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二言瓦版

「復讐は神に所属する。」 「旧約聖書」


暇つぶしの記事、名言、珍言、コラムの批判。
株式の名言など。

普通のこと。解る、常識は。

2017年12月17日 06時54分44秒 | ニ言瓦版
週刊朝日の記事は、そうだな。
そうだ。
この記事で、酷い協会と、認識。
いや、現実、相撲は、崩壊かもしれない。




「大相撲の元横綱日馬富士による平幕貴ノ岩への暴行事件で、鳥取県警は11日、日馬富士を書類送検した。
 鏡山危機管理部長(元関脇多賀竜)は同日、東京都江東区の貴乃花部屋を訪れたが、同親方とは連絡が取れず、危機管理委員会の貴ノ岩に対する聴取協力を依頼する文書などを郵便受けに入れ、立ち去った。
 だが、事件がこれで解決するはずもない。貴ノ岩の師匠である貴乃花親方の怒りは収まらず、「“角道の精華”陛下のお言葉をこの胸に国体を担う団体の役割を明確にする」と逆襲宣言した。
 貴乃花親方の後援者の一人がこう語る。
「親方の怒りは今も解けていません。特に、貴ノ岩がまだ話をしていないのに相撲協会が日馬富士らの言い分を前提に中間報告をしてしまったことに『貴ノ岩が悪いような話になっている。うちは被害者じゃないか』と激怒している」
 日本相撲協会の危機管理委員会による中間報告では、日馬富士の注意中に貴ノ岩がにらみ返したことが暴行の引き金になったと説明。貴ノ岩にも非があったととれる内容が、貴乃花親方を怒らせているという。
 相撲協会は暴行問題について、貴乃花親方が鳥取県警に被害届を出しながらも協会に報告しなかったことを問題視している。だが、貴乃花親方はこの点にも、不満を抱いているという。
「協会に報告していないと言われますが、貴乃花親方は加害者側の伊勢ケ浜親方側で協会に対応するという理解だったそうです。
それが、貴ノ岩は初日から休場しているのに日馬富士は出場。どういうことなんだ、と不信感が爆発したようです。日馬富士の引退会見についても『被害者への思いがない会見だ』と憤ってる」(前出の後援者)
 横綱白鵬との確執も、さらに深まっているという。
「日馬富士の暴行をすぐ止めなかった白鵬こそ共犯、黒幕なのに、なぜ処分されないのかと親方は憤っている。白鵬は『貴乃花親方の下では巡業ができない』とまで言った。許されない発言なのに、理事長らは処分もなく黙認。白鵬を甘やかし、暴行問題を白鵬と親方の対立にすり替えて来年の理事・理事長選のために利用していると疑っている。今や暴行問題以上に怒りの原因になっています」(同)
 怒りを蓄積しながらも沈黙を貫く貴乃花親方は、何をしようとしているのか。
 高野山別格本山清浄心院住職の池口恵観氏は、貴乃花の支援者の一人だ。「炎の行者」の異名を取り、阪神タイガース監督の金本知憲氏なども信頼を寄せることで知られる。貴乃花親方についてこう語った。
「貴ノ岩は自身の部屋から出した初の関取で、一番かわいがっていた弟子。ケガをさせられた怒りは相当なもので、協会に対してかたくなになるのも無理はない。親方からは『自分の道を貫きたい』という趣旨のメールをもらったので、私も応援したいと思っています」
 
池口氏が貴乃花親方からメールを受けたのは11月末。こんな書き出しだった。
〈“観るものを魅了する”大相撲の起源を取り戻すべく現世への生まれ変わりの私の天命があると心得ており、毘沙門天(炎)を心にしたため己に克つを実践しております。国家安泰を目指す角界でなくてはならず〝角道の精華〟陛下のお言葉をこの胸に国体を担う団体として組織の役割を明確にして参ります〉
「生まれ変わり」や「国体」などの言葉遣いから、貴乃花親方の独特の世界観がにじみ出ている。
 続いて、現在の自分が置かれている状況については、次のように言及した。
〈今の状況、若い頃から慣れております。報道とは民衆が報われる道を創るのが本分であると思いこれまで邁進してきております。

