原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「貧乏」の定義

2009年10月31日 | 人間関係
 手取り月収16万2千円の生活は「貧乏」なのか??


 本日(10月31日)朝日新聞別刷「be」“悩みのるつぼ”の相談は、自称“貧乏OL”からの「貧乏生活で友だちもいません」だった。
 それでは早速39歳独身OLの上記相談を、以下に要約して紹介しよう。

 入社20年目の貧乏OLだが、辞めたい辞めたいと思いつつ勤めている会社の業績も厳しく、正社員とは言え手取り月16万2千円のボーナスなしで親元からの通勤である。貧乏なので毎日の通勤服も着たきりすずめ。伸びきったブラジャーにすり切れパンツをロッカールームで見られるのが苦痛で、人気のない時間帯を狙って着替えている。昼の弁当も粗末でおかずのない日の丸弁当。これを見られるのも嫌で休憩室でも自分の机でも食べられず、外でスズメ相手に食べ雨の日は欠食している。貧乏くさいケチケチ生活をしているからいいご縁にも恵まれず、もちろん友達もいない。 どんな境遇になっても自分を見失わず明るく元気に生きていきたいが、こんな貧乏生活を続けていると自分が壊れそうで怖い。他人になんといわれても平気な強い精神力を持つべきなのか。 やはり他人の目を気にして、もっとコミュニケーションをを取る方がいいのか。
 (以上、朝日新聞“悩みのるつぼ”への、自称“貧乏OL”からの相談より抜粋)


 早速、私論に入ろう。

 この相談は「貧乏」であることがその趣旨ではなく、むしろ、人間関係があまりにも貧弱である現状に悩む相談者の深層心理に相談の重点があると私は見る。

 そうとは言え、相談者である女性本人が自称“貧乏OL”と名乗っているため、さしあたって月収16万2千円の生活が「貧乏」であるのかどうかにつき考察してみることにしよう。
 このOLの場合、現在独身で親と同居中とのことである。 もしも16万円余りの月収のうち、例えば親の扶養や介護等、家族のために幾ばくかの拠出するべき費用をこのOLが負担しているとするならば、その拠出額にもよるがかなり厳しい経済情勢ではあろう。 (この相談においてはその辺の事情の記載が一切ないため、一応ほぼ全額をOL自身が自由に出来るとみなして、以下に私論を続けることにする。)

 上記のごとく、手取り月収16万2千円のほぼ全額がこの独身OLの自由になることを前提として考察していこう。
 このOLの場合勤続20年の正社員であるのだが、税金や年金保険料等の社会保障料等に関しては既に差し引かれた額がこの手取り月収である。 要するにその全額をOLが自分のために自由に消費支出や投資に拠出できるという前提である。
 今回の相談の回答者である社会学者の上野千鶴子氏も述べられているのだが、ケチケチ暮らして貯金でもしているのなら別だが、その気になれば使えるお金はあるはずだ、との指摘に私もまったく同感である。

 16万2千円。 この金額、今の不況デフレ時代においては独身者が結構自由奔放に使える金額と私は判断する。

 私事を述べると、私はかつてのあの“幻の絢爛豪華なバブル時代”に独身勤労学生をしていた。あのバブルのお陰で仕事にも収入にも恵まれたとは言えども、昼間は勉学に集中するため勤労時間の制限があって自分が満足できる程の収入は得られない。 一方で物価がとてつもなく高い時代で、自分が欲する消費活動は不可能である。そのような時代背景の下においても、自分のポリシーは曲げられない執念の下、私なりの消費活動における努力を重ねたものである。
 この相談者と同じ30歳代後半までの6年間その生活を続けた私であるが、このOLの相談内容のごとくの一種の社会からの“疎外感”を抱くことなど私の場合は微塵もなく、むしろ我が独身勤労学生時代を我が人生の“華の栄光の時代”として刻んできている私である。


 回答者である上野氏も述べておられるが、例えば、何も今時「日の丸弁当」にせずとて、晩のおかずを詰めることなどいくらでも可能であろう。(料理嫌いな原左都子とて、娘の毎日の弁当作りに際してそれ位の工夫はしているぞ。)
 上野氏同様(少しニュアンスが異なるかもしれないが)、私もこのOLの相談から慮るのは、決して「貧乏」が辛いのではなく、40歳を目前にして実は人間関係の希薄感にいたたまれない思いを「貧乏」のせいにして、自分の心の空虚感を軽減、逃避しようと試みているような深層心理を読み取ってしまうのだ。

 こじゃれた服を身に付けて人並みの弁当を作ったり買ったりすることは、誰でも少額の出費でいくらでも出来る程に、(失礼な表現をすれば)たとえ発展途上国においてさえ、消費経済社会が目まぐるしく多様的に発展し得た今の時代である。
 その一方でこの国に話を戻すと、若い世代の人々にとって、他者とのコミュニケーションを取ることに高いハードルが出来てしまっている現代の、人間関係があまりにも希薄化した社会を実感させられる今回の相談内容である。
 
 ここのところ新政権首相は“机上の空論”でしかない「友愛」ばかりアピールしておられるが、末端庶民である国民が今現在ドップリと浸かっている“人間関係の希薄化現象”を一体どれ程認識した上で「友愛」どうのこうのと主張していらっしゃるのか?  国民の目線でその実態を捉えずして、お上の立場から空虚な道徳論ばかりぶちつつ“スズメの涙”程の各種手当てを国民にバラまく政策で、この国の庶民が真の「友愛」精神を取り戻せるとでもお思いなのであろうか???
       
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生命体の継承と繁栄

2009年10月29日 | 時事論評
(写真は本日撮影した我が家のクリームメダカ。 今回ははっきりくっきり写せたでしょ!     
メダカがそれぞれ泳ぎ回るから、3匹をアップで一画面に撮影するのは至難の業なのよ~)


 本ブログの9月21日付のバックナンバー記事「生命体が共存する風景」にて紹介させていただいた我が家のクリームメダカ3匹は、本日で購入後51日が経過した。 あの記事の後も、私の“手厚い愛情”を一身に受けつつ、3匹共至って元気に順調に生育し続けている。

 前回紹介した頃と比較して、体長が1、5倍程度に育ち、一番大きいメダカで約3cm程の大きさであろうか。 もうすっかり立派な大人に成長し、写真の通りの精悍な姿を披露して“育ての親”である私の目を細めさせてくれる親孝行者たちである。
 (いや~、やっぱり子どもって元気が一番を実感!!

 9月初旬に私が仕入れて来たメダカを我が身内が一目見るなり「1週間で死ぬよ。」と冷たく言い放って、それでも過去に熱帯魚と金魚を長年“女手一つ”で育て上げてきた実績のある私は、このメダカたちも生き長らえさせる“根拠なき自信”が実はあった。
 特にメダカの育て方に関する専門情報を入手する訳でもなく、自分の経験による感覚のみに頼り、メダカの生態系を想像しつつ、水質管理や適温や酸素量、そしてエサの量を調節しながらの“子育て”の日々である。

 そうとは言え、メダカの飼育ポイントはただ一つ、神経質になり過ぎないことのようである。

 そもそもメダカという生物は、熱帯魚や金魚とは違ってひと昔前には日本全国どこの小川にも生息していて、小さいながらも繁殖力、生命力のある魚と私は認識している。
 我が子ども時代には、このメダカを近くの小川からすくい取って来ては、女の子同士の“おままごと遊び”の一端として、すくい取ったメダカを生きたまま「串刺し目刺」にして干す、という、今思えば何とも惨たらしい遊びを楽しんだものである。
 (子どもの遊びとはこの“メダカ遊び”に限らず本質的に残酷さを伴っているものである。 大人の世界を模倣、風刺しているようでもあり、また、今後大人になり行く子ども達が将来に向かって強く生き延びるための「通過儀礼」でもあるようで、大変興味深いのだが…)
 このメダカの「串刺し」が上手に出来る器用な女の子が羨ましくて、近くの小川に行けばいくらでも捕獲できるメダカをすくい上げて来ては、皆で日が沈むまでせっせと「串刺し干し」作りに励んだものである。  オレンジ色の夕日を背後から受けて干されている「串刺し」にされて整然と並べられたメダカの一匹一匹が、いとも美しく透明に輝ける光景を、今尚脳裏に鮮明に記憶している私である。


