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《南京事件》紅卍字会埋葬記録の検証

2015年07月21日 | 南京大虐殺
2021.02.19 崇善堂の考察を別記事に


東京裁判にも提出された紅卍字会の埋葬記録について検証した。

法廷証番号326: 世界紅卍字会南京分会救援隊埋葬班埋葬死体数統計表
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10273906/1





《要点》


・特務機関員の丸山進氏は、紅卍字会の記録には水増しがあるとしたが、それらの項目は「埋葬」ではなく「水葬」。
・数千の規模の「水葬」があった地点は、揚子江岸で同規模の戦死や敗残兵処断があった地点と一致。
・同じパターンで「水葬」を判定し除外すると、埋葬実数は約2万3千。
・紅卍字会の集計値に従えば、犠牲者に占める女性と子供の割合は、城内2.6%、城外0.01%、城内外合計で0.30%。
・集計値から見れば、「市民に対する無差別大虐殺」のようなイメージは誤り。
・また、崇善堂の埋葬記録なるものは完全な捏造と判断する。(→別記事に独立させた)




《丸山氏指摘の要点》


紅卍字会の埋葬記録では埋葬数約4万3千だが、紅卍字会に埋葬業務を委託していた特務機関員の丸山進氏の述懐によれば18,000以上が水増しとのこと。

・埋葬は概ね2月初めから開始。2月末で5千体の埋葬実績なので1日当たりの埋葬は多く見積もっても200体、通常は180体。
・春分の日に中国軍民犠牲者の慰霊祭を執行することになり、埋葬を3月15日までに完了せよと紅卍字会に通達した。
・1月10日までの埋葬分8,243体は全部作り上げたもの。この時期はまだ埋葬が出来なかったはず。
・2月21日の下関魚雷軍営埠頭に5,000体埋葬したというのは眉唾物。
・2月9日の4,560体も1日の作業量としては想像もつかないほど大きな数字。4,560体という数字は相当割り引くべき。
・3月19日以降の6,231体も、そんなに多く残っていたとは考えられない。
・その他5月16日以降も城内各地で死体収容というのも作り上げられた数字。
・少なくとも一万八千体以上の過大計上があると見てよいのでは無いかというのが私の結論。


丸山進氏の述懐は後述。




《水増しの正体》


ところが、丸山氏が「眉唾物」「想像もつかないほど大きな数字」としていた“埋葬記録”はいずれも、大量の遺体が揚子江岸で発生していた場所であることに気づいた。
つまり、「埋葬」したとするには作業能力的に考えられないが、水辺に残っていた遺体を河に押し流した、という作業であれば能力的にも可能であろうということ。




上の図をみれば一目瞭然だと思うが、丸山氏が「眉唾物」「想像もつかないほど大きな数字」としたX、Y、Zにはそれぞれ、E、C、Aが対応している。



Xは、いわゆる幕府山事件(魚雷営埠頭)の現場だが、2日間で5,300体をその場に“埋葬”したと記録されている。記録には「腐乱」の文字もある。
それとは別に、同日の2月22日に「魚雷営埠頭で収容した151体を下関草鞋閘空地に埋葬」という記録もあるが、こちらは埋葬地点まで運んだようなので文字どおり「埋葬」だと思われる。

幕府山事件(魚雷営埠頭)の犠牲者数は、おそらくは3千人前後だろうと思われるが、「魚雷営埠頭で収容して下関草鞋閘空地に埋葬」が合計574体ある。すると、例えば2,500体くらいが日本兵によって河に流されたのだろうと考えられる。

そうなると、紅卍字会の記録にある5,300体の「水葬」は計算に合わないが、その地点は上図の最下流でもある。上流からの累積でいえば理屈上は約2万体以上の遺体が漂着してもおかしくない。地形や流れによっては滞留したり、漂着しやすい地点もあるだろう。

よって、5,300体であっても数字的な矛盾はないものとする。



Yの「12月28日 6,468体」については、紅卍字会の埋葬記録上は「埋葬場所」も「収容場所」も空欄の怪しいものだが、洞富雄氏によれば次のように、水辺からの押し流しなどであろうとのこと。

