総合漢方にんぷ薬・総合漢方育児薬

~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

真っ白なTシャツと真っ白な心と。

2022年01月23日 | エッセー
 心は洗うもの・・・。
 だとすると、今しがたの心は❛自分❜ではないかもしれないってことになる。
 自分の心は自分じゃん、過去の喜怒哀楽の積み重ねの上にたった自分じゃん。
 あっちぶつかりこっちぶつかりしながら、嬉しい・悲しい・腹が立つ・イライラする・ほっこりする・ビクビクする・ドキドキする・・・などなど、心の名前という形容詞で、人は表現しているじゃん。
 確かに・・。
 ただ、形容詞で自分の気持ちを察知した後の思考により、本当に自分から近づいたり離れたりしていく。形容詞でキャッチした形容詞の中でネガティブな心につながる心は洗わないと本当の自分から離れていく。
 本当の自分って、たぶん、良心 みたいなものじゃないかと思う。
 良心を見失った心は、本当の自分ではないはず。
 苛める子は、苛めるとき、嬉しいと感じている。もし、そこに、微塵たりとも良心の欠片があったなら、嬉しいに罪悪感が伴うはず。罪悪感を微塵も感じないように、苛めても嬉しいと感じるための思考(心)を生い立ちの中で手に入れたと思う。
 自分は正しく、相手は間違っている。だから、成敗してもいい。
 みたいな。
 水戸黄門の印籠のように、正義を振りかざす。
 幼い頃より、心を洗うよりも、心が傷つく相対量が多すぎて、心が生き延びるために、苛めて快感を得る思考が出来上がってしまった。
 幼い子にとって心を洗うって、親の優しいまなざし・・だろうか。

 子どもの前での夫婦喧嘩、いわゆる面前DVは、親に暴力を振るわれる虐待よりももはるかに強く子どもの脳にダメージを与えるということがわかってきた。
 夫婦喧嘩か・・・・。
 世の中に、夫婦喧嘩しない夫婦って、一体どれくらいいるだろう?冷戦状態だって喧嘩は喧嘩だ。
 柴門ふみさんの、『結婚の嘘』という本には、随分勇気づけられた。ほぼ、みんな夫に対して幻滅しながら夫婦を続けているんだなっていうことが伝わってきたから。柴門さんは、夫との関係を福祉的な言葉で例えていた。なんだったかなぁ~。
 夫婦喧嘩は犬も食わないなんて言葉もあるけれど、明るい夫婦喧嘩だったらいいのかなぁ。ギャーギャー言っても、最後はお互い納得できるゴールにたどり着けるような夫婦喧嘩だったらいいのかなぁ。どちらかが我慢することで治まるような夫婦喧嘩だと空気が爽やかではない。そんなすっきりしない空気は子どもたちの脳に何らかのダメージを与えるのだろう。
 罵り合うような夫婦喧嘩とか凍てつくような夫婦喧嘩が、きっと、子どもの脳には原子爆弾クラスのダメージを与えるのかもしれない。
 何か困りごとがあったら、家族会議を開いて、言いたいことをみんなが言って、解決に向けて協議するというような理想の家族になりたかったなぁ。

