なんだか、最近、異色な方とよく出逢う。
これは、何を意味するのだろう?
単なる偶然か、必然か。チャンスの前髪か危ない道への誘惑か?
40代の男性で、不道明王(?)から直接使命を受け、ある種の特殊な能力を身に着けた方だという。
こっちから聞くわけでもないのに、私から感じる何かをどんどん言葉にされていくので、唖然。
ハンドパワーも持っていらっしゃるよう。
そんな人。
開口一番。「肩こっているね。すごく。ストレスがすっごくある。」
そう言いながらも、スタスタ私の方に歩いてきて、私の肩をそのハンドパワーなる手でほぐして(?)くださった。確かに、なんだか、すーっと楽になったけど。
「私って、ストレスを発散するのが下手なんでしょうか?」と聞くと、「いや。ストレスの量が半端じゃないんだよ。」
やっぱりね。そうだよね。
でも、最近はそうでもないんだけどなぁ~。
「小さい頃、頭を二度打っているでしょう?」
「幼稚園の頃、家の隣を流れる用水路の水が引いて、そこにへびの死骸があった。そのへびをお友達とキャーキャー言いながらのぞいていた時、頭から落っこちた記憶がある。2メートルくらいの高さから落っこちた。けれど、もう1回の記憶はないんですけど・・・。」
「その時の影響はない。それより、部活か何かしているときに、もう1回、頭を打っているはずだ。その影響で、頚椎がずれていて、肩こりや股関節に影響が出ている。その時の、記憶を思い出したら、よくなるはず。」
と言いながら、私の肩や背骨や腰などに手を当てて気を送っている(?)感じ。
私は、日ごろから、自分でも、まっすぐ立とうとしても、ねじれている感じがあって、背骨の違和感を持っていたけれど、確かに、この男性が、ちょちょいのチョイって感じで私の背骨を触ってくださった後は、まっすぐって感じで背骨がすっきりしたのは事実。事実なんだけれど、不思議。
「家の間取りは悪くないね。でも、トイレが気になる。わかるでしょ?」
ドキッ!
そうなの。我が家には、ずっと、気にはしていたけれど、開かずの間にしてしまっているトイレが2階に存在するのだ。
すごい。見えるのだろうか?不思議だ。
もう何年使っていないだろうか?三男が小さい頃、おもちゃじゃないかと思うんだけれど、何か大きなものをトイレに流してしまって、詰まって、大洪水を起こしてから、そのまんま。10年は経っていると思う。玉~~に、掃除しているけれど、クモの巣が張っている的な空間になっている。
ヤバい。(さっそく、掃除した。)
「どっち向いて寝ている?どうも、カラダをすーっと通っている感じです。」
「南向きの部屋に頭を南にして寝ています。」
「南北はいけない。東西がいい。」
「あなたは、霊感が強いので、スース―と通って行くんです。」
「えーーーー。私はちっとも霊感ないと思って生きてきたんですけれど。高校3年のときは、一年間、金縛りで苦しみましたけれど。一度かかると何度も何度もかかって2時間くらい眠れなくてきつかっただす。でも、何も感じないですよ。」
「いえ、強いです。」(そうかなぁ?)
隣にいた同僚が、「仏壇はどうなんですか?」とつかさず聞く。
「仏壇に足を向けてはいけません。」
「えーーーーー。南北がいけなくて、仏壇に足を向けてはいけないとなると厳しいですね。どうしても無理な場合はどうしたらいいのですか?」
「足元に紫色の何か、折り紙とか花を置くといいです。」
その他、夫のこと、夫と子どもたちの関係なども図星だった。
確かに、当たっている。
ハンドパワーもある。
昔、県知事選のとき、ある候補者が選挙に当選できるかどうかを見てもらいに来たこともあるという。
手相をみて、「今、お金の無駄遣いをしている。」って。いえいえ、無駄使いなんてとんでもない。こんなに節約生活している人っていないと自負できるくらい切り詰めているつもり。ただ、子どもたちの学費にヒーヒー言っている。」と言うと。そう。それでお金がたまらない。でも、もう少ししたら上向いていくはずって。
そんなこんなで、いろいろと聞いてみたい衝動に駆られそうになる。でも、果たしてそれでいいのだろうか?
紫の折り紙を置いてどうかなるということで、人生、いのだろうか?
なんだか、それで解決するとしたら、人間的成長をするチャンスを逃してしまうのではないかという疑念が湧いてくる。
「小さい頃、お寺にある鳥居の下でよく遊んでいたでしょう?あの時、神様は怒っていたんだよ。で、ずっと、我慢していたんだけど、今でも、そのことを怒っている。」
なんて言われると、どうしていいのかわかんなくなる。
どうなんだろう?
