徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「男と女」―孤独を抱えた男と女が出逢うとき―

2017-04-27 18:00:00 | 映画


 フランス映画「男と女」はあまりにも有名だが、この映画は韓国版だ。
 フィンランドと韓国をつなぐ幻想的なロケーションは、ラヴストーリーにはぴったりだし、この映画のように、韓流ドラマに集まる若い女性の多いのはいまに限ったことではない。
 恋に落ちるしかなかった男女の、許されざる最後の“初恋”を描いた、ロマンティックな恋愛映画である。

 イ・ユンギ監督は、狂おしくも切ない愛の衝動を、正統派のドラマとして描いて見せた。
 愛を、人間の持つ様々な本質的感情としてとらえ、現実から遠く離れた時間と空間の中で、男と女のどうしようもない出逢いを、二人の心理風景を追うように静かに綴っていった。
 異国的な風景と美しい雪原を背景に、強く惹かれあっていく男女の緊張感が伝わってくる。
 この作品を観て感じることは、やはり、ラブストーリーというのは雰囲気で決まるということか。
 この作品に驚くような波乱はない。
 ドラマは決められているテーマに従って、表面的には粛々(?)と展開する。
 お終いまでしっかり見届けたいと思うのだ。


フィンランドのヘルシンキ・・・。
サンミン(チョン・ドヨン)は、人気デザイナーズブランドの社長で、息子のキャンプのためにフィンランドを訪れていた。
建築家のギホン(コン・ユ)は、妻子を連れてこの地で仕事をしていた。
子供たちの国際学校でたまたま出逢った二人が、誰もいない真っ白な森の小屋で結ばれる。
行きずりの二人は、互いの名前も知らないまま別れる。

そして、8カ月後の韓国・ソウル・・・。
サンミは、フィンランドでのひと時の出来事は、雪原が見せた夢だと思っていた。
日常に戻ったサンミの前に、突然ギホンが現われ、再会した二人はどうしようもないほど熱く惹かれあい、恋に落ちる・・・。

もともとふとした偶然の出逢いから、二人の新たな関係が始まる。
男にも女にも家庭があった。
よくある話である。
二人とも、家庭にこれといった大きな不満があるわけではなかったが、どこか空虚な孤独を抱えていた。
その二人が異国の地で出逢って、強く惹かれ合った。
二人は抗えない感情の渦に巻き込まれて、ただならぬ世界へと落ちていく。

この映画を観ていて、フランス映画「男と女」をどうしても思い出してしまうのだ。
あの作品もいい映画だった。
この作品はどうか。
少し首をかしげる。
悪い作品では無いけれど、何かが物足りない。
それは、洒落と粋がないことだ。
つまり小粋な香り、知性に富んだエスプリが感じられないのだ。
ともに独身ではない男女の結びつきは、苦しい葛藤を伴うものだ。
意外と、あっさりとした描き方で逃げてしまっている。
人間は勝手だと言えば勝手だが、燃え上がった愛は、誰にもそうやすやすとは止められない。
妻や夫として義務的な日常に疲れ、孤独を抱えていた二人がたまたま出逢った。
再び男が目覚め、女が目覚める。
遠い異国の地で始まった二人の縁は、再会をもとにさらに情熱を増幅させる。

男も女も、控えめに見えていて、ほとばしり出る情熱を抑えきれない。
激しい愛は、突然降ってわいた事故のようなものだ。
どこといって特別目新しいテーマではないだけに、二人の苦悩と葛藤にはもっと踏み込んでほしかった。
こういうドラマが綺麗ごとで済む方がおかしい。
なるほどと納得のラストシーンに、何となくピュアな清涼感が残った。
ちょっと一服しながら映画でもという向きには、気軽に観られていい。
イ・ユンギ監督韓国映画「男と女は、大人たちの心をちょっぴり疼かせるようなドラマである。
        [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点
次回はイギリス・フランス・ベルギー合作映画「わたしは、ダニエル・ブレイク」を取り上げます。


映画「灼 熱」―クロアチア戦争をはさんで3つの時代に生きる2つの民族の若者の愛の物語―

2017-04-26 17:00:00 | 映画


 バルカン半島では、前世紀末に旧ユーゴスラビアが解体し、民族対立が激化した。
 その対立のひとつであるクロアチアとセルビアの民族紛争を背景に、自国のダリボル・マタニッチ監督が、それにあがらう普遍的な愛の形をこの作品で描き出している。
 3つの時代の異なる恋愛ドラマだが、これを三章仕立てで描き、一人三役で演じていくというから、構成も斬新で興味深い。

 民族紛争の影をまとった愛の物語なのだが、異なる民族間の憎しみの連鎖をどう断ち切り、乗り越えていくか。
 愛と憎しみ、希望と恐れ、それらを織り込みながら、現実の過酷な状況を反映させている。
 ロミオとジュリエットのようなドラマである。