 話が“我が過ぎ去りし過去のノスタルジー・メダカ物語”にすり変わってしまったが、ここで我が家のクリームメダカに話を戻そう。

 我が家のメダカが、先週の土曜日からある“異変”を起こしているのだ。
 買い求めたメダカのエサ箱の裏面に、メダカが卵を産んだ時の注意書きが記されていたのであるが、私は我が家のメダカに関してはまさか卵を産まないと勝手に決め込んでいた。
 ところが、上記写真の真ん中のメスメダカが、下腹に「卵」を抱えているのを先週の土曜日に発見したのだ! 直径1mm程の、それはそれは美しい透明の卵を下腹に十数個抱えているのだ! その後注意して観察していると、毎日午前中に産卵することが続き今日に至っている。産卵は水草の上で行われているようであるが、どうもうまく水草に定着しなかった卵が母メダカの下腹にくっついたままのようである。 
 卵を産んだ母メダカの警戒心たるや、凄いものがある。 私が水槽の前を横切っただけでパニック状態に陥り、水槽の壁(?)に体をぶつけて尾ヒレを損傷している有り様だ。

 そのような我が家のメダカの生態を日々観察しつつ、“育ての親”である私は生命体の継承と繁栄に心を配る日々である。
 このような経験は今までの熱帯魚や金魚にはないため、日々メス親の行動と「卵」の存在を確認しながら、水替やエサやりに神経を尖らせる私である。 
 次世代のメダカの赤ちゃんが我が水槽内に生まれるのを、心より待ち望む原左都子である。 


 本日(10月29日)昼間、参議院国会答弁を垣間見たが、新政権首相の主張されるところの抽象的な「友愛精神」を国民にアピールするのは、虚しいだけの思いを新たにした。 あのような陳腐な机上の道徳論で国民の関心を引こうとするよりも、(学校現場等で行われているような、単なるカリキュラムとしての上から強制の形式的なものではなく)“本気で”この国の子ども達にじかに生命体に触れる体験でもさせた方がよほど「友愛精神」が育まれるのではないかと、我がメダカの育成とあのセレブ首相の空虚な「友愛」答弁が交錯しつつ実感する私でもある。



 (本日、首相は国会答弁の中で“誹謗中傷”という言葉を使用されましたが、私どもの拙いブログごときの一般国民のオピニオンも、本日の答弁で首相がおっしゃったところの“新政権に対する誹謗中傷”に当てはまるのですか??  もしそうであるならば、自らのマニフェストにがんじがらめになっている新政権が今後何を目指したいのかに関して“怖さ”さえ抱かされる本日の答弁です。  一国の首相が国会答弁において安易に“誹謗中傷”の言葉を発し政権としての“被害者意識”を公然と主張するならば、一般国民が今後公的に何らのオピニオンも述べられなくなる一種の“言論統制”のようでゾッとした私なのですが…)
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“ファーストレディ”の真価

2009年10月26日 | 時事論評
 新政権の総理大臣として就任以来、外遊を好み諸外国へあちこちと出かけている鳩山首相であるが、夫人とおててつないで飛行機のタラップを降りてくるあの影像を見て、皆さん、どのような印象をお持ちであろうか?

 私の正直な感想を述べさせていただくと、あの影像には“反吐が出そうな不快感”を抱かされるのだ。


 そもそも、何で総理大臣としての公務に家族を同伴するの? 如何なる一般職種とて、短期出張に奥さんをおててつないで連れて行く職業人は皆無であろうに…。

 しかも、あれが公然と「公費」でなされている現状だ。 あくまで私費で夫人を外遊に同行して、国民の目に触れる表舞台には一切出さないのならばまだしも許せるが、国民よりの血税等の貴重な国家財源を食い潰して総理大臣が「公私混同」の振る舞いをすることを国民が容認してよいものなのか。

 そもそもこの国の選挙制度においては、選挙に際して選挙民は候補者本人に投票しているのであり、その奥方はじめ家族も含めた共同体として政治にかかわるべく期待している訳では決してないことは明白である。 奥方が“内助の功”として陰で首相を支えるのは自由だが、表舞台に姿を見せてしゃしゃり出て欲しいとは、少なくとも私は微塵も希望していない。
 “新与党とて先進諸外国の慣例に従って首相夫人を外遊に同行しているだけの話だ”、という政府からの弁解も聞こえてきそうである。 これに関しては、国による文化や慣習の違いを優先してはいかがなものか、と言いたくもなる。 公的地位のある職業人が公私混同する文化など、現在に至って尚この日本にはないと私は心得ている。(繰り返すが、しかも「公費」で… ああ、嘆かわしい… )

 もっと言わせてもらえば、この鳩山夫人は自分が首相と“不倫婚”だと周囲に豪語しているらしいことを報道で見聞している。 “不倫婚”にしてのあの“おててつなぎ”影像は、どうも“いやらしさ”が前面に滲み出ているようで、想像力豊かな私に“反吐が出そうな不快感”を抱かせるのである。
 (鳩山総理も“夫婦で宇宙人”との愛称を付けてもらって人気取り目的ではしゃいでいる場合ではなく、節度を心得ない奥方の不適切発言を自重させるのが先決問題である。)


 そもそも、たまたま一国の総理になった男の奥さんであるだけの話だけなのに、何が“ファーストレディ”だよ、と言いたくもなる。
 もっとも、“ファーストレディ”という言葉の語源とは元々は「ある分野で指導的立場にある女性」の意味合いだったのだが、今となっては単に「大統領・首相夫人の称」の意で使用されているだけのレベルの話なのだが。

 この“ファーストレディ”に関しては、本ブログ「原左都子エッセイ集」の2年程前の時事論評カテゴリーバックナンバー記事「サルコジ仏大統領前夫人の離婚の理由」においても私論は叩いている。
 その我がブログ記事の中から“ファーストレディ”を叩いた部分を以下に改めて紹介しよう。
 主要国元首会談等の会合に必ず大統領(首相)夫人が同行している報道をマスメディアから見せられて、昔から私は大いに違和感を抱いていた。何で旦那の仕事に奥さんがのこのこついて行かなきゃいけないの? まあ、夫婦だからついて行ってもいいけれど、公の場にまでしゃしゃり出て記念写真までいっしょに入り、それが世界中に報道されるって、おかしな話でしょう? ファーストレディって言うけれど、着飾って、旦那の仕事に金魚のうんちみたいにつきまとって、あらかじめ仕立てられた慈善行為のパフォーマンスだけマスメディアの取材のためにする事のどこがファーストレディなんだか、私には理解しかねる。 だいたい、「夫人」という言葉も気に入らない。奥さん(この言葉も変な言葉だが)は夫の所有物なのかい?
 しかも、逆はあり得ないのだ。例えば、サッチャーさんの旦那が元首会談にのこのこついて来たのを私は見たことがない。アメリカ大統領選に出馬中のクリントンさん(女)は、クリントン元大統領にはいつも同行していたけれど、現在出馬中のクリントンさんに旦那がくっついている姿も見ない。男女平等意識の高い国々でさえこの有様なのはなぜであろうか。政界における単なる慣習なのであろうか。
 (以上、「原左都子エッセイ集」2007年10月のバックナンバー記事より引用)


 鳩山夫人に関しては、やれ、そのファッションセンスがいいだの、ジーニスト大賞受賞だのと、現在ファッション界で持てはやされている報道を見聞する。

 これも自重するべきではないか、というのが私論である。
 よもや総理夫人のそのファッションまでもが国民の血税から出費されている訳ではなく、“セレブ首相夫人”の私費での趣味の範囲のマスメディア公開ではあろう。
 とは言えども今のこの不況下において、新与党からの“雀の涙”程の各種手当てを待ち望んでいる貧困にあえぐ国民の目前で、総理夫人が華やかなブランドファッションを披露するこのギャップ観を、新政権は如何に捉えているのであろうか?

 “ファーストレディ”などという言葉は上記の通り既に形骸化しているけれども、新政権の総理も「友愛」がどうたらこうたらの空虚で抽象的なテーマの所信表明を54分もの長時間、国民の前でうだうだと繰り広げている場合ではなく、我が身を振り返って“ファーストレディ”なる身内の真価でも問うてみてはいかがなものか? 
        
