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~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

『あまえ療法』 だって!

2012年10月17日 | エッセー
 『あまえ療法』・・・だって。
 実に、心地よい、いい響き。

 時代が変わっていく・・・・。
 
 『人に迷惑だけはかけないよう育てる』という子育ての価値観は今でも健在だけれど、それが美徳とされる時代は、少しづつ過去の負の遺産となりつつあるようだ。

 60代のご年配な方たちの集まりの場で、『今からの夢はなんですか?』と尋ねたら、一人二人は、『世界一周!』と本当に膨らむ夢を語られた。でも、ほとんどの方が『迷惑をかけないこと』とおっしゃって、びっくりした。
 そ~なんだ。生きがいより、迷惑をかけないことの方が優先するんだ。
 私は野暮な質問をしてしまったと後悔した。
あと10年もしたら、私もそんなセリフを口にするようになるのかなぁ。
 わかる。わかるんだけれど、夢だよ。夢。

 多分、迷惑をかけない・・とは、認知症や脳卒中にならない、ピンピンコロリと迷惑かけずに死にたい…という意味合いでおっしゃったんだろう。

 ほんとうは、本末転倒で、生きがいのある人生をいきいきと送ることで、そういう病気とも縁が遠くなるんじゃないかなぁ~って思う。

 それにしても、実に多くの人たちが、小さい頃から、『人に迷惑だけはかけない人になりなさい。』と洗脳されて育っているという事実を目の前に突き付けられて愕然とした。

 そして、その威力に思わず、立ち尽くしてしまった。 

 もちろん、わたしもそんな風に育てられた一人だ。

 そして、子育てにその言葉はマイナスであると気付いてから、意識して言わない訓練をしてきた・・つ・も・り。
 人に迷惑をかけないことが美徳とするなら、人に迷惑をかけざるを得なくなったらどうなるんだろう。
 どうにかこうにか人に迷惑をかけなくてすんで生きてきた人が、歳をとって、あるいは、病気になってしまって、初めて人に迷惑をかけるという事態に遭遇すると、迷惑をかけることに慣れていないから心がとっても苦しくなる。
 迷惑をかけないで生きてきたという自負心、あるいはプライドがズタズタにされて、立ち直れない。
 
 人は、小さい頃より、迷惑をかけても大丈夫という安心感の中で成長できると、迷惑をかけたり、失敗をしても、感謝の心や失敗をバネにして工夫する力が自然に身について、生きていくのが楽だ。でも、小さい頃より、人に迷惑だけはかけてはいけないと洗脳されて育つと、いつも失敗しないようにしないようにとがんばちゃって、むりしちゃって疲れる。ビクビクしちゃって、自分らしく生きられない。一方、小さい頃より、小さいことで失敗とか失態をチョコチョコして育つと、慣れてるから全然平気な分、自分らしくいられる。心に余裕がある。打たれ強い。

 つづく
 
 と書くと、じゃあ、迷惑かけてもへっちゃらさって思うような子になったらどうするの?て反論がありそうなので、一言添える。
 
 困ることをされたら、その事実をきちんと伝え続けることは必須項目である。
 『あなたが、こういうことをすると○○な風に困ってしまうから、やめてほしい。』 とか『腹が立つからやめてほしい。』とか『大人になってもわがままになりそうだから不安だ。』とか・・・・・。

 それと、親自身が、『ありがたや~。』『ありがたや~。』と口癖になってれば、あんまり難しいことを考える必要もないのかもねぇ。

 職場に、必要以上に、というか、異常に『すみません。』を連発される年配の女性がいる。
 もう、口癖になってしまっていて、病気の域に達している。生活習慣病ってやつ。
 私も、昔、そうだったなぁ~。

 迷惑をかけたとき、あなたの口から自然と出てくる言葉は何?

 『ありがとう』?それとも『すみません』?

