四谷三丁目すし処のがみ・毎日のおしながき

冬から春が旬である貝がそろそろ終盤、初鰹・鰈・鱸・鯵など夏の魚が出てきました。

おかみノート6 自宅の引越し1~自宅の引越し3

2004-11-18 00:10:00 | おかみノート6

おかみノート
主人の実家はお寿司屋さん。私はなんにも知らないドシロウト。
今まで見たり聞いたり体験した 寿司屋のいろんなことを書いておきたいと思います。

自宅の引越し1
入居審査までして入った麹町のマンションだったが四谷三丁目で店をやるからには近くに引っ越してきたほうが何かと便利だということになった。
はたと気づくと開店日まであと一ヶ月を切っていた。
「ちょ、ちょっと間に合う!?とりあえず、引越し作業が出来る日はいつ?」
合羽橋で食器を買う日、内装業者さんと立ち会う日、看板のデザイナーさんと会う日、店の賃貸契約をする日、店で着る白衣やエプロンを買う日、ひとつひとつ消していくと、完全に空いているのは一日だけだった。
手帳をなめるように見ながら私は言った。
「店の内装工事が始まってからでもよかったらチャンスは何日かあるけどね。ただ、内装業者さんが工事に入ったらお茶とお茶菓子を毎日お届けするから、その間はちょっと引越し作業から私は抜けるけど」
すると主人は間髪入れずに答えた。
「いや、工事に入る前に引っ越そう。そのほうがいいよ、バタバタしないし」
「じゃあ引越しはこの空いてる日に決定ね。物件はまだ決まってないけどね」
「もうそこに合わせてやるしかないな」
心なしか主人の顔は白っぽくなっていた。

「七万、管理費込みでも七万五千円まででお願いします」
パイプ椅子に座ったまま二人同時に頭を下げた。
店の契約をする不動産屋さんで自宅も探す事にした。
担当は同じKさんだ。 
Kさんは主婦とキャリアウーマンを“ガッツ”と“自然体”両輪でやってきました、というような不思議と惹きこまれるパワフルな方で私たちは全幅の信頼を置いていた。
息子さんが私と同い年だということでとても親近感を持ってくれていた。
「七万。・・え?そりゃ、あるわよ~。まぁ気に入るかどうかは見ないとね。・・そう、二人で住める広さでね。え?今日決めるの?あらま大変、じゃ、あるもの全部手配しておいてあげるから、とりあえずこれ見てきて」
鍵と間取り図と地図を手渡された。
不動産屋さんが立ち会わなくていい物件というものがあるというのに驚きつつそのアパートに向かった。
この土地に賃貸で住みながら自営業をしているご夫婦と知り合いだったので「どうですか?」と訊ねたことがある。六万円台でも住む家はあると聞いていた。
「とにかく出費は抑えて。ボロアパートだって暮らしていけるんだから。そうじゃないとやっていけないよ」
と言われた。でもあまりに劣悪な環境だときっと参ってしまう。駆け引きが甘いのかもしれないが、提示額はそういった意味も含めて少し多めに決めた。

「あ、あった、ここだよ。102号室」
場所は店から五分くらい。まぁ、そうわるくない。
「え?」
となりの101号室のポスト。紙で挿む表札のところには苗字が四つ所狭しと書いてあった。マジックで殴り書きだ。
「2K・・だよね?」
鍵を開けて入ると台所二畳ほど、奥に四畳半、六畳。そして突き当りが足元まで窓になっていて、庭に出られる。
「おー、芝生じゃん。洗濯機は外に置くんだ。・・・ん?」
101号室との間に垣根はなく、庭がお隣さんと一緒だった。
ショックを受けつつもサンダルを履いてウロウロすると隣はカーテンが閉まっていて人の気配がまったくなかった。首だけ出して様子を窺っていた主人が小声で言った。
「おい!洗濯機、となりねぇぞ!!」
四人で住み、垣根はなし。もしここに洗濯機を置いてうちがほとんど留守にしていれば・・ちょっと想像がついた。洗濯機、使われるかもしれない。窓の鍵を閉め、風呂場を覗くと追い炊き式だった。
「あ、追い炊きだ。昔うちもこの型だった、懐かしー」
お風呂場の反対側を見ると鎖を引いて水が流れる式のトイレで、便座が外国にあるような高さのものだった。どこかで見たことがある・・。
そうだ、参宮橋のオリンピックセンターの選手宿泊施設がそのまま貸し出しペースになっていてそこの便座はこんな感じだった。ということは東京オリンピックの時代のものなのか・・。
二畳の玄関兼脱衣所兼台所に居る主人が言った。
「このガス台もちっちぇけどさ、換気扇のとこになんか説明が書いてある。なに、“入浴の際は風呂場のドアを少し開け、換気扇は必ずON。命に関わります”だってよ」
「え?なんで」
「なんでだろうな。換気が必要ってことだよな」
もう一度風呂釜を見て驚いた。
煙突が途中で切れてそのままになっており、排気が中に充満していくようになっていた。主人が叫んだ。
「なんで煙突が外に続いていないんだよ!これじゃたしかに換気しないと死んじゃうよ!!」
急いで鍵を閉めて不動産屋さんに戻った。