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「女」であることの意味合い

2009年10月24日 | 自己実現
 「女を捨てたくない」という“低俗な”言葉をよく耳にする。

 この種の言葉を発する女性に限って、コラーゲンやヒアルロン酸入りの化粧品を買い漁ったり、シェイプ下着でブヨブヨの贅肉を締め付けて苦しい思いをしたり、はたまた、ベリーダンスなどに精を出して三段腹を振り回していることであろう。

 こういう言葉を発する女性達にとっての「女」の意味合いとは如何なるものなのか、この種の言葉を好まない私がそれに直面する機会が訪れた。

 本日(10月24日)付朝日新聞別刷「be」“悩みのるつぼ”の相談は、その名の通り「女を捨てたくないんです」である。 早速50代主婦によるその相談を、以下に要約して紹介しよう。
 還暦前の女性であるが、異性から若く見られたい、10歳くらいは若々しくいたいと思うが、顔や首のしわの隠し様がない。テレビ通販で目を引いたアンチエイジング化粧品を買い求め顔のマッサージに励んだり、粘着テープをほうに張ってたるみを持ち上げようとしているがダメ。リフトアップ整形も考えているが、いまひとつの勇気と多額の費用がない。プチ整形も慎重派の私には怖い。「その年でまだ男性を意識しているの?」と友人たちは言いそうだが、女を捨てたくない。女にとって美は永遠の課題。私は切羽詰まっている。的確な肌対策、若返り法があれば教えて欲しい。


 さっそく私論に入ろう。

 この相談女性にとっての「女を捨てないこと」とはどうやら、“異性に若く見られること”であり、“男を意識すること”であるようだ。
  う~~~ん。 

 相談内容を読むと、この女性は家族のいる主婦であるようだ。 ということは、「女」を全面的に売りにするべく職業に就いているという訳でもなさそうだ。 不倫願望が強いのか、それとも不特定多数の男にチヤホヤされることを好んでいるのか?? その辺の心理的背景は不明である。

 還暦前の年齢ということは私より少し人生の先輩に当たるのだが、何と申しましょうか、“暇過ぎる”日常を送られているのか、何か他の事に関心が向かないのか、一体今まで何を考えて生きておられるのか、失礼ながら、相談内容が低俗過ぎて私の心にまで隙間風が吹いてしまいそうである。

 この女性にとっての「女」であることの証明とは、「男」の存在が鍵であるようだ。
 もしもこの女性が今現在不倫したい男がいる等の差し迫った具体的事情を抱えているのならば、まだしもこの相談の存在意義もあろう。 あるいは、友人グループの中に若々しく見えるライバル女性がいて男性にモテているのがしゃくに障るため、自分がマドンナの地位を奪いたいと狙っている等の場合にも、この相談は意味を持とう。 そうではなく、漠然と「男」を意識するという発想がどうも私には理解し難いし、ましてや、新聞の相談コーナーに投稿する程に“切羽詰っている”心理状態とは一体どうしたことなのか。

 しかもこの相談女性は、還暦近くまでの長い人生を歩んできて尚、「女」であることを“外見的要素のみ”で判断しようとしているところが、これまた不可解である。
 
 確かに、人間外見は大事だ。それは私も否定はしない。
 この私とて、長年毎日かかさず体重測定をして体型を維持し続け、フィットネスクラブに通って筋トレもし、家中に鏡を置きめぐらして暇さえあれば自分の姿形の点検をしている。 外出する時にはたかが近所のスーパーへ買い物に行くのにも、顔を塗りたくってお化粧をし、ファッションをバッチリ決めないことには家を一歩も出ない徹底した“外見こだわり派”である。
 そうとは言えども、それは決して漠然たる概念としての「男」のためではない。 不特定多数の男を普段から意識して、男から若く見られたいという発想でそのような行動を取っている訳ではないと、私の場合は断言できる。

 それではなぜ私が自身の外見にこだわるのか。 それはいわば“自己満足”の世界なのである。 すなわち私が自分の外見にこだわるのは、このブログで我がオピニオンを綴るのと同レベルの、一つの個人的“趣味”としての範疇なのである。 故に、それはこの相談女性のごとく“「女」であろうとして切羽詰まって”いるのとは事情がまったく異なるのだ。


 確かにこの相談女性が言う通り、“女にとって美は永遠の課題”であるのかもしれない。
 だが、「男」をはじめ他者の目や評価を気にし過ぎるがあまり、還暦近くして尚自分をがんじがらめの独りよがりの“美の世界”に追い込むのではなく、遅まきながらも今後豊かな人生を育む事により、(自分なりの)“美しさ”を自分が楽しめるような発想の転換が出来得るならば、この相談主婦もこれ程までもの“歪んだ美”への悲壮感から解放され得るのではなかろうか。 あくまで自然体で自分らしい「美しさ」を身に付けられたならば、その結果とは後からついてくるものであろう。
 そういう境地に入れるならば、この女性の顔や首の皺も少なくなり、「女」であり「人間」であることの真の輝きを取り戻せるのかもしれない。
      
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各自が免疫力を高め、冷静な対応を

2009年10月21日 | 健康・医療・介護
 新型インフルエンザ関連の記事が続くが、私が居住している自治体が発行している「広報」の本日(10月21日)発行の紙面において、新型インフルワクチン接種に関する“お知らせ”が公表された。

 この“お知らせ”では、ワクチン接種のスケジュールや接種の受け方、費用に関する情報等が公開されているのだが、それに加えて、“予防接種に関する注意点”の中で 「ワクチンの安全性・有効性は、十分検証されていません。接種前に医師と相談して下さい。」 との注意書きがあった。 この文言を見て“ワクチン接種慎重派”の私としては、自治体の住民への適切な配慮に、とりあえずは胸を撫で下ろしたのである。(願わくば、もっと目立つ大きい文字で記載して欲しかったものだが。)


 やれ、ワクチン接種は1回だ、いや2回だ。 これは官僚が決めたのに、なぜ厚労相が決めた事になっているんだ??  単に仲のいい(医学)専門家を呼び寄せた会議で決めた内容で十分だったのか??? (以上、新聞報道より抜粋)

 厚労相さん、内輪もめの茶番劇を国民に披露して醜態を晒している場合ではないですよ。 ともかく、今後はもう少し腰を落ち着けて冷静に新型インフル対応をしていきませんか。

 前自民党政権時からそうであるが、やれタミフルだリレンザだ、そしてワクチンだ。 その備蓄はあるぞ、何千万人分は備蓄しているから国民は安心していいぞ…  
 国民の指導者たるべく政府がこの状態では、医学に疎い国民は、それらの薬剤やワクチンに頼らなければ生き残れないかのごとくの、大いなる誤解の錯覚に陥るのみであることを私は懸念し続けている。


 10月18日付朝日新聞記事の中で、医師による新型インフルに関する興味深い投書投稿を2つ発見した。 私の医学的見解と一致する2つの投書の内容を以下に要約して紹介しよう。

 まずは、52歳小児科医による  「新型インフル『すぐに医者へ』は誤り」  と題する「声」欄の投書から。
 9月1日に文科省から「かぜやインフルだと思ったらすぐに医者へ」との文書が学校経由で全国の子どものいる家庭に配られた影響で、念のための「心配受診」のみならず、学校や保育園から受診を強制されたり、陰性証明や治癒証明を求める形式的な受診も少なくない。 このままでは、(医療現場においては)本来のインフル診療だけでなく、他の重い病気の見落としにつながり大変危険だ。 検査の信頼性を考慮したり重症者を迅速に治療できる態勢の維持が大切な事を周知するべきだ。 国は学校や保育所に対して過度な受診勧奨をしないよう改めて指導し、国民に対して冷静に判断できるよう、その目安をPRすべきだ。

 ここで一旦私論であるが、まったく同感である。 学校からの病院受診指導には元医学関係者である保護者の立場からも辟易とし続けている私である。 やれ、早めに受診せよ、やれ、治癒して登校する時には必ず医師発行の「登校許可証」を持参するように…   今回の新型インフルに限らずこれの連続である。 ある程度保護者の考えや意向も尊重してくれないものなのかと、学校よりの通り一遍の指導をどれ程煩わしく思ってきたことであろう。
 そして、この小児科医先生のおっしゃる通りで、まずは重症患者から救うというのは医療における基本中の基本でもある。
 どうかこの小児科医先生のような医学における“正統派”が、国政の単なる“焦り”による無駄な労力の負荷で押し潰されるようなことのないような、新型インフルに対する冷静な対応策を是非とも望みたいものである。


 もう一点は、首都大学東京教授による同日付“私の視点”欄への投稿「十分な栄養が免疫をつくる」であるが、以下に一部抜粋して紹介しよう。
 インフルエンザに感染しても、ほとんどの人は免疫を獲得するから発病するのはごくわずかだ。 通常インフルエンザの流行は冬季に毎年繰り返されるが、国民のほとんどは感染せずに免疫を獲得する「不顕性感染」である。 しかし、バランスのとれた適切な栄養を摂取せず持病などにより免疫機能が十分に働かない虚弱高齢者などは、二次感染として肺炎などを併発し毎年約1万人が死亡している。 つまり、有効な感染症対策の核心は人に備わっている免疫機能を最大限に発揮することにある。それには栄養が最も大事だ。 今後、国民の半数以上が新型インフルに感染すると推定される。その対策としてワクチン接種を推進させる前になすべき重要事は、しっかりした免疫抗体づくりに励むことだ。
 (以上、朝日新聞“私の視点”投稿より抜粋引用)

 この教授であり医師であられる投稿者のご意見にも、私論は賛同の立場である。


 そうは言われても、医学方面における素人にはさしあたっての対処法が分かりにくいから、どうしても医療機関や薬剤やワクチンを頼らざるを得ないのよ…   との一般国民からの困惑の声も聞こえて来そうだ。

 そういった時にこそ活躍するべきなのが、地元自治体の保健所や保険センター等の公的機構であるように考察する。
 すべてを医療現場任せにして医療現場の混乱をあおっている場合ではなく、市民の困惑、疑問質問等に対応できるレベルの“有能な人材”を地元の保健所等の機関に配置して地方自治体も電話、メール等でそれに対処するべきである。
 そういう施策は既に実施している、と回答する自治体も多い事とも推測するが、恐らくその対応が“不十分”だからこそ、国民は新型インフルの特効薬やワクチンに頼って医療機関を彷徨うことを余儀なくされている現状なのではなかろうか?

