原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

もしも赤ちゃんの時取り違えられていたなら…

2013年11月27日 | 時事論評
 「小説よりも奇なり」 なる出来事が、現実の世において無常にも実際に発生してしまう事があるようだ。


 昨日(11月26日)夜NHKテレビにて報道された“赤ちゃん取り違え事件”訴訟結果のニュースを見聞した方々は多いのではなかろうか。
 報道によれば、昭和28年に同じ病院内でほぼ同時刻に生まれた男の赤ちゃん2人が病院の手違いにより取り違えられ、病院側に3800万円の支払命令判決が言い渡されたとの事だ。

 その後のNHK夜9時からの「ニュースウォッチ9」では、このニュースに関する更なる続報を伝えていた。
 当該ニュース続報及びNHKネット関連情報より、以下にこの出来事に関して要約して示そう。

 60年前に生まれた東京の男性について、東京地方裁判所はDNA鑑定の結果から病院で別の赤ちゃんと取り違えられたと認めたうえで、「経済的に恵まれたはずだったのに貧しい家庭で苦労を重ねた」として病院側に3800万円の支払いを命じる判決を言い渡した。 
 この裁判は、東京・江戸川区の60歳の男性と実の兄弟らが起こしたものである。 判決で東京地方裁判所裁判長は、DNA鑑定の結果から男性が別の赤ちゃんと取り違えられたと認めた上で、「出生とほぼ同時に生き別れた両親はすでに死亡していて、本当の両親との交流を永遠に絶たれてしまった男性の無念の思いは大きい。 本来経済的に恵まれた環境で育てられるはずだったのに、取り違えで電化製品もない貧しい家庭に育ち、働きながら定時制高校を卒業するなど苦労を重ねた」と指摘し、病院を開設した社会福祉法人に合わせて3800万円を支払うよう命じた。
 判決について社会福祉法人側は、「現在、判決内容を精査し、対応を検討しています」とコメントしている。
 取り違えられた男性の代理人をつとめる弁護士氏は、「男性は幼いころから母親や近所の人から『両親に似ていない』と言われ自分自身も違和感を感じていたという。 実の両親が違うと知ったことで納得した部分もあると話していた。 そのあとは迷いながらも実の兄弟と交流を深めていき、本当の両親の話を聞いて涙を流すこともあったそうだ」と話している。 また、判決に関しては「男性は喜びよりも病院への憤りが大きい。 60年近く実の両親を知らなかったわけで、取り違えによって男性の人生は大きく変えられてしまった。 本人は『自分のようなケースはほかにもいるのではないか』と話していて、病院にはこの問題に真摯に向き合ってほしいと希望している」と話している。
 (以上、NHK報道ネット情報より引用。)


 原左都子が昨夜このニュースを見聞し我が身に照らして一番辛かった部分とは、当該“取り違え被害者男性”と私がほぼ同時代に我が国にて出生しこの世を生きて来ている現実である。
 それ故に、私には“取り違えられ先家庭の貧しさの程”が目に見えるように実感出来てしまうのだ…。

 昭和28年生まれと言えば、日本戦後復興期終盤と表現するべき時代背景だ。
 ちょうど電化製品が世に誕生しつつあった頃で、過疎地の我が家でさえも例えばテレビなど私6歳頃に買い入れた。 その後小型冷蔵庫や手回しで脱水する洗濯機が開発されれば、東京五輪の頃にはカラーテレビもお茶の間に登場し楽しんだものだ。
 ところがこの“病院取り違えられ”男性は、同時期にして大都会東京で6畳一間の部屋に一家で住み、電化製品の一つもなかったとの上記NHK報道である。 当時はまだまだ国内地域間格差が大きかった時代背景も考慮すると、この男性が辿った“極貧の生活ぶり”が実に痛々しい。
 更にはこの男性は一家のために自分が収入を得ねばならず、中卒で働きに出て、自分の力で定時制高校に通ったという。  原左都子が住んでいた過疎地ですら、当時の高校進学率は98%程だったと記憶している。(参考だが、むしろ経済的に混沌とし高校中退率が高い現在よりも、高校進学率及び卒業率が高かった時代背景だったかもしれない…) 
 この男性についての定時制高校卒業後の人生に関する報道がないため、後は論評のしようがない。
 
 片や昨夜9時からのNHKニュースに於いては、“取り違えられたもう片方”の男性の報道も少しあった。 何でも、経済的に相当恵まれた家庭環境に加えて親も教育熱心で、他の兄弟と共に中高は私立に通いその後有名大学へ進学後、一部上場企業へ勤めている現状だそうだ。(細かい部分で私の記憶違いがある点はお詫びするが。)

 そしてNHK午後9時のキャスター氏は、「赤ちゃんの頃病院で“取り違えられ”翻弄された人生を、今後病院からの賠償金により取り戻して欲しい。」と言ったかどうかの記憶も薄れていることをお詫びしたい。
 だが、そのような“無責任な言葉”でこの話題を締めくくっていいものかとの印象を私は抱いた。


 ここで私事に入ろう。

 原左都子自身は、上記“病院取り違え”男性程の極貧の生活を送って来た訳ではないかもしれない。
 ただもしもそのような環境下で子ども時代を送る運命を無常にも叩きつけられた場合、私はどう行動しただろうかの考察を、ここで是非させて欲しい。

 当時の世の中はまだまだ「男尊女卑」思想がまかり通っていた時代背景だ。 そんな中、女である私は、6畳一間の一家内で“女は飯を炊け!”と強要されたのだろうか? そして私はそれを、現在放映中のNHK「ごちそうさん」主人公メイコさんのごとく頑張ったのだろうか?

 私の単なる歴史認識違いや勘違いかもしれないが、ちょっと違ったような気もする。 「原左都子エッセイ集」バックナンバーに於いて公開しているが、どうも私には生まれ持って元々料理センスが一切無い事は明らかだ。
 それよりも、私の適性において6畳一間に住む一家のために私なりにもっと頑張れるべき方策を訴えたかもしれない。 「私の場合家で皆の食事を作るよりも、昼間は外へ働きに出して欲しい。  その金を一家のために提供する代わりに、私は定時制高校に通って頑張り、その後は大学や大学院へも進学したい。 その時期はいつでもいい。 皆が生活できる頃になってからでも遅くはない。 必ずや私が働いたカネで皆を食わせるから、皆も頑張ろう! 皆で頑張れた暁には、家族一人ひとりがそれぞれに自立して自分の人生を歩もうよ!」

 そんな我が思いとは、単なる未知数範疇なのかもしれない。 それでも私は実際問題親元離れて上京後は、自分の努力と能力一本でこの世を渡ってきているとの自負には揺ぎ無いものがある。 
 要するに極論を述べると、我が親など誰でもよかったとの感覚だ。


 病院側に3800万円の支払いを命じる判決で勝訴した、60歳男性及び兄弟の痛烈な思いの程も理解可能だ。 どうか残された時間が有意義なものとなるように、今後の幸せを血縁一家で紡いで欲しいものだ。
 
 ただ“取り違いベビー”もう片方の、(NHKニュース報道曰く)中高大と私立に通い一部上場企業に就職している(本来貧困家庭に育つはずだった)男性の現在のご心情の程も是非共聞いてみたいものだ。
 この方、もしかしたら極貧の中この世を打破しつつ勝ち進むべく人生こそを享受したかったかもしれないよ?!?

 要するに人の人生など何が幸せなのか計り知れない、と言いたいのが原左都子の私論結論である。

 それだから面白いと実感出来る人それぞれの人生こそが、人間生きて行く上での醍醐味なのではなかろうか?

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「英語」とはツールに過ぎない

2013年11月25日 | 教育・学校
 私には、米国在住の実姉がいる。

 30年程前に国際結婚で米国に渡り永住権を取得した後、かの地の某日本総領事館に通訳として勤務しつつ、「日本には何の未練も無い。私はこの国に骨を埋める!」と日本の家族に伝え続けている。


 姉は中学生の頃より、将来は「英語」分野に進むとの強靭な志望を抱いていた。 
 ところが何分過疎地のド田舎育ちのため、英語環境らしきものが周囲にほとんどない。 そんな逆境の中、我が姉は外国人神父氏がいるキリスト教会へ通い詰め自主的に英会話を学んだ。
 そしてその後、姉は県内最高位進学校に進学を決めた後、第一志望だった某国立外国語大学に一発合格して更なる英語力を培っていく。

 時が経過して、姉がその大学を卒業後“フリーの通訳”となり日本国内で開催される国際マラソン大会やユニバーシアードレベルの通訳をこなしていたそんなある日の事だ。
 姉の日本人知人男性から厳しい指摘を受ける事と相成った。 ちょうどその席に居合わせた私は、その知人男性が言い放った言葉を今尚明瞭に記憶している。
 「英語とはあくまでもツールに過ぎない。 ○子(姉のこと)がその英語力で将来一体何がしたいのか捉え処がない。 通常学問分野の専門力として英語を専攻した場合、その英語専門力をもってこそ自分の夢が描けたはずである。(例えば、国際会議レベルの同時通訳をしたい等々。) ところが○子の場合は未だにその夢の程が不明瞭だ。 単に外国に渡って生活をしたいレベルの英語力を欲していたのならば、それを学問として学ばなくとも事が足りたであろうに…。」

 この手厳しい指摘を聞いた私は、大いにガッテンしたものだ。 確かに姉の英語力の程(一応「英検1級」や「通訳検定」等の資格は取得しているが)とは、大学にて学問として「英語」を学んだ割には私の感想としても中途半端感が否めない有様だ。
 当時医学分野の民間企業で頑張っていた私だが、そんな私とて過去に学校で学んだ英語力を活かして仕事上医学英文論文を読むことなど日常茶飯事だった。 何も外国語大学を出ずとも、自分の専門分野ともなれば辞書を引きつつ論文を読むことに集中可能だ。
 片や一旦外国語大学出身者ともなれば、学問としての「英語力」が社会から要求期待されるに決まっているではないか! 