(第1章)
戦争勃発の1991年・・・。
クロアチア人のイヴァン(ゴーラン・マルコヴィッチ)は、隣村のセルビア人の娘イェレナ(ティハナ・ラゾヴィッチ)と恋人同士だ。
戦禍の兆しで、2人はともにザグレブに逃げようとするが、兄に引き戻されたイェレナの姿を追ったイヴァンの身に悲劇が襲う。

(第2章)
紛争終結後の2001年・・・。
母ゾルカ(ニヴェス・イヴァンコヴィッチ)と一緒にナタシャ(ティハナ)は、戦争で荒れ果てた我が家を回収するため、クロアチア人の修理工アンテ(ゴーランを雇う。
兄をクロアチア人に殺されたナタシャは、嫌悪感を抱く一方で、次第に彼に心を惹かれていく。

(第3章)
戦禍の傷痕の消えた2011年・・・。
都会の大学に通うルカ(ゴーラン)は、友人と一緒にに故郷に帰るが、両親との間にわだかまりがあった。
ルカはかつて両親の猛反対で、セルビア人の恋人マリア(ティハナ)との仲を引き裂かれたからだ。
そして、マリアをいまだに忘れられないルカは彼女に会いに行く。

この、民族対立による10年ごとの物語で、同じ青年、同じ娘が演じているのだ。
青年役はゴーラン・マルコヴィッチ、娘役はティハナ・ラゾヴィッチ、といったふうに・・・。
同じ俳優が、時代を超えた同じ状況下の恋人たちを演じることで、いつに時代であれ、どこの世界であれ、愛の悲劇は起こりうることが暗示されている。
正確にはクロアチア・スロベニア・セルビアの合作映画「灼 熱」は、3つの時代を背景に展開する3つの物語である。
いずれも、クロアチア人の男性とセルビア人の女性という、3組のカップルの切実な恋の物語だ。
だがそこには、民族間の憎しみの歴史が渦巻いている。

愛は憎悪や偏見を克服できるかという、普遍的なテーマが全編を貫いている。
画面には、リアリズムを超えた繊細な情感と詩情が息づいている。
クロアチアに限らず、アメリカもヨーロッパも中東も、世界中でいま民族が対立し火花を散らしている。
20年が経過しても、民族紛争の憎悪は色濃く、世代を超えて影を落とし続ける。
主人公たちが海で泳ぐシーンは、変わらず続いている戦争との対比で、とてもやるせない。
終盤に暗示される、寛容と忍耐のメッセージが救いである。

戦争は様々な悲劇を生む。
セルビア人とクロアチア人の夫婦が、仲違いをして離婚したという話は、日常茶飯事である。
難民として家を失い、家族を失った人たちも沢山いる。
1991年から95年にかけて闘われたクロアチアの独立戦争では、死者10668人、行方不明者2915人、負傷者37180人、難民の数は約65万人ともいわれる。
驚きだ。凄い数字だ!

この映画が、国際社会を揺るがす民族紛争や難民問題に、一石を投じることができるだろうか。
クロアチア新鋭監督ダリボル・マタニッチは、1975年ザグゼブ生まれ、本作で日本初見参である。
カンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査員賞受賞をはじめ、多数の映画賞に輝いた。
       [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回は韓国映画「男と女」を取り上げます。


映画「家族の肖像」―深い孤独の中に失われてゆく時と失われてゆく家族―

2017-04-24 17:00:00 | 映画


 生誕110年、没後40年、メモリアルの掉尾を飾るルキーノ・ヴィスコンティ監督の傑作が39年ぶりにデジタル完全修復場版として甦った。
 2016年春から、イタリアの名匠ルキーノ・ヴィスコンティ監督の、絢爛たる名作の数々が再公開されてきたが、この作品は1978年に初公開されたもので、彼の後期最高傑作と謳われている。
 「若者のすべて」(1960年)、「山猫」(1963年)、「ルートヴィヒ」(1972年)、「イノセント(1976年)など、日本公開作品は多い。

 ローマの豪邸に一人で暮らす老教授が、失われゆくものたちに埋もれ、孤独に生きていた彼の生活がある家族の闖入によって掻き乱されていく物語である。
 衣装の一部を担当したフェンディが、修復版の制作を試み、細かな美術に至るまで、絢爛豪華な世界観とは裏腹に、人間の深い孤独が見えてくる作品を描き上げた。
家族とは何者の集まりなのだろうか。
 激しく儚いデカダンスの世界を、綺麗な画像に甦らせてここに帰ってきた。
 啀みあう疑似家族は、繋がっていくことはできないのだろうか。




ローマの高級住宅街で、ひとり「家族の肖像」の絵画に囲まれて、老教授(バート・ランカスター)は、静かで孤独な暮らしを送っていた。

ある日突然、ビアンカ・ブルモンテ(シルヴァーナ・マンガーノ)と名乗る、美しく気品のある伯爵夫人とその家族たち、娘のリエッタ(クラウディア・マルサーニその婚約者のステファーノ(ステファーノ・パトリッツィ)が訪れて来る。
彼らは、全くその意志のない老教授を口説き落とし、階上の部屋を借りてしまう。

