おかみノート
主人の実家はお寿司屋さん。私はなんにも知らないドシロウト。
今まで見たり聞いたり体験した 寿司屋のいろんなことを書いておきたいと思います。
自宅の引越し1
入居審査までして入った麹町のマンションだったが四谷三丁目で店をやるからには近くに引っ越してきたほうが何かと便利だということになった。
はたと気づくと開店日まであと一ヶ月を切っていた。
「ちょ、ちょっと間に合う!?とりあえず、引越し作業が出来る日はいつ?」
合羽橋で食器を買う日、内装業者さんと立ち会う日、看板のデザイナーさんと会う日、店の賃貸契約をする日、店で着る白衣やエプロンを買う日、ひとつひとつ消していくと、完全に空いているのは一日だけだった。
手帳をなめるように見ながら私は言った。
「店の内装工事が始まってからでもよかったらチャンスは何日かあるけどね。ただ、内装業者さんが工事に入ったらお茶とお茶菓子を毎日お届けするから、その間はちょっと引越し作業から私は抜けるけど」
すると主人は間髪入れずに答えた。
「いや、工事に入る前に引っ越そう。そのほうがいいよ、バタバタしないし」
「じゃあ引越しはこの空いてる日に決定ね。物件はまだ決まってないけどね」
「もうそこに合わせてやるしかないな」
心なしか主人の顔は白っぽくなっていた。
「七万、管理費込みでも七万五千円まででお願いします」
パイプ椅子に座ったまま二人同時に頭を下げた。
店の契約をする不動産屋さんで自宅も探す事にした。
担当は同じKさんだ。
Kさんは主婦とキャリアウーマンを“ガッツ”と“自然体”両輪でやってきました、というような不思議と惹きこまれるパワフルな方で私たちは全幅の信頼を置いていた。
息子さんが私と同い年だということでとても親近感を持ってくれていた。
「七万。・・え?そりゃ、あるわよ~。まぁ気に入るかどうかは見ないとね。・・そう、二人で住める広さでね。え?今日決めるの?あらま大変、じゃ、あるもの全部手配しておいてあげるから、とりあえずこれ見てきて」
鍵と間取り図と地図を手渡された。
不動産屋さんが立ち会わなくていい物件というものがあるというのに驚きつつそのアパートに向かった。
この土地に賃貸で住みながら自営業をしているご夫婦と知り合いだったので「どうですか?」と訊ねたことがある。六万円台でも住む家はあると聞いていた。
「とにかく出費は抑えて。ボロアパートだって暮らしていけるんだから。そうじゃないとやっていけないよ」
と言われた。でもあまりに劣悪な環境だときっと参ってしまう。駆け引きが甘いのかもしれないが、提示額はそういった意味も含めて少し多めに決めた。
「あ、あった、ここだよ。102号室」
場所は店から五分くらい。まぁ、そうわるくない。
「え?」
となりの101号室のポスト。紙で挿む表札のところには苗字が四つ所狭しと書いてあった。マジックで殴り書きだ。
「2K・・だよね?」
鍵を開けて入ると台所二畳ほど、奥に四畳半、六畳。そして突き当りが足元まで窓になっていて、庭に出られる。
「おー、芝生じゃん。洗濯機は外に置くんだ。・・・ん?」
101号室との間に垣根はなく、庭がお隣さんと一緒だった。
ショックを受けつつもサンダルを履いてウロウロすると隣はカーテンが閉まっていて人の気配がまったくなかった。首だけ出して様子を窺っていた主人が小声で言った。
「おい!洗濯機、となりねぇぞ!!」
四人で住み、垣根はなし。もしここに洗濯機を置いてうちがほとんど留守にしていれば・・ちょっと想像がついた。洗濯機、使われるかもしれない。窓の鍵を閉め、風呂場を覗くと追い炊き式だった。
「あ、追い炊きだ。昔うちもこの型だった、懐かしー」
お風呂場の反対側を見ると鎖を引いて水が流れる式のトイレで、便座が外国にあるような高さのものだった。どこかで見たことがある・・。
