考えたことなかった。
『こころの運動不足』なんて・・・・。
体の運動不足は、子育て中、自分のことにかまう暇が全くなくて、確かに、運動不足だった。
というか、運動不足という言葉で、じゃぁ、どうすれば、運動不足を解消できるかと問われたら、答えられる。体を動かせばいい。方法は、人それぞれ。その人に合った運動をチョイス。
しかし、心の運動不足を解消しましょうと言われても、何をしたらいいんだろう?って感じだ。よくわからない。だいたい、天からいっぱい試練が降ってきて、心の運動を強制的に強いられているような気がしないでもない。
もしかして、
試練ってやつは、ほんとうの自分の気持ちに辿り着けるよう、自分らしさを
取り戻すための起爆剤なのかもしれない。
瞬間瞬間に感じる気持ちに蓋をしてしまって生きている人に、神さまが、蓋をこじ開けるために用意した起爆剤。
私は、癌になっても、そこんところが変っていなかったかな?
そう。めっちゃ、こころの運動不足状態だった。こころが硬かったし、持久力もなかった。
仕事のミスをしても、そのミスに関しては立ち直りが早い。死ぬこと以外は大丈夫って自分に言い聞かせられる。
でも、そのミスに関しての他者のマイナスな言葉を耳にしたとたん、夜、悶々としてしまって、眠れない。引きずってしまう。
他人のマイナスな評価にこころが揺れ動く自分が、残念だ。精いっぱいやっているのに、そこを評価されていないんだなと落ち込むという他者評価に左右される自分の残念さ。
そうか。
誰だって、精いっぱいやっていることをプラス評価してほしい。そこを評価してもらっている、認めてもらっているという大前提があっての、マイナスな指摘には傷つかない。むしろ、愛を感じる。
しかし、認めてもらっていないなって感じている時の、マイナス評価は刺さる。
認めてもらっているという大前提のないマイナス評価は、こころのエネルギーが一瞬で底をつく。こころが運動できない。元々、運動不足なところに交通事故に遭って足を骨折してしまう・・・みたいな。
日頃から、こころが運動して、柔軟性と持久力を保っていれば、少々の他者のマイナス評価という交通事故に遭っても回避できるのかもしれないと、今、思った。
こころの運動とは、瞬間瞬間に感じているはずの、気持ちをしっかり感じて言葉にして、味わい尽くすことだそう。
うつになる人は、私より、もっともっとこころが運動不足なんだそう。
おそらく、本人は他人に認めてほしい気持ちが強いという明確な意識はないと思う。だって、小さい頃からずっとそうだったから。だからこそ、頑張りすぎて・・・。元々、頑張りすぎていて、こころが全然運動していないから、自分のこころに鞭打って無理しているのにそれに気づけないため、さらに、頑張ってしまって、エネルギーが尽きたと同時に、うつ症状に襲われるのだろうか。
認めてもらえ続けているうちは、自分が認めてほしくて頑張っているなんて夢にも思っていないかもしれない。自分がやりたいからやるって思い込んでいるかもしれない。でも、休むことなく頑張っていれば、いつか、エネルギーが尽きる。
親は、幼子を意図的に誉めすぎてはいけないのかも・・・。
親に、頑張ったら褒めてもらえて、アドレナリンが分泌されるという生活習慣病は、一種の洗脳によりもたらされる病だ。頑張っても頑張らなくても、振り返ったら、親が微笑んでいてくれるというような環境で育つと、おそらく、こころは運動不足になんかならないだろう。もっと言えば、イヤイヤ期のイヤイヤや反抗期の『べつに・・・』『うざい』『くそあばぁ』ですら、あ~この子は素敵に発達している、こころがしっかり運動していると喜べるような親のいるような環境だと、こころの運動はより強化され、誰かに認めてもらいたいというような承認欲求に翻弄されない人生を豊かに歩んでいけるかもしれない。
今、そう思える。
