徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「ニューイヤーズ・イブ」―大晦日の奇跡はニューヨークで―

2011-12-30 17:35:00 | 映画


     この映画は、年越しのカウントダウンを迎える、アメリカ・ニューヨークが舞台である。
     様々な人生を生きる人々の、大晦日の一日を描く群像劇は、実に賑やかだ。

     「プリティ・ウーマン」(90)ゲイリー・マーシャル監督が描く、アメリカ映画だ。
     ちょっぴり切ない話もあれば、微笑ましい話もある。
     1年の最後の日に、大切な人との絆を取り戻そうとする人々を描こうとする、ほのぼのとした作品だ。
     明日への希望に夢を託して・・・。








   
大晦日のニューヨーク・・・。
タイムズスクエアでは、電球で飾られた大きなボールが、カウントダウンに合わせて下りてくる「ボール・ドロップ」が行われる。
このイベントの開催に、タイムズスクエア協会のの女性役員は躍起になっている。

1年前に、再会を約束した男女がいる。
出産を間近に控えた、二組のカップルがいる。
女性看護師に介護され、やがて死を迎えようとしている男性患者がいる。
イベントで歌う予定の有名な歌手は、ついさきほど料理人のガールフレンドと別れたばかりだ。
その歌手のバックコーラスを務める若い女性は、故障したエレベーターの中に、出不精の若い男に閉じ込められてしまっている。
例年、行事のパーティで、亡くなった父に代わってスピーチをすることになっている若い経営者は、遅刻しそうで慌てている。
年頃の娘を抱えた母親は、娘に厳しく、カウントダウンなんて自宅でいいと言ってきかない。
あるキャリアウーマンは、仕事と決別し、不可能と知りながら、自転車便の若者の協力で、年内にしたいことをとにかく実行しようとする。

こういった人たちが、大晦日のニューヨークで、それぞれのニューイヤー・イブを過ごし、年越しのカウントダウンを待っているのだ。
著名な俳優や歌手たちがずらりと結集し、キャストの名前だけでも大所帯のにぎやかさだ。
主な出演者だけでも、ハル・ベリー、ジョン・ボン・ジョヴィ、ロバート・デ・ニーロ、ザック・エフロン、アシュトン・カッチャー、サラ・ジェシカ・パーカー、ミシェル・ファイファー、アビゲイル・ブレスリンらと多彩だ。
登場人物たちの織り成すドラマの中のドラマが、これまた彩りよく交わっていて、かなりしっかりと描かれているのに好感が持てる。
幸せの形なんて、人みなそれぞれだ。
別れがあり、再会や偶然の出会いもある。
生まれてくる命があるかと思えば、迫りくる死を待つ老人がいる。
夢が叶うこともあれば、失望することもある。

まことに、様々多様な人間模様、人生模様が、結構速いテンポのしかもコメディタッチで、若い世代から高齢世代の人たちまで、それぞれの状況や立場を通して、その人生の一瞬一瞬を軽快に切り取って描いている。
ゲイリー・マーシャル監督は、いとも鮮やかな手腕で本領発揮といったところではないか。
どの役をどの俳優が演じているかが、また大きな見どころでもあり、うっかり見過ごしそうなところもありで、楽しみでもある。
キャスティングは、ほぼ適材適所のようだが、あまりにも登場人物が多すぎて、観ている側はかなり混乱しそうだ。

タイムズスクエアのカウントダウンには、世界中から約百万人の人が集まり、その様子はインターネットでも生中継される。
この夜のニューヨークが最高なのは、新年を迎える歓びを、時差や国境を越えて、同じ時間に世界中の人たちが分かち合い、共有し繋がり合うからだそうだ。
ニューイヤーズ・イブがそのもっとも華やかな瞬間だというが、大切な人とつながっていたいという思いは、大晦日だからこそ、最高の盛り上がりを見せるのだろう。
いやいや、それにしても、ハリウッドの人気スターや演技派、若手俳優までを総動員して、映画史上初となる100万人からの人々の祝う、タイムズスクエアのカウントダウンイベントの撮影を実現させたのだから、このカーニバルのような熱気にはただただ驚きだ!!
アメリカ映画、ゲイリー・マーシャル監督「ニューイヤーズ・イブ」は、それぞれの心温まる意外な展開や演出が施されていて、ほのぼのと、しかし賑やかな群像劇で、年末年始には最適の映画だ。
  [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点

   ・・・・去りゆく年を想うとき、それは非情と切なさに胸痛む、この1年でした。
      今年も、今年のカウントダウンが間もなく始まります。
      ひとそれぞれの、想いの中で・・・。
      そして、来たるべき年は、どんな年になるのでしょうか。
      今年の大晦日は、ゆく年くる年のその時を迎え、除夜の鐘に、心静かに耳を傾けたいと思っています。
      どうぞ、よい年をお迎えください。
      有難うございました。 


映画「サラの鍵」―過去の悲しみと痛みを未来の光に変える―

2011-12-27 11:00:00 | 映画


     1942年、パリで起きたユダヤ人の悲劇は、幾度となくヨーロッパ映画で取り上げられてきた。
     どんなに文明が発達しようとも、戦争や戦争の傷跡は消え去ることはない。
     それは、誰もが、明日経験するかもしれない悲しみだ。
 
     全世界で300万部を突破した、タチアナ・ド・ロネの原作を映画化したのは、37歳の若手新鋭のジル・パケ=
      ブレネール監督
だ。
     このフランス映画は、東京国際映画祭最優秀監督賞と観客賞W受賞した。
     素晴らしい、感動的な作品だ。








 
1942年、それはある夏の日の朝始まった。
ユダヤ人の少女サラ(メリュジーヌ・マヤンス)は、いつもと違う朝を迎えた。
ドアが乱暴に叩かれ、見知らぬ男から一緒に来いと命令される。
サラは、怖がる弟のミシェル(エドゥアール・テザック)を、秘密の納戸に隠して鍵をかけた。
 「すぐ帰るわ」と約束して・・・。
パリ・フランス警察による、ユダヤ人一斉検挙の日であった。
サラは、両親とともに連行される。

