徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「エッセンシャル・キリング」―人間が生き延びるということはいかなることか―

2011-08-31 11:33:00 | 映画


     逃げる。逃げる。逃げる。
     ひたすら逃げる。
     極限状況におかれた人間の、自然との格闘劇だ。

     「アンナと過ごした4日間」の、イエジー・スコリモフスキ監督の作品である。
     とにかく、上映時間83分全編が、逃げる男を描いた怒涛のアクションドラマなのだ。
     セリフは一切なく、映像だけが、魂の救済を願う人間の苦悩を描き切る。
 
アフガニスタンの、荒涼とした大地・・・。
上空を米軍のヘリコプターが飛行し、地上ではアメリカ兵が偵察活動を行っている。
ムハムンド(ヴィンセント・ギャロ)は、ひとり洞窟の陰に潜んでいた。
彼は、手にしたバズーカでアメリカ兵を吹き飛ばし、なおも逃げる。
ヘリコプターが彼を追い、攻撃を受けて彼は倒れる。
爆音で一時的に聴力を失くし、彼は米軍の捕虜となった。

ムハムンドは、収容所で激しい拷問を受け、深夜、別の場所へ移送される車が事故を起こし、その混乱に乗じてさらに逃亡を図る。
彼は民間人を殺し、車を奪い、手錠をはずして、雪に閉ざされた深い森へ逃げ込んだ。
上空にはヘリが旋回し、追手が迫って来ていた。

ムハムンドは、蟻や木の実や幹を食べて飢えをしのぎ、女を襲い母乳を吸って、やみくもに逃げ続ける。
やがて、彼は森の中で一軒の家を見つける。
家には女が一人住んでいた。
その家の入口で、深い傷を負っていたムハムンドを女が見つけ、家に入れて介抱するのだったが・・・。


これは、見方によっては、映画芸術の最前線をいくような作品ではないか。
大げさな言い方をすれば、度肝を抜くような衝撃作だ。
ヴェネチア国際映画祭で、審査員特別賞と最優秀男優賞に輝いた。
極限まで削ぎ落としたような大胆な構成と、今だかつて見たことのないサバイバルアクションの連続で、ただただ圧倒される。

米軍に追われるアラブ人兵士を演じる、ヴィンセント・ギャロは存在感たっぷりで、彼の一人芝居といってもいい。
83分ただ逃げるだけの男を、顔面の筋肉と鍛え上げた肉体のみで、表現しているのだ。
あとは、彼を追う者たちと、壮大な極地の風景が実に絵画的で、この映像表現は、空撮はもちろんダイナミックで美しい。

逃亡中に大怪我をした、主人公を介抱する女性マーガレット(エマニュエル・セニエ)の、わずかなシーンが救いである。
ポーランド・ノルウェー・アイルランド・ハンガリー合作映画「エッセンシャル・キリング」は、ひとりの男の逃走劇を軸にスリリングな展開を見せるが、極めてシンプルな物語だ。
儚い恋も、淡いロマンスもない。
ハッとするようなどんでん返しもない。
よくあるような過度な演出もなく、思わせぶりな展開も一切排除している。
主人公の男から湧き出る、あふれるばかりの勇猛な野生と本能だけが凝縮され、人間は、ひたすら野生動物のように生きることに集中する。
剥き出しの人間を描いて、あまりある作品だ。




映画「ミラル」―人間の愛と希望について共生の未来を求めて―

2011-08-28 02:30:29 | 映画


     イスラエル・パレスチナ紛争の中、3千人もの孤児を育てた女性教師と、平和への祈りを胸に、世界的なジャーナリストとして羽ば
     たいた少女の実話である。

     愛を伝えること、自由を伝えること、そして希望をつないでいくこと・・・。
     あくまでも、“人間”に焦点を絞って、紛争と真実に迫ろうとする。
     ジュリアン・シュナーベル監督の、フランス・イスラエル・イタリア・インド合作映画だ。


 
1948年、イスラエル建国時のエルサレム・・・。
その路上に、ユダヤ民族組織によって親を殺された、55人の子どもたちの痛ましい姿があった。
のちに、そうした孤児たちのために、生涯をささげることになるヒンドゥ(ヒアム・アッバス)は、自身の資産で、やがて、3000人を超える孤児たちのホーム「ダール・エッティフル」(子供の家)を創設する。

それから30年後の1978年、母親を亡くした7歳の少女ミラルが、この「ダール・エッティフル」の門をくぐった。
やがて、美しく芯の強い17歳に成長したミラル(フリーダ・ピント)は、子どもたちに勉強を教えるために訪れた難民キャンプで、イスラエル軍に家屋が破壊される衝撃的な光景を目の当たりにする。
さらに、若き活動家ハーニ(オマー・メトワリー)の掲げる理想に共感した彼女は、急速に政治への関心を深め、イスラエルへの敵対心を抱いていくのだった。

