きままな雑記帳

ごく普通のあんちゃんのきままに記す日常日誌

1987年 CM 日本国有鉄道(国鉄)/東日本旅客鉄道(JR東日本) 国鉄からJRへ・カウントダウン7日間 篇 後藤久美子

2020-05-20 22:01:25 | 鉄道
国鉄からJRへと転換される時期、前回のブログでも紹介したように番組やCMが公開されました。

それは去りゆく『国鉄』に対しての哀愁とまだ見ぬ『JR』という期待と戸惑い。

じつは日本人はその後に年号でも『昭和』と『平成』で同じような思いを味わうわけですが。

当時はまだ小学生(つーか『昭和』から『平成』も小学生時代に経験してるので、何気に当時の記憶は残ってるんですよねぇ(笑))だったのですが、当時は『国鉄』が『JR』に『民営化』になるということで盛り上がっていた記憶があります。

もちろん、専売公社の民営化ってことで『電電公社』が『NTT』、あとは『日本たばこ産業(現:JT)』にと。

ちょうどこの頃からです、黒電話から変わってきたのは。



それが今では『スマホ』にまで変化するとは。

で、鉄道なんですけどね。

当時は国鉄も私鉄も現在と較べればサービス面でもたいした差はなかったと思いますが(職員の接客や施設の充実度は別ですが)、それでも少しは変化があるのだろうと感じさせたのがCMです。

1987年 CM 日本国有鉄道(国鉄)/東日本旅客鉄道(JR東日本) 国鉄からJRへ・カウントダウン7日間 篇 後藤久美子


こういうCMを頻繁にかつカウントダウンを出して放映するわけです。

そうなると、哀愁もありつつも期待が高まるのは人の心。

もっとも、JRになって1年後に第三セクターの『いすみ鉄道』になる私の地元の『木原線』のようなローカル線もあるわけですが(国鉄からJRになり小湊鉄道との乗換駅である『上総中野駅』も有人から無人駅へと変更になり、それまでの2番線の廃止などその後の利用客減少への対応化が図られた)。

これを房総の田舎から観ていた少年が私なわけです。

何か時代が動いてると感じたのもこの頃でした。

子供の頃に、こちらから



こちらに変わるって理解できます?



私にとっては、それまで空調なしだけど車掌さんがいて、基本は2両編成だったのが(トイレ付き)、単行運転が基本のワンマン運転、だけど空調完備になったわけです。

まぁ、一見は便利かつ合理的になったかもしれませんが、どこか寂しくJRから切り捨てられた感じもあり(大原駅でのホームなどね)、子供心に悲しく感じていたもんです。

やがて各地の実情を知って、感じ方も変わっていくのですけどね。

でも、あの時期にむしろJRから第三セクターに切り替わったことが、その後の『いすみ鉄道』として良かったのかもしれないなと思ったのが『鳥塚亮』さんでした。



じつは子供の頃(木原線時代から)から「なんで駅弁とかやらないんだろう?」と疑問だった私でしたが、いすみ鉄道で駅弁を販売したりしてアイデアで盛り上げた社長さんでした。

田舎って所は田舎である理由があるんですよ、それは極端に消極的かつ保守的な面が強いところ。

でも、ギリギリで踏みとどまる田舎ってのもあり、たまたま私の故郷が『鳥塚亮』さんを社長に採用して鉄道経営をお願いしたんですね。

もっとも、全てが順調ではなかったと思います(これは20年以上も地元から離れた私だから田舎の嫌な面もわかるつもりですが)が、それでも全国区に知名度をあげた手腕は素晴らしいし、評価していいと思うんですよ。

経営面でなかなか黒字化が難しいとはいえ、元々が赤字だったんですからね、正直よくやったと思うんですけどね。

でも、後々でじり貧で切られるよりも早くから独立して経営しているほうがまだ良かったんだなと感じたのがまさに鳥塚さんの時でした。

第三セクターという縛りの強い株式会社とはいえ、それでも名目的には独立した株式会社なんです。

JRの一路線だったら『廃止』って決めたら終わりなんですよ。

そういう意味で経営努力などは必要とはいえ、それでもまだ営業している姿を観ること、また、小湊鉄道との並びが観られるのはうれしいものです。





子供の頃に観て感じた『田舎だけど活気のある』大原や大多喜、上総中野に上総牛久、五井をまた観てみたいもんです。

















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