心は洗うもの・・・。
だとすると、今しがたの心は❛自分❜ではないかもしれないってことになる。
自分の心は自分じゃん、過去の喜怒哀楽の積み重ねの上にたった自分じゃん。
あっちぶつかりこっちぶつかりしながら、嬉しい・悲しい・腹が立つ・イライラする・ほっこりする・ビクビクする・ドキドキする・・・などなど、心の名前という形容詞で、人は表現しているじゃん。
確かに・・。
ただ、形容詞で自分の気持ちを察知した後の思考により、本当に自分から近づいたり離れたりしていく。形容詞でキャッチした形容詞の中でネガティブな心につながる心は洗わないと本当の自分から離れていく。
本当の自分って、たぶん、良心 みたいなものじゃないかと思う。
良心を見失った心は、本当の自分ではないはず。
苛める子は、苛めるとき、嬉しいと感じている。もし、そこに、微塵たりとも良心の欠片があったなら、嬉しいに罪悪感が伴うはず。罪悪感を微塵も感じないように、苛めても嬉しいと感じるための思考(心)を生い立ちの中で手に入れたと思う。
自分は正しく、相手は間違っている。だから、成敗してもいい。
みたいな。
水戸黄門の印籠のように、正義を振りかざす。
幼い頃より、心を洗うよりも、心が傷つく相対量が多すぎて、心が生き延びるために、苛めて快感を得る思考が出来上がってしまった。
幼い子にとって心を洗うって、親の優しいまなざし・・だろうか。
子どもの前での夫婦喧嘩、いわゆる面前DVは、親に暴力を振るわれる虐待よりももはるかに強く子どもの脳にダメージを与えるということがわかってきた。
夫婦喧嘩か・・・・。
世の中に、夫婦喧嘩しない夫婦って、一体どれくらいいるだろう?冷戦状態だって喧嘩は喧嘩だ。
柴門ふみさんの、『結婚の嘘』という本には、随分勇気づけられた。ほぼ、みんな夫に対して幻滅しながら夫婦を続けているんだなっていうことが伝わってきたから。柴門さんは、夫との関係を福祉的な言葉で例えていた。なんだったかなぁ~。
夫婦喧嘩は犬も食わないなんて言葉もあるけれど、明るい夫婦喧嘩だったらいいのかなぁ。ギャーギャー言っても、最後はお互い納得できるゴールにたどり着けるような夫婦喧嘩だったらいいのかなぁ。どちらかが我慢することで治まるような夫婦喧嘩だと空気が爽やかではない。そんなすっきりしない空気は子どもたちの脳に何らかのダメージを与えるのだろう。
罵り合うような夫婦喧嘩とか凍てつくような夫婦喧嘩が、きっと、子どもの脳には原子爆弾クラスのダメージを与えるのかもしれない。
何か困りごとがあったら、家族会議を開いて、言いたいことをみんなが言って、解決に向けて協議するというような理想の家族になりたかったなぁ。
ということで、私たち人間は、大方、すでにネガティブな感情を持ってしまった自分の心を自分だと認識して生きているんじゃないだろうか。そのネガティブな感情という心は洗わないと、本当の自分ってわからない。
なのに、自分って自分がよくわかっているという過ちを犯して生きている。
自分の中にネガティブな感情が湧き出てきたら、あ、これは、心を洗いなさいという黄色信号だと客観的に認識できさえしたら、ネガティブな感情という濁流に押し流されなくてすむのになぁ。そうできたら、生きるのが楽だろうなぁ。振り払っても振り払っても、された仕打ちに心がダメージを受けてしんどい。
真っ白いTシャツは汚れたら、洗濯機で洗う。
でも、ただ普通に洗濯機で洗っていたら、だんだん真っ白でなくなって黄ばんでくる。いろいろ工夫すれば、その白さを維持できる洗濯の方法があるということは知っているけれど、あまり強い洗剤は使いたくないなとかめんどくささいなって感じで、白いTシャツは1年物とあきらめている。
野球部に息子のいる友人たちは、嘆いている。なぜ、白なのか・・・と。せめて、練習着は黒にしてほしいと。どろんこ汚れが半端ない。共働きで家事育児に多忙極めた一日の最後の仕事に、洗濯板と泥んこウエアーに全身全霊で格闘するというめちゃくちゃハードなお仕事が待っている。