しかしそれは、恩師ヒンドゥや父親ジャマール(アレクサンダー・シディング)の願いを裏切ることとなった。
暴力には、暴力で対抗すべきか。
それとも、教育によって平和をたぐり寄せようとする、ヒンドゥの信念を受け継ぐべきか。
ミラルは、あまりにも重い選択を迫られることになるのだった。

パレスチナ出身の作家ルーラ・ジプリールの自伝的原作を、ユダヤ系アメリカ人のジュリアン・シュナーベル監督が映画化した。
この二人は、敵対する陣営の人間だったが、このコラボレーションをどう見たらいいか。
少女ミラルが、東エルサレムで生き成長していく様を、シュナーベル監督は、繊細な一枚一枚の花弁を扱うように縒り合せていく。
ミラル役に選ばれたのは、アカデミー賞8部門受賞作「スラムドック$ミリオネア」でデビューして注目を集めた、フリーダ・ピントで、眩い生命力を体現し、希望の象徴となる少女の葛藤と成長を、力強く演じている。

この映画「ミラル」には、愛と教育こそが、真の平和への道を切り開くというメッセージが示されている。
作品は、「オスロ合意」が成立して、和平の希望の灯がともったところで終わっているが、イスラエルとパレスチナの対立はいまも消えていない。
互いの憎しみの対立が無くなる日は、来るのだろうか。
この物語には、作り手たちの自由と、希望と、平和への切なる願いが込められれている。
タイトルの“ミラル”とは、誰もが目にする路傍に咲く赤い花のことで、無限の可能性を秘めたひとりの少女の、過酷な現実に翻弄されながらも逞しく生き、輝かしい未来へ羽ばたく姿が、未来への希望を暗示している。
 (この作品の公開劇場情報は、映画「ミラル」公式サイトシュナーベル監督作品からアクセスできます。)


映画「サンザシの樹の下で」―醜い時代の神話のような悲恋物語―

2011-08-24 02:03:46 | 映画


     中国のチャン・イーモウ監督というと、「LOVERS」「王家の紋章」「初恋のきた道」など、幅広い作風を持った巨匠だ。
     これは、普遍的な愛の原点に立ち返って、究極の純愛を描いた彼の最新作である。

     
     作品は、文化大革命に翻弄された悲恋の物語だ。
     不条理な運命に虐げられた者たちの物語は、それが純粋であればあるほど、はかなく美しい。
     あえて言えば、物語は陳腐かもしれない。でもそれでいて、新鮮さがある。
     音楽もほとんどなく、画面の彩度まで落としている。
     取れたての女優の魅力が、それを救っている。









    
文化大革命下の中国・・・。
中国共産党の指導で、もう民が上位、学生は下位のおかれていた。
再教育という名の国家政策のため、町の高校に通うジンチュウ(チョウ・ドンユィ)は、農村へ実習に派遣され、そこで誠実な青年スン(ショーン・ドウ)と出会った。
ジンチュウは、同じ家に住むスンと恋に落ちる。

惹かれあう二人にとって、迫害を受ける両親を持つジンチュウには、それは決して許されぬ恋であった。
手が触れるだけでドキドキする。
自分以外の異性の存在を、はらはらしながら疑う。ささやかでも嫉妬の心が芽生える。
周りの目をはばかって育ちつつあった二人の仲は、やがてジンチュウの母の知るところとなり、二人の仲は裂かれてしまう。
親の強硬な反対に遭って、控えめだった女性ジンチュウも積極的に目覚めていく・・・。
青春前期、、互いを想い待ち続けることを誓った二人に、運命はさらに過酷な試練をもたらすのだった。

抑圧された時代のままならない恋であった。
そこには、ためらい、恥じらい、純粋な心の美しさがにじみ、こんなに近くにありながら、恋の勝利者になりえなかった若者たちのドラマは、はかなく切ない。
優しい瞳の穏やかな輝き、表情いっぱいの笑み・・・、チャン・イーモウ監督は、約7000人の中からこのドラマのヒロインを選んだ。
そのピュアな感じに、18歳の少女のもつ魅力を見る。
とっても新鮮で、いい。

物語の中、農家の実習の合間にジンチュウはスンと遠出をして、帰りが遅くなったとき、行きずりの農家であり合わせの食事を用意してもらうのだが、男の人と二人っきりで食事をするなんて、全く初めてのことなのだった。
夜の帰り道、手をつなぐときさえためらいがちな、二人の心の動きなども、心にくい演出だ。

チャン・イーモウ監督中国映画「サンザシの樹の下で」は、シンプルだがどこか力強さを秘めている。
「LOVERS」(2002年)、「王妃の紋章」(2006年)などは、これまでのイメージを打ち破る、エンターテインメントな愉しい魅力的な作品だったが、それとはまた異なる今回の映画の作風は、あわあわとした恋物語を綴っていて、この監督の芸域の広さをうかがわせる。
中国の農村と歴史のかけ合わせのようでいて、ここにも新しい挑戦が見える。
ほとんど実績のない男女優を配して、この文革時代に生きた若者を描いた作品としても興味深い。
作品に派手さはなく、質素なつくりだ。
激しい性愛を描いているわけではなく、上質な少女小説のような味わいは捨てがたいものだ。