 角道、報道、日本を取り戻すことのみ私の大義であり大道であります〉
 メールには今後の具体的な行動については書かれていなかったが、前出の後援者がこう語る。
「親方は『自分に処分があるのは覚悟している。ただ、加害者の処分など他の対応もきちんとやってほしい』と周囲に話しています」
* * *
(池口氏が貴乃花親方から11月末ごろに受け取ったメールの全文)
“観るものを魅了する”大相撲の起源を取り戻すべくの現世への生まれ変わりの私の天命があると心得ており、毘沙門天(炎)を心にしたため己に克つをを実践しております
 国家安泰を目指す角界でなくてはならず“角道の精華”陛下のお言葉をこの胸に国体を担う団体として組織の役割を明確にして参ります
 角道の精華とは、入門してから半年間相撲教習所で学びますが力士学徒の教室の上に掲げられております陛下からの賜りしの訓です、力と美しさそれに素手と素足と己と闘う術を錬磨し国士として力人として陛下の御守護をいたすこと力士そこに天命ありと心得ております
 今の状況、若い頃から慣れております報道とは民衆が報われる道を創るのが本分であると思いこれまで邁進してきております
 角道、報道、日本を取り戻すことのみ私の大義であり大道であります勧進相撲の始まりは全国の神社仏閣を建立するために角界が寄与するために寄進の精神で始まったものです
 陛下から命を授かり現在に至っておりますので“失われない未来”を創出し全国民の皆様及び観衆の皆様の本来の幸せを感動という繋ぐ心で思慮深く究明し心動かされる人の心を大切に真摯な姿勢を一貫してこの心の中に角道の精華として樹立させたいと思います。」


九州場所は、なぜ、このような事件に対して、しなかった協会。
これば、問われるのは、報告でなく、刑事事件で、その関係者は、正しい相撲など、できるのか。問われる、九州場所は、疑問な場所だった。

被害者は、警察に報告、協会は、暴力したその関係者を事情と、出場停止が本当だろう。

普通のスボーツの大会は、そうだろうな。
怪我下から出られないではなく、事件を起こしたものは、出られない。
それが、普通。

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また、消えてる。

2017年12月17日 03時35分58秒 | ニ言瓦版
亡くなったのか。
また、ワイドショーで、死因の原因を説明するだろう。「腹部大動脈瘤(りゅう)破裂」


「脚本家で作家の早坂暁(はやさか・あきら)氏が16日、腹部大動脈瘤(りゅう)破裂のため、東京都内の病院で亡くなった。

 88歳だった。松山市出身。葬儀は密葬の予定。NHKドラマ「夢千代日記」の脚本などを手掛けた。

 日大芸術学部卒業後、専門紙勤務を経て脚本家活動を開始。被爆者をテーマに市井の人々の生きざまを描いた。胎内被爆した芸者を主人公に、吉永小百合さんが主演した「夢千代日記」など社会派としても知られる。

 平賀源内が主人公の時代劇「天下御免」などNHKドラマを多く手掛けた。民放では「必殺」シリーズやサスペンスの他、ドキュメンタリー番組の放送作家としても活躍。「青春の門」などの映画脚本も担当した。自伝的小説「ダウンタウン・ヒーローズ」は山田洋次監督によって映画化された。」


ご冥福を祈ります

いろいろ、作品、見ていた。
脚本家も、いろいろ、この世から、消えると、
だんだん、ドラマも、アニメも、いい作品が、消えるかもしれない。

本当、脚本大学でも、作らないと、人材は、育たない。

==============
調べた。
凄い作品だ。


「作品リスト[編集]
映画[編集]
日本一の裏切り男(1968年)
喜劇 あゝ軍歌(1970年、原作のみ)
青春の門(1975年)
青春の門 自立篇(1977年)
空海(1984年)
天国の駅 HEAVEN STATION(1984年)
夢千代日記(1985年)
ダウンタウン・ヒーローズ(1986年、原作のみ。脚本・監督は山田洋次他)
蕾の眺め(1986年)
公園通りの猫たち(1989年)
超能力者 未知への旅人(1994年)
きけ、わだつみの声 Last Friends(1995年)
北京原人 Who are you?(1997年)
千年の恋 ひかる源氏物語(2001年)


