原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

認知症高齢者医療の今後のあり方

2016年02月29日 | 医学・医療・介護
 「原左都子エッセイ集」昨日の “Popular Entries” に、ほぼ3年前の2013.4.17 に公開した 「患者を『病名』で縛るより、患者の苦悩と向き合おう」 と題するバックナンバーがエントリーしていた。


 このエッセイは、元医学関係者である原左都子の“現在実施されている医療に対する反論及び自己のポリシー”を綴り公開した内容である。
 私自身が久々に読み返して、3年前の我がポリシーに今尚揺らぎがないことを再確認した。


 早速その一部を以下に要約して紹介しよう。

 近頃、メディアを通して聞き慣れない疾患名に接する機会が多い。 それが命にかかわる病であったり、周囲よりの介助を要する程の重篤な症状が出現する病である場合、その疾患名を公にして世に広く知らしめる必然性もあろう。  
  一方、「何となくだるい」「疲労がたまっている」「多少の不安感がある」「気分がすぐれない」 等々…… これら、疾患と言うよりも、一過性の心身体調不良症状を訴える患者をすぐさま検査漬けにした後に「疾患名」を宣告し、大量投薬を施し続けるのが、現在の医療界が安直に実施している“医療”の現状でもあろう。   
 もちろん、上記のごとくの“何となく”の症状から始まる重篤な疾患もある。  それ故に何らかの不調を感じたらとりあえず病院へ出向き、医師の診断及び指導を仰ぐ事は、一般人にとってとりあえず「正しい行動」と言うべきなのであろう。 
 その後が肝要だ。
 もしも自らが最初に経験した体調不良症状が軽減したならば、それで一旦医療依存を休止するとの選択肢もあるのではなかろうか。 ところが一般人が取る行動とはそうではない。 医療機関(特にその頂点の立場の医師)の指示こそが自分の命を救う最大の拠り所と捉え、いつまでも病院通いを続けてしまう…。  もちろん、来所してくる一人ひとりの患者と真に向き合っている医療機関もこの世に存在する事であろう。  ただ、現在医療機関がどれ程混み合っているかの実態を直視しただけでも、悲しいかな患者に対する手薄な対応の現実・実態が推し量れるものと私は判断しているのだが…
        (   中  略   )
 一例として、受診した病院より「全般性不安障害」なる(聞き慣れない)病名を叩きつけられる事自体で、一般市民の皆さんの場合、ご自身の症状が重くなるのではあるまいか?    朝日新聞相談コーナーの場合、相談医師氏が親切な方のご様子で「認知行動療法」、すなわち日常において体を動かしたり趣味を見つける等々で不安を少なくする事を示唆されておられるのが幸いではあるのだが…  
 医療の役割とは、決して一般市民にいきなり「病名」を突きつけて患者を脅す事ではあるまい。
 「病名」に依存する医療組織・体制ではなく、患者一人ひとりが抱える「苦悩」にこそ、医療に従事する人々が真に寄り添える医療現場であって欲しいものだ。 
 (以上、「原左都子エッセイ集」2013.4.17 バックナンバーより一部を引用したもの。)


 さて、ここで私事に入らせていただこう。
 
 現在高齢者有料介護施設に入居している義母の場合、施設と提携している医療機関にいつもお世話になっているようだ。 年に何度か当該医療機関より施設へ医師が派遣され、簡単な問診等の診察が実施されている様子である。

 つい先だって義母が暮らす施設へ訪れたところ、義母から聞き捨てならない言葉が発せられた。
 義母曰く、「あのね○子さん(私のこと)、つい最近医師が私のところへやって来て診察を受けたの。 その前にその医師が書いた前回の『診療のご報告』を見たら、“認知症状が少しみられます。進行を遅延させるための内服の希望があればお申し出下さい。”と書かれていたから、私は急いでその薬を頼んだのよ。」

 その義母の談話に驚いた私は、すぐさま、前回の「診療のご報告」とやらを見せて欲しいと義母に指示した。
 確かにその文言が書かれているのを確認した私は、再び義母に尋ねた。 「担当医師は、お義母さんのその要求に応じたのか?!?」  そうしたところ、義母から返って来た回答に結果として更に驚かされるはめとなった。
 担当医師曰く、「現在既に(義母が)薬を飲み過ぎているから、認知症の薬を飲む場合は他の薬を減らす必要がある。それを何にしようか迷うのだが、大腸炎の薬を減らしましょうか?」 (私論だが、そこまでは許せるとして)、それに応えて義母曰く「それを減らされては困る!」  
 結果として、担当医師は認知症薬を追加したとの事だ。

 ここで一旦私論に入ろう。
 いや、分かるよ。 人生経験不足の若手医師など、極論を言えば認知症高齢者など家族は死んでもよいと考えていると判断しているのではあるまいか!? 
 家族としての本音を言えば、それでもよいであろう。 ところが医学を志した医師ならばもっと細部にまで気配りが欲しいものだ。 
 実際問題、高齢者を抱える家族の身としては高齢身内の「死に方」こそが肝心だよ。 私が想像するに、薬の副作用程度では高齢者とてすっきりと死に至れないだろう。 そうした場合、高齢者を薬の副作用で苦しめるよりも、取るべき手段は他にあるだろうと言いたくもなる。