コン・リー(王妃の紋章)チャン・ツィイー(LOVERS)らを発掘したチャン・イーモウ監督は、中国版「世界の中心で、愛を叫ぶ」に例えられて300万部を売り上げたあげたという、実話にもとずく原作に感動し、自ら映画化した。
主役の二人、チョウ・ドンユィショーン・ドウは、この一作でスターダムに乗り、チャン・イーモウ監督の<新たな宝石>の誕生で、これからの中国映画での活躍に期待がかかる。
究極の純愛をうたったこの文芸作品が、日本人にはどう映るだろうか。


映画「大鹿村騒動記」―笑って泣いてやがておかしき喜劇かな―

2011-08-20 07:30:00 | 映画


     涙も忘れて心も躍る、小さな村の晴れ舞台で・・・。
     先月亡くなった個性派俳優、原田芳雄さんの遺作である。
     この映画の企画は、その原田さんが阪本順治監督に持ちかけたところからはじまった。

     日本映画が久しく忘れていた、ややドタバタでも、滋味深く、そこは大人の喜劇だ。
     素直に面白く、元気の出る作品だ。
     この手のドラマとしては、高い評価が与えられてもいいのではないか。






   
雄大な南アルプスの麓にある、長野県の大滝村・・・。
この「日本で最も美しい村」で、300余年以上もの歴史を持つ地芝居“大鹿歌舞伎”を題材に、悲喜こもごもの物語が軽妙なタッチで綴られていく。

田んぼ耕して、野菜作って、鹿撃って、でもって歌舞伎やってきたんだ。
何もないって言ったって、村には歌舞伎があるんだよ・・・。
伝統歌舞伎の公演を、五日後に控えた折も折、村の花形役者である、シカ料理店の店主・風祭善(原田芳雄)のもとに、18年前に駆け落ちして村を離れていた、妻の貴子(大楠道代)と幼なじみの治(岸部一徳)が、突然帰って来たのだ。
善は、ひとたび舞台に立てば、村人の喝采を一身に浴びる存在だ。
だのに、実生活では女房に逃げられ、哀れ独り身を囲っていたのだ。
そこへ、こともあろうに降ってわいたような椿事に、狭い小さな村は、ちょっとした大騒ぎとなったから大変だ。
もうとうに、歌舞伎の稽古は始まっていた。

久しぶりの、二人の‘帰還’であった。
貴子と治の姿に唖然とする善に、「ごめん、どうしようもなくて・・・返すよ」と言って、ひたすら詫びる治だったが・・・。
おまけに、貴子は脳の疾患で記憶を失くしつつあり、治からそんな妻をいきなり返すからといわれて、善は途方に暮れる。
強がりながらも、心は千々に乱れ、一時は芝居を投げ出してしまう始末だった。
仲間や村人たちが固唾を呑んで見守る中、公演の日は刻々と近づいていた。

今年の演目は、『六千両後日文章 重忠館の段』といい、大鹿歌舞伎きっての代表作で、平家滅亡の後日譚を描いたスペクタクルだ。
源頼朝を相手に大暴れする“敗戦のヒーロー”景清こそが、善のずっと演じてきた十八番なのだった。
・・・気まずい表情で、かつての親友同士は酒を酌み交わし、翌日去っていこうとする治に、善は「歌舞伎、見ていかないのか」と声をかけるのであった。
して、いよいよ明日が本番という日に、最大風速30メートルの暴風雨が村を襲って・・・。

美しい日本の山村で、「芸能の原点」を守ってきた人たちの、ほろ苦くもおかしみのある群像劇だ。
名優原田芳雄をして、「70代を迎えてどうしても演っておきたかった」と言わしめた人間ドラマを、錚々たるキャスト、スタッフを得て完成させた。
阪本順治監督は、多くの作品を通して、原田芳雄に熱い眼差しを向けてきた人だ。
そこへ、大楠道代、佐藤浩市、松たか子、瑛太、石橋蓮司、三国連太郎、でんでんといった実力派が駆けつけ、遊び心たっぷりのドラマを作り上げた。
そうして、ままならぬ事情を抱えた人生を生きてきた人々の、浮世の憂さを吹き飛ばす、晴れの舞台が出来上がる。
これが、大人の喜劇というものだろう。

シナリオ(阪本順治、荒井晴彦)もひねりが効いていて、さすがによく出来ている。
歌舞伎を軸にしながら、これまで営まれてきた村の暮らし、といってもかなり限界集落に近く、どこか、日本の高齢化社会の縮図と見て取れぬこともない。
しかし、シーンの間々に村の風景が入るのだが、これも綺麗な紅葉だったりで、作品にはそれなりにリズムも詩情もある。
撮影は、比較的長回しが多いようで、豪雨のシーンなどリアルで迫力十分だ。

