身につまされるように「ふさふさ」だったヤマザクラが葉を落とし「すきずき」としてきている。この落ち葉だが、冬を越し春となり夏を迎える頃になると、不思議に消えてしまっている。木々たちは地中の微生物の力を借り自ら肥料をこしらえている。我が家も負けじとコンポを利用し生ごみを肥料に変えている。
ほぼ同じ時期にキノコの恵みをいただいている。たんたんと季節は毎年ながら繰り返している。我も見習いつつ生きたいと思いつつも身勝手な欲を抑え込むことができない。
身につまされるように「ふさふさ」だったヤマザクラが葉を落とし「すきずき」としてきている。この落ち葉だが、冬を越し春となり夏を迎える頃になると、不思議に消えてしまっている。木々たちは地中の微生物の力を借り自ら肥料をこしらえている。我が家も負けじとコンポを利用し生ごみを肥料に変えている。
ほぼ同じ時期にキノコの恵みをいただいている。たんたんと季節は毎年ながら繰り返している。我も見習いつつ生きたいと思いつつも身勝手な欲を抑え込むことができない。
いつもより暗い夜明け、寝ぼけ眼で寝室の観音窓を開け手をかざすが雨感覚がない。それではと12℃の外気の中へジャンバー姿で散歩を始める。お気に入り場所から望む東面はただならぬよう、飯綱山の上半分は雲に覆われている。これを脳に焼き付け今日一日の天気とてらし合わせてみよう。
やはり今日はイエスかノウと決められない決断力のなき曇り微雨を繰り返す天気だった。妻はパン作りに精を出し我は読書に精を出した。それに家内乾燥を兼ね今季初めて薪ストーブを焚いた。じっくりと暖まる感は久しぶりで気持ちがほっとりする。
夕方の6時30分、宮城のDさんから新鮮なサンマが届いた。早速に親しき近き知人におすそわけする。夕食半ばだったが、妻はビールが飲めると喜大び、刺身にしたり焼いたりと、しばし停止した夕食を再生し新鮮さを目と舌で味わった。
ナラの切り株に自然からの贈り物であるナラタケモドキを見つけた。気早なだけに厚みが薄くずっしりとした感がない。ほんに美味しいのは遅くに姿を現す大器晩成なキノコ達だ。
知人から里栗の贈り物をいただいた。ペティナイフで皮をむき渋をとるのが一苦労、小粒な山栗のような甘さはないけれど、栗ごはんで初秋を味わった。
そろそろと思いつつも先延ばしていた薪ストーブの掃除、今日は目につく牛乳のこぼし痕をサンドペーパーで削り塗装だけの予定だったが、ついつい加熱してしまい室内煙突を外し本体内部まで清掃、それにベランダ上の外煙突までの完全清掃、しめて作業時間は3時間あまり、顔はススで汚れ手の爪間は黒くなり正にストーブ掃除屋さんとなった午前中だった。
戸隠蕎麦打ち道場も8回目となると少々ながら手早くなり湯でても切れなくなってきた。このところ週に一度は蕎麦食となり最初はやめようかと思った蕎麦打ちも回数を重ねるごとに楽しさを覚えるようになってきた。まさに何事も継続が力で大事であります。おまけにそば打ち道具一式も揃えてしまった。今年の年越しそばは我が手打ちで家族皆で食そうと思っている。そろそろ新そばの季節となりますが、早朝散歩で秋知らせのドングリをを拾いました。
家の西側に3本のミヤマザクラがある。その内の1本に黒や黄色のスズメバチ達が早朝から飛来し葉の表面を動き回っている。このミヤマザクラは何か甘い物質を葉表に放っているのだろうか。人にたとえるなら、誰でも目線を向けてしまう、さぞかし魅力的な女性に違いない。
ありがたく、さほど強い風が吹かなかった台風21号だった。我が家の被害は東側の基礎壁際に置いてある鉢植えミニトマトが倒れ、枝1本が折れてしまっただけだ。今年のミニトマトは雨の当たらない軒下なので、壁からの温かさも加わり小粒ながら糖度が高い。来年は多くのミニトマトを置いてみよう。食べれないが、我が家の周りに数本のツリバナが自生している。淡緑色の可憐な小粒花もさることながら、赤い丸実をつけ、塾れるとパかッと割れ種が顔をだす。昨年は実が少なかったが今年は多く、どことなく魅力的に垂れている。それだから小遠くからでも緑の中で見つけることができる。