徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

緊急事態!高濃度放射能汚染水の漏洩(続)

2013-09-02 06:15:03 | 寸評

福品第一原発の汚染水漏れをめぐって、国会が審議を先送りしてしまった。
この呪わしき(?)問題を、五輪招致の決定前にふたをしなければ、招致に悪影響をもたらすからということらしい。
しかし、決定を待たねばわからないが、それは逆ではないのか。
何をおいても、汚染水対策を急ぐべきではないか。

汚染水は地上からのみならず、建屋海側からの地下水も港湾への流出が続いている。
対策には、いまだこれといった決め手はない。
放射能汚染の問題は、五輪招致の問題よりはるかに大きく、国際的に批判を受けている問題なのに、これを先送りするというのは如何なものか。
問題を先送りする神経がわからない。
いま、そんな場合ではないと思うが・・・。

国会の閉会中といえど、重要な案件を審議する必要があれば、いつだって開くこともできる。
それなのにこの緊急事態に、これから現場視察をして、審議日程を協議し、早くても今月中か来月(10月)、臨時国会になってからなどと、何とものんきなことを言っている。
どうせ国会閉会中なのだから、急ぐこともないと、政府部内ではささやかれているようだ。
この露骨な先送りには、様々な不安の声も聞かれる。

先日あるテレビの報道番組で、民主党の馬淵衆議院議員が2年半ほど前に、汚染水漏れに関して、遮水壁の設置について決定をみる直前まで行ったのにどうも莫大な費用が掛かるからと、東電上層部の思惑で反古にされたいきさつを知った。
そののち、馬淵氏は更迭されたことも話していた。
もしこのことが実施されていたら、今頃汚染水の問題は起きなかっただろうということだ。
東電は、金のかかることはやりたくない。
そこへ、政府が前面に出て来れば国民の税金を使うことになる。
東電はしてやったりかもしれないが、ゆゆしき問題だ。

ともあれ、遅きに失したけれど、政府が本腰を入れるとの覚悟のほどはわかったが、審議先送りなどそれから先はだらだらと一向に進展がない。
喫緊の問題を抱えて、これから福島の視察だなどと、何を寝ぼけたことを言っているのだろうか。
福島の原発処理に関しては、全世界の厳しい目が注がれている。
場合によっては、日本に賠償責任を求めるという声も出始めているのだ。

福島の現場を知らない政治家は、汚染水対策の遅れなど、さして問題ではないと思っているらしい。
放射能汚染水と東京五輪、政(まつりごと)と祭りごと、一体どっちが大事か。
子供だって判断できる。
福島漁協の組合長さんも、「とんでもない問題意識の低さだ。政治家は、そんなことも理解できないのか」と、怒りをあらわにしている。
この場に及んで、いかに日本の政治が機能していないか。
いかに、危機意識がないかということだ。
日本の政治の、いや政治家のレベルとは、この程度のものだったのか。
(そういう人を選んで国会へ送った、われわれ有権者の民度の低さも・・・)
恥ずかしくも、嘆かわしい限りだ。
・・・早いもので今日から9月、まだまだ厳しい残暑が続いているが、朝夕はもう虫の音すだく秋である。


緊急事態!高濃度放射能汚染水の漏洩

2013-08-29 05:55:00 | 寸評

「重大な異常事象」発生だ。
大変なことになってきた。
福島第一原発から、高濃度の放射性物質の汚染水が漏れ出した。
確かな原因もわからず、対応も遅れている。
タンクには、25メートルプール800杯前後、33万4000トンもの汚染水がたまるといわれるが、その総計は驚くなかれ2京7000兆ベクレルという、想像もつかぬような巨大な数字になる。
その汚染水が・・・。
あれから2年半、福島第一原発はいまだにトラブルが頻発し、事故は収束しておらず、東電は嘘という嘘をつき続けてきた。
原因究明もままならず、その対策もずさん極まりない。

しかも放射能汚染水の漏れといえば、原発事故発生以来ずっと続いている、そのさなかにまたである。
これは、決して想定外の事故ではない。
貯蔵タンクの多くは急ごしらえの一時しのぎのもので、5年が耐用年数だといわれる。
5年後に、またタンクを急ごしらえするのか。
同型タンク350基にも、漏洩の恐れが出てきた。
こんな状態では、汚染水は永遠に増え続ける一方だ。
これを、完全に処理することは不可能だろう。
そして最後は、高濃度放射能汚染水は大量に海に流れ出すだろう。
待ったなしである。
日本近海の漁業は、やがて立ち行かなくなる。
もはや、人間の作った原発もひとたびの事故で、人間の手には負えない事態になってきている。
チェルノブイリ原発は、たった一基の事故で廃炉まで100年以上かかるとみられている。

東電も、完全に手詰まり状態で期待できない。
それで今頃になって、国が前面に出る方針を固めたが、いかにも遅い。遅すぎる。
これから体制作りなんて言っているが、汚染対策の解決の糸口さえ見えてこない。
そもそも、タンクの貯蔵というこの一時しのぎの「最後の砦」も、いつかは崩壊の危機を迎える。
事態は極めて深刻だ。
核と人間は、共存できない。
完全なる安全などあり得ない。

これほどの汚染水流出問題なのに、日本のメディアは、何故かあまり大々的には取り上げていない。
海外では、異常な危機感をもって報じられているのに・・・。
福島沖を中心に、太平洋の汚染が進み、漁協などでは試験操業を中止した。
回遊魚のカツオ、マグロをはじめ、スズキ、イワシ、ヒラメ、アサリなど安心して食べられなくなりそうだ。
危険度の高い魚は、青森沖から房総沖まで泳いで回遊しているからだ。
今回の汚染水の流出で、浅いところで泳ぐ魚もかなり危ないといわれている。
専門家は、今後子々孫々10世代先まで、太平洋の魚を安心して食べられる日はないとまで断言している。
この先どうなることか。

日本の政治は、「改憲」などにいたずらにエネルギーを空費している。
憲法問題や消費税論議よりも、人の命に関わるこの汚染問題こそ緊急の最優先課題ではないか。
本当に、どうにかしないといけないのだ。
政治家は、国家、国民のために政治を行うために選ばれたのではなかったのか。
国民の命、人間の命を守る。
政治家は、いま何をしなければならないか、自らの生命を賭けて政治をしっかりと見つめなおしてほしい。
姑息な議論をしている場合ではない。

最近、本州を脱出して沖縄や屋久島へ移住し始めた人の話を、よく耳にする。
このままでは、日本列島は人の住めない国になる。
何としたことか。
そんなことは杞憂であってほしいのに、少しずつ現実味を帯びてきた・・・。(?!)
安心安全だからといって、産めよ増やせよと強引に原発を推し進めてきた自民政権の、万死に値する大罪とはこのことだ。
それで、性懲りもなく再稼動だと叫んでいる。
ここはきっちりと、国家国民のためにこれまでの責任を取って頂きたい。
「福島」を考えたら、ゴルフ三昧、海外旅行など、のうのうとしていられる場合ではない。


2020年夏季五輪開催はトルコのイスタンブールで

2013-02-25 23:30:00 | 寸評

暦の上ではとうに春なのに、まだまだ厳しい寒さが続いている。
それでも、各地から梅便りが・・・。
どうやらこの寒さも、いまが峠かも知れない。
春は、確実に近づいている。