2009年のある日、アメリカ人のジュリア(クリスティン・スコット・トーマス)は、いつものように幸せな時間を過ごしていた。
フランス人の夫ベルトラン(フレデリック・ピエロ)と一人娘のゾーイと、夫の祖母マメから譲り受けたパリのマレ地区にある、アパルトマンを見に行ったのだった。
そして、ジャーナリストのジュリアは、雑誌の特集記事でのことを担当することになる。
ナチス占領下のパリで、フランス警察が1万3000人のユダヤ人を逮捕した、この事件のことを若いスタッフは何も知らなかった。

ジュリアは45歳で待望の妊娠をはたしたが、それを報告した夫から受けたのは、思いもよらぬ反対だった。
彼女は、人生の岐路に立っていた。
そんな時に、取材を通して、衝撃的な事実に出会ったのだ。
夫の祖父母から譲り受け、住んでいたアパートのかつての住人は、1942年のパリのユダヤ人迫害事件でアウシュビッツに送られたユダヤ人家族だったのだ。
さらに、その一家の少女で、10歳のサラが収容所から逃亡したことを知る。
サラは、あの日、弟を納戸に隠して鍵をかけた。
二人は生きているのだろうか・・・?

60年前のこの事件を紐解き、サラの足跡をたどっていくうちに、次々と驚愕の秘密が明らかにされていく。
それは、ジュリアの心を激しく揺さぶり、彼女の人生さえも変えていくような事実であった・・・。
そして・・・、すべてが明かされた時、サラの痛切な悲しみを全身で受け止めたジュリアは、ついに一筋の光を見出したのだった。
流れる涙は止めることができないが、恐れることなく悲しみを見つめ、勇気を出してその痛みを抱きしめれば、やがて涙をも未来の光に変えることができると信じて・・・。

ジュリアは、はじめ自分自身と接点のない過去の出来事を掘り起こしていくうちに、彼女と夫とその家族が、迫害を受けたユダヤ人家族と接点を持っていたことが明らかになった。
映画は、パリで暮らすジュリアの現在と、検挙されたユダヤ人家族の娘サラの、42年を交互に映し出すのである。
全く別々の時代、別々の暮らしの中にいる、ジュリアとサラがつながりを持つ一瞬を含めて・・・。
この交錯する過去と現在の接点から、深い物語は紡がれる。

ジュリアは、夫の家族の反対などから、過去を掘り起こすようなことはしないでくれといわれる。
だが、彼女は自分の握った糸をたぐり寄せようとすることで、夫の家族と気まずくなり、夫との間にも深刻な溝を抱えながら、サラを追いかける。
そして、ようやくたどり着いたサラの親族までもが、ジュリアを拒否する。
真実を白日のもとにさらすことを、潔く思わなかったのだ。
ジュリアの夫ベルトランは、彼女にこういった。
 「真実を知って、誰が幸せになるのか。世界が今よりよくなるのか」
確かに、歴史が変わることなどありえはしない。

ジュリアは、弟という小さな命を救うために、自らの小さな命をかけて必死に走った人生を知ることで、自分の人生を全く違う角度から見直すきっかけを与えられる。
高齢で妊娠し、夫に堕胎を勧められる人生を、だ。
「サラの鍵」の‘鍵’は、父母と引き離され、サラがひとりになっても肌身離さず持ち歩いていた納戸の鍵であり、その鍵が少女の人生を決定し、さらに、現代を生きるアメリカ人女性の人生を決定する。
映画はふたつの時代のパリを交互に描いているが、ミステリアスな展開をはらみつつ、ドラマは進行する。

ジュリアがサラと出会わなかったらと考えれば、夫の家族に忌まわしい記憶を呼び覚ますことはなかっただろうし、サラの親族も自分のルーツを疑うことはなかったかも知れない。
生き延びて成長し、異国に住み、結婚し、子を成してなお逃れることのできなかったサラの悲しみは、観ているものにも伝わってくる。
ジル・パケ=ブレネル監督のこのフランス映画「サラの鍵」には、、非情なリアリティがある。
観て決して損はないといえる、上質な作品だ。
1995年、フランス国家は、ユダヤ人迫害に加担していたという事実を、シラク大統領が明らかにした時の、フランス国民の衝撃は想像に余りある。
このフランス映画は、綿密なリサーチにもとづいた緊迫感あふれる映像で、ユダヤ人迫害の真実に迫りながら、今を生きる人たちの物語として描き切っており、感動と余韻に満ちた秀作となった。
人が、涙を光に変える。そんなことが、できるものだろうか。
歴史は変わらないし、変えることなどできない・・・。
  [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点


映画「ベニスに死す」―孤高の芸術家の恍惚と苦悩―

2011-12-22 22:25:00 | 映画


     
     原作は、ノーベル文学賞に輝く、ドイツの文豪トーマス・マンの同名小説である。
     主人公は作家だが、作家が映画表現に不向きだとのこと、主人公のモデルがロマン派の作曲家
           グスタフ・マーラー
あることから、ルキーノ・ヴィスコンティ監督が作曲家に変更した。
     イタリア・フランス合作映画だ。

     この作品は、ヴィスコンティ監督の名を不動のものとし、製作されてから40年を迎える今年、ニュ
     ープリント版
での上映が決定した。
     長いこと待ち望まれていたわけで、映画と音楽の融合を思わせる詩的な作品は、きわめて芸術性
     が高い。
     1971年、カンヌ国際映画祭25周年記念賞受賞している。




     
1911年、今から100年前、ベニスのリド島に佇むオデル・デ・バン・・・。
まだほの暗い海原を、スクリーンが映し出し、マーラーの交響曲第5番第4楽章「アダージェット」の甘美な旋律が流れている。
その中を、静養に向かう老作曲家のアシェンバッハ(ダーク・ボガード)を乗せた蒸気船が、静かに進んでいく・・・。
絵画のような、魅惑的な美しさを湛えた幕開けである。
この瞬間、100年の時を超え、耽美的で官能的なヴィスコンティの世界へと誘われる。