でも、私自身、子を産み育てるまで、ちっともこころが運動していなかった。
子育ての悩みを抱えることで、こころが少し作動し始め、お陰様で、こころが運動するという恩恵を受けることができた。
それでも、30年にわたるこころの運動不足の後遺症は大きい。
子育て期間、ずっと、リハビリだ。
60歳前になっても、まだまだ、リハビリ真っただ中。
そう考えると、子どもってやつは、こころの運動不足解消マシンじゃん。
育てにくい子ほど、こころの運動不足解消マシンとしては高級なのかもしれない。
ありがたや~~。
4人産んだけれど、下に行けば行くほど、このマシン負荷の度合いが増している。
お~~、そういうことか。
神さまは、こころの運動不足歴30年という重症な私に、30年計画で、徐々にマシンのレベルを上げて、リハビリさせてくださったのだ。
感謝。
こどもマシン
私は、なぜか、怪獣を飼っていた。夫のことだけどね。
飼いだしたのは、この10年で、それ以前は、怪獣をなだめるのに精いっぱいだったといえる。
母親が、犬でもなく猫でもなく、怪獣をなだめながら飼っているという不思議なおうちに生まれてきた子どもたちは、脅威にさらされながら、どうにかギリギリ生き抜いてきた。
今、やっと、私の無意識に取り繕う発言に対して、鋭く突いてきて論破しまくる四男により、こころの運動不足のリハビリが総仕上げの段階にきているなと感じる。
時は来た。
この怪獣としっかり向き合うという時期に来ている。
なだめるでもなく、飼うでもなく、人間として、きちんと向き合う。
おそらく、元々の発達障害っぽい気質に、父親の男らしくあれ、優秀であれという願望からくる虐待と、放任っぽいわがままタイプの母親、そして、面前DVもあった家庭で育つという環境が加わり、結果、自分の気持ちなんてまっとうに取り扱ってもらえなかったことによる二次障害として、怪獣になってしまったのが夫だと思う。
わけのわからない憂さがメガトン級に溜まってしまっていて、そんじょそこらのストレス発散法では対処できない。幼いころから、ほんとうの自分の気持ちに蓋をし続けた結果、メガトン級の憂さが脳内に圧縮されて物質として存在し、なおかつ、脳が憂さの漬物状態になっているような気がする。彼は、アルコールのほろ酔い気分で憂さを晴らすことで、どうにか生き延びている。アルコール依存ってやつだ。
私は、この憂さってやつがピーンと来ない。
憂さをはらしても、根本的な問題解決にはならないのになぁって、夫を見ていて不思議だった。
ココロは、運動不足どころか、アロンアルファーで強固に固められて、脳はまるで寝たきり状態のよう。外界からくるすべてのトラブルというマイナス要素を跳ね返すだけに始終する。
そりゃそうだよね。脳が動けないんだから。よけることができないなら、跳ね返すしかない。脳が寝たきりなんだから、自分を変えることができない。おそらく、99.9%。寝たきりの人が、起き上がって、立ち上がって、どうにか歩けるようになるって、至難の業である。本人のものすごい努力と絶対に歩けるようになりたいという強い願いと温かくもプロ意識の高いPTの先生の伴走が必須だ。絶対に歩いて元のようになりたいという願いを持てる人は、元の自分が輝いていた人だったり、必要とされていると実感できるような人なんじゃないだろうか。
しかし、夫のように、幼いころから、星飛雄馬の父親みたいな家庭で育ってしまって、元が出来上がらないうちに、脳が寝たきりになってしまったら、元のようになりたいのその元がイメージできない。なので、こどもというココロの運動不足解消マシンどころではない。むしろ、寝たきりで身動きできない脳にとっては、子どもというちっとも思いどおりにならない存在は、苦痛でしかないかもしれない。
そもそも道理が通らないのだから、威嚇するしかない。