ところで、2020年の夏季オリンピックに東京が立候補し、石原前都政を引き継いだ猪瀬知事が招致に躍起になっている。
そんなに東京でやりたいか。
東京五輪問題より、先にやるべきことがあるだろう。
祭り気分で、「オリンピック」だけを語るのは簡単だ!
ここはよく考えたい。

東日本大震災から、早いもので間もなく2年になる。
しかし、復興復旧はままならず、いまだに36万人もの人たちが避難生活を余儀なくされ、故郷の土を踏むこともできないでいる。
放射能の除染作業も進まないまま、日本の全原発は新安全基準を満たすことすらできず、廃棄物の処理さえも決まらないのに、再稼働ばかり叫び続けている。
人間の命よりも原発を叫ぶ、この国はどうなっているのだろうか。
おかしいのではないか。

日本女子柔道の体罰問題まで暴露され、世界中から顰蹙を買って、いい笑いものだ。
少しは、フランス柔道を見習って欲しいものだ。
日本のお家芸柔道も、風前の灯だ。
それ以外のスポーツとて、例外ではなさそうだし・・・。
都合の悪いことは、あくまでも隠蔽しようとする体質は、イジメ体質と何ら変わらない。
そんな国が、どんな顔をして五輪招致に躍起になれるというのか。
日本よ、恥を知れ。

石原前都知事の尖閣購入問題に端を発した、日中関係の悪化をはじめとして、日韓、日露と領土問題が険悪な状況だ。
手をこまねいていると、日本本土まで侵攻されてしまうのではないか。(?!)
いまの日本政府は、外交が下手くそだから、各国から馬鹿にされるのだ。
首脳会議などでは、社交辞令上は礼儀を尽くしているように見えて、本音はなかなかそうではないことを知るべきだ。
いまこの国は、内憂外患、満身創痍の状態だ。

新宿の、見上げるだけで豪勢な東京都庁舎のすぐそばの中央公園には、この厳しい冬の寒さに震えながら、住む家もない多くの若者たちが、いまなお路上生活を続けている。
北の都札幌でも、今年は路上生活者が例年よりずっと多いそうだ。
どうしたら、彼らは普通の暮らしができるようになるのだろうか。
そんな日本の現実を見ると、政治家は、祭りごとではなく、政(まつり)ごとにこそ身命を賭して、その本分を全うしてもらいたいものだ。

2016年五輪招致に失敗した東京は、国の支持率もやや回復したとはいえ、まだまだ低調だ。
当たり前である。
それでも、何故いま東京なのか。
五輪開催の全ての条件を満たすといわれる、イスタンブールでよいではないか。
イスタンブールは市民の94%、国民の90%の支持を得ているという。
ここは、現在4連敗中の20年越しの悲願をかけた、イスラム圏初のトルコに譲ってはどうか。
今度こそ、5度目の正直で・・・。

莫大な投資で、巨大な経済効果をもたらすといわれる五輪だが・・・・。
日本は、東京五輪より先にやるべきことがいっぱいあるだろう。
アジアとヨーロッパの融合する街、イスタンブールで開かれる五輪も、いいではないか。
いま急速な高度経済成長を遂げ、強固な財政基盤をアピールしている、トルコ最大の都市での、開催の意義は大きいはずである。
トルコのみならず、アラブ、イスラム世界の期待に応えてくれることを祈りたい。


ああ、原発なかりせば―政府と電力会社の拙速な再稼働の愚、許すまじ―

2012-04-21 22:00:00 | 寸評

花の季節だというのに、衝撃的な話が伝わってきた。
あの原発事故から、早いもので一年有余・・・。
福島で、5歳の子供が下痢を訴え、次に口内炎などの症状が現れ、それから鼻血が出るようになり、身体に紫斑が出始めたそうだ。
広島での被曝体験があり、以来、放射能が人体に及ぼす悪影響の研究を続けてきた医師の警告だ。
これは、間違いなく被曝の初期症状だというのだ。
そして、広島、長崎の被爆者と同じ順序で症状が進行しているそうだ。
福島第一原発の事故によって、大量に放出された放射性物質が、人体を蝕み始めたのではないかというのだ。
怖れていたことが、早くも始まったということか。
あまりにも、残酷過ぎる話である。
これから後、何が、どんなことが起きてくるというのだろうか・・・。

・・・福島原発事故で失われたものは、あまりにも大きい。
いまも、16万人が故郷を追われている。
その反省も検証も、まだなされていない。
何をしているのだ。
大きな不安の中で、根本的な安全対策も基準も出来ていないのに、政府は原発再稼働へ前のめりになっている。

原発再稼働がないと、電力は本当に不足するのか。
いや、そんなことはないとの声も、あちらこちらから聞こえてくる。
政府や電力会社は、電力需給について、突き詰めた細密なデータを提示していない。
そして、原発の全停止は、国民の‘集団自殺’だなどと言って扇動している。
何を血迷ったことを、言っているのか。

国民が節電に務めるだけで、つまりちょっと工夫するだけで、いまの日本の真夏をも楽に乗り切ることができるというのに・・・。
政府や関西電力が何を言おうと、中部電力にしても中国電力にしても、十分な余剰電力を有しているので、いざという時にはいつでも本気で電力の融通は可能なのだ。
電力が足りない足りないとはいっているが、どうやら眠っている火力発電や、いざという時のために公にされていない、余剰電力もそこそこあるそうではないか。
一体どうなのだ。
政府や電力会社が、嘘をついているとしか思えない。
努力すべき対策は、本気になればいくらだってあるのに、それもしないで、電力不足をことさらアピールして不安を駆りたてる。
そんな姑息な手段で、国民を恫喝するのも、いい加減にしてもらいたいものだ。

雨の日だった。
停止中の、大飯原発の再稼働に反対する2000人近い人々が、首相官邸前でシュプレヒコールを叫んでいた。
女子学生、サラリーマン、子供を持つお父さんたちだ。
この人たちは、みんな抗議行動などはじめてなのに、よくぞやってくれました。
いまの国民の代弁者たちだ。

世界に名だたる地震国に54基もの原発を作り、日本は世界第三位にのし上がった。
はじめは原発利権から動き、それが誤った原子力絶対主義をまかり通すことになった。
それ自体、狂気なのだ。
それなのに、この国は、周期的に必ず巨大地震や大津波が押し寄せてくることを知りながら、誤った「政治」が、原発を絶対「安全」だと偽って、強引に最初のレールを敷いたのだった。

政治家ならぬ政治屋にとって、この巨大公共事業のうまみは相当なものだからだ。
原発立地の地元には、膨大な金を落として、住民を懐柔するシステムを作ってきた。
だから、原発なくしては、地域住民は生活が成り立たないところまで来てしまった。
今だから言えるかもしれないが、取り返しのつかない、大変なことをしてくれたものだ。

官僚は、政治と電力会社を結びつけ、橋渡しをしてきた。
両者ともに、原発マネーにどっぷりとつかってきたのだ。
もはや散々言い古されたが、原発に安全だなどということは、絶対にない。絶対にないのだ。
永田町には、原発推進派の議員が、それでもうじゃうじゃといる。
原発推進派によって、利益を得るごく一部の人間たちのために、消費者も、世界一高いといわれる電気料金を、支払わされているのではないか。