出演者たちは、現場を終わって急ぎ足で宿舎に帰ると、毎晩その旅館の部屋に集まって飲みながらワイワイやり、その中から、役への関係性とかいろいろなものが出来上がっていったのだそうだ。
撮影ロケの2週間、この映画づくりそのものが、俳優陣の「騒動記」だったと、阪本監督も笑いながら語っている。

映画「大鹿村騒動記」は、一筋縄ではいかない達者な俳優陣もさることながら、よく練られた脚本とともに、こうした作品をここまでまとめあげた、阪本順治監督の手腕も大したものだ。
人間の匂いや生なものを見ようとするの才能に注目だし、今後の作品からも目が離せない。

ドラマの中、友達の女房を奪って、18年もして突然戻って来て、昔の亭主に向かって「返す」というたった一言のセリフ(岸部一徳)にも、何度もNGが出て、なかなか難しかったらしい。
このシーンのアイデア(荒井晴彦)も奇抜だが、面白い場面だ。
ドラマのも面白さも上質のものだし、ユーモアいっぱいで、わざとらしさを感じさせていないのがいい。
それでいて、日本の原風景と、日本の姿をちゃんと描いている。
物語は、高齢化、過疎、近代化の影、友情、恋愛、自然災害、はたまた前頭葉の障害の病気、性同一障害まで実に多彩なエピソードを随所に散りばめている。
それだから、一筋縄ではいかない。それでいいのだ。

大事な歌舞伎のシーンでは、俳優がいくらプロだといっても、所作も発声も大変だったと思うのだ。
このシーンには、エキストラ800人が集まったというが、彼らは大鹿歌舞伎のプロだから、見慣れている人たちにはかなりの違和感もあったようだ。
監督からではなく、村人からダメ押しのクレームがあったというほどだ。
その土地独特のものだから、大変さがわかろうというものだ。
凝った回り舞台もあって、こちらもなかなかだ。

ドラマの登場人物は、それぞれが魅力的な「人間」で、もしこの映画の続編ができたらさらに面白いかもしれない。
ふと、そう思わせるラストである。
あるテレビレポーターの女性は、芳雄さんがよほどお気に入りだったのか、この映画を3度も見てきたそうだ。
生前、「人間」が好きで好きでならないと言っていた原田芳雄さん、お疲れ様でした。
長野県大鹿村の名誉村民として、いつまでもその名は語り継がれることだろう。 合掌。


映画「ツリー・オブ・ライフ」―家族を通して描かれる普遍的な生命の物語―

2011-08-17 10:00:00 | 映画


     人間が生きるということは、どういうことなのか。
     生命とは何か。
     壮大な宇宙観の中で、生命の連鎖ということを考えさせる。
     神々しさを感じさせる映像、恍惚へ誘われる魂のイノセンス・・・。

      カンヌ国際映画祭パルムドール[最高賞]受賞作品だ。
     伝説の映像作家テレンス・マリック監督が、独創性豊かに、圧倒的な力強さをもって、壮大な生命のドラマを演出する。
     宇宙や大自然の、幻想的な映像をふんだんに織り交ぜて・・・。

     そしてこれは、さらに人生や生命の深くまで思いをはせた作品だ。
     家族という根源的な絆を描きながら、人間という存在、宗教哲学的な、贖罪と受容といった大きな問題にまで立ち入って、それはまさ
     に人が記憶をたどる‘宇宙の旅’である。


1950年代半ば、アメリカ南部の中央テキサスの小さな田舎町・・・。
幸せな結婚生活を送るオブライエン夫妻のもとに、新たな生命が誕生した。
その無垢な生命は、父と母の愛に育まれながら成長し、やがて弟が生まれ、家族というものを作った。
そうして、いつしかオブライエン一家は、長男ジャック(ハンター・マクラケン)二男R.L(ララミー・エップラー)三男スティーヴ(タイ・シェリダン)の3人兄弟となった。

それから数十年後の現代・・・。
仕事に成功し、都会のモダンな豪邸に暮らすジャック(ショーン・ペン)は、人生の岐路に立ち、遠い少年時代を回想する。
この世では、力こそが全てだと信じる厳格な父親(ブランド・ピット)と、純粋すぎるほどの愛に満ちた母親(ジェスカ・チャスティン)との狭間で葛藤し、次第に父への反感を募らせていった無垢な日々・・・。

母なる地球・・・、その大いなる自然に抱かれながら、生命は、度重なる誕生と絶滅、進化を遂げてきた・・・。

「利己心を持たず、神の恩寵に生きる人に不幸は訪れない」と信じる母は、寛容さと深い愛情で子供たちを包む。
しかし、3人に自我が芽生えてくると、厳格な父は、まるでそうすることが自分の役割であるかのように、息子たちに厳しく当たるようになった。
そんな葛藤の日々の中での、弟R.Lの死・・・。
そして、長男ジャックの心には、次第に父に対する黒い反抗心が芽生えていったのだ。
様々な確執や死別のすべてを乗り越えて、なおもつながり続ける家族の絆に、ジャックは、過去から未来へと受け継がれてきた生命の連鎖を見出すのだった。