そうだ、参宮橋のオリンピックセンターの選手宿泊施設がそのまま貸し出しペースになっていてそこの便座はこんな感じだった。ということは東京オリンピックの時代のものなのか・・。
二畳の玄関兼脱衣所兼台所に居る主人が言った。
「このガス台もちっちぇけどさ、換気扇のとこになんか説明が書いてある。なに、“入浴の際は風呂場のドアを少し開け、換気扇は必ずON。命に関わります”だってよ」
「え?なんで」
「なんでだろうな。換気が必要ってことだよな」
もう一度風呂釜を見て驚いた。
煙突が途中で切れてそのままになっており、排気が中に充満していくようになっていた。主人が叫んだ。
「なんで煙突が外に続いていないんだよ!これじゃたしかに換気しないと死んじゃうよ!!」
急いで鍵を閉めて不動産屋さんに戻った。
自宅の引越し2
自動ドアの前に立つとKさんの姿が見えた。
立ったまま机の上を整理している。私たちに気付くと書類を置いてこちらに向き合った。
「どうだった?」
「風呂がちょっと・・」
「お風呂?」
「換気が、ちょっと」
主人が少し強い口調で言った。
「そう。まだあるから、いろいろ見て。さぁ、ここからは一緒に行きましょう」
書類と鍵をいくつか持ってKさんは私たちを促し外に出た。
「四谷三丁目、というより四谷だわね。ここは」
高台に建つ築年数の浅いその物件は一階と二階に1Kの部屋が八戸ずつ並ぶ学生さんのためのマンションだった。
「先に言っておくけど予算より五千円高いから。でもすごく新しいの」
「あぁ、きれいですねー」
建物を見上げながら思わず言った。
さきほどの記憶が残っているからか、ものすごくいい感じだと思った。
「エレベーターは無いのよぅ、はーい、ついてきてー」
Kさんはどんどん階段を上っていく。慌ててその後ろについていった。
「三階がね、物件よぅ」
「はい」
「もともとは大家さんが住もうと思ってね」
「はい」
「作ったんだけど」
「・・・はい、」
「違う所に住むことになったんでね」
「・・・・・はい、」
「空いちゃったのよ」
「・・・はい、あの、Kさん」
「なぁに?」
「ぜんぜんキツそうじゃないんですけど」
「なにが?」
「か、階段」
「んー、ワタシ、山登りが趣味だからねぇ」
「あ・・そうなんですか」
息が切れて唾を飲み込もうとしても少し喉が痛い。三階なのになぜ。自分が情けなかった。
「さ、着いた。ここが入り口」
“スタンッ”と鍵が開く音がした。洒落た木の扉だった。Kさんが手招きをしている。
靴を脱ぎ、左に曲がると細い廊下があった。
右にトイレ、お風呂、左に寝室がひとつ。
奥に四畳半ほどのダイニングキッチンがあった。
「ほうら、見て御覧なさい。東南の向きにバッチリ窓よぅ。バルコニーに出られるわよぅ」
ガラス戸を開けると四谷から市ヶ谷の景色が広がっていた。
「どうぞ、サンダルがあるでしょ。出てみて。洗濯物ここに干すんだから。バルコニーぜぇんぶ使っていいんだから」
促されて木が敷き詰められたバルコニーに出ると突風が吹いていた。
色あせたピンクのイボイボサンダルに片足を入れたら小さすぎて足が途中までしか入らない。
よろけながら歩くと吹き上げる風がこめかみに当たり、汗がどんどん冷えていった。
「バーベキューなんかもね、お友達を呼んで。そうねぇ、三十人くらい入るわよぅ」
Kさんは明るい。
語尾の“~なのよぅ”の“よぅ”は、鼓を打つ前の“よぉーぅっ”の掛け声の軽い版が最後にくっ付いた感じだ。
聴いているうちに(愉しいことが起こるかも)と思えてくる。
吹き荒れる風の中でバルコニーをもう一度眺めた。
(この感じ、洗剤のコマーシャルで見たことがある)
白いシーツを十枚くらい干して集団でミュージカルみたいに踊っているシーン。
ひょっとしたらここで撮影したんじゃないのか?