オテル・デ・バンの支配人に迎えられたアシェンバッハは、その夜、夕食を待つサロンで、美しい少年を目にし、心を奪われる。
美しい母親と姉妹たち、家庭教師と宿泊する14歳のポーランド人少年タジオ(ビョルン・アンドレセン)だった。
だが、その姿を追うようになったある日、見つめ返されて思わず動揺し、アシェンバッハは、こ地の熱帯性の季節風が辛いことを理由に、急拠ベニスを発つ決意をする。

アシェンバッハが駅に着くと、荷物は手違いでコモに送られていた。
荷物が戻るまで、ベニスを離れないといって癇癪を起こすが、ホテルに戻るその顔には笑みが戻っていた。
多分、タジオのことを想ってか・・・。
そして、その日から再び、タジオの姿を目で追うようになったが、同時に、妻子との幸福な日々、娼婦エスメラルダの誘惑、愛娘の死、新曲の無残な失敗など、様々な出来事が、アシェンバッハの胸に去来するのだった。

・・・夏も終わりに近づいたベニスに、コレラが蔓延し始めていた。
観光客は次々と帰国するのに、タジオの虜になったアシェンバッハは帰ろうとしない。
彼は、タジオを追って、強烈な消毒臭と腐臭の漂う街中を、彷徨った。
・・・タジオ一家の、帰国の日がやって来た。
アシェンバッハは、人気のなくなった砂浜で、蝕まれた身体を長椅子に横たえる。
そして、波光きらめく浅瀬に立ち、どこか不滅の美を誇るかのように輝く少年タジオを見つめながら、微かな笑みを浮かべ、静かに息を引き取った・・・。

オーストリアの作曲家グスタフ・マーラーが死んだのは1911年で、彼と交際のあったドイツ人作家トーマス・マンは当時まだ36歳、妻や兄たちとともにヴェニスに旅して、翌年、中編小説「ベニスに死す」を書き上げる。
ドイツ文学とドイツ音楽は、ヴィスコンティの性格とめずらしく一致しているかのように見える。
ヴィスコンティ監督は、この映画の中で、全編にわたって「アダージェット」のほかにも交響曲第3番等、グスタフ・マーラーの音楽を好んで使っている。
音楽は、この映画では、もうひとつの主役ででもあるかのようだ。

ルキーノ・ヴィスコンティ監督の、イタリア・フランス合作映画「ベニスに死す」は、コレラという伝染病が蔓延するベニスで出会ってしまった、‘究極の美’・・・、その瞬間から美の囚人となった、老作曲家の苦悩と恍惚を描いている。
これは、ドラマというよりは、もう映像と音楽の詩世界だ。
描かれている時代も時代なので、作品は古典的だが、しかしどこまでも格調高く、総合芸術の原点を目指そうとする映画とは、こういうものだろうか。
ドラマは、終始語られる台詞も最小限で、静かで、音楽だけは荘重だ。

アシェンバッハを演じる、往年の名優ダーク・ボガードが特にいい。
金髪碧眼の少年アンドレセンは、当時スウェーデン人の新人で、完璧に近いとまでいわれるその美しさは、いまも伝説として語り継がれているそうだ。
このニュープリント版は、耽美と哀愁、そして時に喚起を奏でるマーラーの交響曲とともに、忘れかけていたヴィスコンティの映画のテーマそのものだ。
小説「ベニスに死す」は、実際にトーマス・マンが体験し、見聞した事実にもとづいており、この映画もまたほぼ原作に近い。

余談になるが、1964年、ノーベル賞作家トーマス・マンの死後9年たって、ポーランド貴族の末裔と名乗る人が、自分は小説「ベニスに死す」の少年のモデルだと名乗り出た。
ドイツの新聞が、大きく取り上げたそうだ。
入念な調査で、事実であることがわかり、一部少年が虚弱体質であり、長生きしないだろうと予測したくだりは間違いで、かつての天使のような少年は、しわ深い、リューマチ病みの老人になっていたということだ。
映画の中での、セーラー姿の少年とは、どうしてもイメージが合わないのだけれど、それも当然といえば当然だ。
   [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「ミッション・インポッシブル~ゴースト・プロトコル~」―不可能を可能にする男の究極のミッション―

2011-12-19 22:35:00 | 映画


     
     冷たい木枯らしが吹き荒れて、そんな朝は手足がしびれそうだ。
     今年もいよいよ残り少なくなって、何かと気忙しい、年の瀬が近づいてきた。

     映画の方は、孤立無援の戦いを、超絶のアクションで魅せる娯楽大作だ。
     スリルと興奮の、スパイアクションである。
     ブラッド・バード監督、トム・クルーズ主演による、アメリカ映画だ。
     5年ぶりのシリーズの4作目ということで、これまでのシリーズとは違う、予測不可能な物語の、スリルとアクションに満
     ちた展開に引き込まれる。







   
物語は、イーサン・ハント(トム・クルーズ)が、ロシアの刑務所を脱獄するところから始まる。
その直後、モスクワのクレムリンが、何者かによって爆破され、イーサンのチームである諜報機関IMFに、爆破事件の容疑がかかる。
国家としての事件へ関与を否定するために、米大統領は、すぐさま“ゴースト・プロトコル(架空任務)”を発令し、IMFの存在そのものが抹消され、イーサンたちはスパイの称号を剝奪される。

自らの容疑を晴らすために、イーサンは信頼できる仲間とともに、爆破事件の黒幕を見つけ出そうと決意する。
そして、核を使って世界の滅亡を企てる集団と、孤立無援の戦いを挑むことになるのだった。
このミッションに失敗すれば、逆にイーサンらが、テロリストの汚名を着せられることになるのだ。