テレンス・マリック監督アメリカ映画「ツリー・オブ・ライフ」には、家族とは、人間とは、生命とは・・・、といった根源的な問いがあり、壮大なスケールと溢れるようなイマジネーションが、それに答えを出していくのだ。
人間の成長とは、全ては時空の中でのほんの一瞬に過ぎず、その一瞬一瞬がつながっていくのだ。
ドラマの脚本が豊饒すぎて、さらに過去から現在、そして未来へ、やがて荒涼とした来世までをも描くあまり、実に強欲なドラマだ。
宇宙と人間という、とてつもなく大きな主題を扱っているので、戸惑いもある。
映像は夢のようであり、現実は刃のようでもある。
主人公が遠い少年時代を回想する言葉、「父さん、あの頃の僕はあなたが嫌いだった・・・」は、よく効いているセリフだ。

誰もが、思うのではないだろうか。
主人公が最後にたどり着く海辺での、亡き弟やかつて憎んだ父との‘和解’は、主人公の悟りなのだろうか。
このあたりの哲学的(?)な展開は、そのまま受けいれるにはためらいがある。
暗喩と寓意、抽象と具象の積み重ねの中で、地上の人間の骨肉の確執を見つめる一方、独特の宇宙観や輪廻転生にまで踏み込んで描かれる映像技術は、もうアートの世界だ。
しかし、マリック監督の執拗なまでのこだわりは、あまりにも作りすぎではないか。
パルムドールには敬意を表しながらも、どうしても気になって仕方がない。

それはさておいても、この映画を観ていると、思わず自分自身の心底にある、それこそ過ぎ去った日々の記憶を掘り起こされるようだ。
この映画は、そういう映画である。


映画「モールス」―切なさと怖ろしさの交錯する初恋物語―

2011-08-15 11:15:00 | 映画


     戦慄のスリラーといったら、少し大げさかもしれない。
     表向きは、少年少女の初恋物語だ。
     しかしこのドラマは、ぞくぞくするような恐さの迫ってくる作品だ。

     ・・・雪の町で、不可思議な連続殺人事件が頻発する。
     マット・リーヴス監督のこのアメリカ映画は、スウェーデン映画「僕のエリ」のハリウッド版ともいえるが、ハリウッドならではの迫
     力と映像のマジックが、新たな恐怖とスリルを増幅させる。
     残暑厳しい中で観る、雪の町を舞台にした、それは血も凍るような物語だ。





 
雪に閉ざされた町・・・。
オーウェン(コディ・スミット=マクフィー)は、母親と二人暮らし、学校ではいつもいじめられている孤独な少年だ。
ある日、隣りに、アビー(クロエ・グレース・モレッツ)という少女が引っ越してきた。
時々、会うようになったときだった。
 「私のこと好き?たとえ普通の女の子じゃなくても?」
孤独な12歳の少年オーウェンに、謎の少女は言い寄った。
そこから、物語は本当の展開を見せる。

アビーという少女は、雪の上でも裸足で歩き、自分の誕生日も知らない。
何度か会ううちに、孤独を抱える二人は徐々に惹かれ、壁越しにモールス信号を送り合い、互いの絆を深めていく。
だが、オーウェンはやがて、アビーの隠された、哀しくも怖ろしい秘密を知ることになる。

時を同じくして、町では、残酷な連続猟奇殺人事件が起こりはじめた。
生きたまま首を裂かれた少年、トンネルで惨殺された男性・・・、事件を捜査する刑事は、真相を追い続けるうちに、二人の住む団地へとたどり着く。
そして、怖ろしい事件のすべてが明らかになったとき、オーウェンは衝撃の決断を下すのだった。

身の毛もよだつような、残酷な殺人事件と、幼い二人のピュアな初恋を描く、イノセントスリラーだ。
ドラマは、胸を締めつけるような切ない想いを伝えながら、衝撃のラストへ疾走する。
永遠の少女の孤独と、大人になってしまう少年の悲しみが、観客をひきつける。
ただし、ドラマの性格上、血の匂いだけは消し去りようがない。

マット・リーヴス監督
アメリカ映画「モーリス」は、スリラーとしては、エモーショナルな要素たっぷりの作品だ。
少年少女の、思春期の心の痛みや不安を如実に表現しながら、憂鬱と哀切の恐怖が全編をおおい、ラストの陽が昇る朝のシーンに再生の象徴を見るようだ。
テーマとしては、新しいものではない。
主人公二人の、両極端の感情を描いていて、極めて残酷でありながら、エレガントでパワフルなスリラーだが・・・。


映画「あぜ道のダンディ」―しがない男たちのしがない生き方―

2011-08-13 10:32:00 | 映画


     この映画によると、ダンディということは、ダサくて不器用な男のことを言うらしい。
     純粋だが、真直ぐな、優しさはあるけれど、やっぱり頑固は頑固な・・・。
     そんな父親の生き様を描いた、マンガ映画のような作品だ。