人を不安にさせて、紫色の折り紙云々・・・という構図。
私は、宣言したはずだ。息子たちに家を出るときのはなむけにも、『人を不安にさせて解決策を提案するような誘惑には騙されないこと。人を不安にさせるというスタンスの物言いは信じてはいけない。』という言葉を贈ったじゃないか。
『僕は、不動明王直々に命を受けて、一生懸命、任務をまっとうしている。』とおっしゃる。それは、真実だと思う。
でも、紫の折り紙とかお塩で清める・・・とか。
本当に神様は怒るのだろうか?
わからない。
怒る神様は、神様の子分なんじゃない?
鳥居の下で遊ぶのが不愉快でずっと我慢していた・・?じゃぁ、その時に、どうにかしてくれたらよかったのにって思ったり。
神様?本当に神様?
神様って、全てを許すような懐の大きい方ではないの?
高千穂の峰で1000日修行されたおじいちゃんは、『ここ30年怒ったことはありません。』とおっしゃっていた。感謝の心と慈悲の心だけが、おじいちゃんの心の中に存在するらしいので。なのに、なのに、神様が鳥居の下で遊んでいることに怒っていて、それをずっと我慢していたなんて言われても・・・・。
それって、ほんとうに神様?
というか、『神との対話』という本には、神は『喜怒哀楽を体験するために、そして、その喜怒哀楽を感じ尽くして、そこから、今、愛ならどうするか?というお題を与えるというゲームを味わうために人間という自分の分身を作られた。だから、そう簡単にこのゲームを終わらせることなんかしない。』と書いてあった。
だとしたら、喜怒哀楽の体験の場を作り出さないといけない。うれしい体験だけでなく哀しい体験や喜ばしい体験や怒り狂う体験など。そう、哀しい体験も実は、今、愛ならどうするか?というお題に人はどう答えるか?というゲームの一つなのだという。戦争も原発もポルポトのヒットラーも。あなたも人生も私の人生も『今、愛をあなたなら、どう表現するか?』という壮大なお題の一つ。どんな人の人生も、どんなに幸せな人生の人も悲惨な人生を歩いている人も与えられている人生のテーマは『今、あなたは愛をどう表現するか?』
だとしたら、お稲荷さんとかは、人間がいろんな感情を味わい尽くすためのゲームの設定のための仕掛け人として、人を困らせるようなことをしちゃう存在なのかなぁって思えてきたり・・・・。
霊とかお稲荷さんとかよくわからない。いるとも言えないし、存在しないときっぱりと否定することもねぇ。
おとといの夜の報道番組で、勇敢に闘うクルド人女性兵士の特集をしていた。
イスラム国に追われたクルド人難民キャンプが、イランにある。
そのクルド人が立ち上がったのだ。
そして、その中には、17歳から25歳くらいまでの若く勇敢な女性兵士たちがいる。すでに、200人の女性兵士が戦闘で亡くなっているという。それでも、彼女らは怯むことなく闘い続ける。クルド人の誇りをかけて。クルドを守るために。
一方、イスラム国の兵士は、お金で採用された兵士が多い。最初は、抵抗する勢力がなかったから、好き勝手に殺せる優位な立場にあったけれど、真に勇敢な魂に突き動かされて戦いクルド人の命を懸けた戦いに敵うわけがない。士気が下がるのは当然のこと。最近、少し、勢いが弱っているという。もちろん、油断は禁物だけれど。
『私たちには、この道しかない。闘わなければ、自分の人生を歩めない。闘わない道を選んだら、自分の人生はない。どっち道、この道しかない。明日、命を失うとしても、闘うしかない。』
戦争反対・・・なんて、軽はずみなことは言えないなって思った。
時と場合によっては、平和のために戦うこともあり・・・。
アナを救う真実の愛と同じだ。
自分の命を犠牲にしてまでもクルドを守るために闘うという真実の愛。
この道しかないというギリギリを選択する愛。
だから、人を殺めることは、唯一、命を懸けて仲間を守るという真実の愛を決行する時のみ、許される行為だと思う。それ以外では、絶対戦争はしてはいけない。集団的自衛権の解釈が説われている。そこに、仲間を守るという誇りがあるかどうか・・・・。
お稲荷さんが怒っている。だから、それを鎮めないと・・・・って言われた。
じゃぁ、クルドの女性兵士たちの人生は、どんだけ、お稲荷さんが怒っているの?って思った。
この世で起こる困った環境は、真実の愛を表現するというチャンスを神様がプレゼントしてくれている・・・のかもしれない・・・という視点もありかな?
いろんなことが見えてしまって、人がいいので、アドバイス言せずにはいられないという不動明王から直に命を受けたというこの男性という存在は、一体何なのだろう?
もし、クルドの女性兵士たちが目の前にいたら、何が見えて、何をアドバイスするだろう?
