原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「科学」と「疑似科学」の狭間で

2017年08月25日 | 学問・研究
 元「科学者の端くれ」を自称する原左都子だが。

 最後に仕事にて「科学」(特に「自然科学」分野)に接した時代より既に十数年の年月が経過し、今となっては不本意ながら一切の「科学」の香りすらない環境下に身を置いている始末だ。 
 (参考だが「社会科学」分野に関しては、その後50代期に「税理士試験」にチャレンジしたり、フランチャイズ学習教室開業に着手したりと試行錯誤する中で、ある程度かかわり続けている。)

 そんな私だが、わずか3年前の2014年には、1年以上をかけて「STAP細胞」研究に於ける改ざん・捏造の実態を追及調査しエッセイを公開し続けた。
 以下に、その一部を今一度表題のみ列挙してみよう。

   2月3日     「実験好きと理系頭脳とは相関し得るのか?」
  3月12日    「STAP細胞騒動は基礎研究体質のいい加減さを露呈した」
  4月3日     「STAP騒動、私なら未熟者扱いされるより捏造を認めたい」
  4月10日    「4/9小保方会見、むしろ科学者として墓穴を掘った」
  5月10日    「5/8理研調査委『STAP論文取下げ』記者会見を論評する」
  5月21日    「小保方論文“切り貼り”は何故『改ざん』と確定されたか?」
  6月4日     「STAP論文すべて撤回で、今後の小保方氏の行く末は?」
  6月14日    「理研の新法人化は当分棚上げにするべき」
  7月2日     「小保方氏って、未だ理研から給与貰ってるの?」
  7月29日    「小保方氏はもはや不正疑惑から逃れられない」
  8月5日     「笹井副センター長自殺はSTAP不正を証明したも同然」
  10月25日   「STAP事件は“必然”だったか“偶然”だったか!?」

 あれから未だ3年しか経過していないにもかかわらず、現在の私の脳内記憶から「科学(特に自然科学)」がすっかり抜け落ちてしまっているのが残念だ。 今現在、このSTAP細胞シリーズ類似のものをエッセイに書いて公開せよ!と指示されようが、それを受けて立てる自信の欠片も無い。


 そんな私に、“少しは「科学」を思い起こせよ!” と忠告するかのような記事を朝日新聞2017.8.16 付「文化・文芸」ページで発見した。

 早速、「科学とは 揺らぐ見極め」と題する記事を、以下に要約して紹介しよう。

 科学の前提とは、第三者が再現でき事象をすべて説明できる事である。 そんな前提が揺らぐ事例が増えている。 何をもって科学か否かを見極めればいいのか。
 昨年、英科学誌ネイチャーが、その科学の再現性を巡るアンケート結果を掲載した。 研究者1576名の回答を分析すると、70%以上が他の科学者の実験結果を再現しようとして失敗した経験を持ち、自分の実験結果の再現に失敗した人も半数以上に上った。
 生命科学分野では、実際追試ですぐに再現出来ない事例も多いという。 
 ある事例では「研究室が引っ越して実験を再開すると、従前のデータが出なくなる事があると言われる。 また、対象が微細になる程、培養皿の揺すり方や培養液の注ぎ方など操作の細かい違いに影響を受け易い」と指摘する。  (中略。)
 科学とそれ以外の違いについては、科学哲学の世界で長年「線引き問題」として思索が続いてきた。
 京大某准教授は、再現性も還元主義(複雑な事象も個々の要素に分解して細部を理解していけば、全てを体系的に理解出来る、との考え方)も絶対視するものではないと言う。 その上で、当准教授は科学を「時代や倫理など様々な制約条件下で、最も信頼できる手法を用いて情報を生産する営み」と捉える。 研究対象によって「信頼できる」の内容は変わり、再現性、還元性、反証可能性などはその基準となる。 逆に「信頼できる手法があるのに用いないなら、疑似科学ということ」と述べる。
 ただ、一般人に見極めは難しい。 疑似科学は時に科学的言説を装い、都合のいい実権結果や経験談だけを紹介することも多い。  (中略。)
 なぜ、人は「疑似科学」に引きつけられるのか。 某認知心理学教授は「人間には健康や人類の幸せなど、予期せぬ出来事をコントロールしたいとの心理や、複雑さを回避して分かりやすさを求める思考の型がある」と述べる。 当認知心理学教授は「科学の方法論や人はだまされやすいという心理学などを正しく疑う態度や知識を養うことが重要。」とも述べている。
 (以上、朝日新聞記事より一部を要約引用したもの。)