 ということで、私たち人間は、大方、すでにネガティブな感情を持ってしまった自分の心を自分だと認識して生きているんじゃないだろうか。そのネガティブな感情という心は洗わないと、本当の自分ってわからない。
 なのに、自分って自分がよくわかっているという過ちを犯して生きている。
 自分の中にネガティブな感情が湧き出てきたら、あ、これは、心を洗いなさいという黄色信号だと客観的に認識できさえしたら、ネガティブな感情という濁流に押し流されなくてすむのになぁ。そうできたら、生きるのが楽だろうなぁ。振り払っても振り払っても、された仕打ちに心がダメージを受けてしんどい。
 真っ白いTシャツは汚れたら、洗濯機で洗う。
 でも、ただ普通に洗濯機で洗っていたら、だんだん真っ白でなくなって黄ばんでくる。いろいろ工夫すれば、その白さを維持できる洗濯の方法があるということは知っているけれど、あまり強い洗剤は使いたくないなとかめんどくささいなって感じで、白いTシャツは1年物とあきらめている。
 野球部に息子のいる友人たちは、嘆いている。なぜ、白なのか・・・と。せめて、練習着は黒にしてほしいと。どろんこ汚れが半端ない。共働きで家事育児に多忙極めた一日の最後の仕事に、洗濯板と泥んこウエアーに全身全霊で格闘するというめちゃくちゃハードなお仕事が待っている。
 何もダメージがなくても、普通に洗濯機で洗濯しているのに、真っ白なTシャツは黄ばんでいく。
 心もオンギャーと産まれた時は、真っ白な心だった。
 それが、普通の夫婦という洗濯機でも、なんだか黄ばんでくるのだろうか。で、面前DVな夫婦という洗濯機だともはや泥が流水に混じりながら洗ってしまうというような感じになっていくのかもしれない。
 とにもかくにも、生まれたての真っ白な心が、本当の自分の心だという認識から、自分を見つめないと・・・。今、現在の黄ばんだ心を本当の自分だと勘違いしちゃいけない。
 野球部の泥んこ練習という環境。それを、日々せっせと洗濯板でごしごし洗ってくれる人が不在であったという環境。それが、合わさって歳月が流れると、真っ白な心に洗濯することはかなり厳しい。
 でも、不可能ではなさそうだ。
 世界中からオファーが来るという洗濯ブラザースさんの本を読んだ。
 心の洗濯ブラザースさんも存在するはず。

 自浄作用って言葉がある。
 心が病んでしまうくらいのTシャツを自力で白くなんてできそうにない。だって、苛めても罪悪感を感じないんだから、泥んこに汚れたTシャツを着ているって気づかない。むしろ、自分は正しい、相手は間違っていると思い込んでいるから、鏡を見ても自分のTシャツは白く見える。あるいは、自分を追い詰めて生きることがしんどくて溺れかかっている人も洗濯どころではない。
 良心を冷凍してしまって罪悪感を感知しないようにした苛めるのが気持ちいい人。
 良心が罪悪感に飲み込まれた生きるのがしんどい人。

 そうなる前に、自浄作用。
 心を洗う。
 
 良心とか愛溢れた人達と一緒にいるとき、中村哲さんのような本を読んだ時など、心が洗われたっていう表現をしたりする。

 何気に使ってきた、『心が洗われました』という言葉にドッキリ。

 もっと、意識的に、心は洗うもんなんだと今、気づいた。
 生まれたての真っ白な心が、本当の自分の心であって、今の心はいろんな色のペンキで塗り固めらた心。

 真っ白なTシャツこそ、本当の自分の心
というイメージ化に成功した瞬間が、今。
 今の心に『良心』というフィルターをかけると、真っ白な心がきっと見えてくるはず。

 自分の心具合を白かったTシャツに見立てる力を養おう。
自分の喜怒哀楽という感情から派生した妬み・寂しい・萎える・不安・焦り・心配・恨み・イライラとかの感情が白を汚していく。物事に対してその瞬間感じる喜怒哀楽の感情は心を毎日洗っていれば黄ばまない。
 でも、その感情を洗わないで放っておくと黄ばんでくる。
 瞬間瞬間に感じた気持ちを意識して『良心』というフィルターにかける。

 人の悪口や陰口の多い人は、心を洗っていないかもしれない。
 もちろん、苛める人も。白黒思考って言われている。白か黒かをはっきりしたがる人。
 エリート意識もそう。上下思考?
 〇〇ねばならないとか〇〇すべき・・とか。やっぱり自分が正しいって思っているから、そういう思考になってしまう。

 ふと、ネガティブな感情、全てに『良心』というフィルターをかけていいものかという疑問が湧いてきた。
 鬱的な気持ちになって、エネルギーがなくなっているような人は、逆に、『良心』というフィルターにかけすぎて、しんどくなっているような気がする。良心のフィルターにかけて、それができない自分を責めて、責めすぎて、罪悪感に苛まされて、疲労困憊してしまう。
  真っ白い心が、不安で押しつぶれそうな色に染まった時、その心を洗ってくれるのは、一体なんだろう?
 洗濯ブラザーズは、酸性洗剤とアルカリ性洗剤を駆使して、他にも素材や汚れによっていろいろ工夫して真っ白にしていく。
 