実際に階上に住み込んだのは、ビアンカの愛人コンラッド(ヘルムート・バーガー)だった。
数日後、勝手に室内の改良をし始めたコンラッドと老教授の間に諍いが起きる。
その誤解が解けると夕食の団欒に誘うのだが、一向にやって来ない。

そしてまた別の夜、書斎から漏れ聞こえる音楽に、教授が様子を見に行くと、リエッタら若者たちが全裸で踊っていたり、コンラッドが警察に拘束されたり、若者3人を迎えたぎごちない晩餐会が催されたり、ビアンカの夫の国外逃亡や離婚話が語られ、ときにコンラッドの逆上もあって、家の中はついには諍いや掴み合いにまで発展してしまうのだった。
そして、事件は起きる・・・。

ミニシアターの黎明期に、ヴィスコンティの伝説的なブームはこの作品「家族の肖像」の大ヒットから始まったといわれる。
実に格調の高い、重厚な演出が完璧に近く、それだけに観ている方はかなり疲れるものなのだ。
特有の絢爛たる世界が展開していくのだが、ヴィスコンティ監督トーマス・マン「魔の山」、マルセル・プルース「失われた時を求めて」の映画化をライフワークとして考えていた。
しかし健康上の理由から断念せざるを得ず、スタジオセット内で撮影をする本作に落ち着いたといわれる。

「山猫」で最もヴィスコンティに近いと言われた、滅びゆく家族を見事に体現したバート・ランカスターが、ここでもヴィスコンティ自身の精神的な肖像という老教授を、まことに味わい深く演じている。
美青年コンラッドには、公私にわたり監督から寵愛を受けたヘルムート・ベルガーが、貴族ならではの傍若無人さをまき散らす伯爵夫人にはシルヴァーナ・マンガーノが扮し、強烈な存在感を見せる。
また回想シーンで登場するクラウディア・カルディナーレドミク・サンダーの美しさも、この作品に彩りを添えている。

1906年ミラノ生まれのヴィスコンティ監督は、1972年7月、「ルードヴィヒ」の編集中に脳血栓の発作に見舞われ、左半身が麻痺し、車椅子での活動を余儀なくされてしまう。
そんなことから、単純で簡潔な一室内で終始する物語を目指し、登場人物は当初二人とするアイデアから本作は生まれた。
制作されたセット内で全てを撮影し、車椅子を操りながら気迫と執念で撮リ上げた、ヴィスコンティ監督渾身の大作だ。
彼はリハビリを続けながら、本作を74年12月に全編を撮り終わり、公開したのだった。
ところが、左手が動くようになった頃に、不幸にも転倒して骨折し、再び病状が悪化した。
それでも、映画製作を続けた。
このイタリア・フランス合作映画の、オリジナル英語版というのも珍しい。

ヴィスコンティ監督は、ダヌンツィオ原作の「イノセント」の撮影を終えてダビング中、1976年3月17日ローマで死去した。
はじめに挙げた日本公開作品の他にも、マルチェロ・マストロヤンニの出世作となった「白夜」(1957年)、同じくマストロヤンニの生きる孤独をを突き詰めたかのようなカミュ「異邦人」(1967年)など、個人的になじみ深い作品もあって忘れ難い。
名匠の作品はいつの時代でも映画史に残り、語り継がれていくだろう。
いい映画はいい映画なのだから。
       [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回はクロアチア映画「灼 熱」を取り上げます。


映画「ム-ンライト」―深い静謐の中に黒人青年の成長を描く愛の物語―

2017-04-22 17:00:00 | 映画


 トランプ政権下のアメリカで、少数派に対する偏見や差別が助長されるといわれる中で、ハリウッド(映画人)はこの作品を強く推した。
 その結果、今年のアカデミー賞で、大本命とされた「ラ・ラ・ランド」を破って最優秀作品賞に輝いた。
 アカデミー賞発表の際、まさかのミスもあったが結果的にこの作品の受賞が決まった。

 トランプ大統領になったから受賞できたなどという噂話もあるが、そんなことはどうでもよいことだ。
人種差別を主張する大統領に対して、白人至上主義のアカデミー賞が、自分たちはそうではないとの意思表示が感じられるが・・・。
 政治的配慮とバランスをとったともいわれる、このアメリカ映画「ムーンライト」は、黒人チームが作った、文字通り黒人の映画だ。

 マイアミ出身のバリー・ジェンキンス監督が、戯曲『In Moonlight Black Boys Look Blue(月の光の下で、美しいブルーに輝く)』を原案に、黒人少年の成長を小学生、高校生、大人の三章構成で、アイデンティティーを探し求める映画として作り上げた。