テレビドラマ[編集]
少年孫悟空(日本テレビ、1953年-1954年)
不思議なパック(NHK、1960年-1961年)
ガラスの部屋(NTV、1961年)
仙人(CX、1963年)
七人の刑事(TBS、1963年-1966年、1975年、1978年)
囚人道路(NHK、1964年)
松本清張シリーズ 地方紙を買う女(関西テレビ、1966年)
松本清張シリーズ 愛と空白の共謀(関西テレビ、1966年)
若者たち(フジテレビ、1966年)
真田幸村(TBS、1966年)
愛しの太陽(フジテレビ、1966年)
泣いてたまるか(TBS、1966年-1967年)
剣(日本テレビ、1967年-1968年)
アイウエオ(NHK、1967年-1969年)
三十六人の乗客(NHK、1969年)
てれびじょん’69(MBS、1969年)
鬼平犯科帳(NET、1969年-1970年)
剣豪(NET、1970年)
乱れそめにし(フジテレビ、1970年)
二人の刑事(TBS、1970年)
幻化(NHK、1971年)
浮世絵 女ねずみ小僧(フジテレビ、1971年-1974年)
天皇の世紀(朝日放送、1971年)
天下御免(NHK、1971年-1972年)
必殺仕掛人(朝日放送、1972年-1973年)
こんな男でよかったら(読売テレビ、1973年)
わが愛(TBS、1973年)
たった一人の反乱(NHK、1973年)
天下堂々(NHK、1973年-1974年)
さよなら・今日は(日本テレビ、1973年-1974年)
ユタとふしぎな仲間たち(NHK、1974年)
斬り抜ける(TBS、1974年-1975年)
裏切りの明日(TBS、1975年)
現代浮かれ節考(ABC、1975年)
必殺からくり人(朝日放送、1976年)
渚に死のうと書いたとき(毎日放送、1976年)
オリンポスの果実(NHK、1977年)
新・必殺仕置人(朝日放送、1977年)
ご存知!女ねずみ小僧(フジテレビ、1977年)
冬の桃(NHK、1977年)
鞍馬天狗の「家」(テレビ朝日、1977年)
新 必殺からくり人(朝日放送、1977年-1978年)
田舎刑事・時間よ、とまれ(テレビ朝日、1977年)
おはん(テレビ朝日、1978年)
田舎刑事・旅路の果て(テレビ朝日、1978年)
人間の証明(MBS、1978年)
必殺からくり人・富嶽百景殺し旅(朝日放送、1978年)
東京メグレ警視シリーズ(テレビ朝日、1978年)
わが兄はホトトギス(RNB、1978年)
赤サギ(NHK、1978年)
修羅の旅して(NHK、1979年)
田舎刑事・まぼろしの特攻隊(テレビ朝日、1979年)
続・事件 海辺の家族(NHK、1979年)
宴のあと-自称“小川真由美”の調書(NHK、1978年)
冬の花火 わたしの太宰治(TBS、1979年-1980年)
血族(NHK、1980年) 山口瞳原作
続・続 事件 月の景色(NHK、1980年)
暁は寒かった・誰かが母を殺した日(NHK、1980年)
小児病棟(NTV、1980年)
関ヶ原(TBS、1981年)
新・事件 わが歌は花いちもんめ(NHK、1981年)
夢千代日記(NHK、1981年)
続 夢千代日記(NHK、1982年)
新・事件 ドクター・ストップ(NHK、1982年)
熱帯夜(フジテレビ、1983年)
新 夢千代日記(NHK、1984年)
新・事件 断崖の眺め(NHK、1984年)
花へんろ(NHK、1985年-1988年)
東芝日曜劇場・小さな島で(TBS・毎日放送制作、1985年)[5]
山頭火・何んでこんなに淋しい風ふく(NHK、1989年)
失われし時を求めて-ヒロシマの夢(NHK、1989年)[6]
びいどろで候〜長崎屋夢日記(NHK、1990年)
新金色夜叉 百年の恋(フジテレビ、1990年)=原案のみで脚本は担当せず
実録犯罪史シリーズ 金(キム)の戦争(フジテレビ、1991年) 本田靖春原作
女相撲(TBS、1991年)
グッド・バイ 私が殺した太宰治(CX、1992年)
乳の虎・良寛ひとり遊び(NHK、1993年)
涙たたえて微笑せよ 明治の息子・島田清次郎(NHK、1995年)
悲劇の予言者・海軍大佐 水野広徳(南海放送、1995年)
刑事 蛇に横切られる(NHK、1995年)
新 花へんろ(NHK、1997年)
七人の刑事 最後の捜査線(TBS、1998年)
他、多数