ダイニングキッチンに戻るとテーブルと椅子が置いてあることに気付いた。
「これ、大家さんが置いていったから。使っていいのよ。朝なんかね、パァーっと太陽の光が入って。最高の朝食じゃない?」
Kさんの言葉に黙って頷きながら寝室に向かった。
「なんかこの部屋、狭くないですか」
寝室を覗きながら言うと、Kさんは
「え、そう?四畳半と同じよ」
と言った。
琉球畳なので普通の畳との比較が出来ない。
でもあきらかに奥のダイニングキッチンと同じ大きさには感じられない。
「いや、狭いんじゃないですか」
「大家さんがね、趣味でお茶をやってたのよね、ここで」
真ん中に琉球畳より小さい畳がはめ込んである。
布団を二枚敷いたらビッチビチじゃないのか。すぐお風呂場に向かった。
アコーディオン式の扉を開けると、正方形に近い形の風呂桶があった。
「うわっ入れる?これ」
主人に洋服を着たまま入ってもらうと、圧縮した体育座りでギリギリだった。
もう一度ダイニングキッチンに戻ってKさんにあらためて訊かれた。
「どうする?ここにする?」
ちょっと迷った。新しいのが何より魅力だ。
でも・・。素敵な朝食タイムは作れそうにないし、バーベキューもたぶんやらない。
やったとしてもせいぜい年に一回だろう。しかも三十人も集まらない。
洗濯物もどんなに溜めてしまっても、ここの十分の一くらいのスペースで干しきれるだろう。
もうちょっとバルコニーを狭くして、その分部屋とお風呂を広くしてくれたらよかったのに、と思った。
「次、見せてください」
まだ見ぬ物件に賭けてみようと思った。
自宅の引越し3
築二十五年というアパート。
二階の階段を上がったすぐの角部屋、扉を開けると玄関、トイレ、お風呂、そして八畳間が二つあった。
「ひゃーっ、広い、広い、ひろ――い!」
叫びながら飛び回っていると
「広いでしょう?昔の大きさの畳で八畳だから。古いけどね、いいところもあるのよ。この近くに美術系の専門学校があるでしょ。そこの生徒さんが二人で部屋を借りて共同生活したりするところなのよ。ほんとは生徒さんじゃないとダメなんだけど、あなたたち若いし、一生ここに住むわけじゃないだろうし、いつかは 出るわよね?それで大家さんにお話したら、いいって言うから。私もね、ここがいいんじゃないかなーと思うのよ」
Kさんの言葉に頷きながら
「ここ、もと押入れですよね?」
と、ガランとした板のスペースを指で撫でた。
「そうよぉ。襖、どこかに置いてあると思うけど・・」
「いーです、いーです。もしかしてベッドにしてたのかもしれないし。わー、ドラえもんみたい!私もやろう!!」
「柱とか、壁とか、どれだけ釘打ってもいいから。ここから引越しをするときもね、DIYみたいなのやりっぱなしで出ちゃっていいから。改造オッケー」
「えー、いいじゃん、いいじゃん、ここにしよう」
主人は私の問いかけを無視して天井の方ばかり見ていた。
「オレは、ダメだね」
「へっ?」
「梁が傾いている」
「えー?」
「よく見てみ。ほら左が下がってる」
言われてみればそうかもしれない、という感じだった。
「そうかなぁ・・」
「たしかに少し下がってるわね。年数経ってるから、気になる人は気になるかもね」
Kさんは言った。すると携帯電話の呼び出し音が部屋中に響き渡った。
手で“ゴメン”のポーズをすると、Kさんは玄関の辺りまで行き、かなり大きな声で話し始めた。
「どうする?」
「オレはイヤだ」
「えー、そんなに気になる?」
「すっごい気になる」
「あ、そう・・。私、そんなに気になんないんだけど変なのかな・・」
「ごめんなさい、ちょっと用事が出来ちゃったから。あなたたちにね、見せたいのもう一軒あるから、はいこれ。私が立ち会わなくてもいいところだから二人で行ってきてちょうだい」
地図と間取り図と鍵を手渡され、そのアパートの前でKさんと別れた。
陽が落ちはじめていた。
壁の高い位置に“○○荘”と浮き出すように作られた名前のところが斜めに影になっている。
○○の二番目の文字が“昇”だった。
「お義父さんの名前が入ってるね」
「おう」
もう一度地図と間取り図を確認してみる。ここだ。
「えっと四階ね。あれ、エレベーター無いの?」
「五階建てだと、たしかエレベーター無しでもいいんだよ」
「あ、そうなの。ま、しょうがないよね。行こうか」
コンクリートのしっかりした造りの階段を上っていく。
二階を越えた辺りで先を行く主人に声を掛けた。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
「もう時間無いから早くしないと」
「でもこの階段、一段一段が高くない?腿が胸にくっ付く位引き上げないと一段上がれないんだよ。踏み台昇降でもこんな高いの無いよ。だって前にある階段に手ぇついてよじ登ったほうがラクなんだもん、急すぎない?これ!」
「狭いスペースに無理やり階段作ると急勾配になるんじゃねぇのか?」