 地方自治体とて(縁故等の安易な職員採用のみではなく)もっと視野を広げて、実質的に対応可能な真に“実力のある人材”を広範囲から募集して採用してその能力を活かすことにより、市民の困惑に対処するべきではないのか。(ここで論点がすり変わってしまい恐縮だが…)


 自分の心身が自分を守るという自己の体内の“免疫システム”の働きは、生命体の歴史が始まって以来の永遠普遍の歴史でもある。(本ブログの学問・研究バックナンバー記事「self or not self」も参照下さい。)
 どうか国民の皆さん、今回の新型インフルエンザ騒動に関しても情報に翻弄されることなく冷静に対応しつつ、各自が自身の免疫力を高めることにより我が身を守り抜かれますように。
        
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ワクチン接種をあおらないで

2009年10月19日 | 健康・医療・介護
 本日(10月19日)、いよいよ国内での新型インフルエンザのワクチン接種が開始された。

 新型インフルエンザワクチンの接種は、本日開始した医療従事者対象接種を皮切りに、11月には妊婦や慢性呼吸器疾患などの基礎疾患のある人、そして幼児、小学校低学年の児童の接種は12月後半、その後中高生、高齢者などは年明けの接種というように、優先順位に従って順次実施される予定となっている。

 
 本ブログの8月28日付のバックナンバー記事「ワクチンの有効性と安全性の公表を」において、新型インフルエンザワクチンの接種を国民に実施するに先立ち、その有効性と安全性の医学的検証結果を公表することこそが先決問題である旨の私論を述べた。
 その後、国内外でワクチンの有効性及び安全性の医学的検証が進み、マスメディアを通じて徐々に公表されるに至っている。


 新型インフルエンザワクチンは、既に国産、輸入を合わせて7000万人分以上が国内に確保されているという報道であるが、国民の「任意接種」と位置付けられている新型インフルワクチン接種に関しては、医学専門家の間でもその接種の選択にあたり慎重を期するべきか否かの意見が分かれているようだ。

 朝日新聞10月10日付“私の視点”に「新型インフルワクチン接種は慎重期して」との“接種慎重派”からの意見が取り上げられたのに対して、10月17日の“私の視点”にはそれに対する異議として「不安あおらず冷静な選択を」との“接種促進派”の医学専門家の意見が掲載された。
 (残念ながら上記前者の“接種慎重派”の記事が手元にないため、17日付の“接種促進派”の反論意見のみを以下に紹介しよう。)

 疫学者から見れば、過去において有効性が有意に低い麻疹ワクチンが一部で製造された事実や、安全性の低い(事故率の高い)MMRワクチンの接種が行われた事実は否定できない。 インフルエンザワクチンに関しては有効性(社会的予防効果)がないとされるのは小児への集団接種においてであり、高齢者への接種に関しては予防効果がないと断定できない。インフルエンザワクチンとて重症化予防については、効果があるという意見が主流だ。初期のインフルエンザウィルス増殖を抑制することで、集団について脳炎や肺炎の発症の確率を減じることは否定できない。これは新型インフルに関しても同様にあてはまる。いたずらにワクチン副作用を強調するのは、社会防衛の立場から賛成できない。すべての医療行為は「問題ない」とは言い切れないことは事実であるが、ワクチン国家検定の基準は重大事故の確率が30万分の1だということを知った上で、予防接種の選択を行って欲しい。
 輸入ワクチンについて、アジュバント(免疫反応増強のための添加物)による副作用は不明だが、主成分が細胞培養由来である分、安全性は高いと考えられる。 ワクチン接種を望まないという選択肢が残されている以上、予防を望む人々の判断を誤らせてはいけない。
 (以上、朝日新聞10月17日“私の視点”への医学専門家の投稿より抜粋引用)


 私論を述べる前に公表しておくが、(当ブログの古くからの読者の方々は既にご承知の通り)病院受診、投薬、各種医学検査等々、医療行為全般に関してその享受を慎重に対応している私は、医療行為の一つである「ワクチン接種」に関しても当然ながら“慎重派”である。 すなわち、出来ることならば接種を避けて通りたい人種である。
 今回は、上記“接種促進派”の医学専門家が主張されるところの「接種を望む人々の判断を誤らせてはいけない」との観点に“接種慎重派”の人間の一人としてそのご意見にのっとりつつ、その考えの背景等の多様性も鑑みた上で私論を述べさせていただきたく考える。

 上記朝日新聞10月17日の“私の視点”への医学専門家の投稿は、ワクチンの有効性と安全性に関する専門家からの意見としてよくまとまっていて大いに参考になる。 これを参考にさせていただきつつ以下に私論を展開しよう。

 ワクチン接種に当たって、まずは確率計算から始めるべきであろう。(極端な話が)新型インフルエンザに感染して死ぬ確率と、ワクチン接種して死ぬ確率をとりあえず比較してみるのが一つの指標としてわかりやすいと思うのだが、いかがであろうか。
 ワクチン接種の国家検定基準の重大事故の発生確率が30万分の1であるということは、今回の新型インフルの場合国民のうち(現在国内に確保されているワクチン数と等しい)7000万人が接種したとして、死ぬ事と同等レベルの重大事故に遭うと予想される実数は単純計算で最大約230人。 片や、現在までのところの新型インフル感染による国内の死者は10月17日時点で27名。これに関しては、今後の感染拡大によりさらに増加する可能性も高い。
 
 元医学関係者である私として気がかりなのは、投稿者が指摘しているアジュバント(免疫反応増強のための添加物)による副作用である。 今回の新型インフルワクチンの場合、冬季の感染拡大を目前にして国がその接種を焦っているとも見受けられるのだが、7000万人規模程の大がかりな一般国民対象のワクチン接種が既に開始された今現在、アジュバントに至るまでの臨床実験は恐らく未実施を貫くのであろう現状を大いに懸念する私でもある。

 実際問題、国内における7000万人もの大規模一斉ワクチン接種は今回が初めての試みなのではなかろうか??
 新型ワクチンの“有効性”がおぼつかないことが後々判明したとしてもまだしも許せるが、“安全性”においては、その予期せぬ犠牲が最小限に済むことを祈るばかりである。
 

 大袈裟に表現すれば、(今回の新型インフルに限らず)ワクチンとはその接種において個人の「死生観」もからむ選択肢であると私は捉えるのだ。
 自分が生きた時代に偶然蔓延した“流行り病(はやりやまい)”で死にゆくことと、それに対する人為的なワクチン接種で命を絶たれることとを天秤にかけると、どっちの死に方が重いのか…、 話が飛躍し過ぎで馬鹿馬鹿しいと思われる方もいるであろうが、そんな選択を迫られているようにも感じる今回の“大規模ワクチン接種”の騒動である。

 少なくともその種の選択を迫られて尚、自分なりの“美学”を我が人生において一貫して持ち合わせていたい原左都子である。
(参考のため、私自身は今回の新型インフルワクチン接種は希望ぜずして、あくまでも自然体で強く生き延びる予定でおります。 皆さんはくれぐれも真似をされず、ご自身でよく吟味した上で接種の是非を判断されますように…)
      
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愚痴と自慢話は軽く聞き捨てよう

2009年10月17日 | 人間関係
 確かに、人から一方的に聞かされる“愚痴”と“自慢話”ほど鬱陶しいものはない。 
 
 先週10月10日(土)付朝日新聞別刷「be」の“悩みのるつぼ”の相談は、30代主婦による「義父母の同じ自慢話にうんざり」だった。
 以下に、その相談内容を簡単にまとめて紹介しよう。
 義父母に会う度に毎回、義父の仕事の実績、長男(自分の夫)を私立の幼稚園へ入れたこと、大学受験で高校から唯一長男だけが国立大に合格したこと、次男はスポーツの才能があり推薦入学を誘われたこと、等々… 書き出したらきりがないほど同じ自慢話を繰り返し聞かされる。 夫も横で黙って聞いている。 嫁である私に「うちの家はすごいんだぞ!」と念を押したいのだろうか。ちっぽけな自慢話がプライドを保つ方法なのだろうか。 先日の夫の実家からの帰り道で「もう耐えられない」と涙が溢れた。勇気を出して「その話、20回目ですよ」と言っていいのか。それともそれを聞くのが嫁の役割なのか。
 (以上、朝日新聞“悩みのるつぼ”相談より引用)