 ここで、義母が現在投薬されている「疾患」の数々を紹介しよう。
 「高血圧」 「腰部脊柱管狭窄症」 「骨粗鬆症」 「うつ症状」 「不安神経症」 「過敏性大腸炎」 「胆石症」 「緑内障」 「尿鮮血」

 これらはすべて、医学の心得が一切ない義母が体調を崩した時点で即刻医師に受診し続けた結果、診断されてしまった「病名」の数々だ。  私に言わせてもらうならば、これらのうちほとんどは「病気」と言うよりも「老化現象」の範疇であろう。 あるいは、大量投薬の副作用にて二次的に発生した症状の恐れも高い。
 若い頃より医療依存度が高くめくら滅法医者にかかっている義母だが、どうしてその受診を義母にやめさせなかったのか!  と亭主に迫ってみたとて、義母の血筋である我が亭主も今現在医療に頼る日々だ…

 とりあえず私が採れるべき手段として、施設看護師氏に「今回義母がお願した認知症内服薬の処方を中止してもらえないか」と尋ねた。
 そうしたところ、それが可能との看護師氏の返答に一旦安堵した私だ。

 更には、次回の義母担当医受診時に私が同席したい旨を告げて、義母の介護施設を後にした。


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 高齢者医療とは、特に本人に「認知症状」がある場合、担当医師も困難を極めるであろう事は想像がつく。
 それでも医療の基本とはまさに、「患者を病名で縛るより、患者の苦悩と向き合う」事ではあるまいか?

 いや、それでも私は重々理解しているよ。  確かに「信じる者は救われる」との医療の観点も。
 医師が処方する薬さえ飲んでいれば、本気で病気が治ると信じている市民がほとんどなのであろう。 

 高齢者に劇薬を沢山盛ったところで、副作用に苦しめられたとて基本的に死に至る病状では無い高齢者はすぐさま死なないだろう。  ただそれを医療機関(医師)から無責任に大量処方された続けた場合、劇薬副作用の程が更なる認知症状に拍車をかけるのではないかと、恐れる私だ。 

小保方氏は自伝出版により再び墓穴を掘った

2016年02月27日 | 時事論評
 当該「原左都子エッセイ集」2014年バックナンバーに於いて、当時理研に研究者として勤務し「STAP細胞事件」で世を騒がせた 小保方晴子氏(及び所属先である理化学研究所の体質等々)に関し、一連の詳細レポートを発表している。

 その一覧を以下に紹介しよう。

   2月3日     「実験好きと理系頭脳とは相関し得るのか?」
  3月12日    「STAP細胞騒動は基礎研究体質のいい加減さを露呈した」
  4月3日     「STAP騒動、私なら未熟者扱いされるより捏造を認めたい」
  4月10日    「4/9小保方会見、むしろ科学者として墓穴を掘った」
  5月10日    「5/8理研調査委『STAP論文取下げ』記者会見を論評する」
  5月21日    「小保方論文“切り貼り”は何故『改ざん』と確定されたか?」
  6月4日     「STAP論文すべて撤回で、今後の小保方氏の行く末は?」
  6月14日    「理研の新法人化は当分棚上げにするべき」
  7月2日     「小保方氏って、未だ理研から給与貰ってるの?」
  7月29日    「小保方氏はもはや不正疑惑から逃れられない」
  8月5日     「笹井副センター長自殺はSTAP不正を証明したも同然」
  10月25日   「STAP事件は“必然”だったか“偶然”だったか!?」
    12月18日   「STAP細胞、やっぱり見つかんな~~い」

 その後、「STAP事件」の総括として 2015.2.11付バックナンバー 「やっと理研が小保方氏懲戒免職・刑事告発に向け動いた!」 と題するエッセイを公開している。
 以下に、その内容の一部を今一度振り返らせていただこう。