マイアミの貧困地区で暮らす少年シャロン(アレックス・ヒバート)は、学校で“リトル”というあだ名で呼ばれ、内気でいつもいじめを受けていた。
ある日、いつものようにいじめっ子に追われ、廃墟まで追い詰められると、それを見ていた青年ファン(マハーシャラ・アリ)に助けられた。
ファンはヤクの売人をしている男だった。
その後も、ファンは何かとシャロンに気をかけるようになり、シャロンもファンに心を開いていく。
家に帰っても行き場のないシャロンにとって、心を許せるのはファンと友人のケヴィン(ジャハール・ジェローム)だけだった。

シャロンは高校に入っても、いじめを受けていた。
母親のポーラ(ナオミ・ハリス)は麻薬中毒で、彼の育児を放棄していた。
自分の家でも完全に居場所を失った彼は、ファンと彼のガールフレンドであるテレサ(ジャネール・モネイ)の家に向かう。
そこでテレサは「うちのルールは愛と自信を持つこと」と、シャロンを迎え入れる。
ある日、同級生に罵られてひどいショックを受けたシャロンは、月明かりの下で、初めて彼の心に触れることになる・・・。

主人公シャロンは、時代ごとにトレヴァンテ・ローズら3人の俳優によって演じられる。
同じ内面を思わせる3人の俳優に共通するものは、印象深く力強い彼らの“目”だ。
いずれも、深い悲しみをたたえた暗い瞳をしている。
この作品のテーマは、シャロンのアイデンティティー探しであり、タイトルの「ムーンライト(月光)」は暗闇の中で輝く光であり、自分が見せたくない「光り輝くもの」を暗示している。
人種、麻薬、同性愛など、日本人には共感しにくい面もある。

ドラマは、第1部の台詞が第2部、第3部に生かされ、第2部の場面描写は第3部につながっていくという作劇法だ。
静謐な場面が多く、無駄なセリフや場面描写は極端なまでに排除されている。
人種、LGBT、貧困、いじめと各世代もセクショナリティを超えて、普遍的な人間の存在を照らし出そうとしている。
だからといって、物語には過剰な説明もなく、主人公の成長と葛藤を静かに見つめる。
ジェームズ・ラクストン撮影監督は、アフリカ系黒人たちの肌の美しさを、画面にしっかりと見せる照明を工夫し、ブロンズ色の肌を輝かせた。
そして、全編を通しての映像は、静かな中にも、ときに甘美にときに残酷に現実を映し出していく。
様々な困難と向き合う黒人少年を、暴力や犯罪の渦巻く世界の中で、紋切り型でとらえることはせず、距離を置いた視点で日常を淡々と追っているのがこの映画の特徴だ。
人生は変わっても、人間の内面は変わらない。
      [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回はイタリア・フランス合作映画「家族の肖像」を取り上げます。


映画「ニュートン・ナイト 自由の旗をかかげた男」―アメリカ南軍に反旗を翻した伝説の男の英雄譚―

2017-04-18 17:00:00 | 映画


 150年前の南北戦争下で、貧しい白人の農民と逃亡した黒人奴隷500人を組織して、100万人の南軍に戦いを挑んだ男の物語である。
 知られざるアメリカ史の一断面が明らかにされる。

 「シービスケット」(2003年)ゲイリー・ロス監督が、かつて真の自由を求めて戦った、白人のリーダーの驚愕の実話を基に映画化した。
 歴史の中に封印されていた、英雄ニュートン・ナイトの伝説が、重厚な演出でここに甦った。




南北戦争時代のアメリカ・・・。

南軍の衛生兵だったニュートン・ナイト(マシュー・マコノヒー)は、甥のダニエル(ジェイコブ・ロフランド)の遺体を家族に渡すため軍を脱走した。
故郷で、仲間の農民たちから農作物を奪う南軍と衝突した彼は、追われる身となって湿原に身を隠した。
そこで出会った黒人の奴隷たちと友情を築いたニュートンは、黒人と白人がひとつになった前代未聞の反乱軍を結成し、自由のために立ち上がった。

そして、ニュートンらは結成された黒人奴隷500人を率いて、南軍100万人の立ち向かったのだ。
1864年、出身地であるミシシッピ―州ジョーンズ部に、肌の色、貧富の差、宗教思想に関係なく、誰もが平等な<自由州>の設立を宣言したニュートン・ナイトは、リンカーン大統領より一足早く、奴隷解放を成し遂げアメリカを大きく動かすことになる。
1865年、南北戦争は終結するのだが、それはまた新たな戦いの幕開けに過ぎなかった・・・。

壮絶な戦闘シーンから、命をも顧みない人間の楯、人種差別、政治闘争と、ちょっと盛りだくさん過ぎるドラマだ。
もう少し絞ったほうがよかった気もする。
個々の人物描写より時代感覚、ドラマ性を色濃く映し出した作品となった。
なかなか知る機会の少ない史実を掬い上げ、歴史ドラマとしても、気宇壮大な作品だ。
ニュートン・ナイト役のマシュー・マコノヒーの凛然した存在感が際立っている。
アメリカ映画」ニュートン・ナイト 自由の旗をかかげた男」は、娯楽映画というより歴史映画の誠実さに向き合う作品だ。
映像では、自然光を使った映画の深さや衣装にも注目だ。