 おそらく、世の奥様方は大なり小なりこの主婦と同様の経験があることであろう。

 相談者の30代主婦の気持ちは理解できるが、何もそんな、涙を流してまで悩む事柄でもなかろうに…、と思ってしまうのが、世の奥様方と例外なく同様の経験がある私のとりあえずの感想である。

 
 ここで私事を語ると、私の場合見合結婚なのだが、長年独身を通して自立心たくましく自己を確固と確立していた私を義母が直感で気に入ってくれて成婚に至ったとも言える程、義母からの信頼が厚い私である。そのお陰で、結婚以来ずっと義父母(義父は既に他界)には私の意向を尊重してもらいつつ大事にされ続けている“恵まれた嫁”の私なのだ。 
 そんな義母が結婚当初、出産のために仕事を退職した私を「子どもが生まれたら子育てで身動きがとれなくなるから、今のうちに美味しいものでも食べましょう」と言って、昼間ランチやお茶によく誘い出してくれたのだ。
 その飲食の席で二人でいろいろと語り合ったのだが、その中でこの相談者が書いているような義母からの“自慢話”の類の会話もあるにはあった。 我が家の場合、亭主が自分のプライベートを語ることに一切興味のない人間であるため、その時の義母からの「家」や亭主の歩んだいきさつ等の話は、私にとって亭主の育った背景を知るに当たって大いに参考になったものだ。 そして話が決して義母からの一方向ではなく、私の方からも同じように自分の生育背景等についても語り、義母が熱心に耳を傾けてくれたものである。
 (その後年月が流れて義父が痴呆症気味になって以降、日々介護に苦しむ義母の“愚痴”の聞き役は快く引き受けた私でもあるのだが。)


 “悩みのるつぼ”の今回の回答者は作家の車谷長吉氏であるのだが、その回答内容から私が同感できる部分を抽出して以下に紹介しよう。
 世の中には自慢話の好きな人がいるが、ある意味では幸福な人種だ。 自慢話と愚痴・小言・泣き言、どちらも聞かされる側は苦痛に変わりないが、まだしも自慢話の方が少し聞きよいように思う。 ただ、世の中の半分以上は自慢話の好きな人種である。もし相談者が義父母の自慢話に耐えられないのなら、耐えられないとはっきり言えばいい。 その結果、重大なことが起きれば、その責任を相談者が取ればいい。嫌なことに耐えるよりずっと気持ちが楽になるはず。 人間世界には楽な道はない。


 最後に私論に戻るが、義父母と“嫁”との関係においても「信頼」がその基本に位置付けられることは明白である。
 現在の核家族化社会において、義父母と同居している“嫁”は少数派であると推測するが、たとえ別住まいであろうと“嫁”の立場で亭主の実家とのある程度の信頼関係を築いておいた方が、生涯に渡って様々な意味合いで得策かと私は捉えるのだが…。
 この相談女性の場合、1年に2度程度の亭主の実家訪問であるらしいのだ。 それ程の少ない頻度ならば頭ごなしに義父母の“自慢話”を拒否するのではなく、その話に乗るふりをして“嫁”である自分側の自慢話も披露できる程の会話力を身に付けられたならば、相談者の視界も移り変わっていくであろうに、とも考察できる。 「ちっぽけな自慢話がプライドを保つ方法なのだろうか」などと、義父母よりも人生経験の少ない相談者の方こそが“ちっぽけ”な被害妄想の発想に囚われていないで、義父母の自慢話を少しはうまくかわせる力量も身に付けたらいかがなものか、とも思ってしまう。

 それがまだ不可能であっても、とにかく鬱陶しいだけの人の“愚痴”と“自慢話”などに涙をこぼしていないで、軽めに受け流して聞き捨てましょうよ。
      
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日本に「ハブ空港」が必要か?

2009年10月14日 | 時事論評
 国民が一読一見して理解しにくい“新カタカナ混在語”を政府が率先して公然と使用して日本語を乱し続けることはもう勘弁して欲しい、とまず思ったのがこのニュースを見聞した私の第一印象である。

 先日から話題になっている「ハブ空港」であるが、皆さんはこの言葉の正確な意味をご存知であろうか。
 参考のためにここで解説すると、「自転車の車輪の軸(ハブ)からタイヤに向かってスポークが延びるように、世界各地への航路と、周辺地域への路線の中継地点となるような空港のこと。 発着が盛んになるため着陸料の増収が期待できたり、周辺での物流産業の活発化や国際会議などの招致にもつながり、地域や国の経済活動にプラスに働くとされる。」とのことである。(以上、朝日新聞記事より引用)
 ならば「国際拠点空港」とでも和訳すれば済むし、その方が国民にわかりやすいのではないのか?


 八ッ場ダム問題に引き続き、今度は「ハブ空港」問題でまたもや地方自治体の反発を煽って物議を醸しているのは、新政権の国土交通大臣であられる前原氏である。
 前原氏は昨日(10月13日)の閣議後の会見において、羽田空港を24時間使える国際的なハブ空港にしていく方針を明らかにした。 今まで国際線は成田空港、国内線は羽田空港を中心にしてきた「内際分離」の原則を転換し、来年10月の羽田拡張を機に、アジアの有力空港と競争できる体制づくりを目指すとのことである。(朝日新聞13日夕刊トップ記事より引用)

 (引き続き朝日新聞同記事よりの引用であるが)前原氏は、韓国の仁川空港に日本のハブ空港の機能を取られてしまっていることを問題視した上で、「日本にハブ空港を作らなくてはならない。ハブになり得るのは、まず羽田だ」として、「羽田の24時間国際空港化を目指して行きたい」と会見で述べた。
 羽田は成田よりも都心に近く、ビジネス客を中心に内外からの利用増を見込める。ただ、成田には激しい建設闘争を押し切って開港した経緯もあり、今まで国交省は羽田の国際化に慎重な姿勢をとってきている。 これに対して前原氏は「成田から羽田に便を移すものではなく成田も使っていくし、大阪の3空港に関しても羽田のハブ化の筋道をつけた後で、その役割分担も含めて検討する」としている。
 これに対して、大阪の橋下知事は「関空がハブ空港でなければ府としてお金をつぎこむ必要はないため、府民の生活に金を振り向ける」と表明している。
 一方で、成田市長はじめ成田地元市民の間では「地元の意見を聞かずに決めるのは八ッ場ダムと同じ構図だ」との困惑が広がっている。成田空港は今月下旬、延伸されたB滑走路の供用がやっと始まり、国際空港らしい体裁が整ったその矢先に冷水を浴びせられた形だ。 長く激しい空港建設闘争による地域分断の苦しみを味わいつつ、苦渋の決断として空港建設を受け入れてきた歴史を考慮していない、とする成田空港対策協議会の批判もある。(以上、朝日新聞記事より要約引用)


 今日昼間のNHKニュースを見聞していると、「ハブ空港」に関する短時間の報道の中に、前原氏の「千葉県の森田知事は勘違いしている。私は何も成田空港を潰すとは言っておらず羽田と共存させるつもりだ」云々とのコメントがあった。 このコメントは一般市民である私が見聞しても、千葉県知事である森田氏を“バカ”と侮ったように受け取れる発言であり、その真意はともかくも国交省の大臣たる立場での発言としては国民の誤解を生むだけである。

 前原氏が如何なる対処をしようとも、羽田ハブ空港化により成田空港が大打撃を受けることは素人目にも明確な事実であろう。
 加えて、あの激しい成田空港建設闘争の歴史を慮っただけでも、地元の皆さんの苦渋の歴史はこの私にも痛いほど理解できる。 それを、新与党のマニフェストに掲げられている政策だからと言って、大臣が一言で一蹴して済むはずもない。


 新連立与党は夏の終わりに政権を取って以降、短期間の内になぜこのような同じ過ちを何度も繰り返すのか?
 “マニフェスト先にありき”の我が身息災な考え方を今一度冷静に再考できないものなのか? こんな失策を繰り返してばかりいるのでは、やはり来年の参議院選挙に向けて“票取り”に焦っているとしか選挙民である庶民には捉えられないのではなかろうか。
 今回の「ハブ空港」問題とて、苦渋の歴史を積んで来ている成田地域住民への配慮こそが真っ先に行われるべきだったであろうに…。

 しかも、今回の場合、羽田24時間国際空港体制における新たな騒音等の公害問題も発生する。(これに関しては既に千葉市長よりその旨提言されているのだが。)
 
 日本には“根回し”などという良きにつけ悪しきにつけ独特な文化もある。 新政権が自らのマニフェストをどうしても成就したいのであれば、(あくまでも権力や金力がからまない範囲ならば)この“根回し”手段とて指導者としての一つの力量、手腕として利用できるであろうに、と言いたくもなる。 一般庶民にそんな発想さえ抱かせる程、今の国交省(をはじめ各省庁の)各方面の政策決定発表は唐突で“素人もどき”で見ていられないのだ。


 あっ、最後に本記事の表題に戻るが、環境面からそして経済効果からも今の日本の現状を考察した場合、前原氏がおっしゃるほど今の日本に「ハブ空港」が必要とも思えない原左都子でもあるのだが…。
 アジアの発展という国際外交関係の観点からも、新政権はもっと大らかな心でお隣の韓国やシンガポールにその役割をお任せしておいてはいかがなものなのか??
              