いま、そうした普通の人たちが動き出したのは、原発が、いかに怖ろしいかを知ったからだ。
近く、あるいは将来、いつ大きな地震が来るかわからない。
こんど原発事故が繰り返されたら、もう、この国にはきっと住むことができなくなる。
地震という災害は、人間の手で止めることはできない。
だが、原発事故は人災なのだから、防ぐことができる。
原発再稼働を、安易に容認してはならない。

原発事故によって、想像以上に、放射能汚染地域は日本中のいたるところに拡がっている。
こうしている今も、じわじわち拡がりつつある。
大気中に放出された、放射性セシウムの総量は、最大約四京ベクレル(京は兆の1万倍)というから、これだけで旧ソ連のチェルノブイリ原発事故での放出量の約2割だ。
先々月、気象庁気象研究所が、まとめた試算を公表した数字に驚いている。

原発安全神話たるものは、根拠がなく、もろくもとうに崩れ去った。
何が安全なものか。
それなのに「原発で輝かしい未来を!」などと騙され、不当にも容認されてきてしまった。
利益優先、安全軽視の人災だ。
原発がなければ、電力不足になるというが、これもおかしい。

人類は、原子力を完全に制御する技術を持っていない。
放射性廃棄物は、処理されることもなく、どんどんたまり続けているではないか。
なすすべもないということは、怖ろしいことである。
核が、人類と共存できるわけがないのだ。
それでも、原発を稼働したいのか。

原発は廃止すべきで、廃炉の心配はもとより、再稼働はやめるべきだ。
ストレステストだって、あてにならない。
さもないと、人類は、重大な過ちを犯したまま滅亡へ向かうことになる。
安全だというなら、誰が安全と確認したのか。

原子力安全委員会は、ストレステストの一次評価の結果を了承したといっても、大飯原発が安全だなどとはひとことも言っていない。
政府御用達の専門家のみならず、反原発専門家の意見は聞いたのか。
反原発科学者の意見は聞いたのか。
くどいようだが、原発の安全性の評価については、あの斑目委員長ですら「不十分」の見解を示しているではないか。
はっきり言えば、原子力安全委員会の専門家さえもが、大飯原発の再稼働の安全性評価について「不十分」と判断しているにもかかわらず、たんなる素人の政治家ごときが、再稼働の安全性について、何故「十分」だなどと言いきれるのだろうか。

その昔、電気のない時代があった。
太陽と水があれば、極端に言えば、電気なしで人類は生きてきた。
それを、思い起こすことだ。
豊饒と飽食と贅沢が、人間に誤った驕りをもたらしたのだ。
全ての原発が停まったら、たちまち電力不足におちいり、産業活動に重大な支障をきたすからと再稼働を求める声があるが、原発なしでも国民の命や生活を守り続けることはできるはずである。

再稼働について、拙速な世論無視の結論を出すべきではない。
いままで電気をみだりに使い過ぎているのだから、もっともっと節電を心がければよいのだ。
日中の無駄な電気(駅のホーム、スーパーなど)、夜間の照明(過剰なネオンサイン、深夜のコンビニなど)は検討されていい。
大体、自販機がこんなに多い国も、日本ぐらいではないのか。

日本は世界に冠たる地震国だ。
こんな国に、原発は不要だ。
政府と電力会社は、何としても原発を再稼働したいらしい。
そもそも最初から、「再稼働ありき」がシナリオだからだ。
とんでもない話である。

・・・日本の大地も海洋も、セシウムによって汚染されてしまった。
大地で育つものも、海洋で育つものも、また汚れてくる。
残念ながら、本当に残念ながら、私たちがセシウムから完全に解放されることは、かなえられぬ夢の話だ。
これから、100年たとうが200年たとうが、もはやそんな単位の話ではない。
今後、多かれ少なかれ、日本の国民はセシウムに汚染されたものを摂取し続けるのだ。
基準を決めて、それ以下だから安全だとかなんてないのだ。
そんなことは、ありえないのだ。
悲しいかな、危険は、いつまでも付きまとってくると考えなければならない。

それでも、原発再稼働なのか。
政府発表の詭弁やまやかしに、決して騙されてはならない。
そして、人間の命の大切さを、真剣に見つめ直さなければいけない。
迷走に次ぐ迷走を続ける野田内閣だが、去年発足以来、「脱原発依存」の方針を決めているはずなのに、いまだその方針を進めているようには思えない。
日本も、もっとしっかり「脱原発」へかじを取るべきだ。
二度と、大きな過ちを繰り返さぬためにも・・・。


ああ、「0ベクレル」の食卓よ!―放射能まみれの日本列島の食の崩壊―

2011-11-02 16:15:00 | 寸評

秋の深まりとともに、冬の便りもちらほらと・・・。
木枯らしに乗って、厳しい冬を迎える、東北の人々の怨嗟の声も聞こえてくる。

大丈夫なのだろうか。
いま、放射能汚染食品が、日本の津々浦々にまで流通している!
消費者は、神経質にならざるを得ない。

暫定規制値が問題になっている。
規制値以上は問題で、規制値以下は問題ないのか。
とんでもない話である。
こんなことがマスコミで喧伝され、人々は食の不安に脅かされている。
それに、日本の規制値は、かなり高めの甘過ぎる設定で、世界の‘非常識’といわれるほどお話にならないそうだ。
放射性物質というのは、本来食品から検出されないことが正常なのであり、当たり前の話だ。
たとえ微量であっても、放射性物質が検出されれば、それは消費者が食品を購入するうえで、重要な判断基準になる。

スーパーマーケットの食品売り場で、生産地がどこか確かめている人を見かける。
食品には表示されているものもあるが、表示されていないものもある。
たとえ表示されていても、嘘であるかもしれない。
表示がなければ、どこの産物かわからない。
産地の解らないものや、表示の疑わしいものは買い控えたいという、消費者の心理が働く。

暫定規制値が問題となる食品は、お米、飲料水、肉、魚、野菜等々、全食品に及ぶ。。
規制値の調査が、実態としては地方自治体がやっていて、この数値がまた極めてあいまいときている。
全てが、正確とは言えないから厄介なのだ。
面倒なことであっても、すべての食品において、放射性物質の数値は正しく公表すべきだ。
内閣府(食品安全委員会)も、科学的な根拠のないままに、生涯の累積線量の基準(100ミリシーベルト)を大ざっぱにまとめている。
こんなものが、こんな数値が、果たして本当に信ずるに足る数値かどうか。

2011年3月11日以降、放射能汚染は、拡大の一途をたどっている。
全く、とどまるところを知らない。
そして、放射性物質は絶対に無にはならないということだ。
福島原発から漏れたと思われるセシウムは、静岡で検出されたと思えば、九州でも、さらにはヨーロッパでも検出されている。
日本は、陸も海も汚染にまみれているとみるべきだ。
魚だって、北海道や日本海だからとて安心はできない。
私たちは、安心できる食材を買って、美味しいご飯を食べたい・・・。
だが、それは今や幻想になりつつある。

2011年3月11日の前までは、美味しい安全な食事は、日本では当たり前のことだった。
今後は、暫定規制値以下だからと、少しだけ暫定規制値を上回ったものも交じって、食品は全国に流通していく。
多分、間違いなく・・・。
現に、規制値を大きく上回った牛肉が大量に流通し、学校給食にまで紛れ込んで、子供たちが食べてしまった。
神奈川県でも、横浜市で販売されたものは、すべて完売されてしまったのだ。
日本国民は、この許しがたい現実を漫然として受け入れ、わかっていながら、これからも汚染(?!)された食材を親子そろって食べ続けていかなくてはならないのだろうか。