主人公の主張する力強さは、今のアメリカにも通用するものだし、全編に流れるテーマも、人間として一番大切なものは何かを問うて世界の未来を照射する。
ニュートンは、ドラマの中、熱を出した赤ん坊を救ったイーキンズ家の黒人使用人レイチェル(ググ・ンバータ=ロー)とは内縁の夫婦となって、積極的に政治に介入し、黒人に対する新たな差別的法律に強く反対し、自由民のための学校を設立、さらに元奴隷の自由民に投票権を与える活動などで、リーダー的な役割を果たした。
いわゆるKKK(クー・クラックス・クラン)の黎明期の活動も描かれ、大変興味深い。
白人至上主義は、いろいろと考えさせられる問題だ。
これは、遠い時代、遠い国の問題ではない。
人種問題にまつわることは、地球上のいたるところで様々な形で起きている。
自由と平等は、いま全人類のテーマである。
人種差別に強硬な、アメリカのトランプ大統領に観てほしいものだ。
       [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回はアメリカ映画「ムーンライト」を取り上げます。


映画「午後8時の訪問者」―救えたかもしれない命を見過ごしてしまった若き女医の葛藤―

2017-04-15 15:00:00 | 映画


 これまで労働者や移民など、社会の陰に光を当て続けてきたベルギー兄弟監督ジャン=ピエール・ダルデンヌリュック・ダルデンヌ両監督の、「サンドラの週末」(2014年)に次ぐ最新作である。

 ひとりの女性医師が少女の変死事件の謎を解くサスペンスだが、主眼は必ずしも謎解きではない。
 人間の本質の善なるもの、悪なるものも抱えた人間ドラマが描かれる。
 フランス映画としては地味な作品で、ここでもヨーロッパが抱える移民、難民問題が浮き彫りにされる。
 淡々とした展開だが、心の奥底に秘められた人間の感情をさりげなく映像化したあたり、さすがダルデンヌ兄弟のミステリー仕立てのドラマに引きつけられる。
 登場人物に優しく寄り添う視点と心意気に、共感できるものがある。


高速道路に面した、郊外の小さな診療所・・・。

貧しい人たちも通院する診療所で、若き女性医師ジェニー(アデル・エネル)と研修医ジュリアン(オリヴィエ・ボノー)が働いていた。
診療時間外の午後8時過ぎに、ドアベルが鳴った。
研修医は応じようとするが、ジェニーは止める。
研修医を指導する、次の予定も迫っていたからだ。

翌日警察から、近くで身元不明の少女の遺体が発見されたことを知らされる。
その遺体は、診療所のモニターから、昨夜ドアベルを鳴らした若い女性であることがわかる。
少女は、何故診療所のドアベルを鳴らしたのか。
助けを求めていたのだとしたら、あの時ドアを開けていたら、死ななくてすんだのではないか。
ジェニーは自責の念に駆られ、診療所に住み込みで、少女の名前と足跡を捜し回る。
ジェニーはまるで刑事か探偵のように、少女の写真を自分の患者に見せながら、遺体の発見現場、売春の現場、売春クラブなどを訪ね歩くのだった・・・。

あの時、もしも別の判断をしていたら、と思う。
少女の真相を追っていくうちに、意外な人間関係が浮かび上がってくる。
事故なのか、事件なのか。
犠牲者は移民少女で、ジェニーは片っ端から自分の患者たちに心当たりを訪ね、危険をも顧みずに真相を追う。
ジェニーの張りつめた心理と苦悩を、カメラが追っていく。
人々はやがて、ジェニーに自分の隠しごとまで打ち明けるが、それは彼女が人の体と心の傷を癒やす医師だからだ。
ジェニーが真相を探る姿には、心理サスペンスの雰囲気が漂っている。

はっきりしていることは、ジェニーを含めた人々の、少女の死をめぐって生じる罪悪感であり、良心の呵責だ。
移民の少女は身元不明のまま埋葬されてしまうことから、ジェニーの罪悪感も大きい。
一医師が、せめて名前だけでもと調査を始めるのだが、そんなことを医師がすること自体変わっている。
ジェニーは遺体の身元を明らかにするため、手がかりを求めて奔走するのだ。
ダルデンヌ兄弟の映画では、とにかくどの作品でも主人公の女性が必死で感情もあらわに歩く姿が描かれる。
きっと、歩く女性の姿の美しさを誇張したいのだろう。

近々、大きな病院に移る予定でいた若い女性医師が、この作品に描かれるように、まして関連相手が殺されたとなると、内面に生じた自分の不穏な感情から身も心もさいなまれる。
そういうことは大いにありうる。
この作品、フランス・ベルギー合作映画「午後8時の訪問者」は、殺された少女を囲む深い闇の底辺まで、敢えて深入りしようとはせず十分な説明描写もなく、あくまでも女性医師の葛藤に重点を置き、現代社会の倫理観を浮き彫りにするにとどまっている。
この点はいささか不満といえば不満もある。
作品としては、責任と罪の意識が問われる、社会的な寓話ともいえそうだ。
      [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点
次回はアメリカ映画「ニュートン・ナイト 自由の旗をかかげた男」を取り上げます。