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「家飲み」反対派の私

2009年10月12日 | 
 自他共に認める“底なし飲兵衛”の私であるが、家族が同居する我が家に人を招いて酒宴を開いたり、他人様のご自宅に伺って「カンパーイ!」をすることだけは避け通したいと、30余年来の“飲んだくれ”遍歴を積み重ねてきた今、身に滲みて実感する原左都子でもある。


 我が過去における独身黄金時代においては、「家飲み」は日常茶飯事だった。 恋人はもちろんのこと、親しい友人等と我が一人暮らしの部屋や相手の部屋で朝まで飲んだくれては夕方近くまで寝込むなどという“荒業”を成し遂げられたのは、若気の至り故のパラダイスでもあり失策でもあったのだろう。 それでもまあ、それは独り身故の自己責任の範囲内で片付けられる話である。

 そんな私が家庭を持ってからも、幾度か友人知人を招いて我が家で酒宴を開く機会があった。
 「家飲み」においても、客を“招く”立場の場合はまだしも気が楽とも言える。 “類は友を呼ぶ”とは言うが、何分飲兵衛の私であるが故にご訪問下さる友人知人も私に勝るとも劣らぬ“飲兵衛”ぶりである。“駆けつけ3杯”という訳ではないが、“飲兵衛”ペースでとにかく最初からアルコールをどんどん与えておいて、その後適当にあしらえた下手な料理を出しても、それに話題が及ばずに済んだものだ。 (何分、わが人生を一貫して料理嫌いな原左都子なもので…  詳細は本ブログバックナンバー「料理嫌いな女」をご参照下さい。)

 一方、他人様のご自宅にお酒を“およばれ”する場合は、そうは問屋が卸してはくれない。 大抵のお宅では、料理担当の奥方がさほどお酒を召し上がらないのが世の常である。
 例えば私がその奥方と親しい場合、私が“底なし飲兵衛”であることは既存の事実ではあるのだが、奥方以外のご家族の前でまさかその醜態は晒せない。
 私がそのお宅の旦那と知り合いの場合など、台所でせっせと料理を作っている面識の浅い奥方に遠慮申し上げて、(早く酒飲ませてくれよな、とイライラしつつも)「何かお手伝いしましょうか?」などと心にもない気遣いもせねばならず、真正飲兵衛としては欲求不満ばかりが募るものである。(こういう場面で今尚男尊女卑を実感させられるのが悔しいよなあ…。)
 と言う訳で、他人様のご自宅での飲み会とは“底なし飲兵衛”の女の身には欲求不満ばかりが募る“過酷”な会合以外の何でもないのだ。

 
 今回、本ブログでこのような記事を書くに至ったのは、10月10日(土)朝日新聞“家庭欄”(?)の記事「『家飲み』友とゆるり」がきっかけである。
 この記事によると、現在、費用が抑えられ時間や周囲を気にせず過ごせる気軽さが受けて、若い世代の間で「家飲み」がじわりと広がっているとのことである。
 この朝日新聞記事の場合、「家飲み」を催しているのが20、30歳代とのことで、その世代の若さであればある程度気兼ねもなく他人の自宅での「飲み会」を楽しめるのであろうとも考察する。

 ところが、やはり私のような“真正飲兵衛”にとって災いとなるのが、この朝日新聞記事に添えられていた“専門家”とやらの女性のコメントである。
 ファッションスタイリストと称するその“専門家”女性は、そのような「家飲み」にあたってのキーポイントはやはり「料理」だと断言しているのだ! そして料理が苦手な“女性”へのメッセージとして「自分が“出来ること”で料理を作りましょう」云々と提言している。 しかも、他人のお宅に招待された女性客は、台所での準備に協力・参加することで負担を感じなくて済むとの提言である…
 やっぱり女とは「お酒」の席においてさえ、今の時代に至って尚、その裏舞台で料理を作ることを強要される存在でしかないのであろうか??? 
 そんな人生を30年前から一切歩まず、自由奔放に飲兵衛人生を徹底して楽しんで来ている私にとっては、料理作りを強要される「家飲み」など鬱陶しいだけの存在である。


 実は、我が義母が家庭料理を手始めに長年すばらしい創作料理を創り続けた手腕の持ち主であられるのだ。 そんな凄腕料理の母を持つ亭主の実家へ結婚以来幾度となくお邪魔し、何日も前から下ごしらえして手塩にかけて創った義母の真心こもった料理を肴にお酒を堪能してきた私でもある。
 それでも義母の加齢に配慮した私は、その料理を亭主の実家で頂く事を私の意向できっぱりと終焉して以降もう10年程の年月が経過している。 高齢にしてその凄腕料理に臨む義母の労力の負担を鑑みての配慮であった。
 今では、義母との会合には外部の飲み食い処の個室等を予約して(その会計は義母が喜んで全額負担してくれるのだが、トホホ… )、飲み会の席において老若男女にかかわらず誰しもに料理や片付けの負担の偏りを無くし、皆が心置きなく飲んで楽しめる措置を採っている我が一族である。 (そんな私の合理的思考を率先して理解してくれる義母を持つ恵まれた私でもある…)


 結局、現在の不況真っ只中の日本における「家飲み」の実態とは、庶民にとっては外で飲むには“金力が乏しい”故であることは多少理解も出来る。
 そうかと言って家で他人も含めたメンバーが集まって飲む場面において、今の時代に至って尚“女の料理労働力”が期待されているというこの時代遅れの実態はどうしたことであろうか???

 ちょっと、冗談じゃないよ!
 家で飲むなら男も料理を作って飲兵衛の女に振舞ってくれよ。
 それが嫌なら、皆が割り勘で金出し合って外で飲もうよ。
 それも嫌だと言うならば、酒飲まなきゃいいだろが!! 
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実力と人気と使い易さの3次方程式

2009年10月10日 | その他オピニオン
 秋も深まりつつある今、そろそろ8月の民主党のあの圧勝劇も“過ぎ去りしひと夏の出来事”として国民の熱が冷め始め、一般庶民の間では早く各種手当てが支給されることのみが待たれる段階に突入している感もする今日この頃である。

 今回の選挙における民主党の当選者の場合、候補者自らの政治家としての実力(潜在力)が有権者に評価、支持されて当選した人物はごく少数派なのではなかろうか。
 国政選挙とて結局はそういうレベルの話にしか過ぎないのであろうが、政界においても、経済界においても、芸能界においても、「実力」と「人気」と「使い易さ」の3要素こそが指導者にとって後進を掘り出して育てていく基本原則と位置づけられるのではなかろうかとの感を抱く原左都子である。

 今回の記事は国政とは一切関係なく、上記3要素の相関関係について考察する内容であることを最初にお断りしておく。


 何故に突然この3要素の概念が頭に浮かんだのかと言うと、きっかけは「モーニング娘。」である。
 ダンス好きな私であるが、秋になってフィットネスクラブに入会して以降はそこで「ヒップホップ」と「エアロビ・ステップエクササイズ」に励んでいる。 それ以前はもっぱら、ユーチューブの70年代ディスコサウンドやピンクレディやそして「モーニング娘。」の曲に合わせて、一人で踊りまくって自主トレしていたのである。(ちなみに、ピンクレディはほぼ全曲踊れるし、モーニング娘の“恋愛レボリューション21”は私のダンスの得意ナンバーであるのだが。


 今は廃れた(失礼!)「モーニング娘。」であるが、今その全盛時代の影像を見るとなかなかのエンターテイメントぶりである。歌はともかく踊りは本格的だ。全員が基礎基本を一応きちんとマスターしている様子で、舞台やスタジオでの激しいダンスの動きに最後まで手抜きがない。

 そんな中、踊り以外で興味深いのはメンバーの「人気」と「実力」とそして“私の好み”が一致しないことである。 “この娘(こ)がグループの中で一番の人気者だったはずだけど、私の目には魅力的に映らないなあ。こっちの娘(こ)の方がずっと洗練された魅力があるし踊りもうまいのになぜこんな隅っこにばかり追いやられているのだろう? 私がプロデューサーならば、この子こそ中心に置きたいけどなあ。”といった具合である。