何もダメージがなくても、普通に洗濯機で洗濯しているのに、真っ白なTシャツは黄ばんでいく。
心もオンギャーと産まれた時は、真っ白な心だった。
それが、普通の夫婦という洗濯機でも、なんだか黄ばんでくるのだろうか。で、面前DVな夫婦という洗濯機だともはや泥が流水に混じりながら洗ってしまうというような感じになっていくのかもしれない。
とにもかくにも、生まれたての真っ白な心が、本当の自分の心だという認識から、自分を見つめないと・・・。今、現在の黄ばんだ心を本当の自分だと勘違いしちゃいけない。
野球部の泥んこ練習という環境。それを、日々せっせと洗濯板でごしごし洗ってくれる人が不在であったという環境。それが、合わさって歳月が流れると、真っ白な心に洗濯することはかなり厳しい。
でも、不可能ではなさそうだ。
世界中からオファーが来るという洗濯ブラザースさんの本を読んだ。
心の洗濯ブラザースさんも存在するはず。
自浄作用って言葉がある。
心が病んでしまうくらいのTシャツを自力で白くなんてできそうにない。だって、苛めても罪悪感を感じないんだから、泥んこに汚れたTシャツを着ているって気づかない。むしろ、自分は正しい、相手は間違っていると思い込んでいるから、鏡を見ても自分のTシャツは白く見える。あるいは、自分を追い詰めて生きることがしんどくて溺れかかっている人も洗濯どころではない。
良心を冷凍してしまって罪悪感を感知しないようにした苛めるのが気持ちいい人。
良心が罪悪感に飲み込まれた生きるのがしんどい人。
そうなる前に、自浄作用。
心を洗う。
良心とか愛溢れた人達と一緒にいるとき、中村哲さんのような本を読んだ時など、心が洗われたっていう表現をしたりする。
何気に使ってきた、『心が洗われました』という言葉にドッキリ。
もっと、意識的に、心は洗うもんなんだと今、気づいた。
生まれたての真っ白な心が、本当の自分の心であって、今の心はいろんな色のペンキで塗り固めらた心。
真っ白なTシャツこそ、本当の自分の心
というイメージ化に成功した瞬間が、今。
今の心に『良心』というフィルターをかけると、真っ白な心がきっと見えてくるはず。
自分の心具合を白かったTシャツに見立てる力を養おう。
自分の喜怒哀楽という感情から派生した妬み・寂しい・萎える・不安・焦り・心配・恨み・イライラとかの感情が白を汚していく。物事に対してその瞬間感じる喜怒哀楽の感情は心を毎日洗っていれば黄ばまない。
でも、その感情を洗わないで放っておくと黄ばんでくる。
瞬間瞬間に感じた気持ちを意識して『良心』というフィルターにかける。
人の悪口や陰口の多い人は、心を洗っていないかもしれない。
もちろん、苛める人も。白黒思考って言われている。白か黒かをはっきりしたがる人。
エリート意識もそう。上下思考?
〇〇ねばならないとか〇〇すべき・・とか。やっぱり自分が正しいって思っているから、そういう思考になってしまう。
ふと、ネガティブな感情、全てに『良心』というフィルターをかけていいものかという疑問が湧いてきた。
鬱的な気持ちになって、エネルギーがなくなっているような人は、逆に、『良心』というフィルターにかけすぎて、しんどくなっているような気がする。良心のフィルターにかけて、それができない自分を責めて、責めすぎて、罪悪感に苛まされて、疲労困憊してしまう。
真っ白い心が、不安で押しつぶれそうな色に染まった時、その心を洗ってくれるのは、一体なんだろう?
洗濯ブラザーズは、酸性洗剤とアルカリ性洗剤を駆使して、他にも素材や汚れによっていろいろ工夫して真っ白にしていく。
しかし、正義の名のもとに誰かを苛めて罪悪感を感じないような人たちは、自分は正しいと思い込んでいるからやっかいだ。自分は正しいのだから洗う必要性を感じない。良心が埋没している。少しでも罪悪感を感じているような人には、良心の欠片が心に刺さっている。