自宅の引越し2
自動ドアの前に立つとKさんの姿が見えた。
立ったまま机の上を整理している。私たちに気付くと書類を置いてこちらに向き合った。
「どうだった?」
「風呂がちょっと・・」
「お風呂?」
「換気が、ちょっと」
主人が少し強い口調で言った。
「そう。まだあるから、いろいろ見て。さぁ、ここからは一緒に行きましょう」
書類と鍵をいくつか持ってKさんは私たちを促し外に出た。

「四谷三丁目、というより四谷だわね。ここは」
高台に建つ築年数の浅いその物件は一階と二階に1Kの部屋が八戸ずつ並ぶ学生さんのためのマンションだった。
「先に言っておくけど予算より五千円高いから。でもすごく新しいの」
「あぁ、きれいですねー」
建物を見上げながら思わず言った。
さきほどの記憶が残っているからか、ものすごくいい感じだと思った。
「エレベーターは無いのよぅ、はーい、ついてきてー」
Kさんはどんどん階段を上っていく。慌ててその後ろについていった。
「三階がね、物件よぅ」
「はい」
「もともとは大家さんが住もうと思ってね」
「はい」
「作ったんだけど」
「・・・はい、」
「違う所に住むことになったんでね」
「・・・・・はい、」
「空いちゃったのよ」
「・・・はい、あの、Kさん」
「なぁに?」
「ぜんぜんキツそうじゃないんですけど」
「なにが?」
「か、階段」
「んー、ワタシ、山登りが趣味だからねぇ」
「あ・・そうなんですか」
息が切れて唾を飲み込もうとしても少し喉が痛い。三階なのになぜ。自分が情けなかった。
「さ、着いた。ここが入り口」
“スタンッ”と鍵が開く音がした。洒落た木の扉だった。Kさんが手招きをしている。
靴を脱ぎ、左に曲がると細い廊下があった。
右にトイレ、お風呂、左に寝室がひとつ。
奥に四畳半ほどのダイニングキッチンがあった。
「ほうら、見て御覧なさい。東南の向きにバッチリ窓よぅ。バルコニーに出られるわよぅ」
ガラス戸を開けると四谷から市ヶ谷の景色が広がっていた。
「どうぞ、サンダルがあるでしょ。出てみて。洗濯物ここに干すんだから。バルコニーぜぇんぶ使っていいんだから」
促されて木が敷き詰められたバルコニーに出ると突風が吹いていた。
色あせたピンクのイボイボサンダルに片足を入れたら小さすぎて足が途中までしか入らない。
よろけながら歩くと吹き上げる風がこめかみに当たり、汗がどんどん冷えていった。
「バーベキューなんかもね、お友達を呼んで。そうねぇ、三十人くらい入るわよぅ」
Kさんは明るい。
語尾の“~なのよぅ”の“よぅ”は、鼓を打つ前の“よぉーぅっ”の掛け声の軽い版が最後にくっ付いた感じだ。
聴いているうちに(愉しいことが起こるかも)と思えてくる。
吹き荒れる風の中でバルコニーをもう一度眺めた。
(この感じ、洗剤のコマーシャルで見たことがある)
白いシーツを十枚くらい干して集団でミュージカルみたいに踊っているシーン。
ひょっとしたらここで撮影したんじゃないのか?
ダイニングキッチンに戻るとテーブルと椅子が置いてあることに気付いた。
「これ、大家さんが置いていったから。使っていいのよ。朝なんかね、パァーっと太陽の光が入って。最高の朝食じゃない?」
Kさんの言葉に黙って頷きながら寝室に向かった。
「なんかこの部屋、狭くないですか」
寝室を覗きながら言うと、Kさんは
「え、そう?四畳半と同じよ」
と言った。
琉球畳なので普通の畳との比較が出来ない。
でもあきらかに奥のダイニングキッチンと同じ大きさには感じられない。
「いや、狭いんじゃないですか」
「大家さんがね、趣味でお茶をやってたのよね、ここで」
真ん中に琉球畳より小さい畳がはめ込んである。
布団を二枚敷いたらビッチビチじゃないのか。すぐお風呂場に向かった。
アコーディオン式の扉を開けると、正方形に近い形の風呂桶があった。
「うわっ入れる?これ」
主人に洋服を着たまま入ってもらうと、圧縮した体育座りでギリギリだった。
もう一度ダイニングキッチンに戻ってKさんにあらためて訊かれた。
「どうする?ここにする?」
ちょっと迷った。新しいのが何より魅力だ。
でも・・。素敵な朝食タイムは作れそうにないし、バーベキューもたぶんやらない。
やったとしてもせいぜい年に一回だろう。しかも三十人も集まらない。
洗濯物もどんなに溜めてしまっても、ここの十分の一くらいのスペースで干しきれるだろう。
もうちょっとバルコニーを狭くして、その分部屋とお風呂を広くしてくれたらよかったのに、と思った。
「次、見せてください」
まだ見ぬ物件に賭けてみようと思った。