IMFに残されたメンバーは、イーサンを筆頭に、技術担当とのベンジー・ダン(サイモン・ペッグ)、秘密分析官のウィリアム・ブラント(ジェレミー・レナー)、男顔負けの格闘技を見せる女性エージェントのジェーン・カーター(ポーラ・パットンの、4人だけだった。
その中でも、イーサンとブラントとの内部対立が発生するなど、急増チームには、常に不協和音が響き渡っていた。

黒幕たちとの取引が行われるのは、世界一の高さを誇るドバイの超高層ビル、ブルジュ・ハリファだ。
イーサンとそのチームは、高レベルのセキュリティを有し、前人未到の高さの、取引現場へ潜入する計画に着手した。
究極の危険を伴うミッションは、果たして成功するだろうか。
黒幕たちが仕掛ける、さらなる恐るべきテロ計画と、ミッションの裏に隠された、衝撃の事実が明らかにされていくとき、想像を絶するようなストーリーの展開が待っている。

とにかく、手に汗握るサスペンス・アクションの連続だ。
このスリルが凄い!
スケールもどでかい。いやいや、よくここまでやるものだ。
製作にも携わったトム・クルーズが、度肝を抜くような、アクションと演技を魅せる。
地上828Mの天空城で繰り広げられるアクションシーンには、観ている誰もが釘付けになる最大の山場で、超高層ビルの壁面を何と130階までよじ登ったり、途中で落下するところでは、あわや命綱1本で宙づりになるシーンには、思わずヒヤヒヤ、ドキリとさせられる。

それはもう、迫力満点、あっと息をのむようなことを、本編全部49歳のトム・クルーズ自身がスタントなしでやっているのだから、完全に脱帽(!)である。
トムの愛妻ケイティと娘までが、撮影現場に訪ねてきたそうだが、怖くてとても見ていられなかったといって、すぐに帰ってしまったそうだ。
危険極まりない、アクロバティックなスタントのために創られたような、作品だといってもいい。
ロシアのモスクワ、チェコのプラハ、インドのムンバイ、死してカナダのヴァンクーバーと、文字通り世界を股にかけるロケーションを敢行する。
このアメリカ映画「ミッション・インポッシブル」が、水中、空中戦に至るまで、ドラマの過酷なミッションをいろどっていく、年末年始の楽しみいっぱいの超娯楽大作となるのか。

先日、NHKのニュース番組でも、女子アナとトム・クルーズのインタビューがあり、最小限の安全装備で行なった、スタントなしでの演技についても語っていた。
この勇気には脱帽だし、これまで30年以上ものキャリアで、俳優、プロデューサー、慈善家としても成功を収めてきた俳優の話に、重みもあるし十分魅力的だ。
アーティストとしての彼は、ますます進化している感じで、次から次へといつも新たなチャレンジを追求し続けながら、ドル箱スターとなっても、その成功を教育、健康、人権の分野での運動家、活動家として活かしている。
才能ある、こういう俳優だからこそ、多くの人の共感を呼ぶのだろう。
インタビューでは、女子アナがトムに舞いあがってしまっているようにも見えたが、無理もない、それほどいま人気絶頂の俳優としての魅力たっぷりというわけだろう。
ドラマの中身は、言わずと知れた荒唐無稽な娯楽映画だが、期待以上に結構楽しませてくれるから、正月気分で観れば、それはそれでよろしいのではないか。
こういう作品も、ときには結構だ。
  [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「源氏物語 千年の謎」―愛憎渦巻く情念の物語世界―

2011-12-15 21:30:00 | 映画



     遥かな昔、1000年前に紫式部が創出されたとされる、世界的な名作古典だ。
     人は、この文学作品を日本遺産と呼ぶ。

     この作品は、「源氏物語」そのものではなく、原作者紫式部にスポットを当て、紫式部の生きた世界と、物語の主人公
     光源氏をめぐる、愛憎の世界を交錯させる。
     まあ、同時進行する二つの愛の物語を、平安王朝を舞台に描いた、「源氏物語」の2011年バージョンとでもいった
     らいいだろうか。
     
     日本が誇る、恋愛心理小説の傑作を王朝絵巻として綴り、いままでに例のない「源氏物語」を、鶴橋康夫監督
      誕生させたというのだが・・・。




  
紫式部という人は、何故「源氏物語」を書かなければならなかったのか。
絢爛豪華な、平安朝の時代・・・。
時の権力者は、関白・藤原道長であった。
道長は、娘・彰子(蓮佛美沙子)に帝の心を向けさせようとして、紫式部(中谷美紀)に物語を書くよう命令する。

物語の主人公光源氏(生田斗真)は、当時宮中の女性たちの憧れの的であった。
源氏は、義理の母・藤壺(真木ようこ)への、狂おしい想いを断ち切ることができないでいた。
源氏の実の母、桐壷の更衣(真木よう子二役)とは瓜二つであった。
その苦しさから、正妻・葵の上(多部未華子)、年上の愛人・六条御息所(田中麗奈)、そして癒しの愛人・夕顔(芦名星)と、奔放にに愛を求めて彷徨うのだった。

紫式部の綴る「源氏物語」は、たちまち帝の心をつかみ、帝と彰子の間には男子が生まれた。
これによって、道長の栄華はゆるぎないものとなり、紫式部の役目は終わったかに見えた。
しかし、何故か紫式部は「源氏物語」を書き続けるのだった。
そんな中、道長の友人で陰陽師の安倍晴明(窪塚洋介)は、物語に没頭する紫式部に、不穏な気配を感じ始めていた・・・。

紫式部は、藤原道長の愛人とも、あるいは紫式部の片思いとも伝えられるが、式部の、本当のかなわぬ愛が物語を綴らせたのだともいわれる。
真相は、はっきりしない。
「源氏物語」は、女という性を生きる難しさを描いて、千年もの間多くの人々を共感させ、熱くしてきた。
しかし、これまで、原作者紫式部について言及した文献はきわめて少ない。
だから、真相は謎が多いのだ。