 2015年2月10日のNHKニュース7を視聴していた私は、「STAP関連」ニュースに(朗報との意味合いで)驚かされた。
 それによれば、ここに来てやっとこさ当時の独立研究法人理化学研究所(現 国立研究開発法人理化学研究所)が小保方晴子元研究員に対する措置に踏み切るようだ。   昨年12月に小保方氏の自主退職を認める形となっている理研は、このままうやむやに「STAP細胞」一連の事件に関してすべての事実をもみ消す魂胆か、とも推測出来た。  そして最悪の場合、国民がこの事件を時間の経過と共に忘れ去る事を利用し何もなかったふりをして、安倍政権が掲げている国内最高の研究機関への「格上げ」措置をまんまと美味しく享受する魂胆かとも訝しく思っていた。
 そんな原左都子の憶測の中、既に自主退職してしまっている小保方氏に対して、理研側がどこまでの処分が可能なのかに関しては、尚不透明とのようだ。    (中略)  
 小保方氏の論文捏造・改ざん疑惑に関しては、元々理研就業規定にて判断すると懲戒解雇も免れなかったものらしい。 だが本人の心理的負担を懸念して退職を認めたものの、不当当事者に当たるため今回処分相当を公表したとのことだ。  理研側から小保方氏への返還請求内容に関しては、検証実験費用約1500万円や、論文を書くための研究費など。(これぞ原左都子の私見として膨大な金額と推し量り、理研側から早期に詳細を公表して欲しいものだ。)  理研側からの刑事告発はその対象者が誰なのかも含め、今後1~2ヶ月で結論を出すらしい。
 更には、小保方氏がこれまで弁護人として依存してきた代理人 三木秀夫弁護士は、「お話する事はない」と繰り返した。
 若山照彦 山梨大学教授は、「当時の(理研)研究室の主宰者として責任を痛感している。 今後は教育と研究に取り組むことで責任を全うしたい」とコメントしているが、山梨大学側は今後の対応を検討するべく動いている。
 理研は、STAP論文執筆指導役の(元我が国の再生細胞研究元祖)笹井芳樹氏についても相当する処分を決定したとの事だが、現在故人故に公表を控えたとのことだ。
 (以上、朝日新聞2月11日朝刊記事より、原左都子のアレンジを多少交えつつ紹介。)
 原左都子の私事及び私論に入ろう。
 元医学関係者であり理研にもアルバイトの立場で勤務経験がある私は、昨年2月に発表された「STAP細胞発見!」との科学分野のトピックス的ニュース速報に飛びつくと同時に、当初よりその「胡散臭さ」を嗅ぎ取っていたとも言える。  それ故、理研内にて発生したこの事件の顛末を昨年1年間に渡り、ずっと見守って来た。
 STAP疑惑が全国的に広まった時点で、小保方氏が自ら弁護士を雇い自費にて記者会見を執り行った。 この内容があまりにもお粗末だった事は国民の皆様もご記憶の事であろう。  結果として科学誌ネイチャー小保方論文には取り下げ措置が下され、小保方氏が一時所属していたハーバード大学研究室も小保方氏を切り捨てた。 その後、小保方氏を溺愛していたとの噂があり、我が国の再生細胞研究の大御所であられた理研神戸研究所副センター長 笹井氏が理研内で自殺するとの予想だにしない展開と相成った。
 季節が巡り、どうやら小保方氏は理研調査委による厳しいSTAP細胞再生実験に於いても、STAP細胞を再生不能であったたらしい。
 「原左都子エッセイ集」に於いてこの1年間に渡り、STAP細胞事件を追跡し続けて来た。  
 我が昨年2月当初の疑惑通り、残念ながら「STAP細胞」なるものが実存しなかった事実が決定的との結論がやっと出つつある。  今後科学者を目指す若き人材には、こんな歴史的不祥事を繰り返さない事を、是非共願いたいものだ。
 理研が(現在に於いても国内最高科学機関の地位を維持したいが故の)理研たる所以を貫くためには、今回の「STAP細胞事件」に対する“みそぎ”を必ずや通過するべきだ。  遅ればせながらも理研自体がその措置に前向きに取り組んだ事態を、ひとまず評価したい。
 ただ、私には冒頭に掲げた懸念点がある。  まず一点、既に理研が自主退職を認めた小保方氏に対して本気で今後懲戒解雇・刑事告発をする気があるのか?   もしも安倍政権が「とっとと理研を新しく再生するためには、国民の間で知名度が高い小保方を犠牲にするのが一番手っ取り早い手段」なる安易な政権パフォーマンスで小保方氏切り捨てを公表しようとの魂胆だとしたら…
 小保方氏など元々科学者たり得なかった事実が明白な事を鑑みると、懲戒免職・刑事告発はやむを得ないとして、小保方氏一人を厳重処分して済ませようなどとの安易な考えが許される訳もない。
 加えてこのような国家の貧弱な対応では、“天下”の「理研」にはいつまでも無能な上級研究者達がのさばり続ける事が見え見えだ。  更には末端研究者達はこれまた上司の縁故で雇われ続ける慣習が永遠と続き、今後何ら組織変革が望めない事を想像出来てしまうことろがもっと怖い…。
 (以上、「原左都子エッセイ集」2015.2.11 バックナンバーより一部を紹介したもの。)



 その後の小保方晴子氏の“扱い”を原左都子の目線で語るならば、様々な意味合いで上記2015年2月の私の予想より“ずっと軽い”扱いとなっている。

 それもそのはず。  とにかく当時の安倍政権の国内基礎科学研究への“ド素人首相”との立場からの“めくら滅法”の思い入れは、物凄いものがあった。
 安倍氏にとっては、単に理研幹部に利用され潰されようとしている小保方氏などどうでもよかったのだ。 そんな事より、我が国最高にして最大の科学研究所である理化学研究所へ兆単位を超える財源投入を焦っていた、との結論となろう。