自宅の引越し3
築二十五年というアパート。
二階の階段を上がったすぐの角部屋、扉を開けると玄関、トイレ、お風呂、そして八畳間が二つあった。
「ひゃーっ、広い、広い、ひろ――い!」
叫びながら飛び回っていると
「広いでしょう?昔の大きさの畳で八畳だから。古いけどね、いいところもあるのよ。この近くに美術系の専門学校があるでしょ。そこの生徒さんが二人で部屋を借りて共同生活したりするところなのよ。ほんとは生徒さんじゃないとダメなんだけど、あなたたち若いし、一生ここに住むわけじゃないだろうし、いつかは 出るわよね?それで大家さんにお話したら、いいって言うから。私もね、ここがいいんじゃないかなーと思うのよ」
Kさんの言葉に頷きながら
「ここ、もと押入れですよね?」
と、ガランとした板のスペースを指で撫でた。
「そうよぉ。襖、どこかに置いてあると思うけど・・」
「いーです、いーです。もしかしてベッドにしてたのかもしれないし。わー、ドラえもんみたい!私もやろう!!」
「柱とか、壁とか、どれだけ釘打ってもいいから。ここから引越しをするときもね、DIYみたいなのやりっぱなしで出ちゃっていいから。改造オッケー」
「えー、いいじゃん、いいじゃん、ここにしよう」
主人は私の問いかけを無視して天井の方ばかり見ていた。
「オレは、ダメだね」
「へっ?」
「梁が傾いている」
「えー?」
「よく見てみ。ほら左が下がってる」
言われてみればそうかもしれない、という感じだった。
「そうかなぁ・・」
「たしかに少し下がってるわね。年数経ってるから、気になる人は気になるかもね」
Kさんは言った。すると携帯電話の呼び出し音が部屋中に響き渡った。
手で“ゴメン”のポーズをすると、Kさんは玄関の辺りまで行き、かなり大きな声で話し始めた。
「どうする?」
「オレはイヤだ」
「えー、そんなに気になる?」
「すっごい気になる」
「あ、そう・・。私、そんなに気になんないんだけど変なのかな・・」
「ごめんなさい、ちょっと用事が出来ちゃったから。あなたたちにね、見せたいのもう一軒あるから、はいこれ。私が立ち会わなくてもいいところだから二人で行ってきてちょうだい」
地図と間取り図と鍵を手渡され、そのアパートの前でKさんと別れた。

陽が落ちはじめていた。
壁の高い位置に“○○荘”と浮き出すように作られた名前のところが斜めに影になっている。
○○の二番目の文字が“昇”だった。
「お義父さんの名前が入ってるね」
「おう」
もう一度地図と間取り図を確認してみる。ここだ。
「えっと四階ね。あれ、エレベーター無いの?」
「五階建てだと、たしかエレベーター無しでもいいんだよ」
「あ、そうなの。ま、しょうがないよね。行こうか」
コンクリートのしっかりした造りの階段を上っていく。
二階を越えた辺りで先を行く主人に声を掛けた。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
「もう時間無いから早くしないと」
「でもこの階段、一段一段が高くない?腿が胸にくっ付く位引き上げないと一段上がれないんだよ。踏み台昇降でもこんな高いの無いよ。だって前にある階段に手ぇついてよじ登ったほうがラクなんだもん、急すぎない?これ!」
「狭いスペースに無理やり階段作ると急勾配になるんじゃねぇのか?」
「あぁ、そうか。さっきの三階のところもさー、階段の一段ずつは低めなんだけどグルグルグルグル回って… 頭ぶつけそうだったし、あれも狭いスペースに作ったからなのかな。それにしても毎日仕事終わってここに帰って来てまた山登りみたいなことは・・できない!!」
文句を言いながら四階まで行くと、すでに主人がドアを開けて待っていた。