「暫定規制値以下=(イコール)安全」では、決してない。
このことは、極めて重大な意味を持っている。
食材を買うか買わないかの判断は、誰からも押しつけられるものではなく、消費者自身がするものだ。
国は、消費者の判断材料となる、正確な情報公開に務めるべきなのだ。

福島の新米が、厳しい検査の結果、放射能の数値がほとんど暫定数値以下であったと発表し、出荷には‘問題ない’と言い切った!
暫定規制値以下の場合、数値を公表していないケースがほとんどだ。
だから問題ない、直ちに健康被害はないといわれても、到底安心などできない。
規制値以下でも、堂々と公表すべきなのだ。
放射能暫定規制値は、「0」でなければ、本当の安全とは言い切れない!
このことが重要なことなのだ。
政府の発表やマスコミ報道といえども、まことに残念なことだが、にわかには信じがたいことだらけである。
何故なら、そちら向きの‘御用達科学者’たちは、いまだに原発賛成派、推進派(!)の集まりだからだ。

日本の放射能汚染は、もう際限がない。
除染はもちろん必要だが、除染した放射性物質をどうするかが、また厄介な難問だ。
それをどこに埋めようが、どこに保管しようが、永久(?!)に消滅することはない。
この問題についても、解決の糸口すら、見えてこない。

たとえば、新米について・・・。
現在行われている放射性物質の検査は、何が何でも出荷したいと考えている生産者のため、生産者の動揺を抑えるためであるというのが第一義で、本来の「消費者のため」というのは、二の次になっている感がある。
国民は、だまされてはいけない。
いま、スーパーの店頭に並べても、利口な消費者は不安要素が少しでもあれば、それを買わない。
それを知っているから、売れないものは売れない。
だから、スーパーの方でも仕入れに難色を示しているようだ。
したがって、生産地の倉庫で、暫定規制値以下だから「安全」といわれながら、出荷を待つ在庫が滞っているという話だ。
生産農家にとっては、大変お気の毒なことだが、国がいい加減で、消費者の信じられるような本当のことを言わないから、こういうことになる。

国民は、もはや汚染から逃れることができない。
残念だが、汚染された国土で、食材を生産し、流通させ、消費することの、重い現実を受け止めざるを得ないところに来ている。
私たち日本人は、原発事故の被害者として、放射能で汚されてしまったものを食べるしかない。
何としたことか。
問題は、内部被曝だけで基準を超えるといわれており、さらには外部被曝の問題もある。
次から次へと、過酷な現実が重くのしかかってくる。

このような異常な事態になって、国民の間で、気が狂うほどの大パニックが起きないことが、不思議なくらいだ。
しつこいようだが、規制値以上は危険でそれ以下は安全だなどということは、絶対にありえないのだ。
国民の側にいる科学者は、誰もがそう言っている。
政府の言っていることは、安心して耳を傾けられることではない。
嘘をついているのでないか、とさえ思える。
これまで、原発は安全だと騙され続けてきた国民にも、それなりに責任があるかもしれない。
何事も事なかれ主義の政府は、騒ぎを大きくしたくないから、なるべく安全だということを宣伝したいだけだ。

3月11日を境に、私たちの住む世界は、全く(?!)変わってしまった。
このことを、強く認識せざるを得ないし、そう思うしかないではないか。
もはや、日本は今までの日本ではない。
地球もまた、今までの地球ではなくなりつつある。
いまの日本は、戦争状態みたいなものだ。
国家が潰れてしまうかもしれないほどの、悲劇の中にいることを、現実の問題として捉えなくてはいけない。

もともと、ちっぽけな世界一の地震国に、原発を54基も作ったことが誤りだった。
自民政権と東電の責任は、重大だ。
思うに、原子力というのは、国家の犯罪ではないのか。
これは、大罪である。
いまこういう事態に至って、その恐るべき犯罪の全貌が、姿を現そうとしているのではないか。
それも、まだ始まったばかりだ。
人類は、人類の作ったもので、滅びへと向かっていく・・・。
・・・ああ、私たちが希求してやまない、「0(ゼロ)ベクレル」の食卓を囲む日は、もう二度と来ないのだろうか。

 


アナログ放送終了!―堕落と放埓のテレビとお別れする人も―

2011-07-30 07:00:00 | 寸評

蝉の鳴き声を聞いて、ちょっと安心した。
本格的な暑さは、まだまだこれからだろう。

・・・アナログ放送が終了して、地上デジタル放送へ移行して一週間になる。
これで、テレビを買い変えていないから地デジが視聴できないかといったら、どうも、そうばかりではないのである。
地デジ移行ということで、いろいろ取りざたされていたが、ケーブルテレビ局の「デジアナ変換」とやらで、デジタル波を変換してアナログテレビでも視聴できるようにしているので、ケーブルテレビ局と視聴契約を結んでいなくても、一部集合住宅(マンション)などでは、アナログテレビでも視聴できるところがある。
このサービスによって、2015年3月までは、いままでのブラウン管テレビでも、普通に地デジを視聴できるからだ。
これによって、大分助かるという声もあるが、それでもなお、地デジ化未対応で、テレビを見られない人たちがまだ数万世帯はあるといわれている。
そうだ。'国策’の犠牲者だ。

一時、家電量販店には、急遽テレビの買い変えで行列が絶えなかったが、そんな狂騒をよそ目に、この機会に、テレビにさよならした人たちが結構いる。
長いことテレビの恩恵にあずかってきたが、新たにお金もかかることだし、この地デジ完全移行を機に、思い切ってテレビのない生活を選んだという人たち・・・。
今までも、普段テレビをほとんど見ないという世帯もかなりあるといわれ、たまにしか見ないテレビを買い変える余裕もないし、あってもそんなものに金を使いたくない、といった声も聞かれる。
だから、情報といったら、これからは新聞とラジオだ。
それで十分だといって、笑っているお年寄りがいるかと思えば、さんざんテレビっ子で育ってきた大学生でさえも、「テレビがなくても全然困らない」という。
テレビとの付き合いを断つという人は、老若男女を問わず少なくない。

最近は、テレビ自体への興味も薄れてきているし、本当に見たいテレビ番組がなくなってきているのも事実だ。
ある高齢の女性が、言っている。
 「今のテレビには、後に残るものがないんです。つまらないお笑い番組ばかりで・・・。漫才だって、昔は社会を風刺するお笑いがありましたけど、そういうのはなくなりましたね」

そういえば、本当に最近は、質のいい、面白いテレビ番組は少なくなってしまった。
これ、まさに実感だ。
ふざけたヤラセ番組だったり、素人の学芸会番組だったりで、どうしようもない堕落ぶりだ。
たとえば、まず知らない人はいない、おなじみの長寿番組の「笑点」も、始まった頃はいまよりずっと面白かった。
司会者は三波伸介で、1970年から1982年ごろまで続いた。これがまた上手い司会で、よく笑わせたものだ。
それに出演者の質もかなり高かったから、これこそ大人のお笑い番組だと思ったものだ。
ところが、いまは、あの体たらくだ。
まるで素人で、これがプロの芸人のやることとは思えない。これでは、見る方もいい加減躊躇するというものだ。
この番組もマンネリに陥ったまま、いつからこんな風になってしまったのだろうか。