 この「モーニング娘。」に関しては、プロデューサーのつんく氏によりデビュー当初より興味深いプロデュースの試みがなされていたようだ。 単独リードボーカルを立てず、ほぼ全員を入れ替わり立ち替わりソロ、デュエット等に起用し、その持ち時間の長短はあれど、一曲中に全員が一度は“日の目をみるよう”メンバーを配置したのがその特徴のようだ。 このような構成は見る側の“好みの多様性”を尊重したものに他ならない。 そして、グループが陳腐化して「人気」が廃れる前にメンバーを少しずつ入れ替えつつその“鮮度を保つ”という、今までの芸能界にはない斬新な試みをしたのも、つんく氏による「モーニング娘。」プロジェクトが初めての事例ではなかっただろうか。

 そのような斬新なプロデュースの試みの「モーニング娘。」においてさえ、やはり中心メンバーをつんく氏は立てていた。 実名を挙げて申し訳ないが、初代の中心メンバーは“阿倍なつみ”だったのだが、私個人的には個性が乏しく感じるし歌唱力も大したことがなくメンバーの中で一番印象が薄い存在と捉えていた。 それでも、つんく氏が何故に“阿倍なつみ”を中心に据えたのかを私は理解できるような気がする。
 それはプロデューサーの立場として“阿倍なつみ”が「使い易い」からに他ならないからだと私は考えるのだ。(いや~、真実は知りませんよ。つんく氏の個人的な好みだったのかもしれないし~。)


 実はつんく氏の「モーニング娘。」プロジェクトに限らず、学校のクラスや職場、そして国政等において、上位の立場の人間が下位の生徒や部下や新人議員を扱う上でもこの「使い易さ」という概念は欠かせない要素であると、私は以前より考察しているのだ。
 例えば、教員の立場として学級委員はこの生徒にやってもらうと自分の意思伝達がスムーズに運んでクラス運営が容易となる、といった魂胆で教員自らが指名することも多かったように記憶している。 職場においても、真に実力のある部下とは能力のない上司には扱いにくい存在である。そこであえて「実力」ではなく「使い易い」人材を採用するのはどこの職場でも常識であるとも言える。
 今回の民主党圧勝により誕生した“小沢チルドレン”に関しても、結局小沢氏が「扱い易い」人材を周囲に蔓延らせようとした結果でしかないのであろう。


 ところが残念ながら、世の中のシステムとは、狭い集団内における(名目だけ)上の立場にいる人間が下の人間を「使い易い」という安易な論理のみで扱っていたのでは発展し得ないものである。
 組織の如何にかかわらずその“長”たるものは、世の中をオープンシステムとみなして自分の都合や狭い見識のみではないグローバルな視野で捉え、真に「実力」のある人材を勇気を持って育成していかないことには、結局はオープンシステムにおける長続きする「人気」を確保できず、その発展も望めないのではなかろうか。

 真の実力がものを言い、それが世を動かす時代に早く移り変わって欲しいものである。
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「つまらないものですが…」の美学

2009年10月07日 | 人間関係
 (写真は新聞広告から転載。 写真をクリックしていただきますと少し大きくなります。)


 私など人に贈り物をする時には今尚、今回の表題の「つまらないものですが、どうかお受け取り下さい…」等々、ついつい口にしてしまう世代の人間である。
 ところが残念なことに現在の日本の若い世代の人々の間では、この手の言葉は既に死語化していて奇異な表現であるらしいのだ。


 上記写真は現在65万部突破!大ヒット中という漫画本の新聞広告を写したものであるが、「日本人の知らない日本語」と題したこの漫画本の広告の中に一つの4コマ漫画が掲載されていた。
 いつもながら写真が見づらいため()、以下にこの4コマ漫画の内容を文章にて紹介しよう。

 登場人物の若い女性が海外で使用されている“日本語会話例文集”を手に入れたのだが、その中に以下の日本語会話が記載されている。
  「素敵なお召し物ですね」
  「いえ、こんなのは“ぼろ”でございます」
 それを見た若い女性が「いつの時代の会話?」と驚き、焦りおののく…  、といったごとくの内容である。

 この広告の4コマ漫画を見て、驚いたのは私の方である。
 と言うのも冒頭に既述の通り、私などこれに類似した会話は日常茶飯事であるからだ。“ぼろ”とまでは言わずとも、会話の相手から「あら、素敵な洋服ね」などと褒められると、ついつい「大したことないわ。安物なのよ~」なんて咄嗟に反応するのは、一種の礼儀と私は心得ているのだけれど…
 いや、相手と親しい間柄であるならば「ちょっと奮発したのよ~」などと本音の会話にもなろう。 一方、懇親の仲でもない相手に対しては褒められた御礼こそ素直に伝えても、まさか子どもじゃあるまいし、「これ、高価なんですよ~」等と声高々に応じる単細胞人間は日本では少数派なのではなかろうか?? 
 皆さんはいかがであろう。

 しかもこの漫画本の題名が「日本人の知らない日本語」ときている。
 広告だけ見て本の中身を読まずしてブログでコメントするのも筆者に対して失礼な話だが、上記の会話のごとくの日本の伝統でもある“謙遜の文化”が、若い世代に「知らない日本語」と明瞭に表現されるほど現代日本社会は廃れ去っているのであろうか?? 


 話が変わって、たまたま本日(10月7日)、NHK昼間の番組「スタジオパーク」にフリーキャスターのジョン・カビラ氏が出演し、氏の日本語と英語のバイリンガル人生についてトークを繰り広げているのを見聞した。
 そのトークの中で、日本の“謙遜の文化”について触れ、氏の日本人である父親に対してはずっと謙譲語あるいは丁寧語を使い続ける人生である旨語られていたのが興味深かったものだ。

 ジョン・カビラ氏に限らず、諸外国の人々にとって日本の“謙遜の文化”は今や世界的に既存の事実であり、自国にはないその文化を高く評価する諸外国からの風潮に私は今まで多く触れてきている。 日本人の謙遜の礼儀とハートを自分は好むと言う諸外国の人々からの賞賛を、今までに私は何度も経験してきているのだ。


 今回の広告4コマ漫画の“ぼろ”の表現は極端で誰しも驚くであろうが(これは漫画ゆえにデフォルメした表現であり、日常的には使用されない言葉であろうと私は捉えているのだが)、自己を謙(へりくだ)る時に「つまらないもの」等の否定的表現を用いることが謙る場面での単なる“慣習”であることを社会的合意として一旦理解出来たならば、それは既に“美学”の域に達しているのである。

 そのような我が国の伝統的文化である謙遜の美学が、次世代からけんもほろろに「知らない」と驚かれ否定される程受け継がれていないとすれば、既に何の取り得もなくなりつつあるこの日本は、今後一体何を目指せばよいのであろうか?

 「つまらないもの」と言う言葉を真に「つまらないもの」と受け取る単細胞さで自分本位に世渡りするのではなく、一人ひとりがその時の空気を客観的に読める繊細さを備え、その言葉に相手の思慮深さを慮り、謙遜の文化を次世代まで継承できる日本社会でありたいものである。 
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“プー太郎”の亭主

2009年10月05日 | 人間関係
 これは、小さい子どもを抱える主婦にとっては何とも深刻な相談と受け止めた。


 朝日新聞10月3日(土)別刷「be」“悩みのるつぼ”の今回の相談は、31歳育児休業中女性からの「働かない夫を更正させたい」である。

 早速、この相談を以下に要約して紹介しよう。
 この秋に第2子が生まれるが、26歳の夫が仕事をせず、上の子の面倒も見ない。 3年前に結婚した際、夫は大学生だったがまもなく退学、定職に就かずアルバイトも長続きしない。育児休職中の私は貯金を取り崩して何とか生活しているのに、夫は家でテレビを見てゲームをするばかり。家事を頼むとしぶしぶ手伝うが自分からは動かない。子守を任せても一緒にテレビを見ているだけ。 1日2時間でも仕事をするように促したり、ゲームの時間を減らすよう要求しても「わかってる」と答えるのみ。 夫の両親に相談しても「仕方のない子ね」という反応で彼に注意もせず甘い親である。 彼のことは好きだし別れたくはない。 次の子どもが生まれたら私がすぐに職場復帰して彼に専業主夫をさせてもいいが、今のままだと子どもを任せるのも心配だ。 どうすれば無気力な彼を「更正」させられるか。


 早速私論に入ろう。

 この救いようのない“プー太郎”亭主を、何を好き好んで面倒を見てやっているのかアンビリーバブルとしか言いようがない。 今時この手の“奉仕精神”が旺盛な若い女性が世に増殖しているのであろうか??
 「とっとと別れてしまえ!!」と吐き捨てたい思いの原左都子であるが、この“プー太郎”が好きだから別れたくないと言う相談者女性の思いも少しは尊重せねばならぬのであろう。