ここで言われている、埋葬場所欄と、死体収容場所を記している備考欄が空白になっている六四六八体の埋葬例であるが、これについては、一九八四年末訪中した南京事件調査研究会の皆さんにお願いして、南京市档案館に収蔵されている埋葬表の原本にあたっていただいたところ、この資料は印刷物であって、死体埋葬場所欄には白紙が貼ってあり、すかしてみると、その下に「下関江辺推下江内」の八文字がよみとれ、備考欄はもともとブランクであったことが判明した。「下関江辺推下江内」は、死体を下関の揚子江辺で江内に推し流したこと、つまり水葬にしたことを意味するものと思われる。死体収容場所を記入する備考欄がブランクになっているのは、おそらく、揚子江岸やその汀に折り重なって遺棄されていた死体を、その場所からすぐ江内に推し流すか、もしくは、舟で中流に引き出して流したからであろう。死体埋葬場所欄に白紙を貼って下の文字をかくしたのは、そこには、便法をとって水葬にしたことが記されていたので、それを秘するためであったと考えられる。

(『南京大虐殺の証明』/洞富雄)


その「下関江辺推下江内」に相当しそうな地名を探すと、この付近ではないかと思われる。1937年当時の地図では、下関埠頭沿いの道が「江辺馬路」となっている。



そしてそこは、第7連隊が12月14-16日に安全区から敗残兵6,670人を摘出し、処断した場所でもある。場所に言及している目撃証言もある。

「下関埠頭で便衣兵が一列に並ばされ、兵士が次から次へと銃剣で突き刺したり、或いは銃で撃っているのを見ました。その数は百や二百ではなかったが、千人とはいえなかったのも事実です。何千万何というような数では絶対にありません。」

(千葉鉄道第一聯隊下士官・松川晴策)


「巷間伝えられている下関での殺害というのは、(安全区から)摘出した便衣兵処分ではないかと思います。入城後数日、下関で毎日捕虜が処分されているという噂を聞き、また実際にその光景を見ました。」

(第二野戦高射砲司令部副官・石松政敏)


そして、その付近の埠頭はいわゆる陥落日に日本海軍の砲艦などが接岸している。

(12月13日)下関桟橋に近づきますと多くの兵が手を振っているので、双眼鏡で見ますと中国兵なのです。中国兵は日本の軍艦がこんなに早く来るとは思わず、中国の軍艦だと思って手を振ったのだと思います。そこでまた二十五ミリ機関銃で掃射して近づきました。」

(砲艦「勢多」艦長・寺崎隆治少佐)


結局、「下関江辺」付近で起きたことをまとめると次のようになる。

1)陥落日に上流の新河鎮の激戦で約7千の戦死体が流されている。
2)陥落日に下関埠頭で砲艦「勢多」などと中国兵が戦闘になっている。
3)陥落直後に安全区から摘出した敗残兵6,670人を下関埠頭で処刑している。
4)12月28日に紅卍字会が水辺の遺体6,468体を押し流している。(洞富雄氏調べ)

従って、それらの遺体が下関埠頭付近の水辺にとどまっていたものを、押し流したという解釈で合っているように思う。



A-Zの対応関係は、戦域が数キロの範囲に広がっていることや地名の精度の関係で多少怪しさも残るが、丸山氏曰く「1日の作業量としては想像もつかないほど大きな数字。4,560体という数字は相当割り引くべき。」とのことなので、Aの新河鎮の激戦で生じた水辺の遺体を、紅卍字会が河に押し流す作業をしたものと解釈する。

なお、次の証言によればZの上新河棉花堤よりもさらに上流の蕪湖方面からも戦死体が流されているようだから、それが含まれている可能性もある。

「12月19日か20日頃、清掃処理のため兵十数人を連れて下関の揚子江岸に行きました。流れの関係で入江に漂着した死体を押し流す作業でした。死体は三〇〇以上。この漂着死体は12月12日、南京上流蕪湖に進出した我が軍に砲撃された退却中の中国兵の漂着死体と思う。傷より判断すれば、中国軍は相当混乱し、船にとりすがる遭難者を振り切って逃走(頭部受傷、手首なき人)したものと考える。子供は見当たらず、女は二、三見た。民間服の人もあった。兵士は下級者が多かった。いずれも相当水膨れしていた。陸上には死体はなかった」

(歩兵三十八聯隊第一中隊軍曹・新井敏治/証言による『南京戦史』9)