 結果として、小保方氏は法的結論としては「無罪放免」となった。
 ただし小保方氏本人にとって、これぞ大いなる痛手であり屈辱だったのではなかろうか? と元科学者の端くれである原左都子は推測するのだ。


 そうして小保方氏は、今頃になってその反撃に出た。
 これぞ、「自伝出版」だ。
 講談社より2016年1月29日に発刊された小保方晴子氏による「自伝」の売れ行きが芳しい事を、既に皆さんご存知であろう。

 とは言えども小保方氏のその行為とて、出版社に促された事が歴然であろうと推し量る。

 この“書物”に関するネット情報によれば、「小保方氏のように過剰な偏向報道に晒された人物が書く手記に感情面が書かれないことはあり得ない。それでも本書では、可能な限りファクトベースで書くことを守ろうとした小保方氏の信念を垣間見ることができる。」 あるいは、「小保方氏が早稲田大学から博士号を剥奪され研究する環境も失った現実を知らないのだろうか。小保方氏は騒動の渦中でも自由に発言する権限もなく、わずかな反論さえもマスコミの圧倒的な個人攻撃の波でかき消された過去を忘れたのだろうか。」
 等々、小保方氏弁護見解も公開されている様子だ。


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 小保方晴子氏は今尚“引きこもって”おられるらしい。
 そんな心理面での厳しい環境下に於いて、何故今、出版社に促されるがままに「自伝」など出版するとの選択をしたのか?!?
 これぞ小保方氏が未だ正常な精神状態を失っている証拠と、私は結論付ける。

 若き小保方氏が、理研をはじめとする各界の再生細胞研究者長老どもに利用された事実が歴然であることなど、科学の素養がある人間として今更繰り返す必要もないだろう。

 それでも、もしも小保方氏が今一度科学界にて研究を続行したい意思が心の底にほんの少しでもあるのならば、今回の「自伝」発刊は慎むべきだったのではあるまいか?
 それを易々と実行した事実こそが、小保方晴子氏とはそもそも科学者としての資質が全くないことを証明したようなものだし、自伝発刊により再び“墓穴を掘った”、と結論付けるより他ないであろう。

地方マラソン大会開催のあり方と「地方創生」の未来

2016年02月25日 | 時事論評
 (写真は、少し古くなるが昨年秋 2015.11.8 地元自治体開催のロードレースに出場した折にプロが撮影してくれた私の写真。 当日あいにくの冷たい大雨に見舞われ、私自身全身ビショビショならば、整備されていないトラックが泥水ぬかるみ状態のゴールを、最後の力を振り絞って駆け抜けた事が今となっては懐かしい思い出だ。)


 2月28日の東京マラソン開催まで、後3日と迫っているようだ。

 50の手習い(と言うよりも単に一人で勝手に走る練習をしているだけの話だが)にて、遅蒔きながらもランニング趣味に目覚めている私だ。
 日々の練習の集大成の意味合いと自己記録確認目的で、年に2度春と秋に一般ランニング大会“5㎞女子の部”にエントリーして出場するようになってから、既に5年の年月が流れている。


 そんな私だが、決して東京マラソンにエントリーしようとは思わない。
 と言うのも、そもそも“5㎞レース”の部がない故だ。

 それよりも何よりも、一般庶民ランナーが東京マラソンに出場するためには大きなハードルを越えねばならいのが現実だ。
 以下に、そのエントリー条件の一部を紹介しよう。
  
1. マラソン:大会当日満19歳以上(36,500人)
(1) 一般
6時間40分以内に完走できる者
※障害を持つ方で単独走行が困難な場合は、伴走者1人をつけてください。(盲導犬の伴走は不可とします)。
(2) 準エリート
「RUN as ONE - Tokyo Marathon 2016」により推薦された者
(3) エリート
※申込みは12月から行います。 2015年度日本陸上競技連盟登録競技者で、別途定める参加基準に達する者
・招待選手 日本陸上競技連盟が推薦する国内・国外の者
(4) 車いす(一般)
レース仕様車で2時間10分以内に完走できる者
(5) 車いす(エリート)
※申込みは12月から行います。 2015年度日本パラ陸上競技連盟登録者かつ2016年IPC登録予定者で、大会当日にIPC ATHLETICS国際クラス(T53・T54)を所持している者。 なおかつ IPC公認大会で、男子1時間50分以内、女子2時間以内の記録を有する者
・招待選手(日本パラ陸上競技連盟が推薦する国内・国外の者)