夫は、威嚇して自分の寝たきり状態の脳を守って生きてきた。
脳が動けないと些細な問題ですら、大ごとに感じてしまい、対処できないから、威嚇射撃で脳を守る。
威嚇射撃で寝たきり脳を守ってどうにか生きている怪獣。
威嚇射撃しても、日々、生きていれば、問題はいたるところで発生する。そのちょっとしたトラブルに対して、自動的に過大評価されたストレスが、憂さの発生源となってしまう。日々の憂さは、アルコールとかギャンブルとか買い物とか薬物などにより、どうにか日々の収支決算を合わせられるのかもしれない。しかし、脳は、寝たきり状態のままだ。
旧態依然。
ネットの誹謗中傷なんて、おそらく、アルコールと同じだと思う。何のつながりもない人のことを匿名で批判することで、日々の憂さ解消している脳が寝たきり状態っぽくなっている人たちなんじゃないだろうか。クレーマーとかも。
おそらく、いじめも。
いじめとは、憂さを晴らす行為である。
憂さの発生源は、きっとおそらく家庭にあるはず。
いじめる子どもたちには、まだ、未来がある。まだまだ脳が発達する余地がある。いじめは、もちろん、苛められた子への対処も必須だけれど、いじめっ子の脳が将来、寝たきり状態にならないよう、その憂さの発生源へのアプローチも、必要だと思う。親が無意識にこどもを憂さ晴らしの対象としているような親はハードルが高い。わが子がいじめているという事実を知らされて、落ち込んでいるような親に対してのアプローチは可能だと思う。
時代は、虐待に対して進化している。
児童相談所はその対応に追われ、ほんとうに大変そうだ。
親と子を引き離すのが精いっぱい。
おそらく、虐待をしてしまう親って、夫みたいに、憂さの漬物状態な脳になってしまっているんじゃないだろうか。
福岡のママ友の洗脳により母親が食料を与えず、飢餓で亡くなってしまった男の子の事例に対して、今後、検討していくという。
行政は、何度も何度も訪問していた。行政ができる範囲のことはしっかりやっていたと思う。
仕事を通して、福祉に関わってくるような方たちを見ていて、なんとなく見えてきた世界がある。
なんとなく、そう思う。
ひっくるめて依存症になってしまう人って、おそらく、おそらく、夫のような気質と家庭環境と育つ過程できちんと向き合って気持ちを汲んでくれるようなソンザイの不在の三つが重なった時に、メガトン級の圧縮された憂さにより本人の人格すら乗っ取ってしまい、憂さを晴らすだけの人生に陥ってしまうのではないか。
例えば、片頭痛持ちの人は、常時、痛み止めを手放せないのと同じように、メガトン級の憂さを抱えた人は、常時、お酒を手放せない、麻薬を手放せない、ギャンブルを手放せない、わが子への虐待を手放せない、スマホゲームを手放せない、万引きを手放せない、のぞきを手放せない。リストカットや摂食障害なども手放せない。
常時、手放せなくなったら、本物の依存症。
仕事がどうにかできている人は、依存症一歩手前。
憂さは、ストレスとは違うと思う。
ストレスって言ったら、職場の人間関係とか仕事の失敗とか思い当たる原因
がある。その原因がなくなったら解消される。でも、憂さというものは、職場の人間関係などのストレスが誘因になって、憂さのマグマを刺激してしまい、憂さ晴らしせずにはいられなくなるような気がする。というか、もはや収拾のつかなくなったメガトン級の圧縮された憂さの塊が、常に爆発したがっていて、なんでもいいから、爆発するきっかけを探していると言った方がいいいかもしれない。
言いがかりをつけるとかクレーマーとかもきっとそう。
ココロの病を抱えた方に対して傾聴は、ほんとうにココロを温かく包んでくれる。ただし、思い込みのないまっさらな心で、相手のことをただただわかりたいというようなスタンスで臨む傾聴のできる人は、ほとんどいないけれど。
しかし、依存症の場合、傾聴だけでは追い付かない。