テレビアニメ[編集]
仙人(フジテレビ、1963年-1964年)
太陽の子エステバン(NHK、1982年-1983年) 原案
作詞[編集]
こんな男でよかったら(作曲:高石ともや、歌唱:渥美清)
船出の歌(作曲:山本直純、歌唱:山口崇・林隆三・秋野太作(当時は津坂匡章)
川はいいな(作曲:山本直純、歌唱:山口崇・林隆三・秋野太作(当時は津坂匡章)
天下堂々(作曲:山本直純、歌唱:上條恒彦)
愛の眺め(作曲:三木たかし、歌唱:黛ジュン)
涙(作曲:三木たかし、歌唱:黛ジュン)
夢千代日記(作曲:吉田正、歌唱:吉永小百合)
夢日記(作曲:大沢浄二、歌唱:大月みやこ)
花へんろ音頭(作曲:高橋英介、歌唱:石川さゆり)」
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ヒトの尿

2017年12月17日 03時28分15秒 | ニ言瓦版
凄い。
いろいろ研究しているのか。




「名古屋大学や国立がん研究センターの研究チームが、ヒトの尿からガンを見つける技術を新たに発見したと発表しました。

 発表したのは、名古屋大学大学院工学研究科の馬場嘉信教授らの研究チームです。

 馬場教授らは、様々な病気の兆候を示す「マイクロRNA」と呼ばれる物質に着目。今までヒトの尿に含まれる「マイクロRNA」は、約300種類を検出するのが限界でしたが、ナノワイヤと呼ばれる非常に小さい物質を用いた器具を使い、1ミリリットルの尿から1000種類以上の「マイクロRNA」を検出。この技術を使ってガン患者の尿を調べたところ、特定のマイクロRNAの増減が確認されたということです。

 研究チームは今後、尿を使ったガン診断が期待できると話しています。」


ヒトの尿。
それで、解る。
凄いことだ。

検査も簡単になる時代が来る。

理想は、水のように薬、飲んで、癌をなくすか。
血液で、浄化する方法でも、出来ないものか。
病気になる、菌も、廃止する飲み薬でも、できるといい。
癌をなくす、水とか、あるといい。
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面白い。売れるか、売れないか、見もの

2017年12月17日 03時22分47秒 | ニ言瓦版
売れるのか、売れるかも。
ベルトで、三万。
スマートウオッチと、バンド。
バンドの進化。


「ソニーは、電話やメールの着信通知や歩数計測などの機能が付いた時計バンド「wena wrist pro」を21日に発売する。お気に入りの文字盤と組み合わせ、簡単にスマートウオッチにできる。7月に発売した製品に新機能を追加し、利便性を高めた。

 新商品は小型の有機EL画面を備え、薄さや軽さを追求した。スマートフォンと連動し、メール通知や歩数、睡眠状態を計測できる。

 電子マネー機能も付いており、開発者は「ポケットに何も入れなくても出掛けられる」と売り込む。黒と銀の2色を用意した。市場想定価格は3万7800~3万9960円。

 このほか、スポーツ向けに開発したシリコンラバー素材の「wena wrist active」も来年3月に発売する。衛星利用測位システム(GPS)機能もあり、ランニング中の移動速度や心拍数を確認できる。色は黒のみ。市場想定価格は3万2400円。」


いろいろ、開発しているのかもしれない。
部品の会社と、発想。

スマホに、使えるは、いい。
知らせるは、面白い。


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ゼブラ、いい。ドラマすればいい、朝ドラでも、

2017年12月17日 03時08分21秒 | ニ言瓦版
面白い記事。
知らなかった。
ゼブラ。
何か、会社でも、親族の戦いもある。
よくある話と、世代交代が、生き残る、死滅するか。
分からない。