これは、何を意味するのだろう?
単なる偶然か、必然か。チャンスの前髪か危ない道への誘惑か?
40代の男性で、不道明王(?)から直接使命を受け、ある種の特殊な能力を身に着けた方だという。
こっちから聞くわけでもないのに、私から感じる何かをどんどん言葉にされていくので、唖然。
ハンドパワーも持っていらっしゃるよう。
そんな人。
開口一番。「肩こっているね。すごく。ストレスがすっごくある。」
そう言いながらも、スタスタ私の方に歩いてきて、私の肩をそのハンドパワーなる手でほぐして(?)くださった。確かに、なんだか、すーっと楽になったけど。
「私って、ストレスを発散するのが下手なんでしょうか?」と聞くと、「いや。ストレスの量が半端じゃないんだよ。」
やっぱりね。そうだよね。
でも、最近はそうでもないんだけどなぁ~。
「小さい頃、頭を二度打っているでしょう?」
「幼稚園の頃、家の隣を流れる用水路の水が引いて、そこにへびの死骸があった。そのへびをお友達とキャーキャー言いながらのぞいていた時、頭から落っこちた記憶がある。2メートルくらいの高さから落っこちた。けれど、もう1回の記憶はないんですけど・・・。」
「その時の影響はない。それより、部活か何かしているときに、もう1回、頭を打っているはずだ。その影響で、頚椎がずれていて、肩こりや股関節に影響が出ている。その時の、記憶を思い出したら、よくなるはず。」
と言いながら、私の肩や背骨や腰などに手を当てて気を送っている(?)感じ。
私は、日ごろから、自分でも、まっすぐ立とうとしても、ねじれている感じがあって、背骨の違和感を持っていたけれど、確かに、この男性が、ちょちょいのチョイって感じで私の背骨を触ってくださった後は、まっすぐって感じで背骨がすっきりしたのは事実。事実なんだけれど、不思議。
「家の間取りは悪くないね。でも、トイレが気になる。わかるでしょ?」
ドキッ!
そうなの。我が家には、ずっと、気にはしていたけれど、開かずの間にしてしまっているトイレが2階に存在するのだ。
すごい。見えるのだろうか?不思議だ。
もう何年使っていないだろうか?三男が小さい頃、おもちゃじゃないかと思うんだけれど、何か大きなものをトイレに流してしまって、詰まって、大洪水を起こしてから、そのまんま。10年は経っていると思う。玉~~に、掃除しているけれど、クモの巣が張っている的な空間になっている。
ヤバい。(さっそく、掃除した。)
「どっち向いて寝ている?どうも、カラダをすーっと通っている感じです。」
「南向きの部屋に頭を南にして寝ています。」
「南北はいけない。東西がいい。」
「あなたは、霊感が強いので、スース―と通って行くんです。」
「えーーーー。私はちっとも霊感ないと思って生きてきたんですけれど。高校3年のときは、一年間、金縛りで苦しみましたけれど。一度かかると何度も何度もかかって2時間くらい眠れなくてきつかっただす。でも、何も感じないですよ。」
「いえ、強いです。」(そうかなぁ?)
隣にいた同僚が、「仏壇はどうなんですか?」とつかさず聞く。
「仏壇に足を向けてはいけません。」
「えーーーーー。南北がいけなくて、仏壇に足を向けてはいけないとなると厳しいですね。どうしても無理な場合はどうしたらいいのですか?」
「足元に紫色の何か、折り紙とか花を置くといいです。」
その他、夫のこと、夫と子どもたちの関係なども図星だった。
確かに、当たっている。
ハンドパワーもある。
昔、県知事選のとき、ある候補者が選挙に当選できるかどうかを見てもらいに来たこともあるという。
手相をみて、「今、お金の無駄遣いをしている。」って。いえいえ、無駄使いなんてとんでもない。こんなに節約生活している人っていないと自負できるくらい切り詰めているつもり。ただ、子どもたちの学費にヒーヒー言っている。」と言うと。そう。それでお金がたまらない。でも、もう少ししたら上向いていくはずって。
そんなこんなで、いろいろと聞いてみたい衝動に駆られそうになる。でも、果たしてそれでいいのだろうか?
紫の折り紙を置いてどうかなるということで、人生、いのだろうか?
なんだか、それで解決するとしたら、人間的成長をするチャンスを逃してしまうのではないかという疑念が湧いてくる。
「小さい頃、お寺にある鳥居の下でよく遊んでいたでしょう?あの時、神様は怒っていたんだよ。で、ずっと、我慢していたんだけど、今でも、そのことを怒っている。」
なんて言われると、どうしていいのかわかんなくなる。
どうなんだろう?