 今回の相談の回答者は社会学者の上野千鶴子氏であるが、その回答内容が私論と一致する部分が多いため、まずは上野氏の回答を以下に要約して紹介しよう。
 夫が仕事をしないのは仕事をする理由がないからだ。 おそらくあなたは「家長」と「主婦」の役割を同時にこなせる有能な女性なのであろう。 甘やかされて育った夫は、自分の親に代わる庇護者をあなたに求めたのではないのか。「彼のことは好き」とあるが、世間知らずの純粋さや甘さ、安きに流れる弱さを含めて愛したならば、今後もあなたが「家長」と「主婦」の二役を引き受けて「うちにはもう一人子どもがいる」と覚悟することだ。 あなたが自分と結婚生活とを継続したいなら、そういう環境を作らねばならない。彼に「子どもを任せる」のもその一つで、任せたら干渉しない。もしかしたら現実逃避的で競争を避けたいらしい夫は、よい親になるかもしれない。あなたにとっても癒しになるかもしれない。 もしそれでも無責任な夫なら、人間的に問題があると見限るべきだ。 それでも、あなたが彼に対する期待をどうしても捨てられないのなら、男を見る目がなかったと潔く母子家庭になる方が、この先扶養家族もストレスも少なくてすむであろう。
 以上が、社会学者上野千鶴子氏による今回の相談への回答の要約である。


 ここで私事について少し語ろう。
 我が家の亭主は決して“プー太郎”ではなく、結婚以来ずっと欠かさず安定収入を我が家に運んでくれている。 そんな我が家の実質的「家長」の権限は結婚以来私が握り続けているのであるが、それはお互いの“適性”や“資質”故に自然の流れでそうなったものと私は捉えている。 実質的「家長」である私は、家庭に関する一切合切の任務を一手に引き受けている。 例えば、子どもの教育、家計の管理、家族の将来設計、外交対応、等々……
 その中の一例を取り上げると、子どもの教育に関しては我が亭主も子どもが幼少の頃は少しは子育てを手伝ったものであるが、子どもが高校生となっている今では子どもの教育に亭主がかかわる事は皆無である。 これに関しては、たとえ身内であるとはいえ他者から意見されることを好まない私の方針を貫きたい故でもある。
 そこで亭主は家庭内の全ての決定事項につき私が下した結論に事後承諾をする立場にある。(亭主の許容力に助けられている部分も大きいことは重々承知の上であるのだが…) このように我が家の場合は亭主が私を立ててくれていることにより、うまく立ち回っているとも私は捉えている。

 そういった背景もあって、我が亭主も上記相談者の夫同様に仕事から帰宅後や仕事が休みの日には自分の意思でやりたいように過ごし、家庭に貢献するがごとくのかかわりは一切ない我が家である。(晩婚でもあるしねえ~)
 だが我が家の場合は相談者の家庭とは異なり、亭主は安定収入を結婚以来欠かさず運んでくれるし、「家長」の権限を一切委譲してくれることは私の希望でもあるため現在に至っては特段不服もなく、我が家はそこそこうまく機能していると考察しているのである。


 今回の相談が深刻だと感じるのは、子どもが小さい(2人目はなんと、これから生まれる)ことである。 回答者の上野氏がおっしゃるようにこの相談女性は有能であろうと私も捉えるが、今後第二子を出産直後の職場復帰は体にこたえるであろうことは間違いない。 しかも亭主は、何の役にも立たない“プー太郎”…  甘く育った体質はどう考察しても変えられそうもない。 日頃お世話になっている配偶者の相談者女性を慮った上でそういう行動をとっているとの奥深さも、残念ながらこの“プー太郎”からは一切感じられない。
 たとえ相談者女性が「好きな夫」であるとは言え、毎日仕事から帰宅後、家中がゴミ捨て場のごとく散らかり、幼い子どもに食事も与えていない“プー太郎亭主”がいくら優しい言葉を女性にかけたからと言って、今後女性の怒りが爆発するのみであるのは重々想像がついてしまうのだ……

 “プー太郎”亭主を「それでも好き」という女性の気持ちも汲んであげたいが、これは上野氏がおっしゃるように“男を見る目がなかった”としか言いようがない。
 悲しい結論であるけれども、どうか早めの離婚を考慮して“プー太郎”亭主はとっとと捨て去り、母子家庭で健全に幸せに力強く生き抜かれますように。 
            
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消費者尊重契約時代を検証する

2009年10月03日 | 時事論評
 今回の記事では適切な題名が思い浮かばず、“自作”の分かりにくい造語表題を使用し恐縮である。
 早速自作造語の表題の意味から解説することにしよう。


 先月、某大手フィットネスクラブに入会したのだが、その入会契約手続き時に上記の「消費者尊重契約時代」を実感した私である。

 例えば入会に際しての入会金であるが、一昔前のフィットネスクラブの入会金と言えば何万円かが常識で、下手をすると何十万円の入会金を納入させるクラブもあったと記憶している。
 私が今回入会したクラブは入会金が¥0- であったが、これは今時の常識なのであろうか?
 その分、登録料と称して¥3,150- の納入を課せられるのだが、この程度ならばまずまず許容範囲であろう。
 
 次に月会費の納入であるが、クラブ利用月の月末27日が引き落とし日となっている。 今までの私の経験だと、会費や月謝は「前払い」すなわち利用前の前月の引き落としが常識であった。
 この「後払い」制には退会時に損失を計上しなくて済むという大きなメリットがある。「前払い」の場合、既に会費が引き落とされた後に退会となるため、1~2か月分の会費が過払いとなり消費者側の損失が大きいのだが、「後払い」によりこの損失を回避することが可能となる。
 これに伴い退会がし易くなることが、入会時の消費者の精神的負担を軽減するものでもある。 当月の25日までに退会を申し出ればその月末には退会可能となるため、急な事情での退会においても損失は少なくて済む。

 また「休会制度」が一切ないというのも明確でよい。 この休会制度というのがくせもので、よくあるのは退会を申し出た時に休会制度の利用を勧められ、会費の何割かを強制納入させられるというパターンだ。 結局、長い休会期間に渡って損失を計上させられた挙句、退会の運びとなるのが大方なのだ。 休会制度がないお陰で一旦退会して将来的に再開したいような場合も、再入会時に登録料のみの負担で済むというメリットもある。

 上記のように、フィットネスクラブ入会契約内容に関する重要事項説明書に重箱の隅をつつくがごとく目を通し、契約担当者に分かりにくい部分につき質問もしながら、“ここにきてやっと世の中の契約体系が消費者尊重に傾き始めたのかな”との感想を抱きつつ契約締結の運びとなった。


 消費者 対 生産者、販売者 等の関係が対等な経済社会であるのが世の基本である。 近代市民法の基本原理の一つである“契約自由の原則”に従った合法的な契約が締結される社会であってこそ経済流通が活性化し、正常な経済発展がもたらされることであろう。 にもかかわらず、消費者はその流通関係において末端の弱者であるが故に不利な契約を締結させられてきたのが現在までの経済社会における歴史でもある。

 それにしても、消費契約において私が今回経験したフィットネスクラブのレベルまで消費者側が尊重され契約内容が合理化されたのは、いつ頃からのことなのであろうか。
 我が子の習い事を振り返ってみても、例え大手企業であれ月謝は前納、休会制度の採用、退会届は退会の1ヶ月以上前までに提出等、消費者側が不利となる契約を当然のごとく消費者に押し付けていたものである。
 何か月分、何十万円もに及ぶ月会費を前払いで強制した挙句、突然閉鎖して経営者が行方をくらます等、悪質な英会話学校等の違法な契約の横行ぶりが摘発されて以降の行政指導によるものなのであろうか??

 今回の私の経験は、大手企業であるから故に可能となった契約形態なのであろうか。 私が今回入会した店舗は比較的小規模であるにもかかわらず、この消費者尊重契約の効果が絶大なのか、平日昼間にして多くの会員がクラブを利用している。
 中小や個人のクラブや教室においては、経済不況の下の経営難に加えて悪質消費者対策の観点からも、消費者に不利な契約形態を取らざるを得ない側面もあろう。


 「消費者庁」とやらの新省庁も誕生したようである。
(どんな“お仕事”をしているのか存じ上げないが、新政権の福島大臣がおっしゃるように永田町の超高額家賃のビルではなく、消費者に近い位置の出来るだけ家賃の安いビルに引っ越すことにより国民末端消費者からの血税の財源食い潰しは即刻やめて、消費者の目線で執務を行って欲しいものであるぞ。)

 今後共、新政権は近代市民法の基本原理のひとつである「契約自由の原則」が正常に機能する社会を保証することにより、現在の経済不況から抜け出して欲しいものである。
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