原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

郷里で過ごした怒涛の一週間  - 古いアルバム編 -

2016年10月24日 | 旅行・グルメ
 (写真は、郷里の実母が住む家に保存されていた古いアルバム内にて発見した私の過去の画像。 1970年に開催された大阪万博会場にて撮影したもの。)



 皆様、一週間のご無沙汰でした。

 9日前に公開した前回の本エッセイにて記した通り、私は先週より我が郷里に一人暮らしの実母を高齢者有料介護施設へ入居させる引越のため旅に出かけておりました。

 
 さて、旅程1日目はいつものことだがホテルを予約し、久々の故郷を一人で堪能した。
 
 ホテルへ到着直後、早速母に電話を入れ明日の引越スケジュールを再確認する事と相成る。
 「引越は午後からだから、私はそれに間に合うように行けばいいよね?」と母に問うと、「やる事が一杯あるから、朝早く来て欲しい。」と訴える。 「だって今回の引越は担当業者に梱包もお願してあるし、たかが年寄り一人の引越に大して時間はかからないよ。」と反論しても、「とにかく〇子にしてもらいたい事があるから早く来て!」と譲らない。

 (今夜はホテルの懐石処でゆったりと酒でも味わい、明日は遅めの出発にしたかったのに…‥)と内心思いつつも、確かに郷里の実家で母と過ごすのはこの旅程が最後だ。
 ここは私側が全面的に譲る決断をし、母の希望通り明朝の早い時間帯の実家到着を確約した。

 
 そして次の日、朝早く母が住む実家(参考だが私自身はこの家で暮らした事は無い。我が上京後両親の県内転勤等の都合で転居した家屋)に到着した。
 昨夜の酒が多少残る身にして眠い目をこすりつつ、「私がやるべき作業とは一体何なの?」と母に尋ねると、それは引越とは全く異分野の作業だった。  どうせそんな事だろうと想像していたが、一時でも早く私に会いたかったであろう母の思いを尊重し、それを責める事は避けた。

 私の到着直後に母が欲していた我が仕事とは、「古いアルバムから私が必要な写真を持って帰って欲しい」なる要望だった。 
 これまた、そんなこと1週間の滞在内で幾らでも時間が取れるはずだ。 なのに何故母がその仕事を第一義としたのかを、娘の私なりに承知した。 確かに母が長年大事に保存していた我が子の写真を本人に委ねたいとの希望に沿う事とは、娘として重要な任務なのかもしれないと。
 そう察知した私は、「分かった。直ぐにその作業をするね。」と応え、アルバムが保存されている2階へ上がった。

 いやはや、膨大な写真アルバムの数々だ。
 家族全員が映ったアルバム写真集と、私、そして姉の写真集を別々のアルバムにして母が保存していたのにも感銘を受けた。
 その中には、遠い昔に見た思い出深い写真が数多く保存されていた。 それらを中心に、今回私の趣味で自分自身が思い入れがある感慨深い少数の写真をアルバムから剥がして持ち帰った。


 冒頭で披露した写真は、私が中学2年生時(だったと記憶しているが)1970年夏に大阪万博会場を家族で訪れた時に撮影した中の1枚だ。
 今から40数年前のこの時の事は今でもよく覚えている。  何分暑い時期で冷たい飲み物を飲み過ぎ、万博会場内で下痢に苦しみ幾度もトイレに走った事が一番思い出深い。

 それにしても40数年も経過した今思うに、当時中学生だった頃の私と現在の体型が同じである事実に自ら驚かされる一枚だ!(言い方を変えるならば、今尚当時の体型を維持しているとの自慢話に過ぎないのだが。
 いや、おそらくこの後更に身長を伸ばし続け、今の身長にまで伸びた記憶もある。


 我が母が私の実家への到着後一番に与えた私に対する仕事が「自分の過去の写真の選別」だった事が、午後からの引越作業に大きくプラスに作動した事には間違いない。

 母の高齢老いぼれ実態を勘案するに、まさかそれを母が狙ったとは考えられない。
 が、もしかしたらその母の思いに到着直後私が素直に沿えた事実こそが、その後数日間に渡る母娘の引越作業をスムーズに遂行出来た事に繋がったのかとも後に振る返る。