人を不安にさせて、紫色の折り紙云々・・・という構図。
私は、宣言したはずだ。息子たちに家を出るときのはなむけにも、『人を不安にさせて解決策を提案するような誘惑には騙されないこと。人を不安にさせるというスタンスの物言いは信じてはいけない。』という言葉を贈ったじゃないか。
『僕は、不動明王直々に命を受けて、一生懸命、任務をまっとうしている。』とおっしゃる。それは、真実だと思う。
でも、紫の折り紙とかお塩で清める・・・とか。
本当に神様は怒るのだろうか?
わからない。
怒る神様は、神様の子分なんじゃない?
鳥居の下で遊ぶのが不愉快でずっと我慢していた・・?じゃぁ、その時に、どうにかしてくれたらよかったのにって思ったり。
神様?本当に神様?
神様って、全てを許すような懐の大きい方ではないの?
高千穂の峰で1000日修行されたおじいちゃんは、『ここ30年怒ったことはありません。』とおっしゃっていた。感謝の心と慈悲の心だけが、おじいちゃんの心の中に存在するらしいので。なのに、なのに、神様が鳥居の下で遊んでいることに怒っていて、それをずっと我慢していたなんて言われても・・・・。
それって、ほんとうに神様?
というか、『神との対話』という本には、神は『喜怒哀楽を体験するために、そして、その喜怒哀楽を感じ尽くして、そこから、今、愛ならどうするか?というお題を与えるというゲームを味わうために人間という自分の分身を作られた。だから、そう簡単にこのゲームを終わらせることなんかしない。』と書いてあった。
だとしたら、喜怒哀楽の体験の場を作り出さないといけない。うれしい体験だけでなく哀しい体験や喜ばしい体験や怒り狂う体験など。そう、哀しい体験も実は、今、愛ならどうするか?というお題に人はどう答えるか?というゲームの一つなのだという。戦争も原発もポルポトのヒットラーも。あなたも人生も私の人生も『今、愛をあなたなら、どう表現するか?』という壮大なお題の一つ。どんな人の人生も、どんなに幸せな人生の人も悲惨な人生を歩いている人も与えられている人生のテーマは『今、あなたは愛をどう表現するか?』
だとしたら、お稲荷さんとかは、人間がいろんな感情を味わい尽くすためのゲームの設定のための仕掛け人として、人を困らせるようなことをしちゃう存在なのかなぁって思えてきたり・・・・。
霊とかお稲荷さんとかよくわからない。いるとも言えないし、存在しないときっぱりと否定することもねぇ。
おとといの夜の報道番組で、勇敢に闘うクルド人女性兵士の特集をしていた。
イスラム国に追われたクルド人難民キャンプが、イランにある。
そのクルド人が立ち上がったのだ。
そして、その中には、17歳から25歳くらいまでの若く勇敢な女性兵士たちがいる。すでに、200人の女性兵士が戦闘で亡くなっているという。それでも、彼女らは怯むことなく闘い続ける。クルド人の誇りをかけて。クルドを守るために。
一方、イスラム国の兵士は、お金で採用された兵士が多い。最初は、抵抗する勢力がなかったから、好き勝手に殺せる優位な立場にあったけれど、真に勇敢な魂に突き動かされて戦いクルド人の命を懸けた戦いに敵うわけがない。士気が下がるのは当然のこと。最近、少し、勢いが弱っているという。もちろん、油断は禁物だけれど。
『私たちには、この道しかない。闘わなければ、自分の人生を歩めない。闘わない道を選んだら、自分の人生はない。どっち道、この道しかない。明日、命を失うとしても、闘うしかない。』
戦争反対・・・なんて、軽はずみなことは言えないなって思った。
時と場合によっては、平和のために戦うこともあり・・・。
アナを救う真実の愛と同じだ。
自分の命を犠牲にしてまでもクルドを守るために闘うという真実の愛。
この道しかないというギリギリを選択する愛。
だから、人を殺めることは、唯一、命を懸けて仲間を守るという真実の愛を決行する時のみ、許される行為だと思う。それ以外では、絶対戦争はしてはいけない。集団的自衛権の解釈が説われている。そこに、仲間を守るという誇りがあるかどうか・・・・。
お稲荷さんが怒っている。だから、それを鎮めないと・・・・って言われた。
じゃぁ、クルドの女性兵士たちの人生は、どんだけ、お稲荷さんが怒っているの?って思った。
この世で起こる困った環境は、真実の愛を表現するというチャンスを神様がプレゼントしてくれている・・・のかもしれない・・・という視点もありかな?
いろんなことが見えてしまって、人がいいので、アドバイス言せずにはいられないという不動明王から直に命を受けたというこの男性という存在は、一体何なのだろう?
もし、クルドの女性兵士たちが目の前にいたら、何が見えて、何をアドバイスするだろう?