無言で中を見ている。
主人の身体のすき間から覗くとフローリングのだだっ広いスペースが見えた。
「おわっ、ワンフロアーだよ!ダンス教室?事務所?」
私は叫ぶとすぐ靴を脱ぎ、中に入った。歩くと靴下の湿気が足跡になって床に残っていく。
コップをいくつか洗えそうなシンクが隅っこにあった。
「まぁ、“寝るだけですから何もなくていいです”とは言ったけど、この何も無さ感は何?どうやって暮らせっていうの・・」
壁をずーっとなめるように眺めていくと、扉が二つあった。
「あ、トイレだ。ね、そうだ。もうひとつは・・と、シャワールーム?」
二つ折りになるアコーディオン式の扉の中はユニットバスの素材で覆われており、シャワーを浴びるように出来ていた。
「入ってみなよ」
主人を促すとなんとかその空間に身体はおさまった。でも身体を洗ったりできる余裕はない。少し向きを変えたりしていたが、こちらに背を向けたまままったく動かなくなった。
「ちょっと、どうしたの?もう出てくれば?」
「・・・・!・・!!」
「どうしたの?」
後頭部に問いかけてみても、首を細かく振っているだけで肩すら動かない。何かわめいているようだが扉がピッタリ閉まっていて声がこもって聞き取れない。こちらから扉を開けると
「そっちから引っ張って!!出られなくなっちゃったから!」
と怒鳴っていた。
「ウソ!!大丈夫?大丈夫!?」
急いで引っ張り出した。
「まったく、シャレになんないよ!コート着てるならまだしも薄着だぜ?しかも一応身体は入るけど、洗えないっつーの!コインシャワーの方が広いぜ、きっと」
顔を紅潮させながら主人はそそくさと靴を履いた。
鍵を閉め、フロアから近所の風景を見渡すと風がひゅううと吹いた。四月の終わりだというのに夕方はまだかなり寒い。
不動産屋さんまで歩きながら話した。
「梁は斜めかもしれないけど、私はあの広いところだな。いろいろいじれるし」
「オレは・・どこもイヤだ。いま見てきたところではないね」
「あ、そう。でもさ、今日決めないと引越しできないよ」
「アップしよう」
「え?」
「もう少し家賃高くてもいいから、明日への活力が出るような、住み心地のいいところを紹介してくださいって言おう」
「えー、アップするの?」
「いい環境で、そのぶん店を元気にがんばる!そのほうがいいでしょう?」
「うー・・ん」
私は身の丈のことをするのが自然だと思っていた。主人の提案は間違いなく私たちの出来る範囲を逸脱している。
「ムリだよ。払えなくなるよ」
「ムリじゃないかもしれないじゃん。じゃあさ、半年か一年、更新の時まででもいいや。ダメならそのとき 考えようよ。とりあえずもう少しいいところに住もう」
「・・・・・・・」
不動産屋さんに戻り主人が言った。
「ここらへんの相場というものがよくわかりました!数万アップしてもいいので、もう少し違うところを紹介してください!!」
「そう。・・わかった。じゃ、この裏にね、とっておきのマンションがあるから。そこ紹介してあげる。敷金が五ヶ月、更新料と管理費は無しだけどね、その分月々のお家賃はちょっと高いわよ。でも更新料とか別だと考えたら、そう高くないと思うのよ」
そう言いながらすぐ大家さんとの連絡を取り、Kさんは私たちを案内した。
重厚な造りのマンションの一階。
玄関は広く、靴収納もある。お風呂もユニットバスではなく普通の広さがあり、脱衣所と洗面所と洗濯機置き場が一緒になっていていままで見たところとは明らかに違っていた。
四畳半のダイニングキッチンもきれいだ。
そして六畳間は畳のところに家具を置かなくてもいいように床の間ではないが両側板が張り出していて実質八畳間のようだった。窓は二重ロック。上にもうひとつ鍵がある。ベランダは程よい広さで布団も干せそうだ。
「決めます。お願いします」
主人は言った。
ちゃんとした契約をする日取りを決めて、不動産屋さんをあとにした。
「・・・まぁ、よかったね」
私が言うと
「エレベーターがあるところがよかったんだけどさ、見てきたところ全部なかったじゃん。やっぱり値段的に無理があったんだよな。決めたところはエレベーターあるけど一階だから使わないけどね。でも、一階で ホッとしてる。だって親父、階段ムリだもん。特に最後の四階のとこ。歩くのだってゆっくりにしかできないんだぜ?梁が曲がってるところ気に入ってたみたいだから、二階でもいいかなーって一瞬思ったけど一ヶ月くらいの滞在中もつかどうかわからないからね」
(あぁそうか)と思った。
お義父さんが滞在することを常に考えながら物件を見ていたんだ。
私は自分のことばかりに夢中になり、そんなこと考えてもいなかった。
家賃が高くて立ち行かなくなったら、その時考えよう。
とりあえず、店をオープンしてしばらくはあのマンションで暮らそう。
そう思ったら踏ん切りがついた。


 


おかみノート6 あと味~続柄 

2004-11-18 00:00:00 | おかみノート6

おかみノート
主人の実家はお寿司屋さん。私はなんにも知らないドシロウト。
今まで見たり聞いたり体験した 寿司屋のいろんなことを書いておきたいと思います。

あと味
二十代後半の頃だろうか。
「いろんな寿司屋をみてみたい」と言いまくっていたからニ~四人で食事でもしよう…となると「カメちゃんの勉強になるから」と皆が言ってくれて、数ヶ月に一ぺんぐらいではあるが寿司屋を探しては訪れていた時期があった。
高校時代の友人から誘いがあったのもその頃だ。
「最上階にね、○○が出来たから。よかったら行く?」
実家から二駅のリニュアルオープンしたてのデパートにはめったに出店しないといわれていた銀座の老舗○○寿司が入ったのだという。
「行く、行く。なんだか勉強になりそう」
敷居が高いが勇気を出してそのカウンターに座ってみたいと思った。
仕事から帰ってきた主人にその話をすると
「○○か・・。最初からお好みで食べるのはやめて、まずお決まりのにぎり一人前のコースがあるでしょ。それを食べな。で、まだ何か食べられそうだなー・・と思ったらいくつか頼みな」
「えー、それでいいの?カウンターに座りたいんだよ?」
「いいんだよ。そんなこと遠慮することないよ。オレだって知らない寿司屋に行ったら一人前の何とかにぎりとか食べてから他のもの頼むよ。だいたいね、○○でしょ。いくらとられるかわかんないよ」
そうか、本職の板前さんでもそうするのか。
当日少し安心して実家方面行きの電車に乗った。