     新鋭石井裕也監督は、快作「川の底からこんにちは」で、史上最年少(27歳)で2010年度のブルーリボン賞を受賞し、いま内外
     で注目されている人だが、あの作品と比べると、妙に気張りすぎていて、この作品のユルさがとても気になる。
     普通の五十歳のお父さんを、いとも丁寧に(?)描いているのはともかくとして、残念ながらこみ上げる感動は希薄だ。








           
北関東の田舎町・・・。
宮田淳一と真田は、かつてともに13歳の少年であった。
自転車であぜ道を走り、時には酔いつぶれ、「カッコいい男になりたい」と、涙までこぼしたりする。
何ともサエない、毎日を送っていた。

その宮田(三石研)と真田(田口トモロヲ)のふたりは、ともに50歳になった。
宮田は早くに妻を亡くし、ふたりの子どもと暮らしている。
子どもたちとの会話は、いつだってかみ合わない。言い争ってばかりいる。
そんな彼の楽しみといえば、仕事帰りに、居酒屋で真田とひっかけるビール・・・。

ある日、宮田が自分をガンと思い込む。
こんなことは真田にしか相談できないし、子どもたちにだって弱音は吐きたくない。
そうさ、俺は‘カッコいい’男なのだから・・・と。
大切な相手にこそ、自分の弱みを見せず、前に出ないで思いやる。
そんな一所懸命な男の姿は、カッコ悪く見えるが、実はカッコいいのだという妙な逆説・・・、だ。

確かに、男だが、父親だからとふんぞり返っていたのは、もう一時代前の話だ。
父親だ、先輩だといったって、それだけで尊敬してくれるような子供も先輩もいない。
だから、いまも生きにくさが身にしみてくる・・・、とでも言いたいのだろうか。

ドラマの中に、宮田が真田が居酒屋で飲む場面が、嫌というほど出てくる。
しがない二人にとって、息抜きの場所だからだ。
主人公は、いつもやたらとあたり散らし、大声でがなり立てている。
これって、いったい何なのだろうか。
執拗なまでに、やかましいセリフの連鎖・・・。
ひどく安直で、決して上手い演出とは思えない。

石井裕也監督は、生きている時代の空気を捉えるのが上手いはずだが、この映画「あぜ道のダンディ」は、しがない男たちを描きながら、作品そのものまで実にしがない作品にしてしまった。
噛み合おうとしない、やたらとうるさい一本調子のセリフ、この演出がいかにも安手の作り物に見えてしまって、不快だ。
もう少し、どうにかならなかったのだろうか。
1983年生まれの若き監督に、奮起を促したい。

話はそれるが、12日(金曜日)にNHK(BSプレミアム)で、たまたま新藤兼人監督の旧作「裸の島」(1960年のモノクロ作品を観た。
瀬戸内海の小さな島で、厳しい自然と闘いながら生きる親子の生活を、四季の移ろいの中に描いている。
出演は、在りし日の、若き乙羽信子殿山泰司だった。
モスクワ映画祭グランプリ受賞作品だ。
この映画で最も感心したのは、全編にわたって登場人物のセリフを一切排していることだ。
映像だけで、すぐれたドラマになっている。
幼い時にこの作品を観た、おぼろげな記憶がよみがえった。
すばらしい作品とは、こういう作品を言うのではないか。
新藤監督といえば、映画人生最後の傑作の呼び声高い、最新作「一枚のハガキ」 (東京国際映画祭審査員特別賞)が、いま公開中だ。


映画「BIUTIFUL ビューティフル」―限りある最期の時間を生きる証― 

2011-08-12 07:30:00 | 映画


     立秋を過ぎて、毎日酷暑の日々が続いている。
     そのうだるような暑さの中で、降るような蝉しぐれである。
     でも、どうしたことか、今年は例年ほどの大合唱ではない。

     ところで、人は、人生最後の日々に何をするだろうか。
     この映画は、「生きる」ことの意味を問う作品だ。
     ・・・終わりを知る者だけが見せる、人間の姿は力強く逞しい。

     「バベル」
カンヌ国際映画賞受賞した、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督による、スペイン・メキシコ合作映画だ。
     監督自ら「父に捧げる作品」と語るように、個人的な想いの詰まった作品といえる。



スペインの大都市、バルセロナ・・・。
この華や かな都市にも、陽の当たらない場所がある。
社会の片隅で、まともに仕事に就けない者、不法滞在のアジアやアフリカからの移民たち、酒やドラッグに溺れ、弱者が弱者から詐取す構図の中で、差別や貧困と対峙しながら、それでも、日一日を確かに生きている人たちがいる。

その大都市の片隅で生きる男ウスバル(ハビエル・バルデム)は、妻と別れ、二人の幼い子供たちと暮らしていた。
生活は、決して裕福とは言えず、日々の糧を得るためにあらゆる仕事を請け負い、時には非合法な仕事もいとわずに働いた。
しかしある日、ウスバルに絶望が襲ってきた。
彼にもたらされたのは、“末期がん”の宣告であった。