 そんな我が姉だが、結局フリー通訳で知り合った米国男性と国際結婚の後米国に永住したとのいきさつである。
 ただ我が姉が褒められるべきは、中学生の頃より長年培ってきている“英会話力”の程が米国領事館での通訳力をはじめ米国での日常生活に於いても十分通用している事態である。 これは私には絶対に真似の出来ない快挙と讃えるべきであろう。 


 話題を変えよう。
 
 現在の進学高校現場では、公私を問わず「英語科」なるクラスが存在する実態だ。
 実は我が娘が通っていた私立高校でも「英語科」コースが存在したのだが、その当時より保護者であった私はそのクラスの存在意義を疑問視していた。
 まさに英語とは「ツール」に過ぎない。 にもかかわらず、その高校では英語科コースの生徒達を某国立外国語大学へ入学させる事のみに躍起になっていたものだ。 この現象こそが、我が姉が辿った道程を思い起こさせるものだった。

 そうだね。 当該国立外国語大学等“いわゆる有名大学”へ所属生徒を一人でも多く入学させる事が高校側の目標であるのかもしれないね。
 ところが、その先は「英語とはツールに過ぎない」現実を学生は突きつけられる運命にある。 それをどれ程に高校教育現場は理解した上で「英語科」コースを設けているのだろうか?
 確かに、今現在日本国内にも多い「帰国子女」やハーフ生徒をそのコースに追い込むことは可能であろう。 ところが特に「帰国子女」とはわずか数年のみ外国へ渡りその間日本人学校へ通うケースが多いとも見聞する。 その英語力の程が如何なものか懸念せざるを得ない。


 朝日新聞が、「英語をたどって」との連載記事をここのところ夕刊紙面で公開していたのをご存知であろうか?
 11月21日の記事がその連載の最終回だったようだが、その内容に原左都子私論も一致するため以下にその一部を要約して紹介しよう。

 日本人に英語力がない元凶に関して、「中高の教え方が悪い」と指摘する人が多い現実であろう。 さらには入試問題を考える大学も悪けりゃ、予備校も悪い。 いや、文科省こそが諸悪の根源だ。 TOEICを課す民間企業もバカなれば、英語教育産業とて同様の罪がある。 もっとも家庭の親どもが子どもに期待しすぎる。……
 そんなことを言っていてもきりがない。 
 東京大学某教授は、「日本人にとって英語はものすごく難しい言語である」と表明している。 文法、語順、発音、文字すべてにおいて日本語とはまったく異なる文化と背景を持つ言語であることを表明している。 しかも日本人にとって日常生活上英語はほとんど必要でもない現状だ。 にもかかわらず、何故これ程現在の日本の子ども達に英語を要求するのか?
 日本の子ども達とて、読むのは好き、話すのなら任せて、書くのは得意。 そんなふうに、得意不得意があって当然だ。日本語に於いてもそうなのに…。
 今回の連載では、主張したり議論したりする経験自体が日本人には不足しているのではないかとの取材をしてきた。
 英語教育をいくら勉強しても、そこに「言いたいこと」は書いていない。
 言いたい事を言う力をまず鍛える。 日本語で出来ない事が英語で出来るはずはない。
 (以上、朝日新聞記事より要約引用。)


 最後に私論を述べよう。

 まさに朝日新聞がおっしゃる通りである。
 日本国民皆が言いたい事を言える力こそを、まずは国政は鍛えるべく努力するべきである。
 それを叶えた時点で、中高学校教育現場に於いて「英語コース」なるものを設けても遅くはなかろう。 (英語とは単に「ツールでしかない」ことを肝に銘じて欲しいものだ。)

 その上で大学に於ける学問としての「英語教育」に関しては、もっと専門力を上げる必然性があるのはもちろんの事だ。


 決して「英語」を大学(及び大学院)に於いて専門としていた訳ではないこの私など、今現在尚、数十年前に過疎地の中高で学んだ英語力のみで世界(とは言っても大したことはないが…)を渡ってきているぞ。
 年老いて英単語力が欠落している部分は「受験英単語集」を本棚から引っ張り出し紐解きつつ、結局は相手と話したい勢いのみで結構通じることを実感しながらのしがない英会話力範疇であるものの…

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私もいつかは “ばあちゃん” と呼ばれるのか?

2013年11月24日 | 人間関係
 昨日我が娘がはたちの誕生日を向かえ、ケアマンションに住む義母を自宅に迎えて一家で娘の20歳の門出を祝った。

 ところで我が家では実母と義母の呼び方を違える事により、娘幼き頃より両者を一家内で識別している。 
 当初はそれぞれを「○○(地名)のおばあちゃん」と呼び識別していたのだが、長たらしいのに加えて、同じ祖母とは言え両人の人格やら容貌なりがまったく食い違う事に違和感を抱いていた私から、自然と呼び方を変えていった。

 その結果、義母は「おばあちゃん」、 実母は「ばあさん」と呼んでいる。 (私にとっては実の母など 「くそばばあ!」で十分と思う事も多い程、憎たらしい存在であるが…。)
 ただし、亭主と娘はさすがに我が実母を「ばあさん」と呼ぶことは避け、相変わらず「○○のおばあちゃん」と呼んで気遣ってくれているのが申し訳ない程だ…

 加えて、私は義母に面と向かっては決して「おばあちゃん」とは呼ばない。 必ずや「お母さん」である。 これは今後も徹底してそう呼んでいきたい程に、私にとって義母は尊敬すべき人物でありその存在感は大きい。
 片や郷里の実母とは年に2度程しか会わない関係だが、いつ帰省してもあちらの悪態ぶりに辟易としつつ、ついつい「あなた」ないしは「あんた!!」と自然と口から出てしまう実態だ…。


 今回のエッセイを綴るきっかけを得たのは、「原左都子エッセイ集」でおなじみの朝日新聞別刷「be」“悩みのるつぼ”11月23日版を見た事による。

 何でも今回の63歳女性相談者は、「『ばあちゃん』はイヤです」 との事だ。 
 早速この相談を要約して以下に紹介しよう。
 夫65歳、私63歳だが、この頃夫が私の事を「ばあちゃん」と呼ぶので傷ついている。 今の60代など「じいちゃん」「ばあちゃん」と呼ぶには申し訳ない程の若々しさだ。 我が夫は自分が若く見られる事を日頃から自慢している。 確かに若い頃より夫より私の方が老けて見られてきている。 それはそうとして、私は夫から「ばあちゃん」と呼ばれる事には耐えられない。 どうしたら、そう呼ばれないようになるのか?

 今回の“悩みのるつぼ”回答者は社会学者 上野千鶴子氏であられるのだが、氏は、「『呼び方』は関係を反映してますね」 と題する回答内容を紙面に展開されている。
 
 この上野氏の表題を一見して、原左都子はまさに人の「呼び方」とは人間関係の実態を如実に描写している! と同感申し上げた次第である。 
 冒頭に掲げた私からの義母と実母の呼び方が異なる事例など、まさに我が現実の人間関係の有り様を物語っているのだ。


 ここで私事に入ろう。

 我が夫婦の場合、婚姻以来一貫して夫婦間では“名前呼び捨て”である。(欧米式と言えば聞こえがよいが、そんな思惑など一切なくして晩婚後自然とお互いにそう呼び合っている。) それは今現在に至っても一切変わりはない。
 これを自然体で貫き通し、娘誕生後も決してお互いに「おとうさん」「おかあさん」などとは呼び合わなかった家庭のせいか、我が娘も(ごく小さい頃を除き)父母を「おとうさん」「おかあさん」とは一切呼ばず名前(及びニックネーム)で呼んでいる風変わりな一家だ。  (参考のため、「パパ」「ママ」は私自身が反吐が出そうな程気持ち悪いため、子どもにはそれを絶対に使用させなかった。)
 少しだけ原左都子のポリシーを語るならば、親子なれどもそもそも人間皆対等に生きるべきある。 我が娘も成人を迎えた暁には「父」も「母」もへったくれもなく、自己責任で生きていかねばならない立場にある一個人体である。 その娘幼き頃から「名前」で呼ばれようが何らの不都合も無いどころか、その方が娘自立に向けて近道であるようにも考察した。
 おそらくそんな私にたとえ80歳、90歳が訪れようが、亭主や娘から「ばあちゃん」類ではなく、実名かあるいは我がニックネームで呼び続けられそうな実感がある。


 それはそうとして、上記上野千鶴子氏の回答の中で大いに気になる部分があった。

 上野先生には申し訳ないが、その箇所を以下にピップアップして紹介しよう。
 私(上野氏)は最近電車の中で座席を譲られることがとみに増えました。 ショックを受ける人もいるそうですが、年齢相応に見えるのだろうとありがたくお受けしております。 日本もそんなに悪い社会じゃないんだ、と思いながら。
 (以上、“悩みのるつぼ”上野氏の回答内容からごく一部を紹介したもの。)

 上記のご回答にこそ、大いなるショックを受けた原左都子である。
 何と言っても上野千鶴子氏とは原左都子世代の女性達には、一貫した学問力によりこの世を変革するべく働きかけた先駆者たるべく印象があるからだ。
 その上野氏が現在電車に乗ると、席を譲られるのだと???

 その回答内容に少なからずの衝撃を受けた私は、上野千鶴子氏が現在何歳なのかに関してウィキペディアで検索させていただいた。 その結果は、1948年生まれの65歳……

 私が上野氏の年齢に達するまでには、まだまだ我が人生を試行錯誤しつつ刻み続けねばならない。 還暦に近づいているとはいえ、未熟者の私がその年齢に及ぶ頃までに庶民レベルで一体何の業績が残せるというのか?