噴水のある最上階フロアは天井から光が射し込んでいた。
「ひゃーすごいキラキラしてる。昔の面影が全然ないね」
高校時代のニ年半、このデパートの地下にある大手寿司チェーン店でアルバイトをしていた。
お持ち帰りコーナーとかなり広いお召し上がり用のレストラン。
折り箱の包装、販売、レストランの接客、厨房の調理補助、洗い場すべてを経験させてもらった。
戻ってきたという懐かしさを感じながらすぅーっと空気を吸い込んだ。
「さ、じゃあ行きますか!」
友人といざ○○へ乗り込んだ。

「あの・・。コースでございますか、それともお好みで・・」
紺の着物を着た仲居さんが尋ねてきた。
「えー・・っと。コースなんですが、そのあとお好みで」
「では、こちらのほうへどうぞ」
招かれようとする先には四人掛けのテーブル席が見えた。
足を止め、慌てて言った。
「あのっ、あのっ、カウンター・・がいいんですけど」
ちらりとカウンター席を見ると、十二~十三席の全部が空いていた。
「コース・・・ですと、テーブルでお願いしているのですが」
サッ、サッ、っと袖を小さくバタつかせて仲居さんがテーブル席を指し示した。まずい、ここで負けてはいけない。
支店とはいえ○○なんて滅多に足を踏み入れない。
またいつ来るかわからない。このチャンスを逃すわけにはいかない。
それに、見渡す限りガラガラじゃあないか。
夜で、カウンターも混みあっているのならさすがに遠慮する。
でもいまはランチタイムのピークも過ぎている。
コースのあとにお好みで食べるって言っているのにそれでもダメなのだろうか。
「コースの方はテーブルでということになっておりますので・・」
なおも仲居さんはプレッシャーをかけてくる。
友人は私を見て(全部お好みでもいいよ)という空気を出していた。パニックになりながら幾つかの選択肢が頭をよぎった。
①カウンターで全部お好み。ただし、『出費額青天井』パターン
②コース完食後、数カンをお好みで頼み、お皿で運んでもらってすべてテーブルで食べる、『泣き寝入り』パターン
③コースだけテーブルで食べて、お好みになったらカウンターに移動するという、ルールに則っているふうに見えて、かなり屁理屈を捏ねている『強引わがまま』パターン
④カウンターでコース+お好みをいただく『希望通り』パターン