ニュースなど報道番組にしても、ワイドショーにしても、今回の放射能被害などの災害報道ひとつとってみても、本当に国民のための真実を伝えているのかは、大いに疑問だ。
情報は、果たして正確か。
コメンテーターにしても、たとえば原発反対派の意見はほとんど取り上げず、取り上げても、きわめて一般論的な当たりさわりのない批判で、どこか白々しい。
報道姿勢や体質にも問題がある。
コメントが局の方針に反すれば、正しい発言でも控えさせられ、場合によっては降板させられるといった具合だ。
原発問題でも、賛成派と反対派の専門家の意見などがそうで、極力賛成派でまとめようとしているのが、あまりにも見え見えなのだ。
だから、つまらないのだ。
これで、公正な報道といえるだろうか。
大新聞をはじめ、テレビも、いろいろな思惑が絡んでいるから、情報のひとつひとつを100%真実かどうか、疑ってみる必要がある。
国民は、マスコミを信じられなくなったら、何を判断材料として信じればよいのだろうか。
新聞の読み方、テレビの見方を、よくよく考えないといけない。

デジタル放送は、高品質の画像が売りだから、やはりアナログ時代から比べれば雲泥の差だ。
見ていて、画像そのものは実に綺麗だし、言うことなしなのに、チャンネルも多いわりに、くだらない低俗な番組が多すぎる。
やりたいほうだいのハチャメチャなバラエティ番組といい、時間つぶしの再放送や再々放送番組、ヤラセの捏造番組、安直なトレンディドラマ、それでいて延々と続く民放のコマーシャルだけは威風堂々(!!)として等々・・・。
これでは、貴重な電波がもったいない。電波は国民共有のものなのに・・・。

高品質、高画質の地上デジタル放送が、さめざめと泣いている。
みっともないテレビ、どうしようもないテレビ、ごくごく少数の上質で素晴らしいテレビ番組もあるなかで、我が物顔の放埓テレビ・・・。
たかがテレビ、されどテレビ・・・、テレビ不要派は嘆いている。
 「もう、テレビなんていらない。テレビのない暮らしをしてみて、本当に必要だと感じたら復活させるかも・・・」
地デジ化を機に、堕落と放埓のテレビとは、いっそお別れしたいという人の気持ちがよくわかるというものだ。
まして、こういう時代だからこそ、必要のないものは買わないで、本当に必要なものだけを買うという知恵も大切だ。


レベル7の不安と恐怖いつまで―福島原発事故・東電の大罪―

2011-04-16 10:00:00 | 寸評

東日本大震災、福島原発事故から早くも1カ月がたった。
東電福島第一原発は、いまでも放射能が漏出しており、予断の許さない危険な状態が続いている。
現地の必死の復旧作業を、日本中が見守っているが、見通しは決して明るくない。
事態は、終息へ向かうどころか、現在進行形なのだ。

これまでの原発「安全神話」は、ここにきてもろくも完全に崩れ去った。
福島原発を、かつて考えられないほど‘安全’と絶賛したのは誰だったか。
地震と津波が予想以上だったからといって、それで済ませる問題ではない。
想像以上のことが起きた結果については、当然設計側としての責任もある。
想定外など、あってはならないと言いたい。

今回の原発事故で、原発依存のエネルギー政策は破綻した。
放射能が漏れ続けても、直ちに人体に影響はないというが、何をのんきなことを言っているのか。
本当に危険な情報が、おそらく公表されていないのではないか。

現在進行形の原発事故は、これは杞憂であってほしいと願うばかりだが、もしかすると最悪の事態を迎えつつあるのかもしれない。
それは、かつて人類が経験したことのない大惨事につながることだ。
もしものことがあると、内陸であれ、海洋であれ、当然放射性物質でおおわれる。
放射能は、数十年という単位で海と地上に残るとされる。
そうなったら、野菜も魚も安全なものなんて激減する。
本当の汚染は、これから始まるからだ。
放射能の測定は、今後100年にわたって続けていかなくてはならない。
最悪の結果だけは、何としても避けたいものだ。

汚染水の海洋への垂れ流しなど、たとえそれしか方法がなかったにせよ、ひどいやり方だ。
世界の国から、怨嗟の叫びが聞こえないか。
日本の信用は、ガタ落ちだ。
どう見ても政府はお手上げ状態だし、完全な対策など何もない。
呆然自失の状態だ。

世界から、日本は重大な情報を隠しているとみられている。
もちろん国民にも・・・。
‘福島’から流出した放射能物質のすべては、偏西風に乗って拡散する。
そして、それはやがて北半球を覆い尽くすといわれる。
いまや、日本だけの問題ではなく、地球規模の問題だ。

遅きに失した感は否めないが、1865年のチェルノブイリ原発事故と同じ、「レベル7」という最悪の評価になってしまった。
これだって、大震災から3日後にすでにこの数値だったというではないか。
そのことをずっとひた隠しにしてきた、東電、政府の責任は大きい。
いま各地で、原発見直し、廃止について論議が巻き起こっている。
当然のことである。
それで、原発政策を続けるのか。
とんでもない話である。

新聞、テレビなどのマスコミは、放射能の危険に踏み込んだ記事や発言を、ことさら避けているように見受ける。
このことは、おそらく間違いないことだ。
いたずらに、国民がパニックに陥らないようにとの配慮(?)かも知れないが、それだけではあるまい。
実に不謹慎だ。
原子力研究の専門学者によれば、原発の危険性に触れる話になると、その分はカットされ、放送もされないというではないか。
テレビ局は、東電批判については消極的だ。
鋭い論評で知られるある著名なジャーナリストは、東電の批判をした途端に番組降板を知らされたと、週刊誌やインターネット上で暴露している。
ひどい話だ。

マスコミも信じられない。
政府や、官房長官の談話もどこまで信じてよいものか。
原発の、今後の行方が大いに心配だ。
現地で、被爆を覚悟で、必死で作業を続ける人たちは命がけだ。
誰かがやらねばならない。
だから、やる。
頭が下がる。
ひたすら、安全を祈らずにはいられない。

ここへきて、計画停電はいまのところ小休止だ。
ほっとする。
でも、夏場はまた心配の種だ。
節電、これはやれば出来る。出来なくはない。
どうして、こんなことが今まで出来なかったのか。
まだまだ、無駄な電気の使い方をしているのではないだろうか。
今ほど電化に囲まれた生活は、かつてなかったからだ。
何から、何までが電気だ。
それは、便利さ、快適さを求めた結果の、人間の贅沢(?!)というやつだ。

いまから思えば昔(?)の話になる。
夏でも、街の映画館に冷房のなかった時代があったし、今のように家庭にエアコンのない時代があった。
いまでも、エアコンなしで扇風機で夏を乗り切っている人だっている。
深夜の街に煌々と輝くネオン、終夜テレビや飲食店、鉄道の駅の証明はもちろん、誰かがいみじくも言っていたパチンコ店や自動販売機は1000万キロワットもの電力を消費しているといわれるし、どうしても娯楽に電力が必要だというなら自家発電という手だってある。
生活するために、電力が本当に必要かどうか、見直す時だ。
豊饒な時代を生きていると、なかなかその生活から脱け出せないものだ。
それは不幸なことだ。