 例えばの話がそんなことに思いを馳せた場合、他者からの「呼び名」などどうでもよいとも思える。 自己の人生を自分らしく歩み刻めたならば、他者に何と呼ばれようが、高齢になってたとえ電車内で席を譲られようがそれを容認可能との話題であろう。 
 
 若かりし頃より結婚願望も子育て願望も希薄だった私は、晩婚で産んだ娘が昨日20歳を迎えるずっと以前より、「自分の人生はすべて自己責任で好きなようにしなさい」と教育指導し続けている。
 そんな我が娘がもしも将来孫を設けるような選択をした場合、この私も「ばあちゃん」と呼ばれる日が来るのであろうか??

 そんな日が訪れることが自分自身の生き様に照らしてまったく想像も付かない、電車に乗れば未だ痴漢に遭う (あくまでも背面からだが…) 事を鬱陶しく感じつつ、お年寄りに席を譲る日々の原左都子である。  

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「人物本位入試」が掲げる“人物”善悪の基準って何??

2013年11月21日 | 教育・学校
 11月上旬頃、大学入試改革案として「人物本位」を政府教育再生実行会議が打ち出した記事を新聞で発見した。

 この記事の表題のみを一見した私は、咄嗟に、我が娘が高校時代に大学推薦を受けるに当たり、その“推薦基準”に関し学校面談時に担任相手に説明責任を迫った事を思い出した。

 私自身が高校教員経験者でもある立場にして多少大人気なかったかもしれないが、その内容を以下に紹介しよう。

 「高校による大学推薦に際し、貴校の場合は生徒の学業成績以外に“人物評価”も吟味していると聞く。 その“人物評価”に関してお尋ねしたい。 既に指定校推薦者は決定済みのようだが、如何なる“人物評価”基準によりそれを決定したのか? 我が家の娘は“指定校推薦”を得られなかった立場だが、学業成績に関してはその基準を満たしていると捉えている。 そうなると、娘の場合“人物評価”面で指定校推薦決定者より劣ったとの結論となろう。 それが得られた生徒との間に如何なる差異があったのかを明確に説明して欲しい。」 
 これに応えて担任曰く、「○さん(娘のことだが)の場合、高3直前に進路変更したことが最大のネックとなった。 指定校推薦を決めた他生徒の場合、もっと早くから当該大学の推薦を狙いずっと頑張り続けていたためこちらの生徒を推薦した。」
 分かったようで分からない解答ではあるが、要するに決して“人物評価”でお宅の娘さんが劣ったとは、担任の口からは発されなかったのだ。
 これには親として多少救われると同時に、親との面談の場で担任が“禁句”を発しないよう、よくぞまあ徹底的にマニュアル化されていると、当該私学の教員指導ぶりに根負けの思いも抱いた。

 ただ、元教育者である私は更に食い下がった。
 「娘が指定校推薦を得られなかった事由に関しては、一応納得しよう。 それはそれとして、推薦制度に於ける“人物評価”の不透明さを私は常々懸念している。 例えば、一基準として“リーダーシップ力”が挙げられるようだが、たかが10代の子どもの如何なる能力を持って“リーダーシップ力”が優れていると捉えるのか? 学校行事や部活動現場で生徒のトップに立って働いた生徒には“リーダーシップ力”があると判定するのか? それも一つのリーダーシップ力の芽かもしれないが、特に年齢が若い場合は本人が天然気質で無邪気に騒いでいるのみの要因も否定できなければ、単に学校現場にとって扱い易い生徒にしか過ぎない場合もあろう。 そうではなく、10代レベルでは表出し得ない“リーダーシップ特性”を水面下に内在している今だ未完成の生徒も数多く存在する現状を如何に評価出来るのであろうか?」 等々… 
 この私の問いかけに関して、おそらく担任は「今後の検討事項とします。」と応えたような気もするが、明確な回答は得られずに面談が終わったと判断する。


 私事が長引いたが、以下は冒頭に掲げた「人物本位入試」が実際に大学入試現場で実施されることの大いなる弊害の程を検証していこう。

 大学入試担当者の判断とて、高校現場の推薦制度とさほどの差異はないと捉えられる程の低レベルどころか、もっと劣悪な結果を導きそうな懸念を抱かされる。
 と言うのも高校現場での大学推薦とは必ずや保護者面談を通過せねばならないため、下手をすると私のような元教育者等手厳しい保護者より「その基準を明確にせよ!」と突かれる場面も想定可能であろう。

 片や、大学入試現場にまさか保護者がしゃしゃり出る訳にはいかない。 そうなると、大学入試担当者の“思う壺”となる。 一体全体如何なる“人物本位”基準で合格させたり振り落とされるかの明暗とは、入試担当者の勝手気ままな趣味によるしかないであろう事は誰しも想像が付く事態だ。
 この事態とは不透明性が高いと表現するより、試験委員の“好き放題”あるいは“学内で取り扱い易い受験生”を入学対象としている意図が目に見えるとの制度となろう。


 ここで、朝日新聞11月6日の文化面記事「『人物本位』入試の怪シサ フーコーらの議論から考える」なる記事の一部を要約して紹介しよう。

 戦後になって推薦入試やAO入試など学力本位ではない試験が次々と登場した。 この背景には学科の成績が悪くても逆転可能なことに着目する「下克上の欲望」があったとの理論を展開する学者氏が存在する。 
 そもそも試験制度が人間社会で如何なる意味を持つのか? との示唆に富む分析をしたのは20世紀フランス哲学者ミシェル・フーコー氏だ。 氏は近代の試験を「教育実践の中に組み込まれた観察の装置」と位置づけた。 フーコーは、学校のほかにも病院や監獄にも同じ機能があると見ていた。 このフーコーの分析を踏まえ、入試で「人物本位」が強制される場合、「監視装置としての試験の役割はより広がりを持つようになる」と話すのは某東大教授氏だ。 氏曰く、「勉強以外で何をしたの?と試験で問われた場合、「監視」の目が日常生活や心の内までに及ぶ可能性がある。 そもそも、“人物”とは言語化したり計量化したり出来ない領域のもの。 それを評価できると思い込んでいる事自体が問題である。」
 フーコーは一方で、権力からの強制が強まったとして、それを意に介さずのらりくらりと跳ね返す力もまた人間に備わっていると考えていたという。 


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 いやはや、時の政権は何故今さら教育再生実行会議において、無責任にも大学入試制度に「人物本位」なる新案を持ち出したのであろうか??
 この世のどこの誰がそれを見抜ける“神的能力”があると判断したのだろう??? 
 何だかせせら笑いたくなる制度としか表現できない有様だ。 上記のフーコーを手始めとして過去の哲学者達の教えを少しは学び直した後に、政権担当者が大学入試改革案を再び持ち出しても遅くはなかろう。

 人間の個性とは実に多様だ。
 大学進学時点で既に大学試験委員相手にアピールできる“程度”の人物像を描ける若者も、もしかしたら存在するのかもしれない。
 ただ、大方の若者とは社会に進出した後に自分の真の人生を刻み始めるのではなかろうか?

 大学とは入学してくる未熟な学生達に学問を享受させるべき府であるはずだ。

 それを基本と位置付け、大学の門をくぐる学生皆に学問を教授する能力を“大学側こそが”切磋琢磨して身につけるべく精進し直す事が先決問題であろう。
 それをクリア出来た時点で、政府は大学入試改革を叫んでも遅くはないと私論は捉える。

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絵むすび (朝日新聞2013.11.16編)

2013年11月18日 | 自己実現
 (写真は、朝日新聞11月16日別刷「be」に掲載されたパズル「絵むすび」に原左都子が解答したもの。 いつもながら、応募期間締切日に先立ち解答を公開しましたことをお詫び申し上げます。)


 「原左都子エッセイ集」に於いて、朝日新聞「絵むすび」解答を公開するのは今回で4度目となる。

 実にありがたい事に、朝日新聞がパズル「絵むすび」を紙面で公開する都度、本エッセイ集“絵むすびバックナンバー”の閲覧数が大幅に増加するのだ。  この現象とは、ネット各社の検索画面に於ける「絵むすび」検索上位に我が「原左都子エッセイ集」がランクアップされていることを物語るものであろう。

 私の場合、土日の新聞に目を通すのが大抵の場合週明けの月曜日となるのだが、既に土曜日から我がエッセイ集バックナンバーの「絵むすび」検索が急増する現象が起きる。 これを一見して、「ははあ、今週の朝日新聞パズルに『絵むすび』が取り上げられてるな」と直感するのだ。

 本日月曜日になり昼過ぎに朝日新聞土曜日版別刷「be」を開いたところ、案の定、先週のパズル課題の一つが「絵むすび」だった。
 もうそろそろ「絵むすび」解答は個人趣味範疇で楽しもうとの考えもあるのだが、上記のごとく各社検索画面上位に本エッセイ内で公開した「絵むすび」が複数ランクアップされている事実を勘案して、解答を公開するのも我が使命かと思い直し、今回もそれを実行する事とした。


 さて、11月16日版朝日新聞「絵むすび」は“レベル3”である。

 前回公開した「絵むすび(レベル3編)」解答以降、朝日新聞「絵むすび」はレベルが相当上がっているのではなかろうか?との印象を抱いている。
 今回の設問も一見して、今までの“レベル3”にしては難易度が高そうだと判断した。

 いずれにせよ、我が解答方式はいつもと変わりない。

 まずは、一方向のみにしか線をのばせない対象物に着眼した。
 今回の場合、「にんじん」「とっくり」「いか」がその対象となろうか。 特に「にんじん」の場合2個共に一方向へ進むしか手立てが無いため、とりあえずそれを直角線で結んだ。
 次なる標的は右下の「いか」である。これもとりあえず左に線をのばさざるを得ないであろう。 それを実行した後に、下から2~4段目部分に空白が多い事に着眼した。 「いか」はこの空白部分を通せば何とか繋がると予想したと同時に、その合間の横線を「串」の通路と決定した。
 後は簡単。 まずは「どんぶり」を結び、その他の空間を「とっくり」「ふぐ」とつなげば完成だ。