 これって、口にした瞬間に、人生が180度違ってくる。
 『すみません』とつい言ってしまう人は、きっと、親からかなり『人に迷惑だけはかけてはいけません。』と言われて育ってきた人なんじゃないかなって思う。
 『ありがとう』って言う人は、あまえ(自己主張)を結構許されて幸せに生きてこられた人かも・・・・・・。

 実は、私も、結婚してしばらく・・・までの人生は、『すみません』人生だった。
 ある時、姑から、そのことを指摘され、初めて気が付いた。
 こりゃいけないって思って、それからは、意識して『すみません』の代わりに『ありがとう』を言うように努力してきた。
 こう言っては変だけれど、姑の性格に魅かれて、結婚を決断したっていう部分もありって感じだった。逆に、姑が超きれい好きでとっても神経質そうな良妻賢母の印象が妙に引っかかって、この男性と結婚したら優しくしてもらえて幸せな生活が待っていると保証書までついていた(ウソ)人との結婚を断念したこともある。
 もしかしたら、わたしの臭覚が、『ありがとう姑』か『すみません姑』かを無意識に感じとる能力があったのかなぁ~。あ~は、は、は。

 私が、『すみません』を連発していた理由は、二つある。
 一つは、自分に自信がなかった。
 本当に、自信がなかった。
 とういうか、“自分”がなかった。
 アホだった。


 つづく

なんでアホだったか。
 そんなに頭はよくないのに、なんだかずっと成績がいいはめになってしまって、試験で悪い成績をとってしまうことへの恐怖感からか、自分で自分を失敗できないカラダにしてしまった高校時代が、私をアホにさせた。
 そんなに記憶力のいい脳の持ち主でもないのに、せっせ、せっせとひたすら記憶脳を酷使することで、ただただ試験で問題を解けないことへの怖れから必死で逃れていた。
 試験への怖れで、自分らしさからどんどん遠ざかっていた高校3年間で、私は“自分”というものを見失い、自分で物事を考える力を養うべき最良の時に、保身に身を捧げる人生だった。だから、自分に自信がなかったのだ。
 
 もう一つは、前にも書いたけれど、決して夫婦仲がいいという両親ではなかったが、かといって仲が悪いというわけでもない、母親の『子どもの前では夫婦げんかをしない』というこだわりのおかげにより、“人生”の荒波なんてちっとも知らないまんま高校時代に突入してしまったことが、つまり、あっちぶつかりこっちぶかりしながら、悩みながらも自分を確認していくという作業をする思春期という時期をピョーンと飛び越えてしまったことが、結果的に、自分構築の基盤にないまま成人式を迎えてしまった。
 最近、同僚が、『中学の頃、自分の友達が、母親が再婚して妊娠したことにひどく悩んでいて、自分もいろんなことを考えさせられた。』というようなことを語っていたけれど、そんな友達もいなかったなぁ~。

 子どもが成長するために、果たして、幸せなにこにこ家族がいいのかどうか・・・。
 
 親は、まっとうな夫婦げんかをしっかり子どもに見せてもいいんじゃないかなぁ。

 ただし、まっとうなけんかだよ。

 まっとうとは、対等ってことと着地点を見つけようと努力すること。
 うちの母親は、両親がけんかばっかりしていたから、『子どもの前では、絶対けんかをしない!』というこだわりを持っていた。よほど嫌な思いをしてきたのだと思う。その結果、娘は、けんかという対立から学ぶはずの“何か”を学べずに、失敗を怖れる自信のない劣等感だらけのアホな大人になってしまった。

 けんか、あるいは、対立から学ぶ“何か”こそ、人生のお勉強なのだと思う。

 『他人に迷惑だけはかけない大人になりなさい。』
 とは、対立をなるべく避ける生き方をしなさいと言っているようなものだ。

 だって、みんな考えることは違うんだもん。
 対立は、人間関係の大前提なのに、その訓練を小さい時からしつけと称して、させてもらえていないと、大人になって自信がないのは当然。小さい頃より、対立する、つまり、『あの人と私は違う考えである。』あるいは、『私は○○と思うけれど、相手は△△と思うんだ。どうしたらいいかな?』という心のぶつかり稽古を、小さいことからやっていくことで、人間関係の横綱になれるのだ。なのに、心のぶつかり稽古を全然していなくって、いきなり初場所に出て行っても、こてんぱんにやっつけられて自信喪失してしまうのが、関の山だ。
 