原子力による電源に頼らなくても、豊かに暮らすための知恵を絞りたい。
日本は、世界に名だたる地震国だ。
原発は、この国にはなじまない。
福島原発事故は、起こるべくして起こった明らかな人災だ。
2002年8月に、原子力安全保安院から福島県庁に、恐るべき内部告発文書が届いていた。
それは、福島第一原発と第二原発で、「原子炉の故障やひび割れを隠すため、東電が点検記録を長年にわたってごまかしていた」というものであった。
保安院は、この告発を2年も前に受けていながら、何の調査もしなかったうえに、この内容を当事者である東電に横流ししていたというではないか。
今回の原発事故も、重要な情報を隠蔽、管理することで、私たちに知らされていない何かがあるのではないか。

今回の原発事故は、東電の体質といい、経産省、ひいては自民政権の原発エネルギー政策にさかのぼってまで、起きるべくして起きた人災だ!
まことにもって、許されざる、政府、東電の大罪と言っても言い過ぎではない。
つい最近の調査で、国内にある原発の大半が、いずれも難点を抱えていることが判明した。(今頃になってである!)
くどいようだが、原発の安全性には大きな疑問がある。
安全性に問題がある限り、原発はもう沢山だ。
100%安全など、絶対にあり得ない。

人類が作り上げたもので、人類が滅ぶ・・・。(?!)
だとすれば、そんなものはいらない。
・・・いま、まだ余震が相次いでいる。
もしまた、一部予想されるように、スマトラ並みのM8級の最大余震が来たらと思うと、怖ろしい。
何もかもが、今はまだ進行形だ。
あらゆる面で、いまより、まだまだこれからを十分に警戒したい。


怒りを込めて振り返れ―菅民主政権の、どうしようもない恐るべき暗愚―

2011-02-18 14:00:00 | 寸評

     三寒四温を繰り返しながら、本格的な春が近づいている。
     季節は、確実に急ぎ足で変わろうとしている。
     そのさなか、政界に激震が走った。
     民主党内の、16人の造反劇である。

     日本各地で、天変地異が起きている。
     豪雪、地震、火山噴火、口蹄疫、鳥インフルエンザ感染拡大等々・・・。
     これらは、古来、御政道(政治)の乱れが原因だと説く人も多い。
     確かに、為政者の暗愚が続けば、様々な災厄がはびこる。
     その通りではないか。

     これまでずっと黙って見てきたが、目に余る菅政権の体たらくは、ひどいなんて言うものではない。
     この人には、国民の怨嗟の声が聞こえないのか。
     理念も哲学もない。
     既得権益を握りしめたまま、虚空をにらみ続ける眼差しは、焦点が定まらず、いたずらに宙を泳いでいる。
     何をやりたいのか。
     どうしたいのか。
     まるでわからない。
     改革の旗印を掲げて、劇的な政権交代を成し遂げた菅政権は、いったい何をしているのだ。

     愚かさも、情けなさも・・・、何が最小不幸社会か。
     見ても聞いても、あきれるばかりの惨状ではないか。
     世論の支持率は、とうとう最新の調査で17.8%まで落ち込んだ。
     これは、政権交代後の最低の数字だ。
     この人が、政権の座にしがみつけばしがみつくほど、国民の不幸が拡大していくようだ。
     だからか、近頃ではこの人のことを、疫病神と呼ぶ人が増えた。
     天変地異、天地の神が怒るのもうなずける。

     民主政権の金看板「政治主導」など、とうにどこかへ捨ててしまったのか。
     まだ、自民政権のほうがましだったの声もある。
     いまの政治の閉塞状況は、菅総理の自業自得だ。
     党内分裂の騒ぎ(小沢氏問題)は、亀裂が深まるばかりで、そんなことで、かっての仲間同士がいま喧嘩をしている場合かどうか。

     そんな内閣だから、どうしようもない。
     野党もちろん、政権内部から倒閣運動が起きて当たり前だ。
     このままの政治があと2年も続いたら、国民生活はぐちゃぐちゃで、塗炭の苦しみをなめさせられることになる。
     要するに、政治家のやることなすことが、でたらめなのだ。
     こうなってくると、エジプトの「改革」とまでいかなくても、国民の手でこの政権を葬り去るしかない。
     歴史的な政権交代を誕生させた政権が、国民の期待を裏切ったことで、国民の手で葬り去られる・・・。
     そんな日が近いかもしれない。

     いま、日本の政治が、転げ落ちるように破局に向かっている。
     誰もが、そう感じている。
     もう時間の問題だ。
     マニフェストの公約は守られず、菅内閣は、政権維持に汲々としている現状だ。
     子ども手当は見直され、ガソリン税の暫定税率廃止もお手上げ、高速道路の無料化も先行き不透明だ。
     せっかく実現した子ども手当が無くなれば、もらっている人たちの落胆を隠せない。
     もしこれが廃止になって、児童手当に戻ると、子育て世帯の負担はズシリと重くなって、月2万円の負担増になるという話だ。
     だから、子どものいる家庭では、簡単にやめていい法案ではないはずだ。

     民主党は、そもそもが、政策を通したいがために政権を奪取したはずだ。
     それなのに、政権を維持するために政策を捨てるなど、本当に無茶苦茶な政権だ。
     狂気、乱心の極みである。

     消費税増税論が、叫ばれている。
     いま、大企業の内部留保は300兆円ともいわれている。
     その1割でも吐き出させたら、増税の必要なんて無くなるといわれる。。
     知恵を絞れば、財源はある。
     それでも、民主党は財務省におんぶにだっこで、予算編成まで財務省に丸投げするような始末だ。
     何なのだ。この政権は、脱官僚を謳っていたのではなかったか。

     弱肉強食のいまの競争社会で、増税一辺倒とも見える民主政権のカジ取り、野党の顔色をうかがって右顧左眄の体たらく、国民の信を問うこともせず、解散も総辞職もせず、それで政権が潰れな
     いほうが不思議だ。
     旧自民政権の亡霊かとまごう人を、三顧の礼をもって入閣させるなど、何を血迷ったのか。
     もしかして、いまの政権は、旧自民政権よりひどいかもしれない。
     内政も、経済も、外交も、みんな駄目だ。
     すること、なすこと、みんな駄目で、どうするのか。
     恥ずかしくて、情けなくて、無知蒙昧のこんな内閣見たことない。
     
     民主党に政権交代の夢を託したことは、間違いだったのか。
     党利党略、私利私欲のみで蠢いているかに見える、現政権のあくなき無気力には、幻滅だ。
     大相撲が無気力(八百長)だというなら、政局こそ、救いようのない無気力(八百長)だ。
     これが、国民への裏切りでなくて、何だろうか。
     国民への悶絶、憤死を促すがごとき、昨今の裏切り政治をいつまで許せばいいのか。
     菅総理は、もはや己自身の延命だけしか考えていないようだ。
     ああ、嫌だ嫌だ。

     ついに、民主党の衆院議員16人が、会派を離脱する意向を表明した。
     これはもう、政変(クーデター)だ。
     いよいよそこまで、来るべくして来たか、という感じだ。
     彼らが、予算関連法案の採決で造反するとなれば、子ども手当法案の成立も危うくなり、自公政権時代の児童手当に逆戻りだ。
     そのほか、法人税の引き下げなど、目玉政策も予算執行もままならなくなり、国民生活への影響は計り知れない。
     その責任は、誰が取るのか。
     民主党瓦解の始まりだ。