「「マッキー」「サラサ」など国民的文房具を多く世に送り出す筆記具メーカー「ゼブラ」。なぜ圧倒的に強いブランドを築くことができたのか。その歴史をひもとくと、強さの理由が見えてきた。同社の創業は120年前の1897(明治30)年にさかのぼる。

国内初の金属製ペン先の開発に成功


時は、明治時代。江戸時代までの筆・墨文化とは打って変わり、西洋から輸入されたペン先の影響で筆記具の主流は筆からペンへと移行しつつあった。この時期はまさにペンの黎明期。

当時はインク内蔵式のペンはなく、ペン先に逐一インクをつけるタイプが主流だった。ペン文化のなかった日本では、木の軸につける金属製の「鋼ペン先」を生産する会社は皆無で、国内に流通するすべての鋼ペン先が輸入品であった。

こうした状況に着目したのが、ゼブラ創業者の石川徳松氏。文献や資料のないなか、鋼ペン先の開発に取りかかり、輸入品の見よう見まねで試行錯誤を重ね、1897年に日本で初めて製品化に成功。同年3月、ペン先の製造・販売を目的とし、ゼブラの前身である「石川ペン先製作所」を開業した。



石川ペン先製作所の開業から66年後の1963年5月、商号を石川ペン先製作所からゼブラへ変更する。実質的に経営を引き継いでいた孫の2代目石川秀明氏が社名変更を決断したが、その案を聞いた初代徳松氏の猛反対にあう。

徳松氏は経営者としての側面よりも技術者としてのプライドが強く、「鋼ペン先の製造を行っていれば、100年は安泰だ」と話していたともいわれる。当時は徳松氏が出社したときだけ社名板をひっくり返し、あたかも社名変更はしていない体で対応していたという。

ゼブラという社名は、実はもともとペン先の商標。初代徳松氏が、シマウマ(縞馬)のように全社員が固く団結し、文化の向上と発展には欠かせない筆記具の製造に邁進することを願って定めた。また、縞馬は斑馬と書き表すこともあり、文と王との組み合わせが文具界に身を置く会社としてふさわしい文字であるとして採用したともいわれる。

総合筆記具メーカーへの転換を目指していたゼブラだが、1949年には「オート」が国内初のボールペン「オートボールペン」の開発に成功。後れを取ったゼブラはインクの減りに着目した。外からはインクの減りがわからなかった当時の常識を覆し、インク残量がわかるボールペンを1966年に国内で初めて発売。

「みえる、みえる。インクのみえるボールペン」と歌うテレビCMが当時、大きな話題となった。その後「ハイマッキー」を開発、両頭(太・細)としたことが消費者の支持を集めた。

ハイマッキーは色のバリエーションこそ増やしているものの、現在の形やペン先などはすべて当時のまま。改良することは可能だが、「慣れ親しんだものだから変えないでほしい」という消費者の声に応えてのことだった。

2代目社長の秀明氏は初代とは異なり商売人気質の強い経営者で、特にマーケティングに力を入れた。「消費者に目を向けて」をモットーに知名度向上に注力し、1960年代にはまだ一般的でなかったテレビCMをいち早く取り入れ、その質と量で他社を圧倒。「ZEBRA」ブランドの知名度を飛躍的に向上させた。

一方で、筆記具の製造機械など多額の設備投資を実行し、年商を上回る借金を背負うこととなり財務的には危機的状況に陥った。しかし結果的に、この設備投資の経営判断により筆記具の大量生産が可能となり、ゼブラは1970年代から1980年代にかけて総合筆記具メーカーとしての地位を確かなものとした。

日本経済は、過去に例を見ない高度成長期を経て、バブル景気へ突入する。当時のトレンドであった大量消費を追い風に文具消費も増加、バブル初期はゼブラも順調に業績を伸ばした。5年で売り上げは約100億円増加し、1991年3月期の売上高は240億円を突破。先行きは順風満帆に見えたが、徐々に状況は悪化していく。

「サクラクレパス」などの競合他社は技術革新でゲルインクなど新商品を販売し業績を拡大。ゼブラもキャッチアップを試みたが、結果として後追い商品は不発、さらに技術不足からインク漏れなど不良品を多発し、売り上げは落ち込んだ。さらに、頻繁に行っていたテレビCMの単価が上昇し、ゼブラの躍進を支えたテレビCMをこれまでどおり行うことができなくなった。