  




 
 





























 











 














































 しかし、正義の名のもとに誰かを苛めて罪悪感を感じないような人たちは、自分は正しいと思い込んでいるからやっかいだ。自分は正しいのだから洗う必要性を感じない。良心が埋没している。少しでも罪悪感を感じているような人には、良心の欠片が心に刺さっている。































 













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それにしても、心って洗うものだったんですね。

2022年01月22日 | エッセー
 顔は石鹸を使って流水で洗う。
 今井さんは、心も顔と同じように洗うものだとおっしゃった。
 そうしないと、川の上流の清流から下流の濁った水のように、心も汚れてしまうと。
 じゃぁ、心は何で洗うの?
 ってなる。

 心は、『ありがとうと言ってもらうように創意工夫する』で洗う。
 石鹸は、油汚れもどろんこ汚れも落としてくれる。そして、水で洗い流す。
 相手のネガティブな気持ちという心(妬み・嫉妬・いじわる・批判・不安・怒り・悲しみ・自己否定など)も、『相手がありがとうと言えるような試み』をする行為が、自分の心を洗う石鹸となるという。

 なかなかできるものではない。
 私のことが気に入らなくて、すごく嫌味を言ってきた嫌な奴が、ありがとうと素直に言ってくれるようになるように試みるなんて、仏様の領域だ。せいぜい、『そのセリフ、ブーメランのようにあなたに戻ってきて刺さりますよ。かわいそうな人ね。』って思うのが関の山だ。

 でも、私の周りにいるいい人たちに、ありがとうって言ってもらえるよう、日々、心を配らんとすることはできそう。
 私の中に蠢く、清らかでない心を洗うために、まずは、隣人から。
 私の職場の隣人たち、みな、いい人たちなんだけれど、意外と『ありがとう』って言わないような気がする。謝らないような気もする。
 私、わりと、ありがとうって言っているような気がするんだけれど、なぜ、言わないのかなぁって、うっすら、疑問に思っていた。
 よし、まずは、隣人から。

 不幸は、感謝でお宝に変えていく。

 この言葉を壁に貼って生きてきた。
 この隣に、

 心を『ありがとうと言ってもらう石鹸』で洗う 
 を貼ろう。

 それにしても、心って、洗うものだったんですね。

 あるがままに

 なんて、やっていたら、苛められた時にしんどいもんね。ネガティブな気持ちに翻弄されて、24時間どこか苦しくて、眠れなかったり、胃がおかしくなったり。苛める人ってかわいそうな人ねって、頭ではわかっていても心はずたずた。粋がっているだけ。
 本当にかわいそうな人なんだけれど、本当に本当に慈悲の心でかわいそうなんて思えない。慈悲の心まで行ったら、私のココロとカラダを傷めつけたりはしない。
 いじわるな心のナイフに刺されたくないのに、現実は、刺さってばかりだった。
 






















































































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言わぬなら言わせてみよう『ありがとう』

2022年01月15日 | エッセー
 年末に図書館から借りた本で、各務訓子さんの本が、刺さった。
 『神との対話』の優しい女性版って感じ。
 もう一つ、美容関係の会社社長の今野華都子さんという方の本も刺さった。
『顔を洗うこと 心を洗うこと』という本に、こんなお話があった。ある会社の店長さんが、パートのおばちゃんたちの接客がイマイチなので、『もっと、笑顔で接客してください。』とか『もっと、ありがとうございますという言葉を添えてください。』と助言するけれど、お手本もして見せるけれど、ちっとも改善しないという悩みを今井さんに相談されたそう。
 さぁ、今井さん、なんと助言されたでしょう
 店長さんに、あなたは、そのパートのおばちゃんの名前を呼んでいますか?山田さん、おはようございますとか、佐藤さんお願いしますとか・・・。