この映画は、紫式部の「源氏物語」でありながら、光源氏の愛した六条御息所(田中麗奈)が主人公のようにも見えるドラマだ。
彼女が、生霊(怨霊)となって、嫉妬に狂い、源氏の正妻や愛人を次々と殺していくのだ。
白塗りの顔に、紫でアイラインを強調したメイクに、獲物を絡め取る、蜘蛛の巣をイメージした特注(?)衣装も凝っている。
こんなシーンを延々と見せられると、何だか、「源氏物語」が文学作品というより、怪談話に思えてきてしまうではないか。
田中麗奈の怪演だけが、妙に際立ってしまっている。
文学的な香気とは程遠い、B級のコミック漫画の世界を見ているような気がする。
世界に冠たる日本古典文学の傑作を、この映画はここまで変えてしまうか。
演出も現代風で、ドラマとしては、平安の古典文学とは言いながら、あまりにも卑俗的ではないか。

余談になるが、そこで想いだされるのが、1951年(昭和26年)に、大映が日本映画としてはじめて製作した「源氏物語」だ。
吉村公三郎監督、谷崎潤一郎監修、源氏物語研究の第一人者・池田亀鑑校閲、新藤兼人脚本による「源氏物語」が秀逸であった。
当時、まだ自分が幼かりし頃、この名画を、固唾をのんでスクリーンに食い入るように見ていたことを想い出した。
出演者も、それは豪華な顔ぶれで、長谷川一夫、大河内伝次郎、乙羽信子、木暮美千代、東山千恵子、京マチ子ら、錚々たる面々だった。
この後も、映画、舞台、ドラマなど、数多くの「源氏物語」が出現するが、長谷川一夫の光源氏は出色の出来栄えではないだろうか。

映画が最大の娯楽だった、昭和20年代から30年代に、初めて登場した当時の「源氏物語」は、煌びやかな映画のひとつとして、いまなお日本映画史に燦然と足跡を残している。
第5回カンヌ国際映画祭では、撮影賞最高を受賞した。
吉村公三郎の「源氏物語」の素晴らしさが、鮮やかに脳裏によみがえってくる。
現在でも観られるものなら、もう一度観たいものだ・・・。

今回のこの作品は、一通り「源氏物語」を読み終えていない人には、理解しにくいところがあるかも知れない。。
「源氏物語」は、単なるフィクションではない。
実際の貴族社会の政争を反映させた、鏡のような物語だ。
紫式部から見た現実と、物語との絡み合いを描く、推理劇のような形をとった、この鶴橋康夫監督「源氏物語 千年の謎」は、絢爛と幻惑の王朝絵巻を楽しませてくれても、あの平安朝古典文学のもつ上質の香気を、十分に感じることはできない。
「源氏物語」・・・、それにしても、この恋の煉獄を描き切った、いとやん(やむ)ごとなき紫式部という女性は、いったい何者だったのだろうか。
  [JULIENの評価・・・★★☆☆☆](★五つが最高点


映画「RAILWAYS 愛を伝えられない大人たちへ」―人生の岐路に立つ夫婦の機微―

2011-12-12 16:00:00 | 映画


     雄大なアルプスを背景に、どこまでも田園風景が広がる。
     その麓を走る、富山地方鉄道(地鉄)が主役のような映画だ。
     鉄道好きには、こうした電車の進行方向を眺めているだけで飽きない。
     この電車、立山や宇奈月温泉への旅に欠かせない、人気の鉄道だ。

     人生とは、鉄道に乗った長い旅みたいなものである。
     本作で、満を持しての監督デビューとなる蔵方政俊が、この大自然の中を走る鉄道と一組の熟年夫婦の人生を描い
     た、ヒューマンドラマだ。
     この電車には、以前3度ほど乗ったこともあって、妙に懐かしい感じがする。
     





   
仕事一筋に生きてきた、鉄道運転士の滝島徹(三浦友和)は59歳、1か月後には定年が待っている。
ずっと専業主婦として、彼を支えてきた妻の佐和子(余貴美子)は55歳、夫婦は第二の人生を迎えようとしている。
そんなある日、佐和子は出産を機に辞めた、看護師の仕事を再開すると言い出した。
徹は、妻の突然の申し出が、すぐには理解できない。
二人は口論となり、佐和子は家を出てしまった。

第二の人生を目前に、夫の徹は、これからは妻と一緒に過ごしたい思っていた。
これからは、自分の人生を生きたいように生きたいと願った妻・佐和子と、そばにいるのが当たり前すぎて、言葉にできなかった夫・徹の気持ちがすれ違い、一度できた二人の溝は深まるばかりだった。
ついに、佐和子は、徹に離婚届を手渡すのだったが・・・。

富山の美しい田園風景を舞台に、年を重ねてきて感じる迷いや焦り、歓びと幸せ、かけがえのない絆を描こうとした狙いは十分わかる。
でも、ちょっとした意見の食い違いだけで、ほとんど話し合いもないままに、妻がいきなり家を出るというのはどうか。
夫の徹は仕事一筋できて、妻に申し訳ないという気持ちを持っており、定年になったら、佐和子を連れてどこか旅に出ようかと言おうとしていた矢先に、突然、看護師の仕事を再開すると言い出したから口論になった。
よくある話である。

徹だって、妻や子供、家庭を守るために、どんなに辛いことがあってもそれに耐えて、長い会社員生活を続けて来たのだった。
本当なら、「あなた、ほんとうにご苦労様でした」と言ってもらいたかったかも知れないのだ。
このドラマでは、夫婦の会話もさっぱりで、家を出た妻の真意もよくわからない。
だからだろうか、こんな夫婦の心理描写ばかりを綴っても、重い印象だけが残る
この程度のことで、家を飛び出すとか、離婚届だのと、慌てふためくものではない。
何か、そういう設定に持っていきたかった、蔵方監督の意図はわからなくはないが、そこから、とびきりの人間讃歌が生まれてくるものだろうか。
いいキャストに恵まれながら、一番大事な部分で演出の未熟さを感じてしまって、どうも不完全燃焼でいけない。