 参考のため、原左都子が今回の解答に要した時間は5分程度だったであろうか。


 などといつも解説しつつ、我が解法が少しも「絵むすび」の基本解法指針とは成り得ていないことなど承知の上だ。
 
 私が思うに、この種の課題を提出されるシチュエーションにより、各自の解答方針が異なってよいのは当たり前と心得る。
 例えば、朝日新聞が“お遊び”範疇で毎週「be」の記事としているパズルなど、まさに読者側も“お遊び”で解答すれば済む話であろう。 何も必死の覚悟で解答する必然性など何ら無い。
 もしも、これが子どもの受験や若者の入社試験の一課題として課された場合には、その意味合いが大きく異なって来る事は私にも理解可能だ。(実際そんな実態があるのかどうかは不明だが…)
 我がバックナンバー検索元の情報を少しだけ得ているのだが、老人福祉施設等でこの種のパズルに皆が挑む事を強制しているらしき記述が過去に存在した。 一旦集団現場でこの種のパズルを自己実現の一端として取り上げた場合、集団施設ならではの“下手な競争”が勃発してしまうことは想像可能だ。 もしかしてその競争を勝ち取るために我がエッセイ集から解答情報を得ているとすれば、人為的競争反対派である私は、今後「絵むすび」解答を当エッセイ集内で公開することを自粛するべきであろう。


 「パズル」とは、元々それに趣味がある人物が楽しむための一娯楽手段に過ぎない。

 過去の学校現場に於ける、まさにパズルごときの「知能指数検査」を児童生徒全員に課した過ちはとがめられるべきであろう。 (原左都子は「知能指数検査」とは単にパズルの延長に過ぎないとの印象を持っていることに関しては、2013.4.22 バックナンバー 元祖「絵むすび」に於いても綴っておりますのでご参照下さい。)


 そうだとしても、「絵むすび」検索により多数の方々が「原左都子エッセイ集」を閲覧下さる事により、大いなる活性化を受けていることも事実だ。

 今後共、朝日新聞「絵むすび」を解答する事により私自身も引き続き脳内活性化を図って参る所存です!

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70歳過ぎてビンボーにはなりたくないが…

2013年11月18日 | 時事論評
 先だって朝日新聞下欄の雑誌広告内に、現在の我が身につまされるようなタイトルを発見した。

 「週刊現代」の一記事であるそのタイトルとは…

 「70歳からのビンボーはこんなに怖い(第3弾) 私はこうして70歳過ぎてビンボーになった <実例集> -幸せだった老後は簡単に瓦解したー」

 この記事を実際に読んではいない。  だが、定年退職後の亭主を自宅内に抱え“老後生活”に突入していると表現できる原左都子の日々の暮らしを鑑みるに、このタイトルは「明日は我が身」なる切実なインパクトをもって身近に迫ってくる。

 いえいえ、私の場合は、貧乏(というより“チマチマ生活”と表現するべきか?)には十分に慣れている。
 何分、子ども時代から「貯蓄」を一趣味としている私だ。  しがない庶民である私が趣味の貯蓄に励むには、日々の生活をチマチマと営む以外に方策はない。
 それでも、上京後の長い独身時代には全ての財産管理を自身が単独で執行可能だったため、その力量手腕によりそれ相応の華やかな時代も演出し得た。
 ところが、一旦家庭を持ち子どもを育てる立場ともなれば、やはり子どもの教育費の負担を第一義とせざるを得なくなるのは何処の家庭も同様であろう。 我が家の場合晩婚だったことがネックであろうが、亭主定年退職後の今現在尚、娘の大学学費等の膨大な費用が発生している。 その大まかな費用の蓄えは一応あるのだが、子どもが既に独り立ちして優雅な老後を送っている定年後のご家庭とは大幅に事情が異なることを実感させられる日々だ。

 加えて「原左都子エッセイ集」バックナンバーでも綴っているが、我が家は亭主定年退職後は夫婦間での「独立採算制」を挙行している。
 とは言え、これには一定の条件を設定した。 婚姻後子どもを産んだ後はその教育指導活動故に大した収入を得られなかった妻側の私であるため、一家の生活費に関しては亭主の企業年金に依存する事とした。 その他の公的年金に関して、お互いの「独立採算制」を挙行したのである。 要するに亭主の厚生・国民年金は亭主のもの。 私の厚生・国民年金(加えて私は独身時代に個人年金保険にも加入しているが)は私の自由裁量にするとの条件だ。(私の方は年金は未だ一銭ももらっていないどころか、60歳までの保険料負担が我が身にずっしりとのしかかっているが。)

 そうだとして、やはり亭主定年退職後の生活は厳しい現実であるのは当然だ。
 アベノミクス経済政策により、今現在自動車業界が再活性化して過去最高の利益を上げているとのニュース報道を見聞するにつけ、(実は我が亭主も定年まで自動者業界人だったのだが)あの過去の栄光を再び!と叫びたくもなる我が家が現在置かれているノスタルジー実態だ…。
 ただし、若き現役世代こそが厳しい現実を突きつけられていることも認識可能である。 今時晩婚・高齢出産が世に蔓延っている現実であろう。 それらの家庭が近い将来我が家同様、老後に及んで子どもの膨大な教育費負担を抱え込む事態も想像がついてしまうのが、ある意味空恐ろしくもある…。


 片や、現在保証人を引き受けている我が身内親族の年寄り達の暮らしぶりを考察すると、過去の政権政策のいい加減さの恩恵に与り、結構な年金を得てそれを老後の豊かな財源としている様子であるのは揺ぎ無い事実だ。
 義母の場合は、自分自身で実業家として経営を全うして得た財産を今現在有効利用し有料高齢者介護施設に入居しているため、他人である私がとやかく異論を唱える筋合いはまったくない。
 一方で我が実母など、自民党政権が勝手気ままに金権政治を築き上げ、年金も社会保障も“どんぶり勘定”のいい加減な時代に公務員を定年までまっとうした世代だ。 その歪んだ政権の恩恵の下で実力以上の年金を現在尚ゲットし続けている。  原左都子としては、この現状は自分の親とて許し難いものがある。 それを時折親に訴えるのだが、既に年老いた我が母はまったく聞く耳を持たない…。 現役世代こそが過去の政権政策失策のお荷物を膨大に背負わされている事実を私が母に理路整然と訴えようが、悲しいかな「あんたはあんたの自己責任で頑張れ」の一言で済まされてしまう…。


 ここで、上記「週間現代」の記事内容に関するネット上の反応の一部を要約して紹介しよう。

 <その1>  「週刊現代」はこのところ立て続けに「貧困老後」特集を打ってますねー。 この雑誌の定番コーナー化するんじゃないかと私の予想。貧しい老人が増え続けることは確実だから。 今週号は、「相続」「老人ホーム入居金」トラブル。 老親が死んで、さあ相続・・・となったときに骨肉化する兄弟の争いとかシリアスだけど、そういう話って老親が認知症になる前にちゃんと書類をつくっておけば回避できるトラブルですがね。
 「節約」って若い人の文化なんですよね・・・いくら節約しまくっていても、自分がいよいよ体の自由がきかなくなって、有料老人ホームに入ってしまえば”一律月生活費20万円以上”で、節約生活とは呼べない生活費になってしまう。
 祖父母は孫にお金なんかやらんでもよろしい。やっぱ親だよね、親がきちんと「おじいちゃんからお金をもらってはいけない」と日頃から子育てやっていないと。

 <その2>  「週刊現代」で70歳を過ぎてビンボーになった特集を連載していますが、共通しているのは長期的な資産防衛をしてきていないということです。 10年、20年、30年という期間を決めて資産をどのように運用し、どのように取り崩すかを予め決めていないために、70歳を過ぎて悲惨な老後となっているのです。
 仮に50歳の人が70歳になった時から資産を取り崩して老後を送る場合、一体いくらのお金が必要なのか自分で計算し、そのお金をいかに増やすか自分で研究し、そして一度決めたらその日がくるまで10年間触らないことにつきます。10年、20年、30年間じっと保有し続けることが、結果的に資産を増やし守ることにつながるからです。
 目先、目先を追い求めれば、結果リスクを背負いこみ、損を被るリスクが高まります。 『自分の資産は自分で守る」という事を実践し、決して3年、5年といった短期では運用収益を見ないということを徹底すれば、悲惨な老後はないかも知れません。
 (以上、ネット情報より引用。)


 最後に原左都子の私論に入ろう。

 「週刊現代」の「70歳…… 」の特集記事をご覧になり、ネット上で持論を展開しておられる上記2名の方の言及にほぼ同意する私だ。
 <その1>の方に関しては、我が家も既に公証役場にて義母の「遺言」を作成しているのに加え、いざ自分がケア施設に入居する場合には月20~30万円の節約生活とは言えない巨大な生活費を課せられる事実である事も十分承知している。
 <その2>の方のご意見に関しても、この世において長期展望の資産運営をせずして老後を迎えようとしている世代に警鐘を鳴らそうとのご見解に、賛同申し上げたい。

 今後老後を迎える人々にとって、政権が如何に移り変わろうが厳しい時代が待ち受けている事は揺ぎ無い事実だ。 
 家庭を抱えていようが独り身であろうが、僕(しもべ)の国民皆が自分自身の老後は自ら責任を持てずして成立し得ない程に、国家財政が厳しい現状であることを再認識しよう。

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市民ランナーは如何に市民と共存するべきか?