従って、この一連の考察では犠牲者総数の試算を大きな目的にしているが、A〜EとX〜Zの両方をカウントするとダブルカウントになってしまうので、ここでは発生側のA〜Eで計上するものとし、X〜Zは試算からは除外することとする。




《水葬の判定基準》


「水葬」と判定した大きい数字は前項の通りだが、それ以外にも同じパターンがある。

整理すると、「水葬」と判定する基準は次の通り。

(1)丸山氏が、1日の作業量としては考えられないとする数が多い項目。
(2)埋葬と収容場所が同一かつ水辺の項目。(=水辺は埋葬に適さないはずだから)


よって、紅卍字会の記録における以下の項目を「水葬」と判定する。


日付/数/埋葬場所/備考

12.28/6,468/-/(下関江辺推下江内/洞富雄氏調べ)
02.09/850/上新河二哽/死体腐乱せる為現場にて納棺
02.09/1,850/上新河江東橋/江東橋一帯に在りしものを納棺
02.09/1,860/上新河棉花堤/死体腐乱せる為現場にて納棺
02.12/1,191/下関渡固里/死体腐乱せる為現場にて納棺
02.19/524/下関魚雷軍営脇/死体腐乱せる為現場にて納棺
02.21/5,000/下関魚雷軍営埠頭/死体腐乱せる為現場にて納棺
02.22/300/下関魚雷軍営埠頭/死体腐乱せる為現場にて納棺
03.06/1,772/下関煤炭港河辺/死体腐乱せる為現場にて納棺
05.31/74/下関煤炭港/該所江辺に在りしものを納棺


以上を除外すると、埋葬実数は23,134になる。

なお、このくらいの数値になると次の丸山氏の証言と整合する。
視察のルートは南京城周辺のみのようであり、揚子江岸の漂着遺体は見積もり対象ではなかったようだから、算定基準が上記と一致している。

「早速、自治委員会の幹部を連れて遺棄死体の状況を視察しました。(中略)死体は殆どが城外にあり、全部で2万体位と私は算定しました。」

(特務機関員・丸山進/詳細は末尾に掲載)


さらに、丸山氏は「18,000以上が水増し」と述懐したが、結果的にその通りになっている。「水葬」と判定したのが19,889。




《検証結果》


前項のように、丸山氏の述懐の《趣旨》に基づいて“水葬”を除外して「埋葬」のみを再計算すると下図の通り。埋葬実数は約2万3千体となる。



1)丸山氏の上述の趣旨に沿って、“水葬”と思われる大きい数字のの記録を削除。
2)より正確には前項の判定基準でリストアップした項目を削除。
3)手元の表計算上では、正確には23,134。
4)記録が毎日きちんと計上されていない可能性を考慮し、5日間平均での埋葬数もグラフ化した。

補正後の5日間平均グラフからは丸山氏述懐の通り、2月初めくらいから埋葬作業を本格化し、3月15日の期限を目標に、紅卍字会が動員数を増やして作業を加速させていた様子がわかる。だが、元データの5日間平均グラフからは期限に向けて作業の追い込みをかけるという様子が感じられず、不自然である。

また、補正後の5日間平均グラフからは期限が迫った2月下旬の時点でも、1日あたりの平均的な埋葬数は1,000をなかなか超えないというのもわかる。丸山氏の回想でも、1,500体を毎日は無理とある。

よって、上述のX〜Zなどは「水葬」という解釈で正しそうなことが、データの検証からも判明したように思う。




《集計値》


紅卍字会埋葬記録*に基づき、集計値を次のように算出した。
* アジア歴史資料センターデジタルアーカイブ(次項に画像添付)



※「城内埋葬」は1,793体だが、上記は全て収容場所を基準にした分類。
※次項に掲載した史料と合計値が誤差の範囲で異なるが、上記の集計値は表計算ソフトに基づく。


この集計値からわかるように、市民が避難のために集められていた安全区を有する城内においても、犠牲者に占める女性と子供の比率は2.6%でしかなく、城外に至ってはほぼゼロであることがわかる。

しかも、少数だが次のように女性兵士の目撃記録もあるので、女性の遺体が全て市民とも限らない。

「『オイ、女だ!』と叫ぶ。(略)敵の死体に混じって立派に軍装した、紛れもない断髪の女の死体が一つうずまっていた。閉ざされた中華門にすがりついて慟哭するかのような姿で、女が…女の兵隊がおびただしい支那兵と一緒に死んでいた」