しかし、こうした状況を事前に危惧していたのが、当時の役員で現社長の石川真一氏。売り上げが減少基調になる前から技術力不足と商品開発の必要性を実感、社長に黙って商品開発本部を1986年に立ち上げ、次世代への礎を築いていった。

意識改革から「サラサ」ブランド誕生


1998年、石川真一氏が代表取締役に就任。社内の技術力強化を急いだ真一氏は、まず採用方針の改革に着手した。これまで文系出身者を8割、理系出身者を2割採用していたが、その比率の逆転を命じた。革新的な商品開発を行うにはエンジニアの数が不足していると判断したのだ。

商品開発本部の設立から10年以上が経過した頃、徐々に技術者育成が軌道に乗り始める。筆記具消費の軸が徐々にオフィス事務用から個人へ移行していることに着目し、使いやすさにこだわって研究を重ね、2000年に大ヒット商品「サラサ」の発売にこぎつけた。


「サラサ」ヒットの要因は大きく3つある。1つ目は書きやすさの追求だ。濃くはっきりとした文字をさらさらと最後まで書ける商品づくりにこだわった。2つ目は、多品種展開を行ったことだ。100円という低価格とジェルインクの発色のよさを生かし、女子高生をターゲットにラインナップを充実させた。業界最多の46色までインク色を増やし、筆記具ではあるものの持っていてカワイイ、持ちたくなる商品が評判を得た。

そして3つ目は、社内意識の改革だ。真一氏はこのサラサを収益の柱とする戦略目標を全社員に向けて宣言し、「月間1000万本を販売するグローバル商品に育て上げる」と、つねに目標を掲げ続けた。社長自身が販売、生産、開発の現場に足しげく通い意見を吸い上げるほか、結果をつねにチェック。全社一丸となって成果に取り組む体制を整えた結果、現在の販売量は年間約9000万本、累計で約5億本を売り上げるまでに至った。


海外への販売も積極的に行っている。販売本数は毎年10%程度増加しており、現在、ハイマッキーと合わせてゼブラ売り上げの3分の1を占めるなど、当社を支える中核商品に成長。リーマンショック以降、200億円を割り込んでいた売上高を直近4期連続で増加させ、2017年3月期の売上高は約216億円まで回復、「2000年代には約100億円あった借入金はほぼなくなり、健全な財務体質を維持している」(石川社長)という。

斜陽産業としての自覚
創業から120年が経過したゼブラだが、先行きを決して楽観視していない。現在、IT化が進み、国内の産業構造は大きな転換期を迎えた。特にスマートフォンやPCで代用できる産業の衰退は顕著で、一時期“スマホ倒産”という言葉も話題になった。

この影響は書籍ほど話題にならないが、文具も例外ではない。企業内ではペーパーレス化が進み、需要の大部分を占める教育現場では少子化の影響で生徒数自体が減少傾向にあり、国内での需要増は考えにくい。」

時代が変化する中で、石川社長は筆記具の新たな可能性を模索している。具体的には「企業秘密」だそうだが、斜陽産業のなかで筆記具と脳の関係に着目し、研究を重ねている。

経営危機はどの企業でも起こりうるものだ。“ピンチをチャンスに”とは使い古された言葉だが、これを実践するのは並大抵のことではない。ただ、100年を超える長寿企業には、必ず100年続いた要因がある。ゼブラに関して言えば、その要因は「社長の絶対的カリスマ性」と「老若男女が知る数十年来のブランド」だろう。

国内初の鋼ペン先の開発に成功した初代社長、多額の借金を背負うリスクがありながら総合筆記具メーカーへの転換を推進した2代目。そして商品開発本部を設立し、グローバル企業への転換を進めた3代目の現社長。

批判されがちな独断での方針転換、これはゼブラがオーナー企業であるからこそできる技ではあるが、その“突破力”がペン先を製造していた一業者を100年企業へ押し上げた。」


あのCM、思い出す。
ボールペン。そして、ハイマッキーは、多く人が、今でも、書いている。
値段、イラスト、そして、説明文。

どごかのテレビ局、ドラマすればいい。
NHKも、朝ドラでも、すればいい。
ゼブラの話は、いい。
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