2013年11月14日 | 時事論評
 私にはランニングの趣味があることを、本エッセイ集に於いて幾度か披露している。
 日々のランニング練習成果の程を確認するべく、年に2,3度のペースで公的に開催される素人ランナー向けの大会にエントリーし出場してきている。
 先だっての日曜日にも、都内某公立公園内で開催されたロードレースに娘と共にエントリーし出場した。

 
 今回の我がエッセイに於いては(当該ロードレースでの自分の“ヘボい”結果の程は後回しにして)、自治体が管理運営する公共公園内(及びその外周公道)等々でランニング大会を開催する事の是非に関しての私論展開を主眼とする。

 と言うのも以前より私自身が公共公園内等戸外でランニング練習する度に、重々気にしている事があるのだ。
 今現在、ランニング(及びウォーキング)愛好者市民は数多いのに加えて、今後益々増加の一途を辿るであろう。
 そのうちウォーキングに関してはさほどのスピードが出ないため、一般市民に迷惑を及ぼす事態の発生危険性頻度は少ないのかもしれないと捉える。
 一方、ランニングともなるとそのスピードが速い(私の場合決して速くはないのだが)ため、例えば公園内を散歩中のお年寄り達やベビーカーを押している親子連れを抜き去る場合など、大回りする等配慮して恐怖心を煽らないように気遣うべきと心がけている。

 そういった配慮に欠けていると思しき市民ランナーに遭遇する機会が多い現状である。
 上記のごとく原左都子の場合ランニングスピードが遅い事を認めるが、その真横を「こののろま野郎、邪魔だよ!」とでも言いたげに猛スピードで抜き去る市民ランナーに出くわす場面もあるのだ。  相手はおそらく相当のランニングつわものなのだろうが、ちょっと待って欲しい思いを募られる。 
 この場を一体何処とわきまえてるの? 一般市民が集う公園だよ。 そこを個人的ランニング練習場所にするならば、公的施設故の整合性も視野に入れたらどうなのよ! 

 中高学校陸上競技部に関しても、私は同様の感覚を持っている。
 特に都会に於いては、陸上競技部の練習の場が公共公園や公立陸上競技場にまで及ばざるを得ない実態は理解可能だ。 それにしても、一般市民が下手なランニング練習をしている場で、「そこどけ!」とばかりに一丸となって高速で真横を駆け抜ける事態は危険極まりない。
 一体どっちが悪い? 中高生陸上部員達の今後の成長を見守るべきなのに、公立公園内でよたよたとランニング練習などしている年寄りの私が悪いのか??


 そんな肩身の狭い思いを日々繰り返しつつ公的公園内等でランニング練習を重ねた後に、いよいよ都内某公立公園内及びその外周一般道を舞台として開催されたロードレースへ出場する当日と相成る。

 昨年もこの大会に出場した私だが、今年の会場の印象はどうやら(ボランティアも含めた)係員が激減しているのか??との事だった。 レースをスタートしてみると、案の定昨年に比して各所各所で対応する係員の数が目に見えるように少ない。
 例えばこの公園の場合、公園内のメインストリートやサブ道路が一般道の役割も果していて自転車及び歩行者の通行が多い。 昨年の場合、それをロードレース大会のためにほぼ全面「通行止め」にする措置が採られていたのだが、今年は様子が異なった。

 私がエントリーした5kmロードレースなど、何故か公園内の一般市民の通行路がスタート地点だ。
 その“道路”の両側に自転車が数多く駐輪している。 ちょうどスタート5分前に駐輪している自転車に乗って帰ろうとしたご婦人が、スタートラインに立つ大勢のランナーで道を占領され自転車を出せなくて困惑している場面に出くわした。 これ、どっちが悪い?  もちろん、こんな場所をスタート地点としたロードレース主宰者側が悪いに決まっているだろ!  私も直ぐ様そう判断した。  同じ思いの高齢者ランナー女性達が、スタートラインに立っているランナー側こそが場を譲るように指南した。 そして、自転車のご婦人は難儀しつつも帰路につけたとの話だ。

 あるいは私が5km終盤地点でメイン道路を横切ろうとした時、お年寄りボランティア係員の通行止めの措置が遅れたために、危うく自転車通行人と接触しかけた! これには一瞬驚くと同時に失速せざる得なかったものの、私の脳裏に「ここは公道、自転車通行者こそを優先して当然!」との思いが過ぎり、道を譲ると同時に自らを奮起し直せた。  10秒ほどのロスがあったもののそれが功を奏し、私は最終場面の陸上競技場ゴール手前で一人を抜き去れた事に、大いなる達成感をもらえた今回の大会だった。 


 ランニング及びウォーキング人口が急激に膨大する我が国である。 
 何故その種のスポーツ人口が膨大するのか、阿倍政権は認識されているだろうか?

 原左都子の結論を述べるならば、(我が身に照らして)カネがかからず実行可能なスポーツであるからに他ならない。 そして人間関係が希薄化した今の時代に於いて、単身で十分に楽しめるスポーツであるからこそに違いないであろう。

 そうだとしても、公立公園等の公共施設を自治体はこのままの形で野放図にランニング大会の会場として使用許可を出し続けて許されるのであろうか?

 市民の皆が人間関係の希薄化現象に悩み続けている実態の中、各世代及び多様な趣味を持つ市民の皆がそれぞれの立場や個性を活かしつつ公共施設を有効利用したいものと私は心得る。
 そういう意味では、一部のランニング団体が休日の一時に公的公園をロードレース会場として使用してもよいのかもしれない。
 
 それでもそれに出場した一市民の立場から、一般人の通行を塞き止めてまで「単なる素人趣味の“お遊び”でこんな事やってて許されるのか??」との申し訳ない思いを抱く人間が存在する事実にも、思いを馳せて欲しいものだ。

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嫁に行きては嫁ぎ先の風習に従おう

2013年11月11日 | 人間関係
 NHK連続テレビ小説「ごちそうさん」は、ネット情報によれば60代以上の世代と関西地方で前作の「あまちゃん」を超える人気のようだ。

 どうりで、私もこのドラマに感情移入できるという訳か??
 (参考のため、原左都子は還暦一歩手前の年齢であるのに加えて、関西地方出身ではない。 ただし言葉のイントネーションに関しては関西弁の方が感情移入し易いと言える。)

 早速、以下に「ごちそうさん」に関する一ネット情報の一部を要約して紹介しよう。
 大人気を博した「あまちゃん」よりも、「ごちそうさん」の方にこそ視聴率の軍配が上がりそうだ。(「ごちそうさん」の平均視聴率の最高は10月16日放送の27,3%) 放送開始後15回目にして、早くも「あまちゃん」超えを果たしてしまった。  週毎の平均視聴率でも今のところ「ごちそうさん」の方が優勢だ。
 「“わかる奴だけわかればいい”という小ネタが満載の『あまちゃん』は、コテコテの笑いやストーリーを好む関西では視聴率が悪かった。 一方『ごちそうさん』は大阪放送局制作ということもあって関西人の心をガッチリとつかんでいる。 これからはヒロインのめ以子(杏)が大阪に嫁いでからの話になるので、この傾向はさらに強まるはず」 との論評があるのに加えて、
 「『ごちそうさん』の好調は中高年の支持によるところも大きい。」と上智大学文学部教授(メディア論)も言う。   「ごちそうさん」は、朝ドラらしいゆったりとしたスピードに戻って、爽やかな恋愛やヒロインの成長を楽しめる。 その“ゆるさ”が本来の朝ドラの視聴者層にとっては見やすく、心地がいいのでしょう」
 (以上、ネット情報より一部を要約して引用。)


 このエッセイを綴るきっかけを得たのは、本日(11月11日)NHK昼のトーク番組「スタジオパーク」のゲストが、「ごちそうさん」に於ける嫁のメイコの“いびり役”である(義理姉カズエ役の)キムラ緑子氏であったからに他ならない。

 そのトーク内容を紹介する前に、ここで一旦原左都子の私論に入ろう。

 ドラマ内で主人公メイコが嫁ぎ先である大阪の西門家に転居した直後は、さすがに義理姉カズエの“いけず”ぶりに一時メイコの肩を持ちそうになった私だ。
 ただ、その後私は冷静にドラマを観察し続けている。
 確かにカズエの態度には(せっかくメイコが作ったメンチをひっくり返したり、東京から持参した糠床を処分する等)行き過ぎかつ倫理面で責められるべき部分はあるものの…。  要するに脚本家氏としては、あえて義理姉カズエの“いけず”ぶりをオーバーアクションで描写することによりカズエを悪者に仕立て上げ、主人公であるメイコファン視聴者を番組序盤から失わない方策を採ったのであろう。

 そうであることなど百も承知だが、それでも私は義理姉カズエの論理こそを支持したいのだ。
 嫁いで来た矢先の新米嫁がその嫁ぎ先の見知らぬ家族達相手に、少しばかり実家で習ったフォンのだしを取った料理を披露するなど、現在の時代に於いても“もっての他”と私も判断する。  新入りの嫁がなすべき事とは、まずは嫁ぎ先の様子を伺いつつ出された料理をいただきお礼を述べるのが常識ではなかろうか。
 糠床に関しても同様だ。 そもそも何故そんなものを実家の親が娘に持たせたのかの責任こそを私は問いたい。 娘が見知らぬ土地や家に嫁ぐにあたり、とりあえず親とはその家に馴染むよう娘に教育するべきであり、娘が嫁ぎ先に慣れた暁に糠床を手渡し自己主張するべく指南しても遅くはなかったのではあるまいか。

 明治時代の物語であるにせよ現代の平成の世の中であるにせよ、あるいは世界各国の文化宗教が異なる場面に於いてであるにせよ、人間関係における「礼儀」や「配慮」には共通した基本があると私は心得ている。 それは、歴史文化を超越して他者を気遣う視点ではなかろうか。
 「ごちそうさん」のメイコには、明らかにそれが欠けていた。 大阪の嫁ぎ先へ行った直後から、若気の至り故に“自己の表出”を第一義としたことには間違いない。 そうではなく、人間とはまずは一歩退いて周囲の人間の出方を観察するべきではなかろうか。


 話題を本日のNHK番組「スタジオパーク」に戻そう。

 本日ゲストのキムラ緑子氏のトークが興味深かった。
 氏曰く、「意地悪役をいただき演ずる事に関しては役者冥利範疇と言える。 その演技をまっとうするため、今春台本を自分が出演しない場面まですべて読み尽くした。 舞台が大阪版になり、東京場面とは一転して主人公をいたぶらねばならない使命を理解しつつ、とにかく意地悪役に集中した。 その結果として本日スタジオパークでプラスマイナスの反応をいただけることに感慨する。」
 (あくまでも原左都子の観点で上記番組内容をまとめておりますため、キムラ氏の意思に沿っていない点がありましたらお詫び申し上げます。) 

 話題がテーマから逸れるが、このNHK番組「スタジオパーク」に関する疑義をここで一視聴者である原左都子から提案させていただこう。
 本日のキムラ緑子氏のトーク対応に於いて、NHK司会者側が幾度となく同様の質問を繰り返す場面が見苦しかった。 それは「いびり役」に関しての質問だが、番組冒頭そして主たる司会者から同様の質問が既にあり、それにキムラ氏も十二分に回答されているにもかかわらず、何故女性アシスタント氏からまたもや視聴者からの質問として繰り返したのであろうか??
 NHKが高視聴率を得ている「ごちそうさん」を売り物にしたい思いは理解できるが、生放送とは言え、もう少しゲスト氏こそを主役と捉えたトーク番組作りを展開できないものか?