 人として、尊重されてこそ。

 そして、『ヤマダさん今日も来ていただいて本当に助かりました。また、明日もよろしくお願いします。』と毎日、声かけをして、ヤマダさんやサトウさんから『店長、今日も逢えてうれしいよ。』と言われるまで、やり続けなさい。あなたから見れば、年齢的に人生の先輩でしょう。『こんなことまで教えていただいてありがとうございます。』って。
 そうすると、何も言わないでも、自然とみんなが自分の力を発揮し始めます。

 店長から、このように接客してくださいと言われても、そうしてくれないようなパートのおばちゃんって、かなり、質が悪い人間性の持ち主だ。一筋縄ではいかない。いい人材に恵まれなかったと嘆いてしまうだろう。
 でも、今井さんは、とことん、尊重し合ってなんぼっておっしゃった。
 尊重されて育ち、自分を大切にできている人は、お手本を示されたら、勝手にいいとこどりして真綿のようにどんどん吸収して、自分のものにしていく。でも、尊重されているという実感の少ない人は、真綿でなく、ごわごわタオルみたいに干からびて吸収できにくいのかもしれない。ごわごわタオルを真綿にするって、至難の業だ。でも、もし、人として尊重されているという喜びにより、真綿のようになれるのなら、人間、救いである。

 お手本を示しても、ついてこないような人たちが不思議だった。私みたいな下っ端の人間のお手本なら仕方ない。でも、私がめちゃくちゃ尊敬する方に対してもたいしたことないって、わたしだってそれくらいできるって言う先輩もいた。お手本だけでは、この世は回っていないという事実に愕然とした。
 今、わかった。
 なぜって、尊重し合っているという関係性がそこになかったから…って。私も心のどこかで、その先輩を軽蔑していたと思う。でもねぇ、私を苛めているような人を尊重なんてできないよね。できるだけ、接点をもたないでケガをしないようにすることで精いっぱい・・・ふつう。

 でも、何のことはない。私は、きっと、どこかで、そんな人たちを、ヤマダさんやサトウさんみたいな人たちと一くくりにして、尊重していなかった。

 文句ばっかり言って、ちっとも仕事をしてくれない人たちを尊重するって、難易度が高い。
 今井さん、『技術は愛情』ともおっしゃっていた。
 レッツ、トライ!!!

 今井さん、助言の最後に、売り上げを倍にする方法を教えましょうかと後光助言をその店長にプレゼントされた。
 『あなたは、今月の売り上げを考えなくていいです。いいですか?昨日よりも一つ多く≪ありがとう≫と言ってもらえることを考えなさい。毎日毎日それを考え実行し続けなさい。そうすれば、勝手に売り上げが倍になるからね。』

 ヒャッホー!

 おそらく、これが『生きる意味』。

 20代後半、なにをやってもどこか虚しいと感じる自分がいて、生きる目的を見いだせないで結構しんどかった。自分の本当にしたいことが見つからなかった。で、しんどくなって、そのことを棚に置いて、結婚と子育てという当面の課題に生きる意味をシフトして考えないようにして生きてきた。
 しかし、神さまは、子育ても終盤に差し掛かる頃になって、最難易度の子育てお題を提示してきた。私が生きる意味を見出さないと子育てを終了させてあげないよって。

 まずは、夫に。
 過去にとらわれて、優しくなれない夫に対して、
 『ありがとう』って、言ってもらえるよう、チャレンジだ。
 地動説が天動説になるくらいの価値観の転換ともいえる、このチャレンジにさぁ、挑まん。

 この本のタイトルは、
『顔を洗うこと  心を洗うこと』





 
 





























  
 



















































 