①は・・。払えなくはないとは思うが打撃が大きい。おいしくて、満足できる結果であればいい。でもそれだけのものを払う価値がなかったら友人も巻き添えにしてしまったという後悔が残る。私が払うと言っても絶対に友人は割り勘にしようと言うだろう。
②ではせっかく来た意味が薄まる。テーブル席じゃ伝わってくるものが少ない。
結局、仲居さんとの押し問答の末「③じゃだめか?」と詰め寄った。
あぁ、またやってしまった。小さい頃からこういう屁理屈を捏ねると必ず父親の鉄拳が飛んできた。まったく直っていない。バカだ、私はバカだ。やっぱり②が真っ当な収まりどころなのか・・
「どうなさいましたか」
なかなか店の奥に入ってこない私たちを察知してカウンターの中の板前さんが声をかけてきた。仲居さんが事情を説明しに行った。すると
「どうぞ、こちらへ」
とその四十代らしき板前さんはカウンター中央の席を指して私たちを招いてくれた。
かなりホッとして席に座ると、その板前さんが握るのではないらしい。奥に引っ込み、代わりに二十歳くらいの若い板前さんが現れた。
「××コースですね」
と言うと、布で包んで持ってきた包丁を取り出し、柄がまだ新品そうな柳刃でネタを切り、握っては出す、を繰り返した。
そのあいだ何も話さない。おそらくコースの最後であろう鉄火巻きを巻き、さあ切るのかなというときに、また別の板前さんが登場した。今度は三十歳くらいの人だ。
今まで握っていた若い板前さんはその先輩の板前さんに何やら耳打ちをされると、すぐさま自分の包丁を持って奥に引っ込んでしまった。
置き去りになった鉄火巻きは時間の経過とともにシャリの水分を含んでしなっとなっていた。
その板前さんはタン、タン、とそれらを手早く切り私たちのつけ台に置いた。
「・・・・・・」
板前さんは黙ったままだ。突如出現したニュー板さんの空気に馴染めないまま無言で鉄火巻きを食べた。
交代するにしても鉄火巻きまでやった後とか「ここから自分がやりますんで」とか、何か一言くらいあってもいいんじゃないかな、と思った。
希望通りの④になったとはいえ、一度来たくらいではこういう扱いをされるのかな・・とちょっと悲しくなった。
あんまり気分が優れないというか、かなりムカついたので、ここで帰ろうかとも思ったが、お好みで食べるからカウンターに通してもらえたのにそれではマズイ。筋が通らない。
それに今日の目的はお好みをカウンターで食べることなのだ。
友人と顔を見合わせて「ここからお好みね」と意思確認をすると
「じゃあ、何かおすすめのものを握ってください」
とお願いした。友人は
「白身で何か」
と言い、私は
「貝を」
と頼んだ。
正直おいしかった。こんなにフレッシュな赤貝は食べたことがなかったし、みる貝などは“しろみる”と称するグイダックしか知らなかったので本物はこんなにおいしいものなんだ、と思ったし、カツオも、まぐろも、イカも、何もかも状態がよかった。
シャリもほろりと口の中で崩れ「お寿司っておいしいな」と思った。
四~五カンずつ出され、説明を受けては感心したりしていた時だ。
「少し変わったものをどうです?」
それまでは何だか不審者を見るような目付きだったのに板前さんは急にやさしく積極的になった。
私たちの寿司に向き合う真摯な姿勢を感じてくれたのだろうか。
頷くとトロを炙って握り一カンずつ出してくれた。
「・・・・おいしい!」
友人と私はとろける脂の旨さによろこんで声をあげた。
さらに数カン食べてかなりお腹がいっぱいになったとき
「シメにこんなのはいかがです?」
と、かんぴょう巻きに茹でた三つ葉が入った細巻きを出してくれた。
「さっぱりしていておいしいですね」
替えてくれたおしぼりで手を拭い熱いお茶をすすった。

お会計を終えフロアに出ると陽が差し込んでいた天井は目を細めなくても見上げられるくらいになっていた。
エレベーターの方向に歩きながら考えていた。
どれだけおいしいものを出してもらってもあと味のことで何だかひっかかっていた。
私は『たいせつに接してもらえた』というあと味が好きなんだ。

前へ進め
お義父さんが店に行く時私を起こしてくれる。それがサイクルになっていた。
「行くぞーい」
薄ぼんやりとした視界には白衣の上に灰色のジャンパーを羽織って高い位置から私を見下ろしているお義父さんがいた。薬が入っている縮緬の巾着袋を持っているということはもう出掛けるということか。
「おはようございまーす・・」
六畳間に敷き詰めた布団を見回すと皆いなかった。
奥からお義父さん、祐兄ちゃん、主人、私と並んで寝ていた。開店の準備と軌道に乗るまで間は寝起きを共にしていた。主人はとっくに築地に行っている。
祐兄ちゃんは私に気を遣ってか、いつのまにか外出していなくなっていることが多かった。
お義父さんを見送りがてら出たあとの鍵を閉めようと立ち上がった時だった。
「あ、いたたたた・・」
柔道の受身のように布団に倒れた。
「なんだ、まだ痛ぇのか」
「はい~・・」
「慣れるしかねぇわな」
「・・・はい~」
返事をしながらパジャマのズボンをめくり上げフチが剥がれかけのトクホンをバリバリと取り始めた。
「効いてんのか、それ」
「うーん・・気休めかもしれないけど何もしないよりは」
枕元のトクホンを束で掴み新しいのを貼っていく。
「なんだ、もう貼るのか」
「昨日貼ったのはもう効き目がないだろうから。営業中はニオイが無いのを何枚か貼るけど。これ、誰かに箱ごともらったヤツでせっかくだから使わないと」
「じゃ・・行ってくらぁ」
「はーい、じゃあとで」
掴まり立ちする場所がないので空中を手探りしながらなんとか立ち上がる。
「くっ、だぁ―――っ」
もう声を出さずには立ち上がれない。フランケンシュタインのようにして玄関まで歩きお義父さんを見送り鍵を閉める。また戻り、布団の上に仰向けでドサッと倒れた。
こんなに立ち仕事が辛いとは思わなかった。デスクワークの時は腰と背中と肩と首が凝っていた。
今はそれが一気に足にきてるんだ。でも、へこたれるもんかと思っていた。
朝、フランケンで立ち上がる状態を何回やっただろうか。
ある日起き上がろうとしたらすっと立てた。そして痛くもなんともない。やった慣れたんだ!
数えたら二ヶ月半経っていた。
だいたい三ヶ月やったら慣れるということを身を持って知った。