 最後に表題に掲げたテーマに戻ろう。

 古い人間と後ろ指をさされようが、原左都子は「嫁に行きては嫁ぎ先の風習に従う」べくポリシーを持って、今現在も我が嫁ぎ先の人間関係の充実にこそ全力を尽くしている。

 と言うのも、人生のステップとは過去の取るに足りない栄光に捕らわれるよりも、更なる上昇気流に乗る事を目的として日々精進するのが人間の基本と捉えているからに他ならない。
 それは「結婚」とて例外ではない。 もしも何らかの障害を抱えた結婚であったとしても、自分なりの上昇気流に乗せるためにはその障害を乗り越える事こそが我が身に課せられた課題となろう。 それは時代の変遷や文化の差異によらず永遠普遍の人間のテーマかと私は心得る。

 そういう意味では、「ごちそうさん」主人公メイコも力強いまでの努力を番組内で重ねているではないか。
 弛まない努力とは必ずや人に伝わるものだ。 
 そんな一女性の努力の日々を、地道に丁寧に表現しようと試みているドラマ「ごちそうさん」はやはり素晴らしい。
 
 (人間とは、「あまちゃん」のごとく大した努力も能力もなくして突如としてタレントになどなれるわけがないし、そうしてなったタレント生命などはかなく虚しいものだ…)

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薬を何処で買おうが自らの命は主体的に守り抜こう

2013年11月09日 | 健康・医療・介護
 冒頭から、我が義母が現在服用中の調剤薬の数々とその効用及び副作用に関して、その一部を以下に列挙して紹介しよう。 
 (参考のため現在義母は高齢者有料ケア施設に入居中であるが、その保証人代行を任されているため、施設内で定期的に実施される医療措置に関する詳細のデータが我が手元に月次報告の形で送付されてくるのだ。)

 ① 血圧降下剤 … 血管を拡げ血圧を下げる。 めまいやふらつきが起こる事がある。
 
 ② 骨粗鬆症対策剤(ビタミンD) … カルシウムの吸収を助け骨がもろくなるのを防ぐ。 

 ③ 総合消化酵素製剤 … 消化不良や食欲不振などを改善する。

 ④ 胃・十二指腸潰瘍及び胃炎剤(2種) … 胃酸やペプシンの分泌を抑えることにより潰瘍や炎症症状を改善する。 皮下出血、全身倦怠感、脱力、発熱等の症状が現れた場合使用を中止するように。

 ⑤ 末梢血管拡張剤 … 潰瘍や冷えを改善したり神経障害による足の痛みやしびれを改善する。 

 ⑥ 睡眠薬(2種) … 脳に作用して不安や緊張を和らげ寝つきを良くして眠りを持続させる。 薬の影響が翌朝まで及び、ねむけ、ふらつき、注意力の低下が起こることがある。

 ⑦ 鬱薬(2種) … 脳にはたらき神経を活発にすることにより憂鬱な気分やふさいだ気分を改善し、意欲を高める。 動悸、息切れ、めまい、意識喪失等の症状が起こった場合、直ぐに連絡せよ。

 ⑧ 沈炎症貼り薬 … 炎症により起こる腫れを取り、痛みを和らげる作用がある。アスピリン喘息がある場合使用不可。

 ⑨ 緑内障用眼圧低下剤 … 交感神経β受容体遮断により眼圧を下げ、緑内障を治療する。 気管支喘息、心不全、徐脈の症状がある場合使用不可。


 義理姉が膵臓癌により入院闘病を余儀なくされた(その後7ヵ月後に死去)時点で、義母の保証人を我々夫婦が義理姉から受け継ぐ形となった。
 早速ケア施設より届いた義母の上記「投薬」報告を一見して、元医学関係者の私は唖然とした! 
 「何これ! 主治医は本気で体が弱った義母相手にこの劇薬の数々を日々盛ってるの?? それって副作用の数々を併発させとっとと死ねと言ってるも同然だよね。 あなた達実の姉弟は今までその事実を認めてきたという事? 今すぐ、こんな理不尽な投薬医療をケア施設に訴えて無謀な投薬をやめてもらおうよ。」
 それに対する身内の判断に、悲しいかな私も従わざるを得ない実態だった。
 身内曰く、「母には医学的知識が皆無故に、昔から体調が悪いと医療に頼る日々だ。 そんな母にとって医師の指示こそが我が身を救ってくれると信じられる事に間違いない。 今更我々が医学的知識を母に教育しようったって、それは既に老いぼれている母には負担が大き過ぎる。 ここは担当医を信じ医療に頼る母の意思を尊重して、母の希望通りの投薬を叶えてやった方が母自身が安心でき、余生を楽しめると思う。」…

 確かに我が身内が言う通りであろう。 80余年の人生を主治医の判断に頼り、それを信頼して生きてきた義母の医学的価値観を今さら変える力など他人の私には到底ない。
 加えてホメオスタシスの観点も無視できない。(ホメオスタシスを簡単に説明すると、生命体とは環境等の要因に適合しつつその生命を保っているとの理論だが)
 申し訳ないが、副作用で苦しむのは承知の上で義母にはこのまま“薬漬け”の人生を全うさせてあげるしか方策が取れないとの結論であろう。
 (参考のため、我が郷里で一人暮らしの実母とて医学的知識がまったくなく、主治医の指示に頼り多くの調剤薬に頼る日々である…。)


 ここで話題を変えよう。
 一般用医薬品(大衆薬)のインターネット販売を巡る争いが、再び法廷の場に持ち込まれそうだ。
 先だっての11月6日に開かれた緊急記者会見で、楽天の三木谷浩史会長兼社長やケンコーコムの後藤玄利社長は、大衆薬のインターネット販売を一部制限する政府方針に反対し、ケンコーコムを中心に行政訴訟を起こす構えを見せた。
 最高裁判所は13年1月、ケンコーコムなどが厚生労働省を相手に起こしていた訴訟に対し、国の上告を棄却する判決を言い渡した。これで医薬品のネット販売を巡る争いは終結したと思いきや、政府は医療用から切り替わったばかりの市販薬23品目と劇薬指定の5品目はネット販売を認めないという新たなルールを設定。 ネット通販業者側がこれに猛反発したとのいきさつだ。
 その一方で、当然ながら薬害防止の観点から「何が何でも規制緩和」という方針に異を唱える人もいる。  医薬品のネット販売を巡る争いは、新たな段階に入りはじめたようだ。  (以上、ネット情報より一部を要約して引用。)


 元医学関係者である原左都子の立場から、最後に私論を述べよう。
 
 特定薬剤に依存し続けねば命が持たない類の、切羽詰った難病に罹患している人々の存在も当然ながら承知している。 厳しく辛い副作用を承知の上で、命を張ってでもその苦痛に耐えつつこの世に生命を繋ぐため薬剤を使用している患者さん達にとっては、その薬剤こそが命の源である事には間違いない。

 今回の一般大衆薬インターネット販売騒動とは、まさかそこまでの重篤な患者さん達が日々依存している薬剤をもターゲットとしていない事と信じたいが如何であろうか?
 要するにあくまでも安全が保証されている「一般薬」の販売のみをインターネット業界が欲しているとするならば、原左都子としては許容範囲と結論付けられる。

 ただし、困難な問題もあることも予想可能だ。
 自分自身では「薬で治る」と信じてネット販売に頼ったのに、実はその病気が難病であったような場合である。
 そこで私論だが、ネット販売に於いてもネット顧客が欲するままにいつまでも継続して無責任に当該薬を販売し続けるのではなく、一定の販売期間の限度を設定しては如何か?
 もしも顧客の薬購入期間が長過ぎるような場合、一旦ネット販売を打ち切り病院医院を強制的に受診させるべくシステムを導入するとの方策もあろう。

 ネット販売で購入した薬剤で早期に治癒するような症状とは元々“一過性”であり、その薬に依存せずして治癒する大した病気(怪我)ではないと私は心得る。 その種の薬剤に関しては(気休め範疇の意味合いで)ネット販売に頼っても事足りよう。

 片や、大した病気でもないのに患者側の無知さ故の勝手な思い込みで、医療機関受診に全面依存する事の弊害こそが今まで大きかったのかとも考察する。
 過去に於ける政権と医師会及び大手製薬業界との癒着に翻弄され、多くの人々が不要な薬を大量に処方され続けた挙句の果てに副作用死させられて来た事態が、今後薬ネット販売により回避可能な場合もあるかと結論付けたい。

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食材偽装表示 vs ブランドに弱い愚かな日本人の心理

2013年11月07日 | 時事論評
 安物輸入海老や成型肉に牛脂加えたステーキを高いカネ支払って食べさせられたとて、消費者側がそれを堪能出来ていたのなら、今更被害者ぶって「騙された!」と大騒ぎする事もないんじゃないの~??

