく家庭にあるはず。
 いじめる子どもたちには、まだ、未来がある。まだまだ脳が発達する余地がある。いじめは、もちろん、苛められた子への対処も必須だけれど、いじめっ子の脳が将来、寝たきり状態にならないよう、その憂さの発生源へのアプローチも、必要だと思う。親が無意識にこどもを憂さ晴らしの対象としているような親はハードルが高い。わが子がいじめているという事実を知らされて、落ち込んでいるような親に対してのアプローチは可能だと思う。
 
 時代は、虐待に対して進化している。
 児童相談所はその対応に追われ、ほんとうに大変そうだ。
 親と子を引き離すのが精いっぱい。
 おそらく、虐待をしてしまう親って、夫みたいに、憂さの漬物状態な脳になってしまっているんじゃないだろうか。
 福岡のママ友の洗脳により母親が食料を与えず、飢餓で亡くなってしまった男の子の事例に対して、今後、検討していくという。
 行政は、何度も何度も訪問していた。行政ができる範囲のことはしっかりやっていたと思う。
 仕事を通して、福祉に関わってくるような方たちを見ていて、なんとなく見えてきた世界がある。

 なんとなく、そう思う。
 ひっくるめて依存症になってしまう人って、おそらく、おそらく、夫のような気質と家庭環境と育つ過程できちんと向き合って気持ちを汲んでくれるようなソンザイの不在の三つが重なった時に、メガトン級の圧縮された憂さにより本人の人格すら乗っ取ってしまい、憂さを晴らすだけの人生に陥ってしまうのではないか。
 例えば、片頭痛持ちの人は、常時、痛み止めを手放せないのと同じように、メガトン級の憂さを抱えた人は、常時、お酒を手放せない、麻薬を手放せない、ギャンブルを手放せない、わが子への虐待を手放せない、スマホゲームを手放せない、万引きを手放せない、のぞきを手放せない。リストカットや摂食障害なども手放せない。
 常時、手放せなくなったら、本物の依存症。
 仕事がどうにかできている人は、依存症一歩手前。

 憂さは、ストレスとは違うと思う。
 ストレスって言ったら、職場の人間関係とか仕事の失敗とか思い当たる原因
がある。その原因がなくなったら解消される。でも、憂さというものは、職場の人間関係などのストレスが誘因になって、憂さのマグマを刺激してしまい、憂さ晴らしせずにはいられなくなるような気がする。というか、もはや収拾のつかなくなったメガトン級の圧縮された憂さの塊が、常に爆発したがっていて、なんでもいいから、爆発するきっかけを探していると言った方がいいいかもしれない。
 言いがかりをつけるとかクレーマーとかもきっとそう。
 
 ココロの病を抱えた方に対して傾聴は、ほんとうにココロを温かく包んでくれる。ただし、思い込みのないまっさらな心で、相手のことをただただわかりたいというようなスタンスで臨む傾聴のできる人は、ほとんどいないけれど。

 しかし、依存症の場合、傾聴だけでは追い付かない。














































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ごめんね。ぷーちゃん。

2021年04月11日 | エッセー
 もともと飼い猫で、いろいろあって、今は、ときどき飼い猫(つまり、時々野良猫)だったプーちゃんが、死んじゃった。
 弔うことができて、それはよかった。
 でも、なんだか、胸が締め付けられる。
 ぷーちゃんの人生(猫生?)が不憫でたまらない。
 

 ぷーちゃんが死んでわかったこと。
それは、縁のあった命に対して、日々、ないがしろに接してはいけない。できる範囲で、誠意を尽くす。
 
 不憫でたまらないし、胸が締め付けらるのは、誠意が足りなかったという無念さのなせる業からきている。
 私の中に存在する良心は、私と関わった命を失った時、その命との関係性の中で、誠意を尽くしていなかった場合、刺さるんだということが、ぷーちゃんの死によってはっきりとわかった。
 いやな奴だなと思うような人でも・・・だ。きっと・・・。
 心の中で、『いなくなればいいのに、この人」っていう人がいる。でも、そう思っている人が、突然、死んじゃったりすると、おそらく、良心が傷む。

 誠意を尽くす・・・とは、なんぞや?

 
 猫が好きというわけでも嫌いというわけでもなかった。ただ、放し飼い的飼い方だと、ダニが気になる。かと言って、おうちの中だけで飼うのもなんだか猫にとってはどうなんだろうという思いもあって、上3人が飼いたいと言ったときは、ゴーサインを出さなかった。
 でも、四男が飼いたいと訴えた時は、折れた。四男のために三男が招きいれて飼い始めた猫が、ぷーちゃんだった。ものすごく不細工・・・ではない普通のトラネコ。でも、飼ってみると、案外、愛おしくって。お布団に入ってきたら、癒された。
 しかし、四男の心はプーちゃんになびかなかったよう。ぷーちゃんを飼い始めて、その次の春に、めっちゃ太っちょの猫が我が家にやってきた。なにがしかの血統にゆかりのありそうな美人な顔立ちと太っちょのぷよぷよ気持ちよさが、四男の心を魅了した。
 すでに、ぷーちゃんがいるのに、飼いたいと訴える。
 四男の心のエネルギーを少しでも満たしてくれれば・・・。仕方ない、2匹までは妥協しようと、マツコと命名して飼うことにした。
 しかし、飼い始めて2週間もしないうちに、このマツコ、5匹の子猫を産み落としたのだ。その経緯は依然書いた。
 いろいろすったもんだがあって、5匹のうちの1匹を家で飼うことに。
 結局、ネコとは縁のない人生だと思っていたのに、絶対飼わないと決めていたのに、3匹も飼う羽目になってしまった。
 しかし、秋、私の顔に異変が・・・。
 風邪を引いた。
 熱は出ないのに寝込んだ。熱も出せないほど免疫が老いてしまったのかと残念さに浸っている間もなく、突然、唇が腫れ、唇と口の周りが、ささくれだった。目の周りが切傷っぽくなり腫れた。
 治らない。
 
 もしかして、猫アレルギー?