いまこんな時代だからこそ、人と人との絆を確かめたいという、そう考えている大人たちを描いて、ほろ苦いドラマだが、大人の愛を綴るにはもっと工夫がほしい。
これが、愛を伝えられない大人たちのドラマなのか?
結末も、しいかにも安直な展開だが、ドラマの核がしっかりと描かれていないのは、この作品の致命傷だ。
この映画「RAILWAYS 愛を伝えられない大人たちへ」の長編作品デビューで、熟年夫婦の機微を描き切るには、蔵方監督には荷が重すぎたのではないか。

富山の美しい自然の中を、二両編成の電車がトコトコと走っている。
その向こうには白い雪を頂いた日本アルプス・・・。
この風景だけはよかった。
人生を鉄道になぞらえて描く、「RAILWAYS」シリーズの第2弾だ。
結末は、まあ、可もなく不可もなく、無難なしかし不器用な愛の展開だが、どうも安直で幼なさが気になる。
心温まる物語になるはずが、その印象は、平凡でまことに頼りない。
  [JULIENの評価・・・・★★☆☆☆](★五つが最高点)  


「芥川龍之介と久米正雄」特別展―鎌倉文学館にて―

2011-12-10 04:30:00 | 日々彷徨


     今年も残り少なくなってきて、師走の文学散歩は、鎌倉文学館だ。
     鎌倉ゆかりの作家、 「芥川龍之介と久米正雄」展が開かれている。
     二人は、同じ明治二十年代の生まれで、一高、東大と入学してからずっと同級生だった。
     東大在学中に、同人誌「新思潮」を創刊し、夏目漱石門下となって、作家への道を歩んだ。

     二人とも、文学好きな家庭に育ち、切磋琢磨した。
     芸術至上主義の芥川龍之介と、幅広く通俗小説まで手を広げた久米正雄とは、ときに文学の方向性で離反もあったけれ
     ど、昭和2年、芥川の自殺まで変わらぬ交友は続いた。
     今回の企画展では、その二人の交友の軌跡を、原稿、書画、書簡など貴重な約百点の資料でたどっている。

     芥川が作家として生きる決意をしたといわれる、夏目漱石からの毛筆の書簡や、芥川の河童絵などが見どころだ。
     08年に芥川家で発見された、芥川の妻や子供にあてた遺書と、「続西方の人」を書きあげて自殺した彼の最後の筆跡は、
     神奈川県内では初公開だ。




芥川龍之介の「羅生門」「鼻」の草稿、久米正雄の「父の死」の原稿や、二人の間で交わされた手紙(ハガキ)、写真、掛け軸、短冊、書籍なども展示されている。
芥川も久米も、書画を得意としていたらしいが、絵は久米の方が芥川より上手いという、漱石の一文なども面白い。
芥川龍之介の作品にはかなり馴染みがあっても、久米正雄の作品を読んでいる人は少ないのではないだろうか。
久米作品には、手品師」「天と地と」「受験生の手記」などよく知られているものあり、昭和5年に全集(13巻)が刊行され、平成5年には復刻版も出ている。
著作の数では、芥川よりはるかに長く生きた久米の方が多い。
よく知られている「月よりの死者」は、2回も映画化されていて、知る人も多いだろう。

二人は、作家として生きていく決意をしても、当面は生活のために就職するのだが、久米は就職など芸術生活の堕落だと考えていたから、わずか13日で辞めてしまったそうだ。
芥川も久米も鎌倉で暮らしたが、一緒だった期間はなく、久米が鎌倉に移り住んだのは、芥川が新婚生活を送った鎌倉を去って、6年後のことであった。
二人の作家の交友の軌跡とともに、二人の弟子に向けた夏目漱石の書簡なども、興味深い。
芥川龍之介は、昭和2年35歳の若さで自死、葬儀委員長を務めた久米正雄は、昭和27年60歳で亡くなった。
規模はさして大きくはないが、この特別展は、12月18日(日)まで催されている。


映画「愛の勝利を ムッソリーニを愛した女」―歴史の陰に葬られたある愛の物語―

2011-12-07 15:25:00 | 映画



     愛しても、足りなかった。
     裏切られても、愛し続けた。
     そんな女がいた。

     ヒトラーと並ぶ独裁者、ムッソリーニ没後65年になる。
     イタリアの最高権力者であった、彼を熱愛した女がいた。
     その女の、激しい波乱の人生を綴る。
     遅まきながら、今頃になって鑑賞できてよかったと思っている。    
      イタリアの巨匠マルコ・ベロッキオ監督の作品だ。
 
・・・「統帥(ドゥーチェ)、私を愛しなさい!」
統帥とは、イタリア近現代史最大の問題人物、べニート・ムッソリーニその人だ。
20世紀初頭のイタリア・・・。
ひとりの男と女が、激しい運命の中で出逢った。
男は、官憲から追われていた。
女は、男を匿うように抱擁し、唇を委ねる。
そして、その瞬間、女は燃えるような恋に落ちた。

それからしばらくの時が流れ、二人は再会した。
二人は、互いを必要とし、愛し合うようになる。
男は、急速に移り変わりゆく世界の中に、自らの祖国を守るべく、より深く政治闘争へと身を投じていく。
女は、そんな男のために、全財産を投げ打って男に与え、その活動を支えた。
男の名はムッソリーニ(フィリッポ・ティーミ)そして女はイーダ(ジョヴァンナ・メッゾジョルノ)といった。

第一次大戦が始まった。
当初は党の方針に従って、中立的な立場を取っていたムッソリーニだったが、次第に参戦論へと傾斜していった。
その過激な言動から、やがて党の機関で「アヴァンティ」の編集長の要職を説かれ、ついに社会党からも除名処分になってしまった。
これに対し、ムッソリーニはイーダからの資金援助をもとに、新たに独自の政治活動を模索する。
その一方で、イーダの運命は全く違った方向に動き始める。
ムッソリーニに変わらぬ愛を捧げていたイーダは、やがて妊娠し、1915年11月11日長子ベニート・アルビノを出産し、ムッソリーニの認知を受ける。