映画「サラエヴォの銃声」―風刺と暗喩たっぷりに混沌たる世界の現実を重層的に描いて―

2017-04-12 12:00:00 | 映画


 第一次世界大戦の引き金となった『サラエヴォ事件』を主題にした、群像劇である。
 『サラエヴォ事件』とは、1914年、オーストリア=ハンガリー二重帝国の皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻が、セルビア系青年に暗殺された事件のことだ。

 この事件の百周年記念として当地で上演された戯曲を、「汚れたミルク  あるセールスマンの告発」(2014年)ダニス・タノヴィッチ監督が、老舗ホテルを舞台に多彩な人間模様とともに緊迫感たっぷりに描き出した。
 100年前のサラエヴォと現代が交錯する、社会派サスペンスだ。



サラエヴォにあるホテル・ヨーロッパ…。
ホテルは記念式典の準備に追われていたが、極度の経営難に陥っていた。
屋上ではテレビの特別番組が進行しており、支配人オメル(イズディン・バイロヴィッチ)は銀行との交渉に余念がなく、従業員たちは賃金未払を理由にストを予定している。

フロントで働くラミヤ(スネジャナ・ヴィドヴィッチ)は、支配人の信頼が厚く何事もこなす女性だが、リネン室で働く母親ハティージャ(ファケタ・サリフベゴヴィッチーアヴダギッチのスト参加が心配だった。
オメルは地下のカジノを経営するヤクザを使って、ストを中止させようとする。
そんな中、VIPのフランス人ジャック(ジャック・ウェバー)が到着するが、その部屋の様子を警備員が監視する。
テレビ番組の取材が行われている屋上に、100年前の暗殺犯と同姓同名の青年が現われ、女性ジャーナリストと論争を始める。
人々の思惑が絡み合い、次第に狂い出す運命の歯車・・・、高まる緊張は一発の銃声によって破られる。

屋上では知識人が歴史を語り、地下では闇の勢力が暗躍する。
物語は、ホテル内に集う人々の、錯綜する利害や思いを交錯させながら展開する。
ラミヤが颯爽と歩き回る姿を、カメラが滑るように追っていく長回し撮影は、人物と空間をつなぎつつ思いもよらぬ緊張感を生み出している。
100年前の『サラエヴォ事件』背景に、内戦後のボスニア・ヘルツェゴビナの現代社会を縮図として描き出している。
ドラマに時代精神の鼓動が感じられる。
緻密な構成に抜かりはなく、随所に映画的な工夫を張りめぐらせ、カメラが追いかけるラミヤの後ろ姿は、コツコツとせわしないハイヒールの音までも緊迫感を醸し出している。

この映画では、ホテルに集まる富裕層の客ばかりでなく、ホテルで働く人々の姿も捉えており、なかでも働く人にしか見えない内部の様子と、おもての表情を描きとり、登場人物たちは誰もが不機嫌な顔をしている。
外観の立派なホテルだが、内部はボロボロの有様で、働いている人たちに希望の灯はともらない。
それは、あたかも乾き切ったヨーロッパを象徴するかのようで、ひいては世界の運命を暗示するもの悲しい現実を、いやでも眺めていることになる。
フランス=ボスニア・ヘルツェゴビナ合作映画「サラエヴォの銃声」は、国家や民族を超えたヨーロッパの不毛を描きながら、なかなか含蓄に富んだ作品といえそうだ。
大胆にして巧妙な転調を仕掛ける演出も冴えている。
ホテル内を動き回る流麗なカメラワークは、緊張感の途切れない心理描写を映し出していて、特筆ものだ。
       [JULIENの評価・・・★★★★☆] (★五つが最高点
次回はフランス・ベルギー合作映画「午後8時の訪問者」を取り上げます。


文学散歩「生誕150年 正岡子規展ー病牀六尺の宇宙」―神奈川近代文学館にて―

2017-04-09 17:00:00 | 日々彷徨


 日本の春たけなわなれど・・・。
 満開の桜が、花散らしの雨と風に泣いている。

 生誕150年を迎える、近代俳句の祖といわれる、俳人で歌人の正岡子規特別展神奈川近代文学館で開催されている。
 春の文学散歩である。
 正岡子規は、近代日本の黎明期に新しい文学の改革を目ざし、そのわずか35年の生涯において、俳句、短歌はもちろん書画まで、多岐にわたるジャンルで新時代の表現を追求した、稀有な才能の人である。

 「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」
 この句を知らない人はいないだろう。
 正岡子規(本名・常規)は、結核性の脊椎カリエスに苦しみながら、風景や心情を平明な言葉で伝える俳句や短歌を多く残した。
 ときに病に苦しむ自らを客観的に見つめ、ユーモアさえ交えて・・・。
 一時は政治家を志し、小説にも挑戦したが、そちらの方はかなわなかったようだ。
 病床での子規の口述筆記は、口語体の平明な文章を生むきっかけともなり、俳句の大衆化の流れを作ったといわれる。
 