 3匹も飼っていたら、アレルゲンてんこ盛り。おまけにマツコの毛は長い。めっちゃ太っちょに見えるけど、洗うとかなりやせる。聞くところによると、猫の唾液がアレルゲンだそう。猫の毛づくろいの時間の占める割合からすると、長い毛のマツコの抜け毛には相当量のマツコの唾液がくっついていることになる。
 この3匹、マツコ親子対ぷーちゃんの熾烈な戦いが毎日繰り広げられ、でかいマツコがボス的存在になっていて、ぷーちゃんは、びくびくしながら生きていた。
 なので、せめて、夜くらいは、私の部屋で安眠させてあげたかった。だから、いっしょに寝ていた。

 しかし、ささくれた顔で仕事には行けない。
 治らないし。

 仕方ない。ぷーちゃんを私の部屋から出入り禁止にせざるを得なくなった。
 ここから、ぷーちゃんの悲劇が始まった。

 トイレがうまくいかなくなった。
 なぜだか、ときたま、四男の部屋でおしっこをしてしまうという事件がおきるようになった。このおしっこがまた、臭い。
 この事件から、四男も部屋から追い出すようになった。時には外に・・。
 そんなこんなで、ぷーちゃんは飼い猫から野良猫的存在になってしまった。
 マツコ親子にものすごく気を使いながら、餌を食べにくる。玄関の外に餌を置いても、それはそれで他の野良猫にびくびくしながら餌を食べる。その姿を見ると、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 でも、治らない私の口周囲のささくれだったアレルギーと不憫なぷーちゃんを天秤にかける私は、アレルゲン因子を減らすという選択をした。
 だって、皮膚科で3年経っても、一向に改善すらしないんだもの。悪化したらステロイドを塗るという対処療法から、どうにか脱却したかった。
 ただ、去年の夏から、漢方しか出さないというちょっと変わりもの系お爺ちゃん先生のところに通院し始めて、ステロイドなしでもささくれなくなった。そして、11月くらいからの乾燥による皮膚トラブルの上乗せ悪化現象も起きなくなった。なので、ぷーちゃんが寝室の押し入れで寝ていても、以前のように追い出すなんてことはしなくてすむようになってはいた。
 その矢先に・・・。
 道路わきで、死んでいた。
 でも、あの交通事故で肉片が飛び散るようなオゾマシイ光景ではなかった。全身、ピーンとつっぱって硬直していた。ただ、頸部に出血の跡があった。
おそらく、猫同士の闘いに負けてしまったのだろう。急所を咬まれた・・・か。
 死んだとわかった瞬間、胸がキューンと痛んだ。
 ごめんね。
 ぷーちゃんがわが家の猫第一号なのに、息子はマツコに首ったけで、おまけにマツコの方が体格がよいせいか強くて、隅に追いやられ、挙句の果ては、ほとんど野良猫状態にさせてしまっっていた。
 おまけにおまけに、私の治癒しない猫アレルギーによる口周りのけば立ちお化け顔をなんとかしたい一心で、暴露量を減らしたい私は、夜、安住の地を求めて私の部屋にやってくるぷーちゃんを追い出すという残酷なことをしてしまう日もあった。
 最近は、治癒に近い状態になったので、そんなことはしなかったけれど・・・。

 でも、ないがしろにした過去は消えない。
 亡くなって初めてわかったことは、過去のないがしろ行為すらも、私の心がキューンと痛むということ。

 良心の呵責。

 人間、その時をベターに生きるために、天秤にかけて選択しながら、生きている。
 自分が倒れない程度に、自分の心がしんどくないように、そして、自分の良心に反しないように、その時、できる範囲でできることを精いっぱいやっていけばいいとは思っている。
 でも、どうだろう?
 わたしは、ぷーちゃんに対して、精いっぱいな気持ちで接していただろうか・・・。
 3匹に猫が増えて、アレルギーの元の暴露量におびえていた私は・・・。
 
  マツコになわばりを奪われ、野良猫っぽい立ち位置になってしまったということだけで、不憫だ。
 なのに、私は、唯一安住の地である私の寝室からぷーちゃんを追い出した。
この記憶が、ぷーちゃんの突然の死により、胸をキューンとさせる。今でも・・・。

 今、母も義理母も認知症レースまっただなか。
 目の前に備えてある食べ物をすべて一度に食べてしまうし、食べたことすら忘れるというレベルだ。
 二人とも施設入所も秒読み態勢だ。
 義理母を月曜日から金曜日まで、夕方から朝まで、看ている。
 果たして、私は、ほっとするような笑顔で接しているだろうか?

 答えは、ノン。

 実の母には、1週間分のいりおからを作って、週一持って行って、買い物に連れていっている。毎日、朝晩、定期便のように電話しようと思いつつ、まだ、日課になっていない。

 ぷーちゃんの死を無駄にしないためにも、義理母にもう少し優しい笑顔をプレゼントしよう。実母には、毎日朝晩必ず電話定期便をしよう。

 と、今、ここに宣言する。

 
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