2. 10km(500人)
(1) ジュニア&ユース
大会当日満16歳から満18歳までの1時間30分以内に完走できる者
(1997年3月1日以降、2000年2月28日までに生まれた者) ※東京都が東日本大震災復興支援を目的として企画する事業に参加する者を含みます。
(2) 視覚障害者(大会当日満16歳以上/盲導犬の伴走は不可)
1時間30分以内に完走できる者 ※単独走行が困難な場合は、伴走者1人をつけてください。
(3) 知的障害者(大会当日満16歳以上)
1時間30分以内に完走できる者  ※伴走者1人を必ずつけてください。
(4) 移植者(大会当日満16歳以上)
1時間30分以内に完走できる者 ※移植者の対象は、臓器移植者、骨髄移植者に限ります。
(5) 車いす
(大会当日満16歳以上/健常者の参加は不可) レース仕様車で35分以内に完走できる者

参加料
マラソン :国内 10,800円、海外 12,800円
10km :国内5,600円、海外6,700円
※事務手数料、消費税込み

 (以上、東京マラソン公式サイトよりごく一部を引用。)


 ここから私論に入ろう。

 大都会東京で何故大規模マラソン大会を実施せねばならないのかが、私としてはそもそも大きな疑問だ。
 この大会開催を企画したのは石原慎太郎元都知事が東京都を牛耳っていた時代の事と記憶しているが、ランニング趣味がある私としては当時より開催反対派だった。
 開催当日には長時間に渡り道路交通が規制されざるを得ない。 都内の大動脈とも言える主要道路を一時閉鎖して、一般市民に多大な迷惑をかけてまでそれを実行すると宣言した石原氏の無神経の程を問いたい思いだった。 (その傍若無人の図太さが、安倍政権による2020東京五輪強引開催に繋がったものと、五輪開催反対派の私など考えている。

 もちろん、日本の首都東京に於いて開催される「東京マラソン」の意味合いは元々“地方創生”にはなかった事実は明らかだ。
 そうだとすれば現在国内都道府県各所にて開催されているマラソン大会にその場を譲っては如何かと、私など考えるのだが。  何も首都東京で首都機能を麻痺させてまでも大規模マラソン大会を開催せずとて、今となっては地方がその開催を担ってくれるであろうと私は解釈している。


 私事に入らせていただこう。

 そんな思考がある私は、今年の春エントリーするマラソン大会を「地方」にて開催する大会に的を絞り検索した。

 そうしたところ、私なりの嗜好で良き大会を発見したのだ!
 それは、2016年5月22日開催の「小豆島オリーブマラソン大会」である。
 ちょうど開催時期である5月下旬頃に郷里に一人暮らしの実母を訪ねる予定でいたのだ。 少し早めに東京を出発して小豆島に立ち寄りマラソン大会に出場し、小豆島を観光後、フェリーにて我が郷里に渡る手筈を整えようとした。
 そして早速ネットにて小豆島旅行を検索したところ、な、な、なんと! その日程では私が欲するホテルの予約は不能とのことだ。
 直ぐにその事態の背景が理解できた。 要するに5月22日「小豆島オリーブマラソン大会」開催のため、小豆島内の観光施設はマラソン参加者でごった返しているとの事なのだろう。
 (参考のため、「小豆島オリーブマラソン大会」出場者総数は数千人規模との事だ。)

 いやはや、小豆島の人口が如何程かは存じ上げないものの、年に一度のマラソン大会出場のため、その一時は島外からの訪問客で島中が満杯となる実態を思い知った私だ…
 更に、小豆島マラソン大会関連の映像をネットで検索するに、島への唯一の交通手段である連絡船内がマラソン開催期間“ゲロ混み状態”であることを確認した私は、すぐさま小豆島マラソン大会への出場を断念した… 
 (小豆島へは空いている時に観光申し上げたい思いが山々ですので、何卒小豆島の皆様、お許し下さいますように…)


 そんな私は、「地方創生」のあり方に関して思う事がある。

 地方過疎地に於いては、とにもかくにも人を集めねば経済効果が達成不能な事実は十分理解可能だ。
 ところが、その「人の集め方」を地方に住む人達こそが熟考し直すべき時代背景ではなかろうか?

 「阿波踊り」で著名な我が郷里にも共通しているのだが、お盆の一時に集中して人を集めるとの手段では、もはや「地方創生」など叶う訳もないであろう。
 
 かと言って、ヘボい「イルミネーション」などで人を集めようとて既に陳腐感があり限界があろう、とのエッセイを既に私は綴り公開している。 (2013.12.30公開「原左都子エッセイ集」バックナンバー 「イルミネーションだけが地域観光起こしでもなかろうに…」 をよろしければご覧下さい。)


 遠い昔の40年程前に地方を捨て去り上京した後首都圏暮らしが長く、しかも今後郷里の過疎地になど舞い戻る意思がまったくない私が勝手な見解を述べたとて、郷里に住む人々の反感を煽るだけなのだろう。
 それを承知の上で綴り公開した、今回のエッセイだが…

就活面接はオープンでフランクな方が嬉しい

2016年02月23日 | 仕事・就職
 2017年(来年度)卒の大学生就活解禁まで1か月を切っているせいであろうか。

 私が今年3月に大学を卒業する娘の就活に直撃して綴ったエッセイのひとつ 2015.8.1 バックナンバー「ありのままの貴方こそが企業が求める人材だ!」 へのアクセスがここのところ増えている。


