原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

可愛い子どもの声が「騒音」となる場合もあり得る

2014年07月16日 | 時事論評
 少し前の朝日新聞「声」欄に、 「子供の声は騒音ではなく癒し」 と題する高齢者男性よりの投稿があった。

 朝日新聞「声」欄は現在無段転載を禁止しているため、原文よりの引用要約ではなく、あくまでも原左都子の記憶のみに頼ってその投書内容を以下に紹介しよう。

 近所に幼稚園や保育所等の児童施設が建設されると子供の声等の「騒音」が発生するため、地域住民より反対運動が起こる場合もあるようだ。 これがどうも解せない。 我が家の隣にも小さい子供達が住んでいて時には大声で泣いたり喧嘩をしたりの元気ぶりだが、その音声は私にとっては「癒し」であり微笑ましくもある。
 世には少子化問題もあれば、高齢者の老後を若き世代に支えてもらわねばならない事情もある。 子供達の声を利己的に「騒音」と位置付けて排除するのではなく、少しは肝要になれないものか。
 (以上、朝日新聞「声」欄投書を、原左都子の記憶に頼り公開したもの。)


 一旦、私論に入ろう。

 子供の声等に関する騒音問題を取り上げるに当たり、如何なる立場や観点からそれを問題視するかの視点こそがまずは検証されるべきであろう。
 朝日新聞投稿者の場合、あくまでもご自身の知り合いである近所の子供達の声を「癒し」と捉えられている。 片や、近隣に幼稚園等が建設される事案の場合、その「集団性」や騒音被害を受ける住民との「無関係性」こそが議論の要点となろう。
 第二の課題として、この投書者の議論が「少子化問題」や「老後の社会制度」にまで飛躍してしまっている事態を私は大いに懸念する。


 次に、原左都子の私事を述べよう。

 現在の我が家も公立小学校から目と鼻の先の位置にあり、日々小学校からの「騒音」に悩まされている立場だ。 我が娘が過去に於いて3年程お世話になった小学校でもあり、物申すのは控えるべきと理性では判断しつつ、実際問題日々の「騒音」のけたたましさには辟易とさせられている現状だ。 
 元々私自身が学校嫌いである事にも端を発しているが、日々授業開始のチャイム音や校内放送の音声を聞かされ続けると、(何でこんな場所に住居を買い求めたのか?!?)との自責の念にすら駆られる始末だ…
 これが運動会やプール指導時期ともなると、それが屋外で実施されるが故の物凄い騒音に苛まれるのだ。 それを耐えろ!と言われるならば窓を閉め切るしか手立てが打てない。 今時のような真夏の時期はエアコンに頼るためそれが可能だが、それ以外の時期には騒音を許容するしか方策が模索出来ない状態だ…

 ついでに言うなら、どういう訳か我が家の集合住宅の前が入居当初より複数“私立幼稚園バス”のバス停ともなっている。 恐らく安全性に基づいて“バス停”場所の判断が下されたのであろうが、これが日々大騒音事態だ! 
 毎朝毎朝9時頃より30間程、幼稚園児達の大騒ぎ音声に苛まれる。 集合住宅前に公道があるのだが、この道を通行する車両が少ない事を親達が安堵しているのか、幼稚園児達を公道で遊ばせつつ日々親達は自分達の会話に夢中だ。 たまに車が来ると「あっ、危ないから気を付けて!」なる声をかけるものの、公道を我が子の遊び場とする事自体を禁止する親がいない事に辟易とさせられる日々だ。  ここは元教育者でもある私が現地に出向いて、親達こそを説諭したい思いに駆られる。  ただ、そんな事をしたところで“おかしなおばさん”の異名を取るだけの結末となる事など承知の上で、諦めているのだが… 


 私自身の我が子に対する「騒音」教育は厳しかったものだ。

 上記のごとく「騒音」には手厳しい立場の親である。 我が子は元々“静か”な部類の子供なのだが、それでも公共場面に連れていくと幼少時は訳が分からず騒ぐこともあった。 
 ある時、子供もOKのオーケストラ講演会に参加した時だ。 まさか普段静かな我が子が公演中に声を上げないであろうと予想していたのに、娘にとっては慣れない場で言葉を発してしまった。 それに咄嗟に反応した前席の女性から「シーー!」と叱責された我が親子は、すぐさま退席しロビーに戻った。
 それに驚いた我が娘に私は今一度、「声を出してはいけない場面がある」事を出来るだけ優しく丁寧に説明したものだ。
 コンサート会場での子供の騒音などは稀な事例であろう。 だが、もしも親の立場で我が子に対して幼い時期より「騒音教育」が可能ならば事は簡単であろうし、世の中がもっと静かに機能するのではないかとの期待もある。


 朝日新聞「声」欄投稿者氏の投稿内容に於けるもう一つの誤り箇所を指摘しておこう。
  
 それは「世には少子化問題もあれば、高齢者の老後を若き世代に支えてもらわねばならない事情もある」との記述だ。
 これに関して原左都子は以前より反発心を抱き続けている。

 そうではなく、現在までの国政が正常に機能していさえすれば、社会保障問題など世代を超越して「正の循環」を繰り返しているはずなのだ。
 それを叶えられずに世代を超えて国民皆に負担をかけ続けている国政の責任こそを問うべきだ! 

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