以前勤めていた職場の同僚が辞めるというので会社の近くで一緒にお昼を食べようということになった。
退職してからはTシャツやパーカーしか着ていなかった。
久しぶりにちょっとオシャレをしてチョーカーを着けようとしたら後ろの金具までの距離がきつくてはめにくくなっていた。無理やり留めると、のどのところのビーズの十字架が垂れ下がることなく正面を指してしまう。手でいくら下のほうに向けても首周りがパツパツなのでピコンと上がってしまう。
立ち仕事でしかも下を向いて洗い物をしているからか。頭を支えている時間が長いから首が鍛えられて太くなったんだなと思った。
チョーカーは断念してさて革靴を履いて出ようとしたら、こんどは甲がきつくて履けるけど歩けない状態になった。長時間身体を支えるように足がバランスをとるため少しずつ拡がっていったんだ。
革靴は諦め、スニーカーで待ち合わせ場所に向った。
会社を辞めてまだ三ヶ月くらいだと知っている人も多い。
同僚と会社から離れた場所の店に行く途中、まっすぐ続く歩道で後ろから声を掛けられた。
「あれ、カメちゃうか?」
振り返ると何年も前に仕事を一緒にした男性だった。
「あ、どーも。ご無沙汰してます」
「あれ、辞めた・・よな、たしか」
「はい、いま寿司屋やってます」
「そーかー。今、出張で来てんねん。今度また東京来たら寄してもらうかもしれんわ」
「あ、はい。お待ちしてます」
会釈をしてまた同僚と喋りながら歩いていると後ろから再び声がした。
「なんか、レディーにこんなこと言うたらあれやけど、ずいぶんとこう、ごついイメージになったなぁ・・」
「・・は?」
振り返りながら男性を見るとさらに続けた。
「シルエットが・・なんか昔はどっちかっちゅうと細長い感じやったのに今は四角い言うか・・。そや!くびや、首も太うなった、そやろ?な、な!」
「・・はい」
睨みつけて答えると満足げにその人は頷いた。
また前を向いて歩きながら思った。
頭にはくるが首まで指摘するとはさすが女性の身体に着けるものを売っている会社の人間だなと感心した。
太ったのには理由がある。
コンビニのデザートを唯一の愉しみにしていたからだ。
覚悟を決めて臨んだ店の開店とは言え男性三人との共同生活はやっぱりしんどかった。
コンビニのデザートだけは自分で好きなものを好きな時に好きな分量だけ食べようとできる、唯一の心の拠りどころだった。
私はどっぷりそれにはまった。深夜仕事が終わって揚げ物メインのコンビニ弁当を全部食べたあと、生クリームがたっぷり飾られたプリンを、チョコレートムースにチョコレートソースがかかったデザートを、背中や腹やお尻や腿に肉のついた身体を丸めてプラスチックのスプーンで貪るように食べた。

アスファルトの歩道を力強く少し大股で歩きながら思った。
立ち仕事⇒足の甲が拡がった。おぉ、進化じゃないか!
海の生物が陸にあがるまで何万年もかかるというのに、私は三ヶ月足らずで変わっちゃったんだ。まぁちょっと意味がちがうかもしれないけどすごいということにしよう。
それに甘いデザートは自分のバランスをとるためなんだ。
これまで禁止したら私は精神的にもっと追い詰められていただろう。
青空を仰ぎながら思った。
この数ヶ月の人との出逢いやトラブルや様々な出来事の中でもがきまわって揉みくちゃになっていたら、いつのまにかこういうチョロチョロとちょっかいを出してくるヤツなどにかまっているヒマはない、という自分になっていた。
それに気付けたことがうれしくてずんずん歩いた。

掴みのシャドウ
回転寿司を減らして近くの寿司屋さんのランチに行き始めた頃だった。
にぎり寿司を食べるときはお箸だったり手だったり適当にやっていたのだが、本当のところどう食べるのが正解なのかがよくわからなかった。
板前さんによって意見が異なる。
手でしょ、という人もいれば衛生的によくないから箸で食べろという人もいる。
とにかくなんでもいいからカッコよく食べてみたいという願望が湧き上がってきた。
そう思ってからはテレビのグルメレポーターの方がにぎり寿司をほおばるシーンが出てくると、画面に噛りつくようにして見るようになった。
特に気になるのが舌に触れる面がネタのほうなのかシャリなのか、だ。
ある日の夜、一人で夕飯を食べながらグルメ番組を見ていると、にぎりを口に入れる瞬間の横顔のドアップが出てきた。
「おっ、おあ、へぇ~・・」
自分も一緒になって口を開けてじっと観察した。
いくつかを総合するとシャリが下のままにぎりが出てきた状態のまま口に入れてる人と、ひっくり返してネタを下にして食べている人と両方だった。
しかもやっかいなのが掴み方で、倒してから逆手に持ったり、倒さないけど手首をひねって掴んでみたり、
どうにも頭の中だけじゃ理解できない状態だった。
さっそく立ち上がり、箪笥からハンカチを二枚出してきてテーブルの上で折り畳んで布のにぎり寿司を作った。
白いハンカチを小さくまるめて畳んだものはシャリで、細かいチェック柄の赤い感じのハンカチはマグロに見立てた。
さて、この二つのパーツを繋ぎ合わせなくてはならない。ガムテープの粘着側が外にくるように輪にして、
シャリとマグロの間に入れたら、うまく留まらなくてほどけてしまった。
イラッとしたので、すぐセロテープを持ってきて真ん中のあたりをグルグル巻きにした。
完成した布のすし模型は、『ど根性ガエル』に出てくる梅さんのにぎりくらいの大きさになった。
「こう持って、こう。こう持って、こう・・と」
テーブルの上で“掴んでは醤油につけるふりをして口に入れる直前まで持ってくる”の動作を繰り返した。
どうやって掴むかによって醤油がネタにつくかシャリにつくか、舌の上にネタがのるかシャリがのるかが変わってくる。
箸も持ってきてその模型を倒したり挟んだりしていろいろやってみた。
「・・・・・」
こんなことをして何になるんだろう、と自分でやっておきながら少し思った。
やっぱり実際に場数を踏まないとダメだなと思った。
テレビでは筑紫さんが喋っている。
テーブルにはハンカチのシャリが一部分爆発したすしが転がっている。
これに似た体験をしたなと思った。
高校三年生のときテーブルマナーの講習があるからと、台所の引き出しの奥底からナイフとフォークを出してきてバイト代で買ったイシイのハンバーグやらコロッケやらをお皿にのせて何回も何回も正座しながら練習したことを思い出した。