 その内容を、以下に少し振り返らせていただこう。

 我が娘など経団連指導による“新制度”を「解禁破り」し、既に3月初頭より自主的に就活を開始している。 というのも娘が通う大学が就活新制度に対応し、大学3年時までにすべての卒業単位を取得する事を半強制して、大学4年生時には就活と卒業研究に集中可能なカリキュラム構成にするべく努力している故だ。 もちろん、それに従わない(あるいは奨学金返済を自己負担とし日々バイトに励む義務のある)学生も数多い事実の様子でもある…。
 ところが我が娘は就活歴5ヶ月が経過した8月にして、未だ「内定」とやらを一度足りとて頂戴出来ない有様だ。  娘の場合、諸企業の一次筆記試験には大抵合格して来る。 ところが次なる「面接試験」で幾度も振り落され続ける現実だ…
 そんな折、朝日新聞紙面にて 社会学者 上野千鶴子氏が大学生の相談に答えるご回答を見つけた。 その回答の程が的を射て素晴らしい!   以下に結論部分のみを紹介しよう。
 貴方は「アナ雪」のように「♪ありのままで」就活に臨めばよい。 ただ、問題は貴方が「ありのままの自分」に自信を持てない事にあるようだ。 面接担当者とは貴方がこれまで達成して来たことよりも、これからののびしろを見る。 その際必要なのは、貴方の能力よりも態度。自分に自信があるか、おどおどしているかはすぐ見抜かれる。 過剰な自信は逆効果。 自分がこれまで生きて来たことに信頼して、未知の事態に対して前向きに取り組める姿勢があれば、それが評価されるだろう。 これからの就活戦線、何勝何敗になるか分からないが、失敗しても「人格を否定された」訳ではない。 貴方が求めるものと相手が求めるものとの不一致にしか過ぎない。 「(相手から)求められる人材」をあれこれ心配するよりも、貴方が将来就く仕事に何を求めたいのか、それを点検する必要がある。 (以上、“悩みのるつぼ” 回答者 上野千鶴子氏の回答の一部を少しだけアレンジして引用。)
 元々天邪鬼の原左都子など、本日昼のNHKニュース映像にて取り上げられた某一部上場企業(商社だったが)の面談風景を目にして、意地悪視点で首を傾げた事がある。  新卒者の面談を実施しているのが、何と年端もいかない新卒者と同年代と思しき若者達なのだ!
 ちょっと勘弁して欲しい気もする。  子ども同士で面談し合って何が判明するのだ?? これじゃあ、自分と同類の若造を選抜するのが関の山ではないのか?  まあただ、大手商社が文系大卒者を選抜する場合、そもそも何らの専門力もない者同士(更には恐らく縁故採用者同士)だろうから、この種の選抜方式を取るのが関の山なのかなあ???   何だかこの猛暑の時期に肌寒さすら感じ、悪寒がするね……
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用したもの。)


 話題を2017年度卒の大学生就活に戻そう。

 朝日新聞2016.2.12 付「面接で違法な質問ダメ 学生の人権守れ 大阪で大学・行政連携」なる記事を発見した。 その内容の一部を以下に要約して紹介しよう。

 大阪府内のある男子学生は、就活面談で「お父さんの職業は?」と尋ねられ、母子家庭故にその回答に戸惑ったという。 大就連では、学生に「就職差別等についての報告書」の提出を呼びかけ、職業安定法に基づかない募集要項や面接での質問等、法に抵触する内容があった場合、大阪府からの改善要請や労働局からの行政指導が行われる仕組みとなっている。
 このケースでは、男子学生に対する家族についての質問は本人の能力や適性には関係がなく、不必要な情報で採用選考上予断と偏見が生じる可能性があるとして、労働局が指導。 会社側もこれに対し釈明し、今後社内統一基準を作ることを約束したという。
 (以上、朝日新聞記事より一部を要約引用したもの。)

 一旦、原左都子の私論に入ろう。
 上記の事例の場合、就活面接が確かに母子家庭に暮らしてきた男子学生を傷つける結果となったと同時に、その質問が「就職差別」に繋がったと判断可能だ。 企業側に改善を求めた労働局側の対応は的を射ているし、男子学生がその後この種の就職差別を受けることなく望む企業に就職出来たことを祈りたい。


 ここで、原左都子の私事に入らせていただこう。

 当エッセイ集内で度々公開しているが、我が娘は若干(あくまで若干の範疇だが)の事情を抱えてこの世に誕生している。
 娘幼少の頃よりサリバン先生を母の私が実行しつつ、何らの社会福祉制度にも依存することなく、あくまでも娘自身の指導教育を徹底するとの手段で、通常の社会にて生き抜く力を育成して来ている。 サリバンの私としては十分普通に世を渡る力を娘に伝授出来たと自負しているし、元々持って生まれたDNA資質に恵まれた(両親のいいとこ取りをしている)娘側も、一人の成熟した人間として世に出るべく心がけていると把握している。