ウスバルに残された時間は、2ヵ月であった。
彼にとって、子供たちと暮らす時間は大切なものだった。
限られた生の中で、悔いを残さないように生きるには、どうすべきか。
付きまとう死への恐怖とひとり闘いながら、ウスバルは、薬物依存から更生しようとする妻マランブラ(マリセル・アルバレス)と再び向かい合い、わずかな時間の中で、もう一度、楽しかった頃の家族の生活を取り戻そうと決断するのだったが・・・。
家族に真実を告げることなく・・・。

「ノーカントリー」アカデミー賞受賞したハビエル・バルデムが、バルセロナの闇社会で、もがき苦しみながら生きようとする主人公を演じて、熱い。
彼の演技に圧倒される、作品である。
死を向かえた男が、父としてどう死んでいくかという物語だが、見どころは親子の関係にとどまらず、ウスバルの妻の不器用な生き方も切なく、そこには、お互いに愛しているのに一緒にいられないという、夫婦の側面も見える。
この関係は何とも不思議な関係で、ちょっと理解に苦しむところだが・・・。
そして、死にゆく父は、子供に何を残すことができるだろうか。
映画「BIUTIFUL ビューティフル」は、<死>というテーマに真正面から向き合った作品だが、悲劇の作品として完結させないところに、イニャリトゥ監の強いこだわりがあるようだ。

この作品に描かれるバルセロナは、私たち日本人の知らないバルセロナだ。
ここには、風光明媚な、あの地中海の都市の面影はない。
そこにあるのは、バルセロナのスラム街(?)というか、陰鬱で退廃しきったような、裏町の姿である。
そこに生きる男の凄まじい気迫が、全編にみなぎっている。
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督は、19歳の時に黒澤明の力作「生きる」を観て衝撃を受け、黒澤監督作品へのオマージュとして、劇中に「生きる」のワンシーンを引用した。
そう、忘れもしない、名優志村喬主演の日本映画「生きる」も、後世に残る黒澤明の名作だったが、・・・。
あくまでも「生きる」ことの意味にこだわる監督が、「この物語をわが父に捧げる」と語るこの「BIUTIFUL ビューティフル」は、彼の挑んだ新境地として、作品の評価も高い。

余談ながら、主人公を演じたハビエル・バルデムは、実生活ではペネロペ・クルスと結婚して一児をもうけて話題になったが、スペインの俳優としては夫婦揃ってアカデミー賞受賞しており、ハリウッドをはじめ世界にその名を知らしめ、いま最も脂の乗った役者ではないだろうか。
この映画、観て決して損のない上質な作品だ。


映画「トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン」―善と悪の死闘を3Dで―

2011-08-07 11:00:00 | 映画


     荒唐無稽、奇想天外にして、壮大な物語だ。
     善悪二派の金属生命体が、地球の征服と防衛をかけて、激しい戦いを繰り広げる。

          マイケル・ベイ監督の、驚異の映像作品だ。
     これまでにない迫力の3Dで、異次元の世界を満点の臨場感で描く。
     その騒々しさ、スリル、テンポといったら、良くも悪くも半端なものではない。








  
アポロ11号が月面着陸に成功したのは、1969年7月20日だった。
全世界が固唾をのんで見守った、この歴史的偉業の陰に、NASAとアメリカ政府がひた隠しにしていた事実があった。
月の裏側に、トランスフォーマー(金属生命体)たちの、地球来襲の足掛かりとなる物体が不時着していたのだった・・・。

・・・それから数年後の現代・・・。
過去に、悪のトランスフォーマーと、二度にわたって戦ったサム・ウィトウィッキー(シャイア・ラブーフ)は、新しい恋人カーリー(ロージー・ハンティントンホワイトリーを得て、ワシントンDCで平和で平凡な日々を送っていた。
そのサムの周囲で、再び悪夢が始まろうとしていた。

あの未知のトランスフォーマーの侵略者が、再び人類に牙をむいたのだ。
それはしかし、世界を闇に包みこむ、前兆に過ぎなかった。
40年前の事実を、政府が隠し続けたことから手遅れとなって、‘破壊’は世界の都市へと広がりつつあった。

しかし、人類に関与する側のトランスフォーマーたちの応戦もむなしく、新たな侵略者の圧倒的な破壊力に対してなすすべもなく、追い詰められていくのだった。
人類に残された希望は・・・?
闇と化した世界を相手に、人類の猛反撃が始まる・・・。

アメリカ映画「トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン」は、「トランスフォーマー」シリーズの第三弾ということで、そのほとんどのシーンを3Dカメラによるロケ撮影を行い、実写映像には最先端のVFX加工を施している。
まあ、いま大流行の3Dの進化をうかがわせるには、臨場感たっぷりの演出で、言ってみれば、これも大きな映像革命ということだろう。

映画の舞台は本格的に宇宙へと進出し、40年前の米ソの宇宙開発戦争も絡み、アメリカのシカゴやデトロイトでの想像を絶する市街戦といい、首都ワシントンDCでの激しいカーチェイスといい、人知の及ぶあらゆる特殊撮影を駆使した作品だ。
その3Dの映像効果は、十分過ぎるほどである。