続柄
店のオープンを前に保険の見直しをしようということになった。
自宅で保険会社の人から書類の記入説明を受けていたときのことだ。
「ご契約者様の欄にお名前を。・・・はい、はい、そうです。で、横に奥様のお名前だけ。苗字はけっこうです」
めずらしく主人が書いている。
自宅の電話番号も覚えていないほど無頓着なので書類はほどんどの場合私任せだ。
今日はどういう成り行きか、主人の直筆がいいということになり慣れない手つきで書いていた。
「はい、けっこうです。あとは続柄の欄に“妻”とお願いします」
主人は一瞬目を泳がせ空中に字を書くとすぐ書類に向かった。
「・・・あの、あの、旦那さんちょっと・・・」
「え?こんな感じじゃなかったっけ」
見ると続柄の欄には『毒』と書かれていた。
「ちょっとー!毒はないんじゃない?毒は!」
気まずくなった空気をなんとかするためか保険会社の人は
「大丈夫です、大丈夫です!これで消しますから」
と液体ホワイトマーカーをカバンから取り出し勢いよく振り出した。
『毒』に白い液体を塗り、ふーふー乾かすところを横目で見ながら念を押した。
「だいじょうぶ?妻だよ、ツマ!」
「だーいじょうぶだって。ツマね、はいはい」
乾いたところにもう一度書いた。
「あっ、あの・・・それって、あー・・・」
覗き込んでいた保険会社の人がまた何か言いたそうだった。
「え?違います?」
主人の脇から書類を見ると『妾』と書いてあった。
「なにそれ“めかけ”じゃん!!」
「え、めかけ?これツマじゃないっけ?」
「あのさー、逆に“毒”だの“妾”だの書くほうが難しいんじゃないの?なに、どーやっても妻とは書けないってこと?どうゆうこと?」
「いや、ほんと、あれ?ツマってどう書くんだっけ?」
「こうだよ、こう!!!」
パンフレットの隅に『妻』という字を書いた。
「あ――、大妻女子大の“妻”ね、はいはい」
「なんだわかってんじゃん。大妻って言うとピンとくるんだ」
「一番町に勤めてたからね。大妻は三番町だから」
「だったら始めから“妻”って書けばいーじゃん!」
「出てこなかったんだよ、あーそうか。わかったわかった」
『妾』の上に再度ホワイトマーカーは塗られボコボコになった続柄欄に主人はそーっと『妻』という文字を書いた。

カウンターに座ってメニューを見ているお客様。
板場には主人と私がいる。
「このお品書き、毎日筆で書いてるの?」
「はい」
「誰が?大将の直筆とか」
「いえ、私は字が書けませんから。ペンではなく、包丁を握ってます」
「ははは、またそんな」
「いーえ、もうホントに主人は漢字にも弱いんですよ」
「またまた」
「なんてったって実績がありますから。保険会社の書類に“続柄”っていうところがありますよね?」
「・・うん、あるね」
「“妻”と書かなければいけないところを」
「うん」
「“毒”って書くオトコですから!!」
「えー?そりゃひどいな、わはははは!!」
「・・僕が言うのもナンですが、まぁある意味“毒”でも正解は正解なんですけどね」
「わーっはははは!!!」

この会話はネタのようになってしまいお客様の前で何回繰り返したかわからない。
あまりにも出来すぎている話なのと、何回も話しているうちにトークがスムーズになってしまったのとで創作疑惑がかけられたくらいだ。
特に「“妾”のところは作ったでしょ!?」と言われることが多いので割愛することにしている。
何もそこまでしなくてもいいのだが。