幸福な人生を歩み出すかに見えたイーダであったが、ムッソリーニには、正妻ラケーレ(ミケーラ・チェスコン)がいたのだ・・・!
政権を奪取し、ドゥーチェ(総帥)としてイタリアに君臨するようになったムッソリーニに、愛人イーダの存在は邪魔になったのだろうか。
ムッソリーニは、彼女の権利を剥奪するかのように、書類を改竄し、あるいは放棄させ、イーダと息子ベニートの存在をなき者にしようと謀り、ついにはイーダを精神病院に送り込んでしまったのだ。
この精神病院の柵によじ登って、イーダが狂ったようにビラを撒くシーンも見応えがある場面だ。
だが、イーダは自らの愛のため、息子ベニートを守るため、そして愛の勝利のために、ひとり立ち向かうのだった・・・。

ムッソリーニといえば、イタリアを第二次大戦へと導き、第二次大戦末期には愛人クララ・ペタッチとともに銃殺され、ミラノのロレート広場で逆さ吊りにされ、その波乱の人生を閉じたことは知られている。
その彼に、ひた隠しにしていた愛人がいたという事実だ。
この話は、近年までその存在すら知られることなく、歴史の闇の中に忘れ去られようとしていたのだそうだ。
いかなる歴史の教科書にも載ることもなく、そして人々の記憶からも消されようとしていたイーダ・ダルセルという女性の存在が・・・。

ムッソリーニに無償の愛を与えながら、その見返りとして、ムッソリーニ本人から、存在の証しさえ剥ぎ取られてしまった女性に、再び生命を吹き込んだ作品だ。
第一次大戦から第二次大戦へと突き進んでいた、その時代を背景に、ひとりの女性の生き様に焦点を当て、愛の真実を浮き彫りにする。
イタリア・フランス合作、マルコ・ベロッキオ監督「愛の勝利を ムッソリーニを愛した女」は、当時のドキュメンタリーやニュースフィルムの映像をふんだんに駆使し、この作品そのものが壮大なドキュメンタリーの感がある。

マルコ・ベロッキオ監督の演出も、圧巻の映像を創造して傑出しているが、主役の二人、ジョヴァンナ・メッゾジョルノの鬼気迫る演技、ハリウッド映画への進出も果たして成長著しいフィリッポ・ティーミの演じる、ムッソリーニの存在感も、なかなかのものがある。
この映画は、どちらかというとイーダを主人公に据えた作品で、ムッソリーニの方はあまり描かれていないのは少し不満だが、仕方がないか。
実際のドキュメンタリーシーンの多用も気になるが、歴史の勝者(?)を語るとき、これらの映像の力がここまで必要かどうか。
まあ、狂気すれすれの、愛が凄い!
とにかく、骨太で、重厚な演出が冴えている。
  [JULIENの評価・・・・★★★★☆] (★五つが最高点) 


映画「再会の食卓」―歴史に引き裂かれた夫婦と家族の運命―

2011-12-04 18:00:00 | 映画


     少し旧作になってしまうけれど、ベルリン国際映画祭で、銀熊賞に輝いた中国映画だ。
     ワン・チュエンアン監督が、舞台に選んだのは、上海摩天楼の狭間、迷路のように細い路地にたたずむ、古い平屋の食
     卓であった。
     ワン・チュエンアン監督は、前作「トゥヤーの結婚」グランプリに次ぐ快挙だ  
     
     
     家族の食卓というのは、中国人にとって、日本人以上に、大事な習慣とされる。
     食事と会話を通して、家族の運命の再会をめぐって、主人公はある決断を迫られることになる。










  
ある日、上海に暮らすユィアー(リサ・ルー)のもとに一通の手紙が届く。
そこには、かつて生き別れた夫のイェンション(リン・フォン)が、数十年ぶりに台湾から帰ってくると記されていた。
しかし、ユィアーには、すでに新しい夫シャンミン(シュー・ツァイゲン)と家族がいた。
戸惑いながらも、イェンションを食事に招き、精一杯もてなすのだった。

だが、イェンションには、元妻に対する密かな願いがあった。
 「これからの人生、私と一生台湾で暮らしてほしい」
イェンションの予期せぬ告白に、ユィアーの心は揺れ動く。

猛反対する娘、自分は関係ないとうそぶく長男、金銭で解決しようとする娘婿・・・。
ただひとり、長年連れ添った夫のシャンミンだけは、彼女の台湾行きに賛成するが、彼もまた複雑な想いを抱いていた。
そうして、円満だったはずの一家が、にわかに揺れ始めるのだった。
 「本当に生きていたのは、あなたと一緒にいた時。後は、ただ、生き延びてきただけ・・・」
夫を前にして、女はぎょっとするような言葉を吐く。
それは、どんな歳月だったのだろう。
40年ぶりに戻ってきた元夫に、家族たちはテーブル一杯の料理をふるまい、いつもの食卓には酒などの料理が並ぶ。
いつもの食卓は暖かい場所であるはずなのに、女と男たちの胸の内が次第に吐露されていく中で、複雑で激しい感情が溢れていく。
・・・そして、最後にユィアーは決断を下さねばならなかった・・・。

中国は、国民党と共産党が一体となって、戦った。
日本軍が撤退後も国共内戦となって、49年に共産党が勝利すると、国民党は上海から船で台湾に逃れ、本土と断絶する。
この時、数十万人が生き別れになったのだった。
交流が再開されたのは87年だから、それから幾星霜・・・である。
故郷を訪れる元国民軍の老兵の目的は、別れた妻を連れ戻すことだった。
妊娠して路頭に迷う彼女を救ったのは、共産党の兵士だった。
彼は、女と息子を養い、二人には娘と孫も生まれた。