目まぐるしいスピーディーな展開とスリル、全編にみなぎる凄まじい音響とともに、観るものは度肝を抜かれる。
登場人物も多彩だし、善悪入り乱れて、とどまるところを知らない戦いが延々と続き、トランスフォーマーたちの敵味方さえ、判断がつかないほどだ。
この映画に登場する、金属生命体(トランスフォーマー)という代物が、最大の主役だ。
それは、あらゆる機械に変形するという、宇宙からやってきた、巨大で怪奇な生命体だ。

主人公サムの恋人カーリー役の、ージー・ハンティントンホワイトリーはファッションモデル出身の新たなヒロインで、映画出演は初めてだそうだ。
映画の特殊撮影では、ヒールを履いて、爆発が続く街中や、次々と倒壊する高層ビル群の中を走り回るシーンが多く、切り傷や擦り傷がたえず、よくまあこんな大役をこなせたものだと、ほとほと感心させられる。
この夏の暑さも吹き飛んでしまいそうで、スクリーン全編がけたたましい騒擾と興奮の坩堝で、上映時間2時間45分はあっという間であった。
普段はあまり見ないジャンルの作品のせいか、エンドロールになったところで、どっと疲れが出た次第で・・・。
ああ、やれやれといった感じだ。(笑)


映画「バビロンの陽光」―荒廃の大地に果てぬ悲しみ―

2011-08-04 17:00:00 | 映画


        イラク・バクダッド
生まれの、モハメド・アルダラジー監督の作品だ。
        戦乱のあとのイラクを舞台に、イラクの傷跡と苦難を見つめる。
        このドラマは悲惨である。
        しかし、そこから決して目を背けることはできない。
        平和への祈りを込めた、慟哭のドラマなのである。










              
2003年、イラク北部のクルド人地区・・・。
フセイン政権が崩壊して3週間後から、この物語は始まる。
戦地に出向いたまま戻らない息子を捜すため、老いた母親(シャーザード・フセイン)は、1000キロの旅に出た。
まだ幼い、12歳の孫アーメッド(ヤッセル・タリーブ)を連れて・・・。

生後間もなかったアーメッドは、父の顔を知らない。
親子を繋ぐものといえば、父の残した縦笛だけである。
わずかな現金しか持たない祖母と少年は、ヒッチハイクをしながら、バスを乗り継ぎ、どこまでも広がる渺茫とした砂漠の中を進んでいく。
それは、長年の独裁政治によって抑圧され、またアメリカとの戦争によって破壊された、傷だらけの殺伐とした風景であった。

・・・二人は、気のいいトラックの運転手や、貧しくても逞しく生きる路上の少年、クルド人殺戮に加担し心に傷を負った兵士らと、様々な出会いと別れを繰り返し、過酷な現実に押しつぶされそうになりながらも、やがて訪れる運命の瞬間に、一歩一歩近づいていくのだったが・・・。

絶望的な風景の中に、さらなる極限の荒涼、殺された風景が現れる。
集団墓地であった。
この墓地は、イラク・アメリカ戦争で死んだ人間の墓ではなく、イラク独裁者によって殺された人間の墓なのだった。
独裁者は、容赦もなく、罪なき自国民を殺害した。
何と、40年間に100万人を超えたといわれる。

この作品は、その過酷な現実を直視して、その風景にカメラを向け続けるのだ!
映画の作り手たちは、荒涼とした世界の中で、何としてでも立ち上がるべく、困難な仕事をしている。
それは、敬虔な祈りに似ている。
度重なる戦争で、夥しい数の行方不明者や、身元不明のままの遺体を、いまなおイラクは抱えている。
悲しい話だ。

モハメド・アルダラジー監督は、祖国の現実を伝えるため、2003年に長編第一作を制作し、何者かに襲われ誘拐される中で、危険な目に遭いながらも完成させた作品が高い評価を受けたそうで、第二作であるこの作品につながった。
アルダラジー監督イラク映画「バビロンの陽光」は、アラビア語とクルド語で語られているが、製作にはイギリス、フランス、オランダ、ベルギー、UAE、パレスチナの諸国が協力したから、厳密には7カ国合作作品ということになる。

祖母と孫の二人の旅は、1000キロ近くにも及ぶ。
着るものや食べるものは、一体どうしたのだろうか。
ふとそんなことを思ったりした。
少年役は、路上でスカウトされたヤッセル・タリーブ、そして祖母を演じたシャーザード・フセインの夫は政治的な理由で行方不明になり亡くなっているそうだ。
この二人は、俳優ではなく現地の人で、風景の転変にも負けない、いい顔をしているのは驚きである。
かつて、イラクには275館もの映画館があったそうだが、いまはその半分もない。
アルダラジー監督は、空気で膨らませるスクリーンとプロジェクターを車で運び、各都市で自らの作品を上映している。
この映画は、日本ではほとんど報じられることのない、惨殺を描いて悲しくも秀逸な作品である。