 そして、店長さん、今からは、ヤマダさんやサトウさんに『ありがとう』と言ってもらえるような接し方に












 
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母親の料理VS父親の料理

2022年01月06日 | エッセー
  知人の娘さんが、ずっとお薬を飲んでいるけれど、蕁麻疹が治らなくて大丈夫かなと心配していた。
 何かを食べたら赤くなるというような反応ではなさそうだけれど、食べたものが胃を通過する頃に、胃のあたりに湿疹がポツポツ出て、しばらくしたら肝臓のあたりに出るのだそう。
 蕁麻疹って、疲れている時に出やすい。
 ふと、先日の私のチキン南蛮弁当のから揚げ3個で寝込む事件を思い出した。
 私の肝臓は、かなり老朽化していて、お店のから揚げたった3個でダウンするという情けない肝臓である。
 蕁麻疹も肝臓の解毒機能が落ちているか、もしくは、処理能力以上の毒なるものの摂取が原因だと思う。
 その娘さんは、まだ、小学生。でも、知人もずっと蕁麻疹が出ていたというから、娘さんも母親の肝臓が丈夫ではないとうDNAを受け継いでいるのだと思う。
 肝臓の解毒に負担となるのは、食べ過ぎと添加物・油(特に酸化した油)・砂糖・お薬など。逆に助けてくれるのは、ビタミンと腹八分。
 などと、思い連ねていた時、ふと、はたとあることが閃いた。
 もしかして、もしかする?
 知人の女性は、信じられないというか実に羨ましいというか、食事は一切作らないという。夫が料理大好きで作ってくれるらしい。夕方、サービス残業して、そそくさと近所のスーパーで買い物して、いかに時短でそれなりの夕食を作るかの日々を30年送ってきた私にとって、夕飯を作らなくていい、夕飯の献立を考えなくていい、買い物しなくてもいいなんて、アンビリーバブル。
 しかし、もっと衝撃的なことが・・・。
 何気に、昼休みのお弁当の話になった時、彼女の口からお弁当も夫が作ってくれるという言葉が飛び出し、びっくらぽん!!!
 すごい。
 ①我が夫は何もしない。できない。
 ②残業
 ③男の子4人 
 ④虚弱体質
な私にとって、家事時短を日々、常に意識して生きてきた。
30年もその生活を続けてきた私には時短がもはやDNAレベルでカラダに染みついている。

 ふと、はっとした。
 彼女のお弁当は、なんとなく野菜が少ないかなって印象だった。
 ひょっとして、夫の作る料理全般が、がっつり系で野菜が少ないんじゃないかなって、勝手に彼女のおうちの夕食をイメージしてしまった。
 で、聞いてみた。
 そしたら、少ないと。
 夫が、料理が好きで妻は夕食は作らなくてすむという場合、それは、夫が自分の食べたいものを作ると=の場合が多いような気がする。
 そして、それは、①肉が多い②揚げ物が多い③野菜が少ないという傾向がある。
 子どもたちも喜ぶ。
 だって、肉が多くて野菜が少ないんだもの。

 これが、母親が料理を作るとなると、違ってくる。
 多くの母親たちは、どうにかして、野菜を食べてもらおう、青魚も食べてもらおうという意識で日々、料理を作っているんじゃないかなと。
 
で、邪推してしまった。
 知人の子どもたちは、日々、肉と揚げ物メインの夕食を365日食べ続けている。
 元々、肝臓の処理能力の低い子どもが、日々、肉と揚げ物と野菜不足の食事を食べ続けていたら、やっぱり蕁麻疹出ちゃうかもって邪推してしまった。
 だって、私はたった3個のお弁当屋さんのから揚げで、私の肝臓が悲鳴を上げてダウンしてしまったのだから。365日×10年(知人の子は10歳)は、きっと、肝臓にかなりの負担となっているはず。

 それで、彼女に提案してみた。
 彼女は別に私が作ってもいいんだけど、夫が作りたがるから、結果、作らないという状況らしい。
 なので、
 娘さんの蕁麻疹のためにも、もう一つ、野菜料理を一品、YOUが作ったらどうかな?

 返ってきた答えは、NOであった。
 今まで、作ってこなかったので、めんどくさい・・・と。

 そうかもなぁと思いながらも、3年治療しても全然よくならないわが子の蕁麻疹を本気で治してあげたいという気持ちも食事を作らない生活に慣れすぎてしまうと萎えてしまうものなのかなぁ~。
 筋トレという言葉がある。継続は力なりという言葉もある
 筋肉も少しづつ負荷をかけていくことでついてくる。

 料理を作ることも、日々、し続けることが苦にならない秘訣で、時短という負荷とかより美味しくするとう負荷とかあり合わせで作るという負荷をかけていくことで、料理の筋トレをしているのかもしれない。
 私は、もう一つ、いかに安く作るかという負荷もかけている。

