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狸坂について

2016-12-06 08:59:27 | 日記
 本町道通りの平楽交番の脇から、中村町2丁目へ向かって下る坂を狸坂と云う。「横浜の坂 著者 小寺 篤 発行者 今野繁光によると次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 この坂の名前は、屋根に狸の瓦を置いていた家があったことからだと云うが、あるいはその通りかも知れない。だがこの谷間へ向かって真っすぐに下って行く坂は、木の枝がかぶさって昼も小暗いところがあり、いかにも狸でも出そうな様子がある。昔はもっと茂みが深かっただろうと思われるからである。だが「横浜市史稿」にはこう出ている。
 「明治13年4年頃坂の辺に某画工が住み、某家に大きな陶製の狸を飾って置いてあったことから、其の名が付いたと云う。」として、次に「大場澧翁談」と云うのがある。
 「明治初年に江戸浅草の浮世絵師松本芳延(国吉門人)が横浜に来て、今の狸坂の中程に住んでいた。此人は狸大好で、何でもかんでも狸づくめであった。彼の家は草葺で、先ず門に掛けた額は松本軍医総監筆、遊狸アンとあり、玄関入口には畳表の暖簾を下げ、沓脱石は鼓形、客間は狸の睾丸八畳敷、床の間のお記物に仁清作の陶狸、煎茶道具、盆までも狸形、狸の絵、室内の額は各国の狸の絵、屋上には大狸の焼き物を掲げ、庭は手入れもせず、如何にも狸の住むような有様であった。明治4年に坂上に避病院が出来、同15年に虎列刺病が大流行したので、この坂を患者や汚穢物が通行すること引きも切らぬので、流石の遊狸庵主も神経を病むばかりでなく、遂に自身も同病に罹って歿した。依って家族の者は当所を人手に渡って、東京に帰った。遊狸庵主居住以来、この坂を人呼んで狸坂と云った。
 これで見ると、屋根に置いたのは狸の瓦ではなく、陶製の狸そのものであったらしいのだが、さてその遊狸庵主松本芳延と云うのがわからない。「国吉門人」という国吉が、国芳のことであるとすれば、その門下に同じ読みの「一慶斎芳信」と云うのはある。しかしこの絵師が横浜へ来たかどうか。横浜に住んだ絵師としては二代広重、貞秀、芳富、芳盛、すこし後になって国鶴、国松などがあげられるが、芳信も芳延も見当たらない。ただし、芳信には文久元年作の、葉巻をふかしている髭の人物を描いた「亜墨利加」神奈川台の坂の茶屋をコマ絵の背景にした婦人像「和蘭陀」同じく背景のコマ絵に神奈川沖の黒船をもってきた婦人像「英吉利」など横浜絵が作品になっているので、おそらく横浜に来たことはあるのだろう。しかし絵はすべて駄作である。この芳信と遊狸庵芳延が果して同一人であるかどうか、間違っていれば遊狸庵先生には誠に失禮話である。
 勿論今、それらしい家のあるはずもないが、樹木繁茂した入口に狐の像を置いた家がある。もしやこれは稲荷の祠でもあるか。・・・・というような記述がありました。

(本町本道通りからの入口)

(坂の入口から少し中付近)

(坂の中間付近)

(坂の中間付近)

(坂下の出口の道路)


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