 現在世を騒がしている「食材偽装表示事件」に関する原左都子の感想を冒頭でいきなり述べるならば、
 「どっちもどっちだよ。」

 まったくもって加害者側・被害者側共々低レベルで馬鹿らしく、私にとってはどうでもよい話題ではある。
 そうとは思いつつ今回のエッセイに於いては、現在世を騒がせている「食材偽装表示事件」に関する私論を展開する事にしよう。


 大阪の名門ホテルに端を発した「食材偽装表示事件」はその後高島屋、東急ホテルズ、そして昨夜のニュースでは伊勢丹等の大手デパートにまで偽装範囲が拡大しているようだ。
 更には本日夜のニュースによると、ホテルオークラまでもが平成18年より偽装を実施し続けていたとの驚くべき事実だ。

 ここで原左都子の私論を少し述べよう。

 そもそもこの事件とは“内部告発”により事が発覚したようだ。
 へえ~、そうだったんだ。  私はてっきりそれを注文した顧客側から、ホテルのテーブルに出された料理を食した直後にレストラン現場でクレームが出たものとばかり思っていた。
 と言うのも、一応名門ホテル(とやら)で高額のカネ支払ってその種の食材を利用したメニューを注文する顧客とは、それが美味しいことを十分承知の上か、あるいはその評判を周知しているが故にその行動を取るのではなかろうか?  そうした場合、運ばれてきたディッシュを一見すれば、輸入安物海老や成型肉などその形態や色彩上、この料理嫌いの私でも見抜けるような気もするのだが…。
 いやそうではなく、オードブル段階で出されるワイン等の酒を堪能してメインディッシュが運ばれて来る頃には酔いが回り、視覚では食材の信憑性を捉え損ねたのかもしれない。 それでもいくら多少の酔いが回っているとは言え、テーブル上のメインディッシュを実際に食せば、国内産の伊勢海老や黒毛和牛の霜降ステーキと比し偽装食材は大いに風味が異なることなど、この原左都子とて実感可能と思うのだが…。

 ここで私事に移ろう。 
 上の続きだが、たとえ料理嫌いの私が家庭内で出す食材とて“偽装”したならば家族皆に即刻バレるのだ。
 遠い昔のある時、スーパーで売っていた安物の成型肉サイコロステーキを夕食メニューの一品としたところ、「これ、まずいよ!」と一瞬にして亭主に叩かれるではないか! それに娘も同調する。  やむを得ず「これ、成型肉よ…」と暴露する私に、「今後は勘弁して」と両人から訴えられてしまった…。 私自身も家族2人の意見から、確かに成型肉とは妙に油がベタつき気持ち悪い風味である事を自分の舌で実際に悟った。 その後は特に肉をステーキ状態で出す場合は、たとえ安物とて本物の肉に頼る日々である。

 もしかしたらホテルレストラン現場で出された食材を、これは偽装であるとホテル側に訴えた顧客も存在したのかもしれない。 ところが、まさかホテル側が弱小立場の顧客の訴えになど耳を傾けるはずもなかったとの論理か? 
 結局、この事件は「内部告発」との勇気に満ちた(あるいは恨みつらみ、あるいは無謀)行動によらねば、解決不能だったとの事であろう。


 食材偽装事件を起こした超本元である、名門ホテルやデパート側の責任ももちろん追及せねばならない。

 ここで、朝日新聞11月6日社説 「客力で食を変える」 と題する評論の一部を要約する事により、その追究を試みよう。
 ホテルで食事といえば、客にはハレの席。 高いお金を払って一流のものをという信頼を正面から裏切った罪は重い。 ホテル側は「偽装ではなく誤表示」などと弁明し騙す意図は無かったと弁明しているがピントがずれている。 
 今、多くの人はグルメブームを卒業し安全・安心な食を求めている。 そんな顧客の意識も逆手に取った今回の偽装の責任は重い。 ここは顧客側こそが、ブランド頼みと距離を置くチャンスだ。 イメージや宣伝に惑わされず「本当においしいか」を吟味するべきだ。 本来日本人とは繊細な味覚の持ち主だ。偽物を淘汰する客力で健康的で美味しい食の世界を育てたい。
 (以上、朝日新聞11月6日社説より一部を引用。)


 最後に原左都子の私論でまとめよう。

 一般市民が現在ブランド志向を卒業して安全・安心な食を求めているとの上記朝日新聞社説内容が、そもそも私には信憑性に乏しく感じる。 ましてや、日本人が先天的に“繊細な味覚の持ち主”だったのかに関しても首を傾げざるを得ない。
 私論としては、とにかく日本人とは過去に於ける「学校教育」の失策により個々人が主体性を失い、メディア情報に流され易い国民性を培っている事には間違いないであろう。

 その主体性の無さは加害者側に於いてこそ顕著とも言える。
 日本に名立たる名門ホテルないしはデパートが、長年に渡り食材偽装を繰り返してきた事実とて、「皆でやれば怖くない」との無責任な“集団心理”が業界内で蔓延っていた事が揺ぎ無い実態という話だ。
 当然ながら、食材偽装を施した業者である加害者側がその責任を取るべきなのはもちろんの事だ。

 ただ私論としても、この国の消費者どもの軟弱ぶりには辟易とさせらているが故に、朝日新聞社説論評と同様に暗雲が漂うばかりである。
 自ら“グルメ”を名乗り世の一流処の食材を買い求めたり、名門ホテルのレストランを食べ歩きしているリッチ族にこそ物申したい。
 貴方達に“グルメ”の自負があるのならば、即座に偽装食材を見抜きその場で加害者側と折衝してその愚行を阻止させるべきだったのだ。  それが叶っていたならば、今回の「食材偽装問題」もこれ程長年に渡って世間に蔓延り世を揺るがさずに済んだはずである。

 結局それが叶わなかった元凶とは、実は被害者族側こそが“グルメ”とは名ばかりで実質舌が肥えていなかっただけの話じゃないの???

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学歴が高過ぎて何が悪い!?

2013年11月04日 | 時事論評
 「原左都子エッセイ集」に於ける 「…何が悪い!?」シリーズもこれが6作目辺りか?

 このエッセイシリーズにおいては、世間一般論として“悪い事”と既成概念化され定着している事象を取り上げ、それら一般論に対する我が反論論評を展開するべくエッセイを綴り公開してきている。

 例えば、2008年4月に綴り公開した「学校が嫌いで何が悪い」など、公開後5年以上経過した今尚、我がエッセイ集のスタンダードナンバーの座を築き上げ日々数多くの閲覧を頂戴しているようだ。 
 (まさに「原左都子エッセイ集」の確固たる1位に君臨するバックナンバーですので、学校教育にご興味のない読者の皆様もよろしければご閲覧下さい。)

 2011年7月に公開した「放射能から我が子を守って何が悪い!?!」 に関してその要点を反復すると、東日本大震災に伴って勃発した福島原発事故により、給食に出される放射能汚染食材を回避する目的で親が自ら作った弁当を子どもに持たせる家庭も多発した。 この親達の行動を「過剰反応だ!」と叩く世論に対して、「馬鹿なことを言うな! 親が我が子の安全を守って何が悪い!」と原左都子が噛み付いた内容である。

 その後、2011年10月には「痩せすぎ女性が存在して何が悪い!?」、同じく11月には「感じが悪くて何が悪い!?」
 そして、最近に至って2013年6月には「テンションが低くて何が悪い!?」と、我がエッセイ集に於いて「何が悪い!?」と銘打つバックナンバーが続く。


 さて今回の「何が悪い!?」シリーズ第6段は、おそらく上記のバックナンバーに比して、世間への訴え力がやや低いか?と自覚しての公開である。
 それでも一応高学歴(大学院修士課程を修了している身)の原左都子にとって、その経歴がある私の立場から世に発言したい思いもあり、以下に私論を展開させていただく事とする。(まあ、私の場合たかが大学院修士課程修了者ですから、博士課程修了者と比し、学歴が“高過ぎる”とまで表現するには語弊がある事は承知の上ですけど…。)

 朝日新聞10月24日記事によると、「日本人、(仕事に必要以上に)学歴高すぎ?」とのことだ。
 その記事の一部を以下に要約して紹介しよう。
 仕事に必要な学歴より、自分の学歴の方が高い「オーバー・クオリフィケーション」の状態にある人が日本人では3割超。 OECD(経済協力開発機構)が23カ国の国・地域間での集計を発表した資料でそんな結果が出た。 一方、現在の仕事が自分の技能に見合っていると感じている人の読解力などの成績から、それぞれの仕事に必要なスキルを算出した結果、職場から求められるより高い成績を挙げた人物の比率は低い結果だった。
 この結果について某大学教授は、「学歴がスキルの水準を示す指標として機能していない。高校や大学の質が保証されておらず、同じ学歴・スキルでもその分散が大きいのが日本の特徴」と指摘する。
 あるいは某労働政策研究者は以下のように話す。「日本では、就職してから仕事を覚えていくスタイルが一般的。企業は潜在能力を求めるのでオーバー・クオリフィケーションの人が多くなる。 一方、一度就職システムからこぼれ落ちると、それなりのクオリフィケーションがあっても発揮する場が与えられない社会構造になっている。」
 (以上、朝日新聞10月24日記事より一部を要約引用。)