ドラマには、そうした複雑な背景があり、混乱の中で引き裂かれてしまった夫婦の後日の物語として映画化された。
いまの夫は、立つ瀬がない。
敵方の女と結婚したから出世の道もないし、妻の愛も得られない。
でも、文革の時代に苦労した妻を好きなようにさせたい。
辛い選択だ。

行方不明になった夫が、40年ぶりに帰ってきて、妻は新しい夫と暮らしていたのである。
それで、波風が立たないほうがおかしい。
中国映画ワン・チュエンアン監督「再会の食卓」は、何気ないその光景の中に、中国と台湾における別れと再会の物語を映し出し、食卓を囲む家族ひとりひとりの様々な想い、心の揺らめきを、鮮やかに描き出している。
戦争は終わっても、人々の苦しみは続くのだ。
もともと、台湾の老兵が上海の妻を訪ねるという話をもとに、監督自身がシナリオを描き上げたわけで、ここで問われるのは、家族の在り方、家族で語り合うことの大切さであり、刻々と変化を遂げる上海の街で、長い歴史を刻み、年老いた男女三人の人生ドラマが美しくも哀しい。
この作品を観て思うことは、不幸な歴史が生んだ、大切な人のかくも長き不在である。

その長い時の間に生じた隙間を、どうしたら乗り越えることができるのだろうか。
40年という時を経ての再会も、いつも通りの食卓から始まって・・・。
さすがに、戦争体験者でもある、ベテラン三人の俳優の演技が上手い。
歴史と人間を見つめ、歓びよりも哀しみの交錯する、上出来の小品である。
   [JULIENの評価・・・・★★★★☆] (★五つが最高点

 


映画「マーガレットと素敵な何か」―過去と現在をつなぐ大人の童話―

2011-12-01 20:00:00 | 映画


     もう師走とは、時のたつのは早いもので、今年もだんだん残り少なくなってきた。
     朝夕、めっきり冷え込むようになった。
      年の瀬の足音が、ひたひたと迫ってくる。
     こんな日には、心身ともに温まる映画がいいのだが・・・。
  
     フランスヤン・サミュエル監督は、自分が実際に思い付いたアイディアもとにした作品を、ここに誕生させた。だ。した。  
     
それは、昔の自分からいまの自分に手紙が届くという、物語だ。
     そう、誕生日に突然届いた一通の手紙は、7歳の自分からのメッセージだった・・・。








     
マーガレット(ソフィー・マルソー)は、キャリア・ウーマンで、原子力関係の巨大なプラントを外国に売り込む仕事をしていている。
近く、結婚する予定の恋人マルコム(マートン・ソーカス)がいた。
マーガレットは、エリザベス・テイラーとかマリー・キュリーといった、いつも敬愛する女性の名を呟いて、自らを鼓舞していた。
自分の机の引き出しには、マリア・カラスやマレーネ・ディートリッヒの写真も入っている。

マーガレットが40歳の誕生日に、公証人と名乗るひとりの老人メリニャック(ミシェル・デュショーソワが、会社にやってきて、一通の手紙を届ける。
マーガレットの覚えのない人物だ。
届けられたのは、まだ7歳のころのマーガレットが、自分に宛てた手紙であった。

それには、少女時代の辛かった思い出や、懐かしい写真がいっぱい詰まっていた。
大きくなったら自分は何になりたいか、仕事に失敗して家を出た父親のこと、執行官が家具などを差し押さえに来た、7歳の誕生日のことや、初恋の相手フィリベール(ジョナサン・ザッカイ)の写真なども・・・。
父が出ていってからも、母と弟と3人で暮らしていた一家だったが、ついに無一文になって、水道も電気も止まってしまい、最後まで残していたマーガレット愛用のクラリネットも売ることになってしまったのだった。

マーガレットは、大好きだった家族と穏やかな田舎、そして初恋の思い出を、心の奥底に封印し、7歳にして誰よりも早く大人にならざるをえなかった。
そして、大切にしていた思い出たちを袋に詰めて、7歳のマーガレットは、2010年の自分への手紙の投函を、当時新人の公証人メリニャックに依頼していたのだった。
最初は、手紙の受け取りさえも拒否したマーガレットだったが、次から次へと届き始めた手紙によって、自ら閉ざしていた“心の扉”が、ゆっくりと開かれていくのだった・・・。

過去を受け入れた主人公は、汚い大人なんかになりたくなかったあの頃を振り返り、いまの自分のキャリアや生き方について考えるようになり、改めて自分と向き合い、未来につながる大いなる希望を見出していく。
人は、様々な過去を持っている。
その中には、辛い過去も、悲しい過去もある。
しかし、次々と届く手紙から、過去を振り返り、これでいいのかなと考えるようになる。
ヤン・サミュエル監督フランス映画「マーガレットと素敵な何か」は、ふと、残っている古い写真や思い出の品々を取り出して、小さい頃自分がどんな大人になりたかったかを、想い出させる作品だ。
ある日、かつて少女だった頃の私から、手紙が届くなんて・・・。
人生で何が大切かに思いをはせる映画は、とても小粋で、ちょっと洒落ている。

誰にだって、忘れてしまいたい過去はきっとある。
それでも、過ごしてきた日々は全部“自分”であって、変わることなんて容易ではないけれど、あらためて自分に目を向けたとき、新しい明日に出会える・・・。
30年「ラ・ブーム」で映画デビューした、主演のソフィー・マルソーは、当時可愛い一少女だったが、その彼女も40代半ばの今になっても、第一線で活躍するフランスを代表する、ちょっとしたたかな女優さんだ。
本作が長編3作目になる、ヤン・サミュエル監督は、映画のほかにもイラストレイター、漫画家、絵本作家といった幅広い分野で活躍していて、「世界でいちばん不運で幸せな私」(04)は、本国フランスで140万人を動員する大ヒットとなったそうだ。
こちらの映画は、豪華さも派手さもなく、地味で、多少少女っぽいと思っても、きらりと光るものを感じさせるヒューマン・ドラマだ。