 一旦、原左都子の私論だが。

 要するにこの朝日新聞記事の論点主旨とは、最後の部分の「疑似科学に騙されるな!」の部分にあったのでがなかろうか?
 この記事内では、先だって6月に乳がん闘病の末に34歳で亡くなった小林麻央氏にも触れていた。 何でも麻央さんは、自身のブログで気功や温浴療法などの代替医療を受けている事に関しても記述されていたとのことだ。(申し訳ないが、原左都子は小林麻央氏を含め著名人のオフィシャルブログとやらをただの一度とて訪問した経験がないため、コメントしかねるのだが……) この麻央氏の記述も「疑似科学」的だと指摘されている、との朝日新聞の記述だ。
 もしも各種サプリメントやトクホ食品等々、現在世に溢れる程に乱売されている商品群等のセールスポイントである「疑似科学」に騙されそうな国民が多発している現状なのであれば…。 
 まさに某認知心理学教授がおっしゃる通り、「人間には健康や人類の幸せなど、予期せぬ出来事をコントロールしたいとの心理や、複雑さを回避して分かりやすさを求める思考の型がある」傾向があるのだろう。


 それよりも、元「科学者の端くれ」を自称する原左都子として一番に議論対象としたいのは。

 まさに前半部分の、(「疑似科学」ではなく、真正の)「科学」に於いて、再現・説明不能な事例が増加する現象を辿っているとの事実だ。
 上記朝日新聞記事内の「科学哲学」ご専門の某准教授がおっしゃる通り、科学とは「時代や倫理など様々な制約条件下で、最も信頼できる手法を用いて情報を生産する営み」と捉えられるべきである事は歴然だ。
 「研究対象によって『信頼できる』の内容は変わり、再現性、還元性、反証可能性などはその基準となる。 逆に『信頼できる手法があるのに用いないなら、疑似科学ということ』」と述べられている部分に、私は賛同申し上げる。
 
 要するに、小保方氏らによる「STAP細胞改ざん・捏造事件」など、まさに「信頼できる手法があるのに用いず、安易に発表に踏み切った」典型例であり、この事件が科学として否定された決定的な要因だったと振り返る。

 更には、朝日新聞記事の前半部分に、「研究室が引っ越して実験を再開すると従前のデータが出なくなる事がある。また対象が微細になる程、培養皿の揺すり方や培養液の注ぎ方など操作の細かい違いに影響を受け易い。」 なる再生細胞研研究所教授よりの談話が掲載されている事実も気にかかる。

 過去に医学研究に携わった原左都子からの指摘だが、それならば幾度も幾度もその実験を繰り返すことを実行し、数多くのデータを蓄積して後にそれを発表してはどうなのか!?? なる疑問符が湧き出る。 
 私自身、若き頃にはそうして来た。 そうせねば気が済まない性格だった。 実験過程に於いて、科学者の端くれとして苦労の上に苦労を重ねてきた歴史があるのだ。 培養皿を揺する過程に問題があったと思うのならもっともっと揺する実験を繰り返せばよい話だし、培養液の注ぎ方等々操作の細かい部分を数知れぬ程に再現した後に、公開実験結果としてものを言って欲しい気がする。
 一体何度それを実施した上でこの研究機関は再現性や還元性の結論を出したのか?!? と問いたくもなる!


 おっとっと。
 自分自身は既に「科学者の“端くれ”」すら卒業している分際で、言い過ぎた部分があった事はお詫びしよう。
 ただ、今回偶然見た朝日新聞記事が我が脳裏に「科学者の端くれ」だった過去の事実を思い起こさせてくれ、この記事を公開するに至れた事には感謝しよう。

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