     小沢元代表への離党勧告なんかで、内閣支持率が挽回できるわけがない。
     小沢氏をかばうつもりなど毛頭ないが、いまや一平卒でしかない人を、まあ寄ってたかって、これでもかこれでもかと一体いつまでいじめ続ければすむのか。
     この「小沢切り」とも思える、菅総理のやり方は、恩を仇で返すようなものだ。
     とても、感心できるものではない。
     むしろ、不快でならない。
     菅総理の、手段を選ばぬ、それこそ自分で好んでよく使う言葉だが、この不条理な(?)行為には、一片の正義もないではないか。
     そもそも、離党勧告って何なのですか。
     何だか知らないが、一国の宰相のやることにしては、支離滅裂、もう無茶苦茶すぎる。
     だから、所詮首相の器ではなく、史上最悪、最低の暗愚の宰相だといわれるのだ。

     小沢元代表の問題は、国会で国民に説明責任を果たさない小沢氏も小沢氏だが、強制起訴が決まり、司法の場で事実が明らかにされることが決まっているのに、このことを執拗に攻め立て、離
     党勧告まで突きつけて、何という醜態か。
     菅総理対小沢一郎氏の対決は、肝心の政策論戦を後回しにするばかりで、貴重な時間の浪費だった。
     小異を捨てて大同につく。
     その挙党一致こそ、大切だったはずだ。
     民主政権の罪は、重大だ。
     いい加減にしないか。
     そのことが、党内分裂の危機を招いたことを、わかっているのだろうか。
     とにかく、菅首相の小沢批判のあの姑息には、誰だって不快を禁じ得ない。

     民主政権が、国民に約束したことを、ろくろくやろうともせずに、また自公政権に逆戻りするようでどうするか。
     エジプトの例ではないが、本当は民衆が蜂起して、世の中を変えていくのが望ましいのに、いまの日本は自分のことしか考えない人が多いから、そんなことはとても期待できそうにない。
     こんな時代でも、デモひとつ起きないし、世の中は静かである。
     そんなに平和だからか。
     それとも、これは、もう諦めなのだろうか。
     救国の道は険しい。
     どう転んでも、いまの政治が長く続くなどとは思われない。

     菅直人総理は、一体誰の味方なのか。
     政権交代の意味と使命を、どれだけわかっているのか。
     貴方には、国民の怨嗟の叫びが聞こえないのですか。
     「汝自身を知れ」という、有名な言葉がある。
     そっくり、菅総理に手向けたい言葉だ。
     政局ではない。政策だ。
     それが出来ぬなら、今すぐお立ち去りください。今すぐ・・・。
     醜い内紛劇は、うんざりだ。
     
     権力というのは魔物だ。
     人は権力を手にすると、時に狂気にいたる。
     そんなことは、何ら不思議ではない。
     権力の魔力とは、それほどに、‘魅惑的’で‘蠱惑的’なものだからだ。
     今度選挙になったら、もはや民主党は与党ではなくなるのではないか。
     そういう気がしてならない。
     民主でもない、自公でもない、新しい政界再編が叫ばれる時が来たか。
     
     菅総理は総辞職には応じず、もしかすると、破れかぶれの解散に打って出るかもしれない。
     そうなると、政界は大混乱に陥るだろう。
     民主政権の寿命は、あと幾何も無い!?
     ・・・永田町は、風雲急を告げている。
     いま心配でならないのは、これからの国民の生活(くらし)である。
     待ったなしで、一刻の猶予もできない。国民にとっては大迷惑だ。
     倒閣へと蜂起した民主の乱に、理あるやいなや・・・。
     第二、第三の蜂起、波乱が続くかもしれない。
     汝に出ずるものは、汝に返る。
     造反有理、因果の理(ことわり)ここにあるか。

     ・・・・今日は、何だかとても風の強い日です。
     それも、冷たい北風に変わって・・・。
     春が、待ち遠しい。


検察審査会の怪―呆然、‘魔女狩り’の恐怖―

2010-10-28 17:00:00 | 寸評

疑わしきは罰せずではなくて、疑わしきは起訴という‘暴論’が、マスコミ世論にまかり通っている。
政治と金の問題は、何も小沢一郎氏ひとりに始まったことではない。
古い自民政権時代から、延々と続いてきたことだ。
自分たちのことを棚に上げて、何をいまさらと言いたい。

検察審査会なるものによる小沢氏起訴を、鬼の首でも取ったかのように、新聞は号外まで出して、欣喜雀躍としている。
呆れて、あいた口がふさがらない。
世間へのこの大PRは、「小沢辞めろ」の大合唱となった。
何が何でも、小沢一郎大悪人の構図を描きたいかのような、大騒ぎである。
それは、怖ろしいほどに、滑稽でさえある。

政治家が、検察審査会によって強制起訴される初めてのケースだ。
検察は捜査のプロだ。
その検察が、証拠にもとづいて行なった起訴と、素人の集団に過ぎない検察審査会が‘感情的に’行なった起訴は、同じものではない。
検察の起訴と、検察審査会の強制起訴は、あくまでも異質のものだからだ。
それなのに、検察による起訴を、あたかも推定有罪であるかのような報道がなされている。
かりに起訴されたからといっても、有罪になるとは限らない。
不可思議なことだ。

それでもって、小沢氏が辞めなければならない理由とはならない。
わずか11人の判断が、衆院選で13万票余りを獲得した小沢氏を辞職に追い込むとすれば、その13万人余りの有権者の民意をどう判断すればよいのか。
これは、議会制民主主義の根幹にかかわる問題になってくる。
特捜部は、無理な捜査をがんがんやって、さすがにもうこれ以上は進めないといって力尽きたのだ。

大体、問題視されている政治資金規正法違反の容疑とやらは、04年の土地取得を翌年の報告書に記載したという程度のものだった。
その程度の‘疑惑’を、「市民感覚」とやらを追い風に、検察審査会が蒸し返そうとシャカリキになっている。
かつて、戦争へと突き進んだ日本の「狂気」を思い起こさせる。

これまで、検察審査会はいくつもの「冤罪事件」を引き起こしてきたことを、ご存知ですか。。
1974年、兵庫県の児童施設で園児2人が死亡した「甲山事件」とか、「岡山遊技場放火事件」とか、それらがいかにズサンであったかということだ。
起訴強制については、検察が独占した公訴権の実行には、民意を反映させるという趣旨があるそうだ。
その民意とやらは、どのように反映されたのか、検察審査会の会議録を検証する必要がある。
それなのに、それを公開しようとしない。
情報公開は、民主主義の基本中の基本だ。
いくらだって、個人情報を保護したうえで、公開することはできるはずだ。
秘密主義だから、いったい何をやっているのか、中身が全く見えてこない。
故に、検察審査会って、いったい何なのだ?ということになる。
不明朗この上ない。

そして、マスコミは、‘魔女狩り’みたいなことを平然とやっている。
テレビを見ていても、検察審査会の議決について、出演者でさえ正確にその内容を把握している人がどれだけいるだろうか。
世論は、ときには狂気にだってなる。
だから、冤罪も起きる。
罪とは、そして罰とは、何だろうか。
人が、人を裁くのである。
断じてあってはならないことだが、それがもしも人間の‘狂気’であったとしたら・・・?
怖いことである。