 ただ、ふと
 一人暮らしになって自分一人だと負荷が全然かからなくなるということに気づいた。
 誰かのために作るとき、その負荷が輝く。
 料理は誰かのために作るものなのかもしれない。

 夫が主で料理を作る人の場合、おそらく、夫は家族のためにの前に、自分が食べたいものを食べたいから作る傾向がある。そう、自分のためにが先。おそらく、こういう夫は、一人暮らしになってもしっかり揚げ物を自分のために作ることができる人かもしれない。

 ラーメンと素うどんとソーメンとおでんしか作れない、しかも、家事を何もしない夫に対して被害者意識しかなかった私だけれど、視点を変えれば、彼女から、料理を作る権利を奪った夫というものも罪といえば罪な存在かもしれない。
 一般論であるが、母親の作る料理と父親の作る料理は誰のために作るかという点で違うから、メニューも違う。

 ただし、おそらく、父親一人で育てている場合は、そこに子どものために作る料理となるような気がする。ママがいるのにパパがあえて作る父親料理とは一線を画すんじゃないだろうか。

 ほぼ共働きの時代に突入し、イクメンを要求されるパパもしんどいだろうなとも思う。
 義務感でやっているとなおさら。
 イクメンを語るとき、家族のためにという意識があるかないかでストレスにも大差が出ると思う。
 子育ては、自分のために生きてきた人生から、誰かのために生きる人生のチケット。
 自分のためにちゃんと生きてこなかった人は、このチケットを上手に使えないかもしれない。
  子どもは二人の子どもであるが、子どもが宿るのは、母の胎内であり、母乳も母なしでは与えられない。母となったその日から、母は子のために栄養バランスを考えざるを得なくなる。母乳を与えている時も、出ているか出ていないか不安だし、お菓子とか果物とか揚げ物を取ると乳腺炎になるし、乳児湿疹になりやすいから、おのずとあっさり和食の野菜中心の生活になっていく。
 みんながそうというわけでもないけれど・・・。
 ミルクだとそこまで自分の食べる食事に気を使わないかな?
 そして、離乳食だ。一口しか食べてくれない、へたをするとべ~~っと吐き出してしまうなんてことも多々ある中で、その徒労にもめげずに離乳食をせっせと作る。今は、ベビーフードもあるので、上手に使っている人も多いかな?
 つまり、ママは子が食べたもので何かあると連帯責任者になる。
 一方、パパはというと、自分が食べたものにより、良くも悪くもなる誰かがいない。連帯責任を取るなんて感覚がない。
 二人の子のはずなのに、ママだけが連帯責任者の覚悟で子を産む。
 そりゃぁ、仕方ないよね。
 イクメンしようと思っても、連帯責任者なのに連帯責任者意識を持ちにくいから、どこか他人事になっちゃって、妻のヒンシュクを買ってしまう。
 実は、格好の連帯責任者に印鑑を押させる場面があるんです。このツボを抑えとくと、パパ、似非イクメンから本物イクメンに大変身!!
 













































































 
 
 
































































































 




















































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2021年 地球規模で電気を考える

2022年01月03日 | エッセー
 今日の新聞に、二酸化炭素削減に向けて、イギリスが電力に原発推進も視野に入れていくと宣言したことにより、賛否両論意見が飛び交っているというような記事が掲載されていた。
 温暖化を防ぐために原発もやむを得ないという。
 あっちを立てれば、こっちが立たず・・・。
 太陽光とか自然エネルギーをもっとどうにかできないのだろうかと素人的にはつい考えてしまう。安定供給という点でクリアできないから難しいよう。
 しかし、日本は東日本大震災で原発の怖さを体験している国である。広島・長崎を体験している国である。
 太陽光を雲が遮っても供給できるような発明とかできないだろうか。
 蓄電器も改良されつつあるけれど、基本、電気って生ものだ。
 今さら、電気なしの生活なんてできないし。
 温暖化が進めば、夏の冷房は欠かせなくなる。つまり、電力はもっと必要となる。今、発展している国の人たちも電気をどんどん必要としていくはず。
 原発かぁ。
 節電生活と節電技術の開発でなんとかならないものだろうか。
 






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