 就活採用現場に日々精力的に出かける娘を一見すると、(エントリーシートから判断して家庭内での成育歴は良さそうだし、本人も普通レベルの学力はある、 が、何かちょっと変かな?)なる感想を抱く面接担当人物が存在するのも否めない事実であろうと捉えていた。
 それが、「大当たり」だったことが悲しかった頃に母として綴ったのが、冒頭で紹介した「ありのままの貴方こそが企業が求める人材だ!」 とのエッセイだ。 

 ただ、サリバンである私もへこたれない! 
 娘には相変わらず 「ありのままの貴方こそが企業が求める人材だ!」と告げつつ、それを認めない企業とは元々縁がないのだから、落とされた方がずっとマシ!! とまでサリバンとして言い続けた。


 そんな折に巡り会ったのが、娘が自らゲットした就職先である。
 小規模会社であることがラッキーだったのか、その企業の面接では口数が少ない娘に対して、オープンかつフランクに面接担当者が対応してくれたとのことだ。

 例えば我が娘の名前は古代ギリシャ哲学から命名しているのだが、それを心得ない人物から、娘の名前がカタカナであることに対し、「ハーフですか?」なる意に反する質問を繰り返された過去の歴史がある。 
 (いい加減にしてよ! あんたの方こそ高校レベルで習ったはずのギリシャ哲学を何で知らないの!??)と母の私など、尋ねる人の無知さ加減にむかっ腹が立ったものだが、我が娘の方がよほど人間が出来ている事実に我が怒りをいつも鎮めて来たものだ。

 この娘の命名の由来を、娘を採用した民間企業の面接担当者氏が初めて尋ねて下さったとのことだ。 (これぞ、それを命名した母親冥利に尽きるのだが。)
 それを娘にきちんと聞いてくれた後、その命名由来に感激したらしき面接担当氏が、自然な流れで更なる質問として「ご両親は如何なる職種の方ですか?」と娘に尋ねたらしい。 それにも娘はすべて答えたとのことだ。(父はともかく、母である私の職歴を語るのは大変だったと思うのだが…
 何も我が家の自慢話を展開しようとの意図ではないが、このような面接場面も存在してよいのではないかと、私など“逆バージョン”として思うのだ。


 もちろん、上記母子家庭に暮らす大学生の事例こそが数多い現実であろうと心得る。その現実は保護するべきだ。

 ただ、たかが未熟な大学卒業生を雇い入れる新人採用面接に於いて、何故にそれ程までに個人情報保護に邁進せねばならないのだろう??

 我が家など、面接担当者氏がオープンかつフランクに未熟な娘に個人情報を尋ねてくれたお陰で叶った就活内定だっと総括できるのだが… (単に、我が家が特殊な事例なのだろうか…??)

“いじめる側”の心理分析こそを実行するべき

2016年02月21日 | 時事論評
 昨夜、私は午後7時30分より放映された NHK特集ドラマ 「海底の君へ」 を見た。


 冒頭から話題を変え私事で恐縮だが、先週は私の現在の義務として背中に重くのしかかっている各種の業(なりわい)に翻弄される一週間だった。

 義母介護の一端である病院への付き添い、義母所有財産管理1年間の総括とも言える青色申告実施、介護施設ケアマネジャー氏との今後の介護計画の話合い。  それから亭主の税務申告にも付き合った。(と言うよりも私主体に申告作業を実施した。)


 特に記憶に新しい昨日の義母入居介護施設のケアマネ氏との話し合いに関し、少し愚痴をこぼさせていただこう。

 日頃の義母の介護ケアを全面的に高齢者有料介護施設にお世話になっている家族の身としては、その立場上、ケアマネ氏を筆頭に施設のスタッフの皆様に深々と頭を下げるのも仕事の一つだ。
 丁重な姿勢でそれを実行しつつ、それでも義母が抱えている実態に関しての家族側の本音も施設へ伝えねばならない。 
 私としては常に施設スタッフの皆様を尊重しているつもりでいても、相手にとっては私の発言を“顧客からの非難・苦情”と捉えるところもある事を承知している。 特に義母の要介護度が上がってしまった暁に於いては、この懸念が的中しスタッフの反感を呼び起こしてしまうのかとの予感があったのだが、昨日それがまさに的中してしまったようだ。

 実際問題、私としても義母と接する事自体に日頃大いなるストレスを感じている。
 そんな自己感情を押し殺して、あくまでも施設のスタッフの皆様を尊重しつつ会話しているつもりなのに、相手は顧客の私に責められているのか?!と感じている様子だ…  返ってくる回答とは、「施設内での対応にも限度があります。常に義母様を尊重しています。 義母様は実に良き方で我々の提供するサービスに満足されている様子です。」等々自己弁護発言ばかりだ…。
 これでは話し合いにならない。
 と言うよりも、まるで私が施設のスタッフを“いじめ”ているかの構図が我が脳裏に浮かんだ段階で、「いつも本当にありがとうございます。」と回答し、話し合いを終了するしか方策が取れなかったものだ。

 ただ施設スタッフ皆様の日々の激務を思えば、その我が対応で正解だったと自分を慰めつつ、家族と共に短時間の酒宴の後自宅へ帰った。


 そしてニュースを見ようとNHKテレビをつけたら、夜7時のニュース報道の後、ドラマが始まった。

 そのドラマの視聴を最初から目論んでいた訳ではないのだが、主演の藤原竜也氏(この方、イケメン童顔長身で結構私の好みだ!)が、ドラマ冒頭より物凄い演技をしている!!