 ここで、原左都子の私事に移ろう。

 私の場合20代当初の就職先は、大学で医学専門分野の学問とスキル(大学附属病院内での実地実習)を積んだ後に国家試験受験の上、国家資格取得を条件として民間企業への就職を志向し合格した。 すなわち、就職した当初より自分が学生時代に培ってきていた専門力に期待されての就業である。
 とは言え我が就職先が病院等の医療機関ではなく、民間企業ならではの厳しい関門もあったかもしれない。 それでも私は当初の配属分野であった「免疫学」に関する大いなる向学心を煽られたものだ。 幸いな事に、大学現場での学業と民間企業内で要請される専門力との間にさほどの格差はなく、私は就職後の勤め先が欲する免疫学の知識を我が業績に重ねつつこの民間企業を十分に渡り歩いて来たと言える。

 その後分野を文系に大幅に変え、新たな大学及び大学院へ入学し直し卒業・修了した私だ。
 次なる我が専門分野とは、(最終結論を述べると)「経営法学」だった。 その学問力を活かし就業した先は高校教員なのだが、私は短期間ではあるがその職種経験を積んだ。 上記専門家氏が朝日新聞内で論評されているがごとく、「日本では就職してから仕事を覚えていくスタイルが一般的」なる常識を無視して、当時既に30歳代後半だった私は過去の民間企業経験や医学経験も活かしつつ、高校生達と触れ合いながら、「経営法学修士取得」で培った専門力を高校現場で十二分に発揮できた自負がある。
 それでももうすぐ還暦を迎えようとしている私に、(私の専門力に応じた仕事を)快く提供してくれる職場など一切ないのが現状である事など十分に心得ている。(こちらが立場や賃金面で妥協すれば過去の専門力を活かせる仕事はこの世にあるのかもしれないが、私の方がその種の安易な妥協など御免蒙りたい思いだ。) 


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 それでも分かるのだ。
 今現在、就職難に立ち向かっている若者が置かれている理不尽な立場が。

 要するに我が国日本に於いては過去の教育行政の失策故に、今になって尚「学歴」なるものの信憑性の程が不確実である事実を痛感させられる。
 もしかしたら将来の職業に一切つながらない「文系」出身者を筆頭に、その就職不確実性が顕著ということであろう。 それを各種民間企業側が悪用して、採用後まもない時期から生産性に直結しない使い物にならない高学歴者をとっとと切り捨てている現状ではあるまいか? そうであるとしたならば、高学歴者を切り捨てる民間企業側の身勝手な論理も叩かれるべきということだ。

 何はともあれ、自分の実力とは自分自身が本気になって磨こう。
 学歴を身につけるのもその一端と志向して、私など30代半ば過ぎてから「大学院修士課程修了」の学位をゲットしたものだ。
 我が意に基づく就職先には現在恵まれない(と言うよりも、私の場合自身の成長に結びつかない下手な就職を自ら回避しているのが事実だが)ものの、学位取得の経験とその実績は今尚私自身の生活上大いに役立っている。(自らの不動産賃貸管理、あるいは義母の財産税務管理等々において。)

 学歴が高過ぎようと、自分自身が一生に渡りその学問経験を有効活用可能ならば何らの支障も無い事は元より、世間からバッシングされる筋合いなど皆無なのはもちろんの事だ!

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「良縁」とは自ら紡ぎ出すもの

2013年11月02日 | 人間関係
 10月から始まったNHK連続テレビ小説 「ごちそうさん」 が何とも素晴らしい!

 いや原左都子の場合個人的趣味により、前作の「あまちゃん」が世間では“高視聴率”との指標にもかかわらず、物語の最後の最後に至るまでその作風の安直さに失望させられてばかりだったため、今回の「ごちそうさん」が特別輝いて映るのかもしれない。

 申し訳ないが、私にとって「あまちゃん」とは一切の論評に値しない存在だったと言い切れる。 それ故、番組終了後も本エッセイ内で「総評」を記述する気になど到底なれずして時が経過した。
 あれ程に“流行り病”のごとく「あまちゃん」を奉ったファン達も、実はその後の沈静化が急速である。 その衰退の激しさを今現在痛々しくも認識させられるのは私だけだろうか?  当ドラマに出演した俳優の中でその後のNHK番組に取り上げられている人物も存在するようだが特段再ブレイクするでもなく、時の流れとは残酷である事を実感させられる…。


 冒頭の話題に戻るが、「ごちそうさん」を日々感情移入して見つつ涙を流す私だ。
 「料理嫌い」で名高い原左都子にして、料理を取り上げたこの番組内で主人公はじめ家族や従業員の皆が一生懸命料理作りに励む姿に感動させられるのだ。

 番組開始からこの1ヶ月間に於いて描かれた主たるテーマとは、主人公「めいこ」と下宿人である帝大生「ゆうたろう」さんとが出会ってから結婚に至る道程だったと私は認識している。
 時は明治時代である。  男は仕事、女は飯炊きを中心とした家事に励むのがアプリオリの職責との、現在とは大きく価値観が異なる時代背景だったはずだ。  それにもかかわらず、今の時代に生きる我々にも通じる人間の繊細感情視点を大事にしつつ、実に実に細やかに二人が結婚に至るまでの道程を丁寧に描写し切れているドラマと私は賞賛する。 (料理嫌いのこの私とて、主人公「めいこ」が「ゆうたろう」さんの日々の弁当作りを通じて自ずと成長し、結果として結婚をゲットできた事に大拍手なのである。

 要するに、「ごちそうさん」主人公の「めいこ」は自らの良縁を自らの力で紡ぎ出せたのだ! 
 だからこそ、視聴者の感動を煽るのだと私は分析する。


 話題を変えよう。

 本日11月2日朝日新聞“悩みのるつぼ”の相談は、43歳女性による 「この先良縁に恵まれますか」だった。

 ここで原左都子の私論を少しだけ述べるならば、43歳にもなって他者に自分の良縁の未知数を相談する以前に、NHK「ごちそうさん」でも見て主人公の生き様を見習えばどうか、とアドバイスしたくもなるという事だ。 
 以下に、その相談内容を要約して紹介しよう。
 私は現在43歳で、過去にお付き合いした方は数人いる。 30過ぎてからは特に好きな人が出来るわけでもなく、今に至るまできちんと付き合いをした男性はいない。 勤務先には既に独身男性はいないし、友だちに紹介してもらった相手にピンと来る男性もいない。 自分磨きをしようと思い習い事など多く経験して一通りの事は出来ると自負している。 結婚が出来るかどうかは縁だと思うが、この先私は良縁に恵まれるのか? 私には何が足りないのか?
 (以上、“悩みのるつぼ”より要約引用。)

 原左都子の私論を少し語ろう。
 いやはや驚かされるばかりだ。 既に43歳にして、まるで少女のごとくの相談内容である。 善意に解釈すれば、この女性は本気で心が少女なのかとも推測する。 その手の女性を好む高齢男性はこの国にはごまんと存在しそうだ。 その純粋さを売りにして、見合い結婚を志しては如何かとアドバイスしたい思いだ。

 では、今回の回答者であられる三輪明宏氏は如何に回答されているかについて、「まず自分を省みることです」 と題する回答内容の一部を以下に紹介しよう。
 結婚とは、互いに相手に責任を持つことである。 健康、経済、精神等あらゆる面で相手をかばい思いやって助けてあげるということだ。 まずそこを理解しよう。 相談者自身が変わらない限り、永遠にこのままだろう。 職場には出会いがないということだから、今後は結婚相手を紹介するサービスを利用してもいいだろう。 習い事も一通りやったと言うが、そこから交際が広がらなかったのはどうしてなのか。 男性が多く通っているような習い事(例えばダンス教室等)の場を探してみてはどうか。
 (以上、三輪明宏氏の回答内容より一部を紹介したもの。)


 ここで原左都子の私事を語ろうと埒が明かないことは承知の上で、我が私事を少し記させていただこう。

 私の場合は相談者とはまったく逆で、30歳前後からの男性との付き合いこそが濃厚になったと言える。 元々結婚願望に乏しかった我が20代の恋愛などほぼ少女時代の延長でしかなく、ミーハー的にチャラチャラした付き合いしか経験していないといっても過言ではない。
 そんな折、28歳時点で知り合った男性の影響力を多いに受けたことには間違いない。その付き合いはお互いの意思で結婚には至らなかったものの、互いに培って来た専門力に感動しつつ当時の若さにして素晴らしい関係を築けた自負がある。 この経験こそが、その後の我が恋愛関係の礎になったとも言える。
 結果として40歳近くして晩婚に至った私だが、その結婚は見合いに頼る事とした。 それは何故かというと、三輪明宏氏がおっしゃる通り「結婚」とはその後の一生に於いてお互いに“責任を持ち合える事”に他ならないためだ。 (上記「ごちそうさん」に於いても、若き二人のお互いの責任意識がピックアップされていた。) 

 「習い事」ねえ。
 それに本気で打ち込めたら素晴らしい出会いもあるかもしれないが、私論としては絶望感が漂ってしまう…
 確かに三輪氏が示唆されているように、「ダンス教室」などは男女が出会うきっかけを与えてくれるのかもしれない。 ところがこのような場とは、ひと昔前の若き男女が出会う場所だった「ディスコ」を私など思い描くのだが…。 何の責任も無い若き二人が一時の出会いを楽しんで済むのならば、それも一つの出会いの場所かもしれないが…。


 もしも、“悩みのるつぼ”相談者である43歳女性が今後本気で結婚に至る出会いを願っておられるのであれば、それこそ本気で自分を磨き直してこの世を渡ってみられては如何かと私はアドバイス申し上げたい。
 「本気」の人間には誰某氏かがなびいてくるものだ。 私の見合い晩婚の事例を挙げるならば、現在の配偶者の母親が「この(しっかり者の)女性こそ!」となびいてくれ成婚に至ったと表現して過言ではない。 今現在、ケアマンション暮らしの義母の財産管理まで一任されている私である。

 邪道である事は承知だが、自分自身に何某かのセールスポイントがあれば、人とは結婚にありつけるのかと考察する原左都子である。

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