 けんか(対立)に慣れていないと、他人のちょっとした言動にクヨクヨして眠れなかったり、失敗を怖れたりして、スイッチの切り替えが下手なので、いつもそのことを考えてしまってマイナスの気分から脱しきれずアフターファイブもリラックスできない。そして、せっかく楽しいことがあっても心から楽しめない。それって、もったいない。対立を怖れるあまり、貴重な生き生きと自分らしく生きる時間をもてないなんて・・・・・。
 幸せってなんだろう?
 幸せの価値観なんて人それぞれ。
 でも、その反対の不幸とは、対立を怖れることで生き生きと自分らしく生きる時間をもてないことかも。多分、それって、万人共通なことかもしれない。
 実は、私もその不幸なタイプ。

 もっと、けんかしとけばよかったなぁ~。
 もっと、自分の言いたいことをバンバン言って、バンバンけんかして、バンバンお互い様をすることに慣れておくべきだった。そして、自己主張することで、相手が傷つくことはないし、自分もくよくよしないカラダにしておけばよかった。トホホ・・・。

仮に、がんばって、自己主張しても、今度は、相手の反応が気になる。 
 怒った顔をしたら、なんか変なことを言ってしまったかな?と気に病み、辛そうな顔をしても言い過ぎたかなって気になる。
 結局、自然体で自己主張できない。罪悪感にさいなまされて、かえってストレスになる。
 早期発見、早期治療じゃないけれど、けんかできない子は、なるべく早く見つけてなるべく早く対等なけんかができるよう支援するって、人生を自分らしく生きる第一歩かも。
 発見が遅れれば遅れるほど、自分らしく自然体で自己主張できない、他人の言動がいちいち気になりくよくよして眠れない大人になってしまうかも(私もその一人・・・残念)。自分らしく自然体で自己主張できるって人が、甘え上手。
 『あまえ療法』って、小さいときに、抱っこといえば存分に抱っこしてもらえ、泣きたいときには思いっきり泣かせてもらえ、だだをこねたいときも、温かく見守ってもらいながら思う存分に暴れられる療法とのこと。でも、もう少し大きくなったら、よほど危険でないかぎり、けんか(自己主張)を思う存分させてもらえることもあまえ療法なんじゃないかなぁって思う。

 そんなことをつらつら考えていると、A君のセリフが、妙に気になる。



 つづく

『僕は、クラスのみんなと仲良くなりたいんだ。誰ともケンカしたくない。』

 小学2年生の言葉として、なんだか手放しで喜べない。
 本当にほんとうにそうなのだろうか?
 
 9歳の子どもらしさって感じがしない。

 私が、男の子しか育てていないからかなぁ~。

 まぁ、その子がそう表現するのはいいとして、母親が、そのことを誇らしく心からうれしそうに語る姿に違和感を感じた。
 どうしてだろう?
 とずっと考えていた。
 
 今、わかった、その違和感の元が・・・・。
 そう。小さい頃から小さいことから、対立(けんか=自己主張)にこなれていないと、大きくなって対立が怖くって、自分らしくなれないという自己喪失感にさいなまされ、自信喪失して生きるのが辛くなってしまうかもしれないという危険性をはらんでいるといことに、この母親は微塵も気づいていないということに一抹の不安を覚えたために違和感を感じたのだと。

 「ちょっとくらいけんかもできないと心配だわ。」
 
 謝罪に伺った時、多分、私は、そんな言葉を期待していたのだと思う。
 
 人生、ぶつかり稽古に始まり、ぶつかり稽古で終わる。
 あっちぶつかり、こっちぶつかり、痛い思いを経験しながら、自分を鍛え続ける(自分を感じ続ける)。たぶん、そんなもんさ、人生は。きっと、最後の最後まで。それなのに、まだ、ぶつかってもいないのに、みんなと仲良くなりたいと親に言う9歳の子どもは、どうも不自然。ただ単に無意識の世界での対立への怖れが、彼にそう言わせているのではないのだろうか・・と妙に穿った考えを持ってしまうのは私だけだろうか。
 
 




 
  つづく
 

 

 
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