今回の検察審査会の議決にだって、大いに問題ありだ。
憲法31条には、刑罰を課すには適正な手続きによると規制し、検察官が起訴する場合も、きちんとした理由を示している。
ところが、検察審査会には判断基準のようなものもなく、‘多数決’で起訴を決めるという完全な自由裁量だ。
感情だけで、どうにでもなってしまうのだ。
今回のように、犯罪事実が勝手に加えられた、いわば理由なき起訴が許されるようだと、憲法違反ともなりかねない。
強制起訴制度そのものに対する、、違憲論が登場してくるのだ。
多くの有識者も言うように、要するに、強制起訴とは問題だらけなのだ。

マスコミは、延々1年半にわたって、小沢一郎氏を「犯人扱い」し、世論を煽った。
この責任は重いはずだ。
マスコミは正しかったか?
本当に正しかったか?
小沢氏に対する強制起訴議決は、「国民が、裁判によって、本当に無罪なのか、それとも有罪なのか、判断してもらう権利がある」からだとしている。
嫌疑不十分で二度とも不起訴とは、検察官の行政権行使に対しては、疑いのある人は100%有罪の確信がなくても、裁かれるべきだとする論理か。

それとも、あの前田検事ではないけども、検察はあらかじめ有罪にすべきシナリオを作っておいて、何が何でも小沢氏を起訴→有罪へともっていこうとするのか。
一歩間違えると、大変なことになる。
強制起訴議決で、被告とされてもし無罪が確定した場合、基本的人権はどうなるのか。
(たったひとりの政治家の政治生命を奪うことで、何が変わるのだろうか。)
そのとき、だれが責任をとるというのか。
いろいろ考えると、怖ろしいことだ。

‘魔女狩り’裁判の手続きが進んで、小沢裁判で検察官の役を務める三人の弁護士がやっと決まった。
本当にやっとだ。
普通なら引き受けることもない、貧乏くじを引いたからか、彼らの顔色はどう見てもあまりよくはなかった。(それもそうだろう。)
この裁判の行方も気になるところだが、国会はといえば、だらだらといまだにこんなことで小沢潰しをやっていて、国民の生活や景気はいったいどうなるのだろうか。
いい加減にしてほしい。


所在不明の高齢者は何処に―家族の絆も、行政も―

2010-08-22 09:00:00 | 寸評

厳しい残暑が続いている。
朝に夕に、降り止まぬ蝉時雨・・・。
それも、心なしか元気がないようにも聞こえる。

いま、日本に100歳以上の高齢者は4万391人もいるといわれる。
さらに、これを65歳以上で見てみると2900万人にもなる。
100歳以上の高齢者の内、行方不明者は、わかっているだけでも281人いるといわれる。
1000人に7人が行方不明者だ。

実の子供でさえも、親の存在を知らない。
生死すら知らない。
そんな馬鹿げたことが、当たり前のようになっている。
どんな事情があるにせよ、親をほっとけるものだろうか。
人は、ひとりでは生きてゆけない。
誰もが支えあって生きている。
子が親を敬い、親を心配し、面倒を見るというのは自然だし、当然のことだとは、107歳で天寿を全うした、あのきんさんの息子さん(79歳)の言葉である。

近年、家族関係の希薄が話題になる。
子供や親族に迷惑をかけられないと、人知れず自ら姿を消すケースもある。
周囲の人間の無関心や冷たさもあろうが、本人自身も人との関わりを避けていたとすれば、自己責任もある。

金さんは、生前よくこう言っていた。
 「年寄りはね、みなさんに可愛がってもらわなければだめ・・・」
人と人との関わりは、生きていくのに欠かせない。
人と関わることで、疲れたり、迷惑をかけたりかけられたり、仲たがいするすることだってあるかも知れない。
それでも、人から離れず、人と関わることは大切だ。

よくおしゃべりをして、昔からの先人の知恵を教えるのが年寄りの務めだと、元気なお年寄りは言うのだ。
そのためには、親、兄弟、親戚、近所付き合いを大事にすることだ。
何かあれば、お互いに助け合う。
ひとりの方が気楽だとはいうけれど、本当はひとりくらい淋しいものはないはずだ。
ひとりでいなくなる人は、本当に寄る辺のない人なのだ。
家族とは、本来あたたかく、ありがたい存在だ。
だから、できるだけ身近にいてほしいし、いてあげたい。

それなのに、100歳以上の高齢者の所在や生死がわからないなんて・・・。
神戸では、847人の内、何と105人以上ものお年寄りの所在がわからずに、困った困ったとわめいている。
国内最高齢の113歳を上回る、114歳以上が書類上は18人もいるのに、お役所は確認作業すらしていなかったのだ。
これは、どうしたことか。
仰天の調査結果(報告)が、各地で続々と判明している始末である。

市役所や区役所は、住民票を管理しているだけで、何もチェックしていないし、本人の生死の確認作業もしていない。
それで、担当職員は平然と言うのだ。
 「一体、どこへ行ってしまったのでしょうかねえ?」だって・・・。

お役人は、住民についてはサービスの対象と見ていないのか。
所在もつかめないで、住民サービスができるわけがない。
デスクで書類とにらめっこしていたって、何がわかるというのか。
“足”で調べなくてどうするのか。
国勢調査にしても、アルバイト(?)まかせだ。
自らは動こうとせず、親方日の丸で、すべてが上から目線だ。

住民票といえば、地方行政の基本の「き」だ。
いかにずさんな仕事をしているか。
高齢者はどんどん増え続ける。
その中には、どこにいるかもわからぬ人も含まれる。
すべての役所がそうだとは言わないが、神戸の場合など、老人をほったらかしのまま仕事もしていなかったということではないか。
行政の根幹を揺るがす問題で、担当職員は民間なら全員辞職ものだ。
公務員は、「公務」を全うしてこそ公務員なのだ。

警察庁には、行方不明で亡くなった人の資料が、1万7000人分もあるそうだ。
その中から、あるいは身元のわかる人も出てくるかもしれない。
おざなりの調査では、問題は解決しない。
家族の所在も知らなくてどうするか。
捜索願いも出ていない。
そこに浮かび上がってくるものは、何か。
寄る辺なき家庭の崩壊と、周囲との関係も断ち切られた、孤独な人たちの存在だ。

人と人との絆、家庭の絆のいかに希薄なことか。
個人個人が、いまこそ何が出来るかを考えるべきだ。
といっても、いまの世の中、誰もが自分のことを考えるだけで精一杯だ。
わかっていても、他人のことまで気配りをしている余裕すらない。
誰が、こんな世の中にしてしまったのか。

行政の、明らかな怠慢は許しがたい。
一方で、地域のネットワーク構築を掲げて、高齢者の見回りを制度化して頑張っている住民活動もある。
行政があまりにも頼りないからだ。
行政が行き届かない点もあるだろう。限界もあるかも知れない。
そこをどうするか。

これは東京都の例だが、08年度だけで、65歳以上の高齢者の孤独死は2111人であった。
この頃、近所に救急車が停まったりすると、もしやと気になってならない。
連日の猛暑で、熱中症で倒れる高齢者もあとを絶たない。
豊かな生活を送ることのできる人は別格として、電気、ガス、電話もなく、貧窮、劣悪な環境で、生活保護からも見放された、孤独な高齢者たちが大勢いるのが現実だ。
やがて、高齢行方不明者の予備軍となって、どこかに消えていくことになるのだろうか・・・。