 特別展は、第1部「明治の青年・子規」、第2部「子規庵からー新しい言葉の創造」、第3部「病牀六尺の宇宙」から成り、10代から最晩年にいたる草稿や書簡など330点の資料が展示されている。


今回、これまで正岡子規の全集に未収録だった書簡一通が見つかり、貴重な資料として展示されている。
故郷、松山に住む叔父の大原恒徳に宛てたもので、病苦との闘いを強いられ続けた日常や人柄の伝わる資料で、明治29年12月1日付、巻紙に毛筆で書かれている。
書簡では、東京の子規宅を大原が訪ねた際に、胃痛のためもてなすことのできなかったことをわび、さらに絣(着物)代を渡し忘れたことに触れ、後で送金する旨のことが書かれている。

子規は病床にあっても、天性の明るさを失わない性格だった。
当時、忌み嫌われていた結核という不治の病にもかかわらず、子規のもとには多くの人々が集い、誰もが元気をもらっていったという。
子規の左脚は曲がったまま伸びなかったので、根岸の指物師に作らせた座机は、立膝を入れる部分が切り抜かれている。
その現物も、彼の生前を偲ばせる。
そして、1902年(明治35年)8月19日に病状悪化で永眠する、その直前の8月18日に揮毫された「絶筆三句」は印象深い。
死を目前にして、なおゆとりさえ見せ、言葉にもユーモアが感じられるではないか。
 「をととひのへちまの水も取らざりき」
 「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」
 「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」   (絶筆三句)
正岡子規34歳、いかにも若すぎる晩年であった。

本展関連行事としては、4月15日(土)俳人・長谷川櫂氏「新しい子規」、5月20日(土)文芸評論家・三枝昂之氏「正岡子規ー文学という夢」などの講演、他にも朗読会、講座、ギャラリートーク(毎週金曜日)など多彩な催しが目白押しだ。
正岡子規の文学と生涯を振り返るとともに、親友夏目漱石をはじめとする多くの文学者たちとの交流も紹介されており、とにかく短い生涯ではあったが最期まで生きることを楽しんだ、人間子規の魅力に十分触れることのできる機会だ。
この特別展、4月25日(火)には一部展示替えが行われる予定で、5月21日(日)まで開催中だ。

次回はフランス、ボスニア・ヘルツェゴビナ合作映画「サラエヴォの銃声」を取り上げます。


映画「島々清しゃ(しまじまかいしゃ)」―沖縄の離島を舞台に自然と音楽によって紡がれる人間讃歌―

2017-04-05 16:00:00 | 映画


 沖縄・那覇市から40キロ離れた慶良間諸島を舞台に、音楽が人々の心をつなげていく物語だ。
 故・新藤兼人監督を祖父に持つ、新藤風監督前作「転がれ!たま子」(2005年)に次いで、11年ぶりに手がけた作品だ。
 劇映画としては、彼女の3作目にあたる。

 人と人が家族を作り、社会が形成される。
 その過程で生じる調和や不調和を、自然や音や音楽を通じて表現していこうという試みが見られる。
 時間がゆったりと流れる中で、いかにも手触り感いっぱいのトーンが、映画を優しい再生物語に仕上げている。



沖縄・慶良間諸島・・・。
小学生うみ(伊東蒼)は耳が良すぎて、少しでも音のズレを感じると頭痛がしてくるのだったが、三線(さんしん)の名手であるおじい(金城実)と二人で暮らしていた。
だが耳のせいで変わり者扱いされ、うみは那覇に住む母(山田真歩)や友達との関係に悩んでいた。

ある夏の日、島でコンサートが開催されることになって、都会からヴァイオリニストの祐子(安藤サクラ)がやって来る。
うみは祐子と出会い、フルートを練習し、吹奏楽部に参加することで、少しずつ頑なに閉ざされていた自分を解放していく。
祐子もまた、島の元漁師でサックス奏者の真栄田(渋川清彦)やおじい三線に触れ、都会で荒んでいた心を取り戻していくのだった。
祐子の訪れがうみに変化をもたらし、さらには島の人たちもそれぞれの悩みや問題を乗り越えていく。

清らかで美しい島々の自然と音楽が、人と人をつなぎ、自分に向き合う力を与えてくれる。
全体として大きなドラマは起きないが、それぞれの場面で登場人物たちが交わす会話や行動がもとで、静かなさざ波が立つ。
そして、みんなの心境が微妙に変化していく、ひと夏の物語である。
誰よりも変わっていくのは少女うみで、はじめは傷つきやすく周囲に固く心を閉ざしていたが、音楽によって少しずつ心を解放していくようになる。
うみ役の子役の伊東蒼(あおい)は、素直で情感豊かに暗示に富んだ演技を披露している。