 どうやら、「いじめ問題」を題材にしたドラマの様子だ。
 それにしても、藤原氏の“いじめられ役”の演技の程も素晴らしいければ、彼女役である“いじめられ役高校生”の姉役女優氏の演技力も捨て難い。 
 元教育者である原左都子としては、もちろん言いたい事は山々なる思いを抱えつつ、このドラマを最後まで視聴した。


 ここで、上記NHKドラマに関する原左都子の感想を述べよう。

 「いじめ問題」を取り上げたドラマとしては秀作であろうと“一応”評価する。
 ただ、同時に“引っかかる箇所”が多数存在するのだ。

 その一つが、“いじめられっ子”とは家庭環境に問題があると総括したげな点だ。
 このドラマに於いては、主役藤原氏が演じる「しげちゃん」も助演の成海氏の弟も、いじめられたその理由が家庭環境に恵まれていない状況下で育っている設定となっているのだ。  例えば、しげちゃんの親は離婚している様子だし、成海氏の弟家も親が子供を日本に置いて夫婦共々海外出張しているとの設定だ。
 「しげちゃん」家はともかく、成海氏演じる家庭に於いて、何故未だ未成年の弟を若き姉に任せて両親が二人で海外出張したかの説明責任を、このドラマは果たせていない。

 もっと気になるのは、主役である「しげちゃん」をいじめた側の描写の仕方だ。
 ドラマによればいじめの張本人である同級生は、現在30歳そこそこの若さにして“弁護士”にまで登り詰め、その世界で「学校内いじめ問題」にも対応しつつ“いじめた側”の弁護に当たっているとの想定だ。 私自身もほんの一時弁護士を目指そうと考えた事がある故にある程度理解しているが、司法試験合格までの厳しい試練と年月を思い、この努力家(?)の私ですら現実を直視して断念した程だ。
 その弁護士氏と「しげちゃん」が再開するとのドラマ上の設定だが、これも私に言わせてもらうと“あり得ない”。
 たとえいじめ問題が発生した時が中学生だったと言えども、過去にいじめの相手を海に投げ落とした加害者とは、必ずや少年院にて一時保護されていることであろう。 そんな少年が、いくら家族関係に恵まれていたとて30代の若さで「弁護士」として活躍しているとは到底考えられない話だ。

 まあそれでも、「しげちゃん」がいじめにより海底に投げ込まれた中学生時代から一発奮起して、30代にしての中学同窓会会場にて自分が自宅で爆弾を作り殺人計画を実行出来た事に、おそらく視聴者は安堵応援したことだろう。
  (ただこの映像が「しげちゃん」による“自爆テロ”だったことを思い起こすと、「しげちゃん」の命こそを守りたい我が思いとは逆行する場面だったといえよう。)

 もちろん犯罪は司法で裁かれるべきだが、過去のいじめに翻弄され抜いた「しげちゃん」がテレビ内でそれくらいの“復讐”を実行することを私も望んでいた!
 (私とて娘が学校で受けたいじめの数々に対して、親として私なりの手段でどれ程闘って来たことか!) 


 このNHKドラマは、“いじめられ側”の復讐心にターゲットを当て視聴者の同情を誘ったとの意味合いに於いて、成功したのだろう。

 ところが教育側面から発言すると、大いなる落ち度があるのだ。

 それは“いじめ側”には一切の焦点を当てず、いい加減な描写をしている点に於いてだ。
 上述しているように、まず、たとえ中学生との未熟な時期の出来事だったとはいえ、いじめ相手を海に投げ込む程の凶悪犯罪に及ぶ異常心理の持ち主が、将来を嘱望される職に就ける訳もないとの視点に立って欲しい。


 その上でNHKに今後期待するのは、“いじめられる側”の家庭環境がどうのこうのよりも、“いじめる側の病的心理”こそを究極にレポートして欲しいとの事である。

 若干の不具合を持ってこの世に誕生せざるを得なかった我が娘も、義務教育課程に於いて学校内で様々ないじめに遭遇して来た。
 それに母として自分がやりたい事を犠牲にし、娘の将来に向ける成長のためサリバンとして全力で闘ってきた歴史がある私にとっては、我が娘が過去に受けた“いじめ”映像記憶は今尚鮮明、かつ切実だ。