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鉄(くろがね)の井について

2017-08-12 07:34:30 | 日記
「鎌倉趣味の史跡めぐり」著者 長峯五幸氏によれば、次のような記述がありましたので、投稿いたします
 鎌倉では、長谷寺の大観音。可愛いこと無類の東慶寺水月観音。今は、市外に流出した、奇跡的な名作、本編の主人公である、元新清水寺の鉄観音像であります。
 鎌倉の当時の仏師達は大きな鋳造仏に妙を得ていたようです。この鉄観音像、原料は砂鉄であると分析結果が出ておるところをみると、刀鍛冶も供養のため、戦場に捨てられた刀、槍、兜のたぐいを集めて、仏像に鋳造し直したいうことは専門学者も推定しているところです。
 関東地方には、鉄仏は幾つか造立されていて、理由の一つは、金銅仏より原料代が安いためであろう、とも思われますが、何れにせよ、木像より手数もかかり、技術を要することは言うまでもありません。中でもこの新清水寺の観音像は、お首だけで1・5メートルと言う巨仏であり、関東はおろか本邦最大の鉄仏でありました。
 正嘉二年(1258年)正月17日丑の刻のこと。長谷甘縄の秋田城介の邸より失火あり、折からの南風に煽られ佐介谷から扇ケ谷まで火の手は燃え移り、鎌倉未曾有の大火災となり「鎌倉五山」第三位の寿福寺も類焼。火勢は夜空を焦がし勢いを緩めずついに泉ケ谷浄光明寺の向かいにあった新清水寺にも及びました。
さあ大変、華麗な堂宇は焼け落ち、観音像は出来て間もないのに、無残や梁に押し潰されて鉄のカタマリになってしまったのです。ところが、ここに一つの不思議が起こりました。
新清水寺が焼け落ち、夜空に一際高く金砂子のような火の粉が舞い上がり、やがて悪魔の炎は満足気に舌なめずりして下火になってゆきましたが、そのとき突如紫金色の強い光芒が堂の焼け爛れた辺りから立ち昇り、八方を真昼のように照しみる間に谷戸の彼方の巽の方角へ向い巨大な流星となって音もなく飛び去りゆきました。見送る人々は只呆然。
翌朝火炎の跡片付けをしてみると、押し潰された鉄観音像の、まだ熱気を残すお姿はありましたが、それだけで千何百キロの重量を具えた端厳無比な名作の首がどこにも見当たりませぬ。
「さては---------夕べの、あの光りものは観音様のお首だったに相違ない」人々はこうささやき交わした。
本尊を失い、建物を全焼して新清水寺は、再起不能の打撃を受け、以後廃寺となりましたが、付近の人々のうち、熱心な観音帰依者は、押し潰されたお身体が勿体ないとにわか作りの仮堂に収め、朝夕供養を怠りませんでした。
年数は、巡り来り巡り去り・・・・山一つ隔てた雪ノ下厳窟堂の路傍にある井戸の水が大そう良くなり、鎌倉中に聞えました。
目を洗えば目の病いが治り、常用する八幡宮寺の供僧たちは風邪ひとつ引かず、胃腸病者も、刀傷、失傷などの古傷も立ちどころに快方に向かうという評判です。
「どんな薬より効くそうじゃ」
新清水寺付近の人々も、この霊水をもらいに行きましたが、そのうち誰言うともなく、あの井戸には焼けた観音様のお首が入っている。きっとそうだ、と言いだしました。かすかに鉄の味がする・・・・というはかない理由にすぎません。
井戸替えのとき、試みに井の底を30センチほど掘ってみました。カチと鍬に何か当たるものがありました。「石かな」と思いましたが、掘り拡げ、手さぐりしてみればまぎりもない鉄製品の巨大な像の頭の頂部(高髻)の一端です。
やぐらに太い縄と滑車をつけ、早速引き上げ開始され、僧たちは、一斉に妙法蓮華経普門品(観音経)を誦します。大衆は力を合わせて縄を引き、ついにお首はスッポリと地上へ引き上げ現れ出て、人々は夢見心地でありました。
当時、井戸の西の方にきれいな観音堂が建立され、お首は安置され、焼け崩れた胴も運んで来られ、帳の奥へ収められました。
井戸は誰言うともなく鉄の井と名づけられ、鎌倉一の名水よと讃えられ、名あるお茶会や閼迦󠄀水(仏前に供える水)に供するには、これに優る水はないと言われるようになりました。
観音堂は参詣者も日を追って増え、地の利を得たことと水中出現の奇跡が相乗作用をなし、以前に数倍する賑わいを呈するにいたりました。時移り世は変わって江戸期となっても、その有様は変わりありませんでした。と言うような記述がありました。
なお、現在は、日本橋人形町二丁目三番地に仮堂が造立され、明治9年より鉄観音は東京市民の前に雄勁な姿をあらわすことになった。とありますので、追記いたします。
 井戸の存在場所
 雪ノ下1丁目2-2(岩屋堂)

(八幡宮前横断大船道)

(鉄(くろがね)の井)

(井戸の小屋掛け)