過剰な表現もないし、慶良間の風物と現地の人々の中に、俳優陣も上手く溶け込んで、ちょっぴり味わい深い作品となった。
新藤風監督は、うみの境遇に自身の親子三代のそれぞれの思いを重ねたのだ。
楽器を一から猛特訓した子供たちの演奏も、作品の見どころのひとつとなっている。

タイトルの「島々清しゃ」は、沖縄出身の普久原恒勇の楽曲で、沖縄に住む人たちが自然に感謝しながら日々を営んでいる様子が歌われる。
“清しゃ”とは“美しい”という意味だそうだ。
新藤風監督のこの映画「島々清しゃ(しまじまかいしゃ)」は、商業ベースに乗るような作品ではなく、また大人向けとしては少し弱いかも知れない。
ただ、作品を通じてじんわりと伝わってくる感じは捨てがたいものがある。
        [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点


映画「未来よ こんにちは」―孤独と老いを受け入れて自分の頭で考える人間となるには―

2017-04-02 12:00:01 | 映画

 桜が咲き始めた。いよいよ春本番である。
 春休みとあって、街には学生や子供たちが溢れている。
 映画館も満員御礼だ。
 さて今日の作品は・・・。

 女はしなやかに、強く、前を向いて進む。
 人は、やがて老いや死を迎える。それをどう受け止めたらよいか。
 映画や哲学を通して考える。
 聡明に生きる女性の姿から、勇気がもらえそうな作品だ。
 
 処女長編
「すべてが許される」 (2007年)、「あの夏の子供たち」 (2009年)、「グッバイ・ファーストラブ2011年)などで、数々の映画賞に輝き、フランス映画界の新たな才能として高い評価を確立した、1981年生まれの女性監督ミア・ハンセン=ラブの清々しい新作である。
 孤独と老いというテーマを、女性の視線で細やかにかつ丁寧に描いている。
 ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞作品だ。
 映画は序盤から大きなアクシデントはなく、静かに淡々と進む・・・。


パリの高校で哲学を教えるナタリー(イザベル・ユペール)は、同じ哲学教師のハインツ(アンドレ・マルコン)と二人の子供との4人家族だ。
その子供たちも独立し、ナタリーは、市内でひとりで暮らす認知症の年老いた母イヴェット(エディット・スコブ)の介護に追われていた。
ところが、ヴァカンスシーズンを前にして、結婚25年目になる夫から突然「好きな人ができた」といわれ、家を出て行ってしまったのだ。

母が他界し、仕事も時代の波に乗りきれず、ふと気がつけばナタリーはおひとり様だった。
しかし、身の上に次々と起こる想定外の出来事にうろたえても、彼女は止まることをしなかった。
心傷ついたナタリーは、才能豊かな教え子のファビアン(ロマン・コリンカ)が、アナキストたちと暮らすアルプスに近い山荘をひとり訪れるのだったが・・・。

ナタリーに降りかかる母の病気、夫の突然の裏切り、仕事の行き詰まり、教え子から突き付けられる残酷な時の流れ・・・、年を重ね、積み重ねてきた彼女の‘思考’さえも時代と合わなくなってきた。
教え子ファビアンから説諭され、ひとり涙にくれるナタリーの表情が印象的だ。
人生の終わりに近づく中年女性を主人公にしたこのドラマは、誰の人生にもありうる出来事を、説得力豊かに描き出している。
丁寧な演出、物語の運びにもそつなく、女性監督ながらの成熟を感じさせる。

ミア・ハンセン=ラブ監督は、まだ30代半ばにして本作「未来よ こんにちは」は長編5作目になる。
老いや孤独をしなやかに受け止めながらも、絶えず忙しげに行動するヒロインを描きつつ、その姿はときに知的な皮肉の利いたジョークをまき、悲しくユーモラスで、自身を見失わずにいつも前を見ている。
パリの昼と夜を、せかせかとよくもまあ歩き回る。
ヴァカンスで訪れた、アルプスに連なる山々の季節の移り変わりや、ブルターニュの干潟にふりそそぐ陽光、バスの車窓を流れる美しい街並みを背景に、流れゆくもの、揺れ動くものすべてに生命の動きを感じさせる。

主人公に扮したイザベル・ユペールの存在が大きく、名演に拍手だ。
フランスでは、ジャンヌ・モローカトリーヌ・ドヌーヴに次いで、いまや映画界きっての存在といってもいいのではないか。
ドラマの中、若い男性への心のときめきをふと覗かせるところもあるが、あまやかな展開は期待できない。
何も若々しく見た目を保つだけが、美しい年の重ね方でなないということを、この映画は教えてくれる。
未来はきっと微笑みかけてくる。
明るい未来を予測するようなラストシーンもいいし、美しい自然と音楽の織り成すヒロインの心模様を描いて、いかにも懐の深さを感じさせるフランス映画だ。
よい作品だが、上映館では平日でも客席は満席で、補助椅子が用意されるなどの大入り人気には、まさかこれほどとは・・・。
       [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回は日本映画「島々清しゃ(しまじまかいしゃ)を取り上げます。