空港のそばにある駐車場、最近、スタッフがほとんどいなくなった。
送迎するスタッフが一人だけしかいない。
以前は、詰所で、氏名と電話番号を記入して、カギを預けていた。でも、今は、切符1枚。
去年の暮れに、4泊ほどお願いした時に、息子がキャリーバックを倒してしまって、取っ手が隣の車のドアにかすってしまって、傷がついたようなついてないような状況になった時に、非常に困った。車の持ち主が誰なのか駐車場のスタッフもわからないから、連絡のつきようがない。
その時は、急いでいたので、送迎の車の中で、運転手の女性スタッフに、隣の車に私の連絡先を書いた紙を貼ってほっしいとお願いした。その女性スタッフは、黙っていればわかんないよ・・・なんていう感じでめんどくさそうな雰囲気だったので、息子が心配して、羽田に着いてから、駐車場に再度電話して、スタッフ(声が送迎の時の人と同じだった)に、隣のその車に、私の連絡先を書いた紙を貼ってくださいと強めにお願いした。息子は、横着な気配プンプンのおばさんスタッフに懐疑心だらけで、東京に滞在している間、ずっと、ちゃんと張り紙をしてくれたかを気にしていた。
結局、何の音沙汰もなかった。
監視カメラとかなかったんだろうか。
一般的な駐車場と空港の駐車場では、わけが違う。一旦、飛び立ったら、簡単に戻ってこれない。もどかしい。駐車場のスタッフだけが頼みの綱なのだ。監視カメラも十分でなく、電話番号も不明となると、対処しようにもできない。
先日、妹が、一番安いという駐車場を利用していると教えてくれた。そこは、おじぃちゃんが、いつもいて、昔ながらの駐車場経営をしているという。送迎がない分、安いのだろう。そのおじいちゃんもいたりいなかったり・・・。いない時は、日付と氏名と電話番号を書いていくという。
いいなぁ。のどかだなぁって。
なんだか、あったかい。
ほっとする。
全てが、機械化した時に、人間のあったかさが復活するのではないだろうか。
若い世代は、なんでもスマホでやっちゃって、人を介さなくても不自由さを感じないよう。でも、きっと、スマホでは、なんだかほっとするという体験はできにくいはず。
なんだかほっとするという体験不足は、気づかないうちに、孤立や孤独感をいつのまにか蓄積させてしまうのではないだろうか。
パスツールは、
『微生物など、何ものでもない。土壌がすべてだ。』
孤独と孤立は、微生物が育つ豊かな土壌なのだ。バクテリアは、必要条件であっても、十分条件ではない。
と言っている。
ところで、駐車場の女性スタッフのことを、私は、横着おばさんと表現した。最近は、あまり聞かないけれど、オバタリアンの典型って感じだった。
でも、人のことは言えない。
私も、オバタリアンに足を突っ込んでいるなって、息子の純粋な反応を見て、大反省。
隣に息子がいなければ、私も、羽田から、再度、確認の電話をしようなんて思いもしなかっただろう。
息子は、ほんとうに隣の車のことを気にしていた。
いつも、クソババァ、ロウガイを連発してくれやがって、自己チューなやつめ、腹立つ~~~って感じなのに、妙に律儀なところもあって、驚かされる。
思春期までのこどもの存在って、ありがたい。
オバタリアン化を予防するのは、こどもなのだと今回痛感した。
そういう意味で、少子化って、好ましくないかもしれない。
こどものおかげで、どうにか食い止められていたオバタリアン化が、今後、加速していかなければいいが・・・。