「あぁ、そうか。さっきの三階のところもさー、階段の一段ずつは低めなんだけどグルグルグルグル回って… 頭ぶつけそうだったし、あれも狭いスペースに作ったからなのかな。それにしても毎日仕事終わってここに帰って来てまた山登りみたいなことは・・できない!!」
文句を言いながら四階まで行くと、すでに主人がドアを開けて待っていた。
無言で中を見ている。
主人の身体のすき間から覗くとフローリングのだだっ広いスペースが見えた。
「おわっ、ワンフロアーだよ!ダンス教室?事務所?」
私は叫ぶとすぐ靴を脱ぎ、中に入った。歩くと靴下の湿気が足跡になって床に残っていく。
コップをいくつか洗えそうなシンクが隅っこにあった。
「まぁ、“寝るだけですから何もなくていいです”とは言ったけど、この何も無さ感は何?どうやって暮らせっていうの・・」
壁をずーっとなめるように眺めていくと、扉が二つあった。
「あ、トイレだ。ね、そうだ。もうひとつは・・と、シャワールーム?」
二つ折りになるアコーディオン式の扉の中はユニットバスの素材で覆われており、シャワーを浴びるように出来ていた。
「入ってみなよ」
主人を促すとなんとかその空間に身体はおさまった。でも身体を洗ったりできる余裕はない。少し向きを変えたりしていたが、こちらに背を向けたまままったく動かなくなった。
「ちょっと、どうしたの?もう出てくれば?」
「・・・・!・・!!」
「どうしたの?」
後頭部に問いかけてみても、首を細かく振っているだけで肩すら動かない。何かわめいているようだが扉がピッタリ閉まっていて声がこもって聞き取れない。こちらから扉を開けると
「そっちから引っ張って!!出られなくなっちゃったから!」
と怒鳴っていた。
「ウソ!!大丈夫?大丈夫!?」
急いで引っ張り出した。
「まったく、シャレになんないよ!コート着てるならまだしも薄着だぜ?しかも一応身体は入るけど、洗えないっつーの!コインシャワーの方が広いぜ、きっと」
顔を紅潮させながら主人はそそくさと靴を履いた。
鍵を閉め、フロアから近所の風景を見渡すと風がひゅううと吹いた。四月の終わりだというのに夕方はまだかなり寒い。
不動産屋さんまで歩きながら話した。
「梁は斜めかもしれないけど、私はあの広いところだな。いろいろいじれるし」
「オレは・・どこもイヤだ。いま見てきたところではないね」
「あ、そう。でもさ、今日決めないと引越しできないよ」
「アップしよう」
「え?」
「もう少し家賃高くてもいいから、明日への活力が出るような、住み心地のいいところを紹介してくださいって言おう」
「えー、アップするの?」
「いい環境で、そのぶん店を元気にがんばる!そのほうがいいでしょう?」
「うー・・ん」
私は身の丈のことをするのが自然だと思っていた。主人の提案は間違いなく私たちの出来る範囲を逸脱している。
「ムリだよ。払えなくなるよ」
「ムリじゃないかもしれないじゃん。じゃあさ、半年か一年、更新の時まででもいいや。ダメならそのとき 考えようよ。とりあえずもう少しいいところに住もう」
「・・・・・・・」
不動産屋さんに戻り主人が言った。
「ここらへんの相場というものがよくわかりました!数万アップしてもいいので、もう少し違うところを紹介してください!!」
「そう。・・わかった。じゃ、この裏にね、とっておきのマンションがあるから。そこ紹介してあげる。敷金が五ヶ月、更新料と管理費は無しだけどね、その分月々のお家賃はちょっと高いわよ。でも更新料とか別だと考えたら、そう高くないと思うのよ」
そう言いながらすぐ大家さんとの連絡を取り、Kさんは私たちを案内した。
重厚な造りのマンションの一階。
玄関は広く、靴収納もある。お風呂もユニットバスではなく普通の広さがあり、脱衣所と洗面所と洗濯機置き場が一緒になっていていままで見たところとは明らかに違っていた。
四畳半のダイニングキッチンもきれいだ。
そして六畳間は畳のところに家具を置かなくてもいいように床の間ではないが両側板が張り出していて実質八畳間のようだった。窓は二重ロック。上にもうひとつ鍵がある。ベランダは程よい広さで布団も干せそうだ。
「決めます。お願いします」
主人は言った。
ちゃんとした契約をする日取りを決めて、不動産屋さんをあとにした。
「・・・まぁ、よかったね」
私が言うと
「エレベーターがあるところがよかったんだけどさ、見てきたところ全部なかったじゃん。やっぱり値段的に無理があったんだよな。決めたところはエレベーターあるけど一階だから使わないけどね。でも、一階で ホッとしてる。だって親父、階段ムリだもん。特に最後の四階のとこ。歩くのだってゆっくりにしかできないんだぜ?梁が曲がってるところ気に入ってたみたいだから、二階でもいいかなーって一瞬思ったけど一ヶ月くらいの滞在中もつかどうかわからないからね」
(あぁそうか)と思った。
お義父さんが滞在することを常に考えながら物件を見ていたんだ。
私は自分のことばかりに夢中になり、そんなこと考えてもいなかった。
家賃が高くて立ち行かなくなったら、その時考えよう。
とりあえず、店をオープンしてしばらくはあのマンションで暮らそう。
そう思ったら踏ん切りがついた。