(「画法躍進之日本」『南京陥落祝賀号』)


「中国軍の中には女がいました。私も女の中国兵が倒れているのを見ています。」

(上海派遣軍特務部員・岡田酉次少佐)



従って、城外の女性と子供は実質的にゼロであり、これは、城外の戦場においては「市民は一人も見なかった」とする日本軍将兵の証言を裏付けるものである。

そして、城内外の合計値でも女性と子供の比率は0.3%にすぎない。

この結果からも、南京戦それ自体が「市民に対する無差別大虐殺」のようなイメージで語られることは間違いであることがわかる。




《紅卍字会・埋葬記録》


東京裁判にも提出された紅卍字会の埋葬記録を示す。

法廷証番号326: 世界紅卍字会南京分会救援隊埋葬班埋葬死体数統計表
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10273906/1
















《南京特務機関・丸山進氏の回想》


南京特務機関(満鉄社員)丸山進氏の回想

聞き手 東中野修道
とき  平成7年6月14日

―――お送り頂きましたお手紙によりますと南京には1年ほどいらっしゃったそうですね。
 
「満鉄上海事務所調査課から南京の特務機関に派遣されたのは昭和12年の12月28日頃でした。それから13年の12月まで南京にいたことになります。南京に派遣されることになったのは要するに中国事情の分かる人が欲しいと言う理由からでした」
 
―――お1人で南京に赴任されたんですか。また、ご身分はどうなったんですか。
 
「私を含め6人の満鉄社員が出向を命ぜられましたが、給料や出張手当等は満鉄から支給されておりました。ですから、身分上は、あくまで満鉄社員でした。馬渕誠剛君と私が一番の若輩(24才)でしたが、それでも正規の俸給が160円、それに1日当たり10円(1ヶ月にして300円)の出張旅費が加算されましたから、月々460円になりました。多分、危険手当の意味もあったのでしょうが、それ以上に重要なことは、南京政府の部長級に対しても引け目を感じなくて済むようにとの配慮があったのだと思います。

満鉄上海事務所長の伊藤武雄さんという人は南京国民党政府の要人や文化界の大物達とも親交のあった大御所のような人でした。伊藤さんが選んで派遣するからには、派遣された者が中央政府の部長級とも互角に交渉できるよう、それには俸給の面でも見劣りしないよう、と言うのは相手から招待された時は当方も招待しないと相手の下手に立つことになるといったことがありますから。

伊藤さんは中央政府部長級の俸給をだいたい500元(1元=1円)程度と踏んだ訳です。これは巡警の月給を5円としてもその100倍です。そのお陰で私どもは維新政府の綏靖部長の任援道氏や南京自治委員会が発展的に解消して出来た督弁南京市政公署の高冠吾氏にたいしても対等に交渉できました。余談になりますがね大西一特務機関長の俸給が360円でしたから、いつも『貴様ら若造のくせに』と高給をからかわれたものです」


―――随分と破格の高給だったんですね。
 
「ええ。ですから私どもの最大の特徴は特務機関長の配下にありながら、給料が満鉄から支給されていたことです。生え抜きの特務機関員ではありませんでした。満鉄が手塩にかけて育て上げた日中の架け橋として殉ずる気概のある人物の集まりでした。上からの命令で動いていた特務機関員とは、その点、若干違っていた訳です。勿論、中国のことに関しては政治・経済・慣習等について専門的な知識を有しており、中国語についても殆ど専門家の域に達しておりました。私どもがシナ服を着て一般民衆の中に入り込んだら、まず日本人であることを見破られることはありませんでした。

ところで、6人の給料を合計すると1ヶ月に約3千円になりましたから、これは大きかったですね。私どもは特務機関長の頭脳集団として、誰に気兼ねすることもなく、皆で知恵を出し合って、特務機関長に意見を具申し、政策の実行に移って行きました。具体的には、政治班、経済班、宣撫班を組織し、避難民の救済と南京市の行政機構の確立に当たりました。まかり間違ったら、皆で自腹を切る覚悟でした」


―――自腹を切る覚悟でいたとおっしゃいますと。

「つまり自分たちの俸給を出し合って、赤字を補てんするという意味です。たとえば私どもが特務機関長の決済を経て惑る仕事をしたとする。いざお金を払うという段になって特務機関の経理担当者が反対し、支払いが滞ったとする。そのとき私どもが俸給から出し合って決済する覚悟でした。3千円あれば何とか解決できましたから。もっとも実際には自腹を切る必要は一度もありませんでしたが」

―――危険手当の意味もあったとおっしゃいましたが、お仕事の上で何か危ない目に遭われたことはありませんでしたか。

「それはありませんでした。ただ、話は一寸変わりますが、当時既に日本から一旗上げるためにやって来たような男達が南京に来ていて、中国人に威張り散らしたり、または何か上手い話はないかといった気持ちしか持ち合わせていなかったため、中国人の習慣や気持ちが分らず、かえって害の方が多かった。私どもは頻繁に中国人と接触しながら日本からの浪人を常に蚊帳の外に置いていましたから、利益を独り占めしているのではないかと彼らから誤解されたこともありました。たとえば刀を抜かれて脅された事もありました。私はその時どうせ生命は捨てたつもりで南京に来ているんだから、どうぞ斬ってくれと答えたものです」

―――南京の特務機関では何をなさったのですか。特務機関はスパイ活動をするのではなく占領地の支那の行政を支援する所ですね。

「ええ。しかも我々が表に立って支援活動をしたのでは南京の行政を行う中国人が日本人の傀儡――漢奸――と非難されますから、あくまで陰から内面的援助を彼らに行うという活動でした」

―――具体的には何をなさったのですか?

「昨年(平成6年)の7月に講演した時の資料『南京事件の実相について』をここに持ってきたのですが、そこにも書いていますように、昭和12年24日から良民票の発行が始まりましたが、各部隊まちまちの形式で発行していましたので、その形式を自治委員会で一定にして整理統合することになり、私が影の事務責任者となりました。良民票というのは型紙を利用したモノではなく、木綿のきれを使って作ったんです。

大きさはこれ位ですから、そうですね、文庫本と同じ大きさですか。
中国人には筆の達者なのがいますから、墨で型版を押した木綿のきれに住所氏名年齢を筆で書き込んで、それを以て《良民の証》としたんです。それを自治委員会と特務機関が認証して住民に交付した訳ですが、その発行原簿はのちに市政公署の戸籍科に保管されました」


―――何のために良民票を作ったのですか。占領政策を行う為ですか。

「いいえ、占領政策のためと言うよりは、むしろ南京市の行政運営を円滑化するための基盤作りとして住民票の作成に着手したんです。課税、物品配給等、全ての基本になります」

―――その外には特務機関にいてどんなことをなさったんですか。

「この本は阿羅健一さんの『聞き書き南京事件』ですが、その中で大西一特務機関長が述べていますように、南京攻防戦で倒れた日本軍兵士の死体は日本軍当局の手で一体残らず収容され、全て荼毘(だび)に付されていました。

ところが中国軍は逃走して南京にはいませんから当然ながら中国兵の死体はそのまま放置されていました。そこで大西特務機関長の前の佐方繁木特務機関長から意見が出まして気温の上がらないうちに遺体の後片けを中国人にやらせようということになり、紅卍字会の埋葬活動を支援することになった訳です」


―――アメリカ側の資料を見ていますと、国際委員会が紅卍字会の遺体埋葬活動を支援しているような趣が見受けられるのですが、遺体埋葬活動を国際委員会もまた支援したということはありませんか。
 
「そのことについては私には分かりません。私は特務機関長から埋葬の経費は自分が工面するから、お前が埋葬の実行に当たれと一任されて実行に当たった訳です」

―――そのお金ですが、佐方中佐のあとに特務機関長となられた大西特務機関長が自治委員会から工面したんですか。
 
「自治委員会には全く金はなかったのです。特務機関長が軍の機密費から調達したのではないでしょうか。ただ日本軍から経費が出たことについては外部には一切公表されなかったので自治委員会から(後には市政公署から)出たものと、恐らく、一般には理解されたかも知れません。

ともかく、それで、早速、自治委員会の幹部を連れて遺棄死体の状況を視察しました。まず下関の表通りはきれいに清掃されていましたが、裏通りには実に多くの死体がありました。

それから城壁の西に沿って南下した莫愁湖や秦准河の水面には多数の死体が浮いていました。さらに南に行くと江東門と水西門外に相当多数の死体がありました。南門に当たる中華門、それから光華門外、東門にあたる中山門外は案外少なかった。城内も調査しましたが、城内の家屋の外は極めてまばらに死体が点在する程度でした。死体は殆どが城外にあり、全部で2万体位と私は算定しました。

そして予算を計上した上で、自治委員会名で、死体の埋葬を一括して紅卍字会に委託しました。それから埋葬場所として江東門一帯、特に北部の、下関寄りの、若干地形の盛り上がった場所を、私は選定しました」


―――紅卍字会に一括して委託したとおっしゃいますと。

「この仕事は南京市自治委員会が自発的に実行したいという建前で行われたものです。しかしその自治委員会はこのような大きい作業を行うだけの実働的なスタッフを持ち合わせておらず、どうしても外部の団体に作業を委託しなければなりませんでした。

そこで紅卍字会に着目して、その内部を調査した結果、紅卍字会は陳漢森という立派な指導者に率いられた能動的な社会慈善事業団体であることが判明しました。そこで、この作業を紅卍字会に一括して委託することになった訳です。

後になって、崇善堂その他の弱小団体からも作業の申し込みが自治委員会にありましたが、そのことは紅卍字会に任せてあるから紅卍字会の方に言って欲しいと伝えて、自治委員会では受け付けなかった訳です。紅卍字会の下請けとして彼らが作業に従事したであろうことは考えられますが、そうであったとしても、その埋葬作業量は一括して紅卍字会の作業量に組み込まれていたはずです」


―――それから、先ほど、丸山さんが選定なさったとおっしゃいましたが、それはどういう意味ですか。

「どこにも無主の土地はありません。紅卍字会が紅卍字会独自の判断で埋葬場所を選定し、そこに死体を埋葬し始めれば、当然その地主が怒ります。

どの土地が誰の所有地であるか、南京に長く住んでいる者であれば知っている訳ですから、紅卍字会が勝手に誰々の土地を共同墓地にしているという噂がすぐ広がって、所有者から厳重な抗議が紅卍字会に来ることになります。ですから紅卍字会に選定せよと言っても出来ない相談なんです。

そこで、やむを得ず、私が場所を指定した訳です。もっとも各地に既設の共同墓地やお寺の墓地などもありましたが、埋葬可能なスペースは限られていて大規模の埋葬には適していませんでした」


―――つまり日本軍の特務機関長の意を受けた丸山さんであったから、丸山さんがどこそこに埋葬をと言えば、地主も黙認せざるを得なかった、紅卍字会も後顧の憂いなく埋葬出来た、という訳ですね。

「そうですね。ついでに、なぜ地形の盛り上がった所を選んだかと言いますと、あの辺りは揚子江がすぐ横を走っていますから、地下水が地表近くまで上がってきているんです。そこで盛り上がった所を選んで埋葬すれば、その分だけ地下の水位が離れるということで丘のように盛り上がった所を選んだ訳です」

―――どのようにして埋葬したんですか。トラックなど当時はなかったと記録には出ていますが。

「今でこそトラックは誰でも持っていますが、当時はトラックなんて余程の人でないと持っていない時代ですよ。大八車みたいなもので死体を運搬し、近くの農民を動員して、鍬(クワ)で、大きな穴をなるべく深く掘って、そこに死体を並べて、再び土を被せる、そんなやり方でした。埋葬は概ね2月初めから始め、2月末で5千体の埋葬ですから、1日当たりの埋葬は多く見積もっても200体、通常は180体でした」

―――それで初めて分かったことがあるんですが、南京大学のベイツ教授が昭和13年2月14日に書いた「南京における救済状況」という報告書のなかで紅卍字会が「1日に200体埋葬してきたけれども、まだ埋葬すべき3万体が残っている、ほとんどが下関に」と言っているんです。なぜベイツが「1日に200体埋葬」という数字を出していたのか、今まで疑問だったんですが、今の丸山さんのお話でやっと分かりました。ただ、1日当たりの埋葬量を、何故ご存じだったんですか。

「それは毎日の実績を報告させていたからです。なぜ報告させたかと言いますと、常に状況を把握しておくのが目的でしたが、そのほか私は満鉄上海事務所から南京の特務機関に派遣されて来ていましたから毎月1回は業務報告をする義務があるので日報を作成し、月ごとにまとめて特務機関の上司に報告するほか、同じものを満鉄上海事務所の伊藤所長に送っていた訳です。そしてそれが大連にある満鉄本社の総裁室宛に上海から転送されていたようです。それが今回の朝日新聞夕刊(平成6年5月10日)の報道となった訳です。

その朝日の記事が出たことは知りませんでした。満鉄上海事務所の同僚で私と同じ時期に南京の特務機関に請われて出向した馬渕君からの連絡で初めて知りました。何だ、この機密報告は僕が作成したものじゃないかって。見て、本当にびっくりしましたよ」


―――ところで今回丸山さんから400字詰原稿用紙15枚の『南京事件の真相について』と題する一文を送っていただきましたが、それを見て初めて納得したことがあります。あの中で丸山さんは3月に入ってからの1日当たりの埋葬量が急増したことを記されていますね。実は紅卍字会の2月3月の埋葬記録には1日当たり2千体近く埋葬といった記録が頻出して来ます。それは埋葬方法から見て信じられないと私は思ってきた訳ですが、必ずしもそうではない訳ですね。

「3月22日と記憶をしておりますが、春分の日に、大西特務機関長の主催で、中国軍民犠牲者の慰霊祭が悒江門内で執行されるということになり、それで私は埋葬を3月15日までに完了せよと自治委員会を通じて紅卍字会に通達を出しました。そのため紅卍字会は下請けを動員して大急ぎで埋葬を行い、埋葬は全て完了しました。

今回の朝日の報道(平成6年5月10日)にある日報によれば合計3万1791体を埋葬しております。ですから、3月の15日間は1日当たり2千体から千5百体の埋葬量です。これは明らかに水増しがあると私は考えましたが、一言も意義をはさむことなく承認しました。しかし2月は先ほども申しましたように1日に多くて200体の埋葬です」


―――その、「承認しました」とおっしゃいますと…。

「つまり埋葬作業終了後、たしか一体当たり30銭と記憶していますが、中華民国の警官の月給が3円から5円であった当時、30銭(今のお金にして700円程度)の経費を支払っていました。しかしその埋葬量を私が承認しなければ、謝金は出ない訳です。謝金はそのつど何回か払っていましたが、埋葬作業完了後には全てを清算する必要がありました。

合計3万1791体に30銭を掛けると約9500円、それに搬送距離や地形的な困難度によって加算した場合があり、全体では1万1千円程になりましたから、未支払いの残金は市政公署に交付して、公署から全てを清算させました」


―――3月15日までに本当に全埋葬が完了したんですか。

「それは春分の日に慰霊祭を執行するという予定でしたから、慰霊祭までには全ての遺体を片付けなくてはなりませんでした。それで私は3月15日を目処にして埋葬を完了せよと通達を出し、それに基づいて紅卍字会が多くの人を雇って大急ぎで埋葬を完了させた訳です。ですから、3月15日には完全に埋葬は終了したものと思っています。その慰霊祭では本願寺派の川野三暁師が読経を行いました。川野師は戦後に僧正となり参議院議員にもなった人です。

ただ先ほどの話に戻りますと、既に申しましたように埋葬記録には明らかな水増しがあります。仮に2月は1日当たり200体を埋葬したとしても5,600体ですね。そうすると3月の15日間で約2万6000体を埋葬しないと3万1791体には成りません。

3月は1日当たり平均2千体から千5百体の作業量となります。たとえば1日に千5百体を大八車に乗せて運搬し、千5百体分の穴を鍬で掘り起こして、その中に千5百体を並べて、そして土をかける。それは1日だけは実行出来ても、毎日毎日続けて行うなど、到底不可能です。

しかも戦災で食べ物にも困っている状態にあって、人員、器材等の調達が困難な状況のもとで、そのような埋葬が出来たかは甚だ疑問です。崇善堂などの他団体を下請けに使ったことにも全然触れていない。それはおかしいですね」


―――東京裁判において紅卍字会は「日本側は(南京占領後)約1ヶ月後迄それ(埋葬)を許さなかった」と言っています。その表現の妥当性を別にすれば、少なくとも1月14、15日までは埋葬は行われなかったと言っている訳です。他方、南京大学ベイツ教授の2月14日付けのアメリカ向け報告によりますと「1日に200体埋葬」という表現が見えますから概して2月は「1日に200体埋葬」が限度であったと思われます。そしてそのことは丸山さんのお話とも符節が合います。

また、南京ドイツ大使館ローゼン書記官の3月4日付け本国宛報告によれば「紅卍字会は毎日500から600体を共同墓地に埋葬」と報告されていますから、概して3月は「毎日500から600体を埋葬」するのが限界であった。そう言って言い過ぎならば、ともかく3月4日前後までは「毎日500から600体」の埋葬であったと言ってよい訳ですね。

ところが東京裁判に提出された紅卍字会の埋葬記録によりますと、12月22日には4ヶ所にて合計779体を埋葬したとか、12月28日の「雪」の日に6,468体を埋葬したとか、1月10日には996体を埋葬、2月7日には151体のほかに843体を埋葬したとか、2月9日には125体のほかに4,560体を埋葬、2月21日には5ヶ所にて作業し、そのうちの1ヶ所においては5,000体を埋葬とか、3月19日から4月29日までは死体収容場所未記入のまま合計4,532体も埋葬といった、作文としか思えない数字が、この他にも頻出して来ます。これを丸山さんはどのようにご覧になりますか。

「まず12月22日から1月10日までの埋葬分8,243体は全部作り上げたものでしょう。この時期はまだ埋葬が出来なかったはずですから。なかでも、そのうちの12月28日の6,468体は(雪の日に埋葬ということから)完全に馬脚をあらわしたものです。それから2月21日の下関魚雷軍営埠頭に5,000体埋葬したというのも眉唾物です。そこにはそんなに多くの死体を埋葬する空き地は無かったはずです。しかも2月21日はこの5,000体の他にも4ヶ所に分けて705体を埋葬していますから1日の作業量としては705体が精一杯で、とても5,000体には手が回らないはずです。だから、この5,000体については嘘と断定せざるを得ません。

2月9日の4,560体も1日の作業量としては想像もつかないほど大きな数字です。この遺体収容場所の上新河や江東橋にはかなりの多くの死体がありました。ここでは殆ど死体を運搬する手間がはぶける利点がありますが、それを考慮に入れても4,560体という数字は相当割り引きして考えるべきでしょう。

次に3月19日以降の埋葬が6,231体も計上されていますが、ある程度の落ちこぼれはあったかも知れないけれども、そんなに多く残っていたとは考えられません。

その他5月16日以降も城内各地で死体収容という欄が何ヶ所か見受けられます。それが男、女、子供と、並べて記入されたところを見ると一般市民の虐殺死体を匂わせたものなのでしょうが、3月以降、城内で、そんな事件は全く起きていません。これも作り上げられた数字と考えられます。総じてこの統計表は以前に紅卍字会が自治委員会に報告した数字の不合理性を隠すために合理性を装って作り替えられたものと考えられます。

しかしその時期の状況に照らし合わせてみると、却って事実に合致しない多くの問題点を露呈しています。少なくとも一万八千体以上の過大計上があると見てよいのでは無いかというのが私の結論になりますね」

 
 (丸山進氏略歴、大正2年生まれ、元鹿児島県庁印刷局長、当時82才)

(『南京「虐殺」研究の最前線〈平成14年版〉』/東中野 修道)





《崇善堂について》


ここにあった崇善堂の埋葬記録についての考察は別記事として独立させた。

《南京事件》崇善堂の埋葬記録はウソ
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9c86f444aa8692d6838320f447bcf3cf





《改版履歴》


2017.08.17 南京特務機関・丸山進氏指摘の“水増し”は「水葬」と解釈し大幅修正。
2017.08.28 “水葬”判定基準の拡充による数値修正。
2017.09.10 城内収容、および“水葬”の一部チェック漏れの修正。
2021.02.19 崇善堂の考察を別記事に独立




《関連記事》


★南京大虐殺の真相(目次)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9e454ced16e4e4aa30c4856d91fd2531

《南京事件》崇善堂の埋葬記録はウソ
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9c86f444aa8